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2013.05.18 Saturday

第9回 聖書と牧会セミナー 参加記 (2)

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     さて、今回も、最近参加した第9回 聖書と牧会セミナー の参加記を載せておこうかと。第2回のポストは第1日の夜の部のご紹介。第1回の内容は、こちら。

    第9回 聖書と牧会セミナー 参加記 (1)

    では、夜のセッションの概要ご紹介にうつりませう。青字の太大文字の小見出しは、読みやすさのためにミーちゃんはーちゃんが勝手につけたタイトルです。

     冒頭で、午後のセッションの終わりに1時間10分ほどかけて全員で章ごとに担当しながら、音読したそれぞれが旧約聖書との関連で読んだ気付きの内容についての簡単なディスカッションをした後、ローマ書についての上沼先生のご解説をお伺いしました。

    異邦人の使徒としてのパウロ
     まず、異邦人の使徒としてのパウロがあり、異邦人とイスラエル人の取り扱いをどう考えるのか、ということが意識に上ってくる。旧約聖書に示されるイスラエルの不忠実、すなわち、繰り返し起きる神から心が離れている。イエスの十字架の後、異邦人に福音が届くとはいうものの、そうであってもイスラエルにとっては、変わらない神の愛であった。

     ローマ書を読むと、パウロにとっても緊迫した感じを受ける息使いが感じられるようであり、パウロにとって、その切迫感の前に、神の前にユダヤ人も異邦人もない、ということは言えそうである。

    ユダヤ人の不真実さと
    神の真実さの対比
     ローマ署3章1-4に彼らの不信仰という表現が出てきているが、これは、本来不真実さ、と読むべきではないだろうか。

     聖書本文の原文の”ピスティス セオウ”は、神の信仰ではなく、神の真実さ、あるいは神の誠実さ、と訳されているのならば、彼らの不真実さ、と理解するべきではないだろうか。

     幼少のころから旧約聖書になじんできたパウロにとってはイスラエルの(記載者挿入:神に対する)不真実はあまりにも当然のことであった。新改訳聖書で、信仰と訳される部分は、ピスティスであり、真実と訳すこともできる。

     同様のことは、ローマ3章22節で読むことができ、同じ流れとしてとることができるかもしれない。この部分は、「イエス・キリストを信じる信仰」と訳されているが、むしろ、「イエス・キリストの信仰(あるいは真実)による」と理解すべきではないか。つまり、もともとここにある語の”ピスティス クリストゥ”は、イエス・キリストの忠実さ、あるいは真実さ(Faithfulness)と理解できるのではないだろうか。

    英文聖書での
    『イエスキリストを信じる信仰』
    の翻訳の変化
     英文聖書では、もともと、Through Faith of Jesus Christ. であったが、NIVも NRSVにおいても、FootnoteでFaith of Jesus Christを入れてきた。とくに、NIVでは、2005年及び2011年の改定で、Faith of Jesus Christというフットノートを入れてきた。その意味で、イエスキリストが持っている信仰(真実さ)という意味で取ることができるのではないか。

     NTライトは様々な要素をうまく全体としてまとめられる人であり、全体を通して読む限りは、”ピスティス クリストゥ”は、Faith of Jesus Christ(イエスキリストの真実さ、あるいは忠実さ) としないと、”ピスティス セオゥ”、すなわち神の真実や神の忠実さとの対比をなしている関係を考えると、両者が対応関係として合致しないのではないか。

     そもそも、よく考えてみれば、救われているかどうかに関して、私たちの信仰の在り方が問題になるのはおかしいかもしれない。なぜならば、私たちの信仰の故に義認されることになり、主体(基準)が神にあるのではなく、主体が、人間であり、その基準が人間の行為となる。つまり、聖化論にかかわる問題として、行いの信仰となりかねない問題である。

     もう少し言うならば、我々の神の子としての回復(救い)は、キリストの真実さ故の神の義のゆえもたらされるものであって、私たちとは一種無関係なものではないか。

     さらに言うならば、ここの部分の翻訳は、イエス・キリストの歩みに向けるか、私たちの信仰に目を向けるか、ということとかかわっている、とという意味で、重要であるといっても言い過ぎにはならないのではないのではないだろうか。

    アブラハムの忠実さと
    霊による割礼
     割礼との関連については、アブラハムに対する契約と割礼を含めて、神の契約であり、霊による割礼こそがある面、重要であり、この霊による割礼は、キリストの到来によって明らかにされたのではないだろうか。

     ローマ4:18の記述では、アブラハムはかなり持ちあげられているが、アブラハムの実際を見てみると、信じてないと思われる部分もかなり散見されるため、この部分の記述と矛盾しないだろうか?ここで見たいのは、アブラハムに対する神の契約の真実さ、強いて言うなら、Covenant Faithfulnessである。

     その意味で、イエスの契約(聖霊による割礼)は、一種一方的な神の救いの宣告である。注解書は、かなりの場合、翻訳聖書の訳の説明になっており、原義に戻っての検討を行ったうえで説明していないものが多い。その意味で、誤りを強化する注解書になっている可能性がある。チェーン式聖書も同様である。信徒は、それらを利用するため、参考記載の部分をもとに聖書を解釈していく傾向があるのではないか。

     ピリピ書2章5-11節について、ラルフ・マーティンは、この部分をキリストの歌といっているし、NIVでは、わざわざ段落を組み替えて歌と表現していることを示している。おそらく、当時多くの信徒が当然歌っていたキリスト賛歌が挿入されている可能性が高い。

     ローマ5章19節では、アダムの不従順さが取り上げられ、それの対応概念としてキリストの従順さが取り上げられ、両者がかなり明らかな対比をなしている。 

    Piper先生やほかの方々の
    NTライト批判の背景
     Piper先生のNTライトに対する批判は、伝統的な信仰義認の理解(信じたら、神が義とする)の見直しにつながるのであろう。しかし、義認は、本来、人間側の行為の問題ではなく、神の側の行為の問題と理解できるであろう。そうなると、これまで教えられ、また教えてきた、伝統的な信仰義認の教理を揺るがしかねない。自分たちが信じてきた信仰義認がおかしくなる。

     その意味で、 信仰義認を信じることによる義認になってないか、という検討は重要かもしれない。現代の多くの信仰擬人は、あまりに、Me and My Salvationになっているのではないか。本来、不安になっている人を励ますのが牧会であり、救われてないか、救われるために何をしなければならないか、と不安に陥れることではないはず。

     つまり、イエスにフォーカスを合わせることで神の真実さを伝えるのが説教なのではないか。

    フロアからのコメント

     ある方からの、コメントとして、信仰義認は、私たちが聞いてきたこと、語ってきたことでもあるし、どうしたら、救われるのか、天国へいけるのか、ということが皆さんの求めのような印象がある。もし、これまでの信仰義認の理解が間違っていたとしたら、説教者として何が語れるのだろうかか。Free Graceなのか、Lordship Salvationなのだろうか。何を語ればよいのだろうか。

     組織神学がどっかで吹っ飛しまっているように思う。では、毎週何しゃべればよいのだろうか。もしライトが正しいとしたら、と考えると自分自身がかなり揺れていると思う。正直、枠があるほうが楽な場合もある。安直な救いを語ってほしい信徒がいるのに、どうしたらよいのだろうか。

    コメントに対する
    上沼先生のレスポンス
     これに対して、上沼先生からのコメントは、神の真実とキリストの真実にフォーカスを合わせると、自分の信仰(行為的信仰、信仰による行為)は本来あまり影響しないのではないだろうか。

     エレミヤ書の中で、「しっかり仕事をし、あなた方は決して滅びてはならない。」と神ご自身が言われている。捕囚は、本来神の裁きであるはずなのに、裁きを用いて神が何かをなそうと知る。どんなことがあったとしても、なお神の真実があるとすると、言うことを考えられるのではないだろうか。これを納得できるかどうか、が重要なのではないだろうか。これに納得できると、意識革命がおきるように思う。

     このことを知って、ずいぶん楽になったように感じる。

     これまで示したようにこの部分が理解できると、問題となるのは、(報告者挿入:我々の側の)神の真実さに対する応答となる。これまで、聖書テキストが重要だ、といいながら、結局、我々は教理を言ってきたにすぎないのではないだろうか。ある面、組織神学という体系に合うように、聖書を読んできたのではないだろうか。

    聖書のストーリーを
    説教で語る意味
     ストーリーを語るだと説教した感じにならないかもしれない。むしろ、神のストーリーの中に会衆を導くような印象を与えるのではないだろうか。このストーリーを説教として語る中で、会衆は自ら聖書を読み、聖書の世界に会衆は満たされていく。ひとりひとりが満たされて帰っていく。

     Chuck Smithの説教では、民数記に出てくる民の部族別人数の比較をもとに、民数記の世界に入っていく。ストーリーの中に導く。律法に対して、キリストがどうしたかというストーリーとして語られ、会衆はその世界に入っていったようであり、満たされているようである。もちろん、毎日1章づつ程度聖書を読ませて、3年半ほどで、聖書全体を知っていくような説教になっている。

     その意味で、神は真実なお方であることを信じ、神にゆだねる。神に捧げる、ことの大切さということを我々は忘れているのかもしれない。

    『原理』それとも『律法』?
     ローマ3章27節 信仰の原理という言葉の中の原理という語はNomosであり、それは、本来、律法そのものである。同じく、8章2節での原理(Nomos)も、本来律法である。その意味で、かなり意図的に新改訳は、翻訳しているように思われる。

     どうして、この律法とも訳せるNomosを原理として翻訳したのだろうか。英語聖書では、これは再検討されていて、ある時期、Principleと翻訳されたものを、現在では、Lawに戻している。また、新共同訳は法則と翻訳している。

     どの律法によって罪と死の律法が取り除かれたか、ということを考えたのが、律法学者としてのパウロの問いなのではないだろうか。ここを、原理と訳してしまうと、律法、律法と書くことで、リズムをとっているかのようなパウロのことばの生命性が見えなくなっているのではないだろうか。多くの注解書は、なぜ、このNomosが使われているのではなくて、多くの場合、原理という語の説明をする注解書になっており、本来の意味を伝えていないのではないだろうか。

    『原理』とすることで
    見えなくなる意味

     その意味で、パウロが、律法と書いていることを、原理と訳してしまうことで、パウロの意図を見えなくしているのではないか。さらに、そのことは、旧約のストーリーとの関係、パウロが旧約聖書との関係での意味で解こうとしていることが見づらくなっているのではないだろうか。

     パウロにとって、律法は生きている。律法と福音、律法と信仰は矛盾しない存在である。現代よく見られるような、律法と福音、律法と信仰を対立的にとらえる二元論的理解はパウロにはないのではないだろうか。

     ローマ書3章31節『それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。
    』がパウロの答えではないだろうか。パウロにとっては、律法が生きてきているとかんがえているのではないか。

    ヲワコンになった律法?
    生きている律法?どっち?
     ところが、ローマ10:4では、律法を終わらせられたと理解されかねない表現になっているのではないか。翻訳を通して、ディスペンセイション神学を語っている。注解書も、多くは、解説をきちんとしてない。End of the Lawということなのだが、Endの語は、本来 Telos (目標・終着点)という意味であり、律法を終わらせる、とすると、パウロが本来主張したかったローマ書の理解に反している可能性もある。

     新改訳聖書の持つ方向づけがどうもあると思う。NTライトは、NIVを読んでいる人がどうしてパウロを理解できないかがわかったといっているが、それは、NIVには、かなり解釈が加えられた翻訳になっており、その結果、ローマ書の主張がわかりにくくなっているとNTライトは主張しているようである。

    ヨベルの年と
    神との関係の回復
     ヨベルの年(ジュビリー)Movementで、発展途上国の借金チャラにすることにNTライトは関与している。ある面、貧しい人々で、借金を抱えた人々は、生きられない。しかし、ヨベルの年があるから、再出発ができるようになり、生き延びられる可能性が増える。ヨベルを見るとき、債務者は何もしない、一方的な負債の免除。債務者側のみが行為に及ぶ。これが、神の側の罪の問題の解決と似ている。このようによべル的な負債の免除をすることでさらに社会に、柔軟性ができ、社会の秩序の回復にもつながるのではないか。

     次回、最終回へと、つづく。

    ---------------------------感想---------------------------------------

    原理と律法、置き換えると・・・
     原理と律法が同じ語だとは意識して読んでいなかった。同じ語として置き換えて読むと、パウロが同じ語を使いながら、リズムをとって書いている、ということがよくわかるような気がした。

    パウロの律法へのこだわり
     
     パウロがここまで、律法にこだわったのは、よく考えれば、当たり前の話といえば話である。もともと、律法が語られていた各地のシナゴーグにパウロ君はもぐりこんで(突撃して)、説教していったのであり、その中に入っていっては、律法と預言者(旧約聖書のこと)で示されていた、「メシア(キリストorメサイア)キターーーーー」といって、シナゴーグを分割する形で教会形成をしていったのである。
     当然その中には、生まれも、生まれつきユダヤ人出会った人々、改宗することでユダヤ人として生きていたギリシア語を話す人々、改宗することでユダヤ人として生きていたローマ人の人々、ユダヤ人で、軍役についてローマ市民権を得た人々等などがキリスト者になっており、政治的な立場や、経済的状況、社会における立ち位置や、中心性や周縁性といった諸属性や条件がそもそも大幅に異なる人々が含まれていたはずであり、律法をどうするのか、ローマ法が優先するのかなどなど、民族的、言語的、文化的に多様な環境にあったローマにおける教会であっただけに、ややこしい状況が生まれてきたし、分裂的にもなっただろうし、その状況を当時のローマ教会関係者は持て余したのだろうなぁ、と想像するに難くない。そしてパウロ先生に泣きついたのだろう。そして、その結果送られたのが、ローマ人への手紙ではないか、と想像すると、それだけでミーちゃんはーちゃんには面白く思えた。

    チェーン式聖書とスコフィールド版聖書

     あと、チェーン式聖書が利用される課題のお話をしておられたが、これと同じようなことは、米国で深刻な問題として起きた。それは、C.I.スコゥフィールドというおじさんが、KJV(欽定訳)聖書におじさんの聖書理解を付与した聖書を米国で印刷、販売したおかげで、これがわかりやすいということで、バカ売れし、巡回説教者や神学校の卒業生、一般の信徒さんが注釈部分を読んで、その注釈の解釈にかなり依拠してしまった聖書理解が広まった。そればかりでなく、その考え方が日本に流れ込んだという傾向がないわけではない。これにも、どうも一枚、ムーデー先生が噛んでいるようなのだが。そして、ディスペンセイション神学がアメリカで急速に広まっていく。そして、それがどうも日本の新改訳聖書にも影響している。あぁ、なんてこったい。

    組織神学の影響の大きさを
    目の当たりに見た

     一番、気になったのはこれまで組織神学の枠に沿って話してこられた牧師さんたちの魂の叫びを聞いたような気がする経験を今回したことである。もし、NTライトが語っていることがある程度妥当性を有するとするならば、これまで語ってきた、罪、十字架、救い、みたいな単純な構造の聖書理解の妥当性は幾何かは別として既存したものであることとなるため、じゃぁ、どうしたらいいのか、というような叫びを聞いてしまったことである。(フロアからのコメント参照)ミーちゃんはーちゃんは、『組織神学、何それおいしいの?』レベルであるので、そんな枠組み気にしたことすらないが、この枠組みを聞かされる中で信仰を持ち、この枠組みに関する教育を神学校で受け、そして、この枠組みで、講壇から説教という形で聞かせてきた牧師先生方にとってみれば、さぞ、厳しかろう。それが、NTライトの聖書理解の怖さであり、Piper先生の心も穏やかならぬものをお感じになられたのだろう。その一端がわかったような気がする。

     まぁ、イエス自体、そもそも、「この律法の一画が落ちるよりも、天地が滅びる方がやさしい」(ルカ14章)と言っておられるので、律法はヲワコンという聖書理解は、どこかまずいのだと思う。

    ヨベルの年についての感想
    今なおユダヤ人に生きるヨベルの年

     ミーちゃんはーちゃんには、ドイツから流出組のユダヤ人の友達がいる。その彼に連れられて、ヨム・キップルに参加させてもらった。三笠饅頭の皮の部分のような帽子を被り、彼らに混ぜて参加させてもらった。総勢200人くらいいただろうか。ヘブル語で何やら唱えたりした後、英語での教会における説教(聖書といってもトーラーとネビームの講解)があった。

     実は、このヨム・キップルに参加させてもらった年の前年に、ミーちゃんはーちゃんの友人のユダヤ人のお父様が70歳でなくなっておられたのであるが、それを知っている、ユダヤ人の友人のユダヤ人は、ミーちゃんはーちゃんのユダヤ人の友人を抱擁しながら、「あなたの父上は、まさにヨベルの年を迎えらえた。彼にとって良いヨベルの年になった」ということを、英語で言っていたのを聞いた。これを聴きながら、「あぁ、この民族にとって、ヨベルというのは、今なお、リアリティを持つ語なのだなぁ」と改めて思ったのであった。そんなことをお話をお伺いしながら、思っていた。

     しかし、一番印象的だったのは、上沼先生の(もう教理に縛られることがないので、)「ずいぶん楽になった。」というその言葉であった。もともと、ミーちゃんはーちゃんは縛られてもいないので、「え、そんなあたりまえぢゃあ・・・」と思っていたのが、存外、教理に合わせて聖書を読む、というのは、入門的には楽であっても、その後が意外としんどいのだろうなぁ、ということを思った。

     また、度重なる神に対する不真実さにもかかわらず、イスラエルに関与し続けた旧約の物語を考え、度重なる神に対する不真実さににもかかわらず、我々に切り捨て教徒かもしれないキリスト教徒になお、関与し続けられようとする神を考えたとき、神の忍耐強さを感じるとともに、ケラーの『放蕩する神』で示された神の愛の限界のなさを思った。

     

    N. T. Wright
    HarperOne
    ¥ 1,699
    (2010-02-09)
    コメント:積ん読中

    評価:
    ティモシー ケラー
    いのちのことば社
    ¥ 1,365
    (2011-01)
    コメント:神の愛の深さ、大きさ、無制限さがうまく示されている。

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