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2013.05.15 Wednesday

第9回 聖書と牧会セミナー 参加記 (1)

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     最近参加してきた 第9回 聖書と牧会セミナーの参加記を書いておこうかと。講師となってくださったのは、上沼 昌雄さんでした。参加者は、12名。場所は、カルメル会の黙想の家でした。なお、青字の太字で入れた見出しは、ミーちゃんはーちゃんによります。

    Opening

     会場が、カルメル会の施設ということもあり、まず、沈黙しながら世界に貢献してきたカルメル会ということがあり、言葉にならない言葉の手前にあるものを探ることの大切さを感じながら、ローマ書を読み直す、ということを考えたい。ある意味で、解き明かしをしていったら、言葉の世界で終わってしまうのではないか、しかし、それを言葉で言い表せない限界という問題提起があった。

    以下、上沼先生の問題提起の概要でござる。

    ユダヤ人としてのパウロ

     特に、パウロのユダヤ人としての側面を重視していって読んでみたい、というお話で、パウロが、人として持っていた背景をもとに、読み直す当作業をしてみたい。このためには、歴史家の作業(知的作業)と言葉と説明できないイエスと出会うことで知っていった世界について考える(霊的作業)ことが必要になるであろう。
     特に、パウロが突き動かされていたもの、特に、言葉では説明できなくて掻き立てるもの、言葉の手前で自分の中でうごめいている世界を考えてみたい。そこへの気づきが。沈黙の一つの意味。言葉で言い表せないけど、言葉で伝えるしかないものがある。

    心の中でうめくものと現在の自分、
    パーソナル・ヒストリー
     心の中で、うめいていて、うごめいている周りを示すしかないものが確かにあるのだが、言葉で表すしかないものがあることを見ることが大事ではないか。
     そして、黙想しながら、自分の中をよく吟味することをしてみたい。そして、自分の内にあるものをよく考えていきたいと思う。そのことをしたうえで、パウロのパーソナル・ヒストリーを考え、私たちのパーソナル・ヒストリーを考え、そして、それぞれの家族関係、過去の出来事がどう現在の自分を動かしているのか、ということを黙想して、そして、自己紹介を兼ねて話してほしい。

     自己紹介と個人の機微に触れる話なので略。 ただし、上沼先生のイメージをちらっとご紹介したい、硫黄島の戦闘が終わりかけたころ軍前県でお生まれになり、前橋の大空襲があったこと、焼け野原の前橋がイメージとして浮かんでくる。また、信仰をもっても解決のつかなかった、家族の不幸などについてお話しされた。

    --------------午後第2セッション---------------- 
    パウロについて

     NTライトのSimply Christianなどを手掛かりに、ローマ書を再検討してみたい。ローマ書は、パウロがギリシア語で書いているのだが、不思議なことに、ラテン語で書かれたわけではなく、パウロの背景としては、宗教はユダヤ教、文化はギリシア文化 政治はローマの中で、パウロにより、ギリシア語で書かれた書物である。

    ローマ書の背景と日本語翻訳聖書

     後世になって、ユダヤ教の背景が落ちて、ギリシア哲学との兼ね合いの中でローマ書自体が読まれてきたように思われる。
     ところで、新改訳の翻訳のローマ書における方向性を持って訳されているような気がする。その意味で、パウロのユダヤ教の背景を持つ特殊性で考えることが重要ではないか。1世紀のギリシア語が利用される中で、ローマでの異教徒クリスチャンとのかかわり合いを考える中で、書かれたはずである。
     現代の日本語訳聖書のかなりな部分に見られる、ギリシア的な訳があるように思われる。その意味で、ユダヤ的なコンテキストで読み直し、理解の組み換えをしてみたときのローマ書の読み方は変わってくるはずだろうし、牧会者としての意識にも影響を与えるだろう。さらに言えば、牧会上の影響も大きいのではないだろうか。

    旧約聖書とギリシア哲学界を
    批判的に意識してローマ書を読む

     旧約聖書を意識してローマ書を読むことは意外と大事であろうし、それはほかのパウロ書簡においてもそうである。
     使徒行伝17章に出てくる、エピクロス派とストア派との対話においては、当時の哲学者との関係で対話による伝道を試みている。
     また使徒18章には、ローマ総督ガリオに対して、裁判の申し立てがされているが、ガリオは、ユダヤ人に対して宗教裁判するつもりはない、と回答して、訴状を門前払いしている。っこのガリオというは、ストア派の哲学者セネカの兄である。

    ギリシア的な平安・
    ヘブル的な平安

     ところで、セネカは、「怒りについて」という小論文(岩波文庫にも初週されているらしい)を書いているが、怒り(Passion)を抑えることで、アパセイア (平常心)に到達する。このアパセイヤは、怒りの激情がない状態のことを指すもので、現在の英語における、アパシーの語源となった語である。
     よく注意しないと、聖書理解にお言えても、心の平安(ヘブル語でいうシャローム)と平常心(ギリシア語でいうアパシー)が ごっちゃになっているのではないだろうか。その意味で、キリスト者の平安(筆者註:怒りや悲しみなどがありながらも、神とともにあることを喜ぶこと)が、どこかでストア派の平常心にすり替わっているのではないか。

    ギリシア哲学のメガネを通して
    読まれた聖書理解の可能性
     初代教会の割と早い時期以降、聖書理解は結局ギリシア哲学の焼き直しになっているのではないか。その意味で、ギリシア哲学の方法論で理解体系を構築し直した聖書理解、すなわち、ギリシア哲学の霊肉2元論(善悪二元論)が聖書理解を作り出したヨーロッパ(筆者註:オリエントに対応する概念としてのオチデント)で発達したキリスト教であり、現在日本で語られている、西方世界経由、アメリカ経由のキリスト教であはないだろうか。

     この結果
      霊は善
      肉は悪
    という2元論的理解が生まれ、天国理解ともかかわってくるかもしれない。その意味で、肉なる世界や、物質的な世界は関係がないという考えが生まれるが、パウロ自身は、被造物全体のの救いという概念を定義しているのではないだろうか。

    Surprised by Hopeについて
     NTライトは、Surprised by  Hope(下記リンク参照)という本で、信じて救われて天国に行くのは、キリスト者の目標ではない、と主張し、物議をかもし、また、臨死体験から回復した少年の手記がベストセラーになったこともあり、NTライトの概念がTime Magazineに取り上げられ、かなり行為的というのか、説得力があるものとして取り上げられている。 
     どうも、これまでの西側のキリスト教は、地上の世界を無視し、霊の世界に強調があったが、聖書が本来主張するのは、2元論的な天ではないのではないだろうか。
     種の祈りの中に、御心が天になるように地にもならせたまえ、とあるが、この接点がイエスであろう。
     その意味で、創世記に対応する新天新地であり、死んだら別世界である天国に行くのは誤りかもしれない。NTライトは、必ずしも、天国のこれまでの考え方の否定はしていないようにも思われる。NTライトのかかわりの中で、ローマ書自体が、ユダヤ人キリスト者とユダヤ人キリスト者との関係で書かれているのではないか。

    ナチスドイツのユダヤ人大虐殺を
    生み出したヲワコンとしての西側キリスト教
     ガラテヤ書の記述により、初代教会時代以来、ユダヤ人は反キリストとされてきて、反ユダヤ主義の流行があり、反ユダヤ主義のキリスト教への影響は深刻であり、その反ユダヤ主義の行きついた先が、ナチスドイツによるユダヤ人大虐殺であった。その結果、ヨーロッパにおいては、従来型のヨーロッパ型キリスト教と聖書理解はヲワっている(筆者註:閉塞感があり、無力感が漂っている)という理解がある。ある意味、これまでのキリスト教がもたらしたものへの恐怖感の深さがあるが、アメリカでは、ナチスドイツによるユダヤ人大虐殺の深刻さはそれほどでもない。

     ルターは、ユダヤ人と「うそ」というパンフレットをかいているが、ルターの理解をユダヤ人が理解しなかったので、激しい言葉でユダヤ人を攻撃している。また、ヒットラーがルターを引用し、反ユダヤ的な政策推進をしている。
     ヨーロッパ人にとっては、ヨーロッパのキリスト教の行き着いた先としてのホロコーストを皮膚感覚で理解しているがゆえに、ポストクリステンデムを言い出している。その意味で、キリスト教は死んだ、ということの理解があると思われる。レヴィナスは、キリスト教の神は死んだということであろう。ユダヤ人にとってみれば、アブラハム・イサク・ヤコブの神であり、ナチスドイツによるユダヤ人大虐殺は、前からあったことの規模がでかくなっただけという理解があるようである。

     一部の人たちは、聖書の目標は、イスラエルの建国でるかのように言うが、それはどうも聖書が示す究極の目標ではないのではないか。現在、アメリカのキリスト教界で見られるようなイスラエルを支援する姿勢は、ホロコーストのリアクションとして考えたほうがよいだろう。

    旧約聖書理解との関連で
    パウロを理解する意味
     その意味で、パウロをユダヤ的な背景、旧約的な背景で見直すことは、旧約聖書に目が開かれることになる。その意味で、これまでのキリスト教の神学の世界は、旧約聖書なしの神学であった。新約聖書詩篇つき、などに見られるように、新約聖書と詩篇と箴言だけがあれば、神学ができてしまうのではないか。人間側、あるいはクリスチャン側の必要を満足するために聖書を使っているだけだったのではないか。

    聖書全体の物語として
    聖書を読むという可能性
     その意味で、神の歴史における関与としての全体の流れとして、どう説教で提示するのか、が説教者として問われるのではないだろうか。

     本来、罪とか救いを言い出すと、人間そのものの苦闘としての旧約聖書理解なしにはできないはずだ。出エジプトの意味づけにしても、単に、神学的な議論のみになっている。過ぎ越しの祭りの意味を説明して終わりではないか。その意味で、神のストーリーにおいて、聖書から語ることが重要ではないだろうか。

     しかし、現実には、ユダヤ教がいまだに生きているのである。その意味で、旧約聖書の背景で、キリストのストーリーを語ることが重要ではないだろうか。教理や聖書の言い合いを語ってきた結果、「信仰自体が行い(筆者註:で評価される)」になっているのではないだろうか。

     Chuck Smithの教会では、旧約聖書から新約聖書まで通読させていて、そして、実に楽しそうに説教しているし、回収も満足して帰っていく。ある時などは、民数記からの説教として、民数記に出てくる2回の人口調査の比較だけをした説教があるが、それでも回収は理解しているようだし、楽しんで聞いている。 

     そのあたりのことも意識しつつ、旧約聖書のことを意識しながらローマ書を読んだら、どう見えてくるか、ということを少し今回試みてみたい。

    ----------------感想----------------
     これまで、NTライトのHow God Became Kingを読み、NTライト読書会(前回の記録はこちらから、全体、今後の予定、その他についてはこちらから)やNTライトセミナー(前回の記録はこちらから)などですでに十分衝撃を受けてきた身からしたら、予防接種が効いていたので(あ、小嶋先生、ありがとうございます)、驚きもなく、ご説ごもっとも、というしかないお話であったが、参加された他の皆さんにとっては、頭を殴られたような感じを受けられていた方もおありのようであった。

     それはそうであろう。これまで、自分たちが教会で教わり、神学校で学び、自分たちが信徒に話し、また、他の信者たちが、その信者の周りの人々に話してきたことや、そう話すように勧めてきたこと、また、いろいろと主張してきたことが、全部とは言わないまでも、「その根幹、間違ってなくなね?」と言われたようなもんだから、それは衝撃だろう。つまり、「あなた方の読み方は、ギリシア的な読み方で、そもパウロの主張と違うことを主張されていたのです。」と言われたようなもんだから、それはそれは衝撃的でせう。

     午後2回のセッションで、面白かったのは、言われてみれば、そうなのだが、パウロがラテン語でローマ書を書いていないことである。ラテン語で、書いてくれていなければ、この部分だけでもヒエロニムス先生苦労しなかったのにね。ローマ人の標準言語である、ローマ書がラテン語で書かれていないこと自体、画期的なのである。
     そういう意味で言うと、聖書学者の先生や牧師先生はよくご存じなのでしょうが、キリスト教業界一般ピープルでのアマチュア聖書研究者(だからゲリラ的なんだけども)にしてみれば、そんなことは考えたことはない。
     そーいえば、使徒行伝読みながらよーく考えればわかるのだが、パウロは、そもそも異邦人世界でのユダヤ会堂で話しているのである。ギリシアの町やローマの植民都市、そしてローマで路傍伝道や開拓伝道しているわけでなく、ユダヤ会堂とそこで形成されているユダヤコミュニティ、ないしは親ユダヤ異邦人コミュニティに入って行っては、「皆さん方が知らずに読んでいる聖書に書かれているあの方(メッシーア)、イザヤ書でいう人の子が来てまっせ。どないします?」とユダヤコミュニティを恐怖のうちに追い込み、そして、分裂させ、そして、各地でのちのキリスト教会を形成していったのである。だからこそ、パウロに対して、「こいつ、ペストみたいなやつで・・・」(使徒24)とペリクス総督に訴えられているのである。こういう視点って今の日本のキリスト教界の一般ピープル(信徒さん)に抜けてないだろうか。
     だからこそ、パウロは、ローマ人への手紙の中で、ユダヤ人とギリシア人、ローマ人の融和を図らんといかんかったし、それ以前に、「あんたたちは、キリストにあって一つなんですから。」と言わないといけなかったんでしょうね。
     あと、面白かったのは、ストア派の巨星セネカの兄ちゃんがローマの属州総督ガリオだったこと。これは知らんかった。

     次回に続く。Stay tuned for coming up posts.....(チャンネルはそのまま、次回を待て・・・)
    次回は、夜のセッション キリストの真実(ピスティス クリストゥ)や神の真実(ピスティス セオウ)などについて。




     
    Tom Wright
    SPCK Publishing
    ¥ 1,557
    (2006-02-17)

    評価:
    N. T. Wright
    HarperCollins
    ¥ 1,580
    (2014-02-15)
    コメント:現在読書中であるが、これまでの聖書理解が崩壊しかねないほどの衝撃を受けるかもしれないが、この書の主張はかなり妥当するのではないか、と思う。

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