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2013.04.20 Saturday

福音派が生まれたころの世界むかし話(8)

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      さて、今回は、いよいよ、世紀の大伝道者D.L.Moodyさんの後継者としてのR.A.Torreyについて。

     では、いつものように、まずは、Theologian Trading CardのR.A.Torreyのご紹介を。

    R.A.Torrey(1856―1928)

    略歴
     初期のFundamentalist(聖書根本主義)運動の神学者兼指導的説教者。R.A.Torreyはイェールで教育を受け1875(19歳)で学士学位の取得と卒業1878(22歳)でYale神学校卒業(変換者註:多分神学博士)。

    重要性
     1889年に牧師として奉仕したのち、R.A.TorreyはD.L.Moodyからシカゴ伝道協会立の聖書学校の指導者としての着任要請を受諾。さらに、TorreyはChicago Avenue Churchの牧師の一人として、さらに、米西戦争時には、従軍牧師として参加する。彼は世界各国を歴訪しながらの伝道旅行で知られる。1902年に開始し、1911年に伝道旅行を中止する。1912年に、Torreyは新しく開学したロスアンゼルス聖書学校(BIOLA)の学長に就任。1915年にthe Church of Open Door(Open Door教会)の牧師に就任。Torreyのもっとも大きな著述での貢献は、12巻からなるThe Fundamentals(原理主義)という禅宗の編集者を務めたことで、この全集は、近代的な神学の発展に対しての防波堤として編纂されたものである。この全集は、無料で牧師、伝道者、そしてキリスト教関係者に無料で送付された。

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    感想
     まぁ、若くして実力を示した神学者の一人、ということができるでしょうね。名門、Yaleの出身ですから。Moody先生の後継者として聖書学校の運営や、教会の牧会などをしたようです。また、世界中をめぐる伝道者の原型の一つになっているようです。その意味で、ビリー・グ○ハム(William Franklin Graham II)やフ○ンクリン・グ○ハム(William Franklin Graham III)、ウィ○アム・グ○ハム(William Granklin Graham IV)などの先駆者的役割を果たしたようです。現代でも使われる『原理主義』の語が生まれたのは、このTorreyが編集した The Fundamentalsがその出発点というのが、共通した理解です。

    聖書根本主義あるいは
    聖書原理主義の出発点としてのTorrey
     ところで、現代の日本語の一般的な用法では、『原理主義』という語は、さまざまな宗教の反知性的で常識人には理解できない苛烈な行動をとる教条的なグループに対してはられるラベルですが、本来は、キリスト教の中でも、聖書の権威性に高い評価をするグループ(聖書無謬論あるいは無誤論、逐語霊感主義的な理解を持つグループ)を指す語でした。これの語源になったのが、Torreyという方がまとめた、The Fundamentalsだったわけです。そして、これは近代的な思想に基づく聖書無謬説を否定するかのようなModern Theology(福音派の人たちからは、リベラル派の神学として恐れられているらしい。危険思想らしいし、この立場に立つ書物をもったり読んだりしているだけで、犯罪者扱いされるらしい。共産主義者=無神論者=リベラル派=無信仰者 という図式になるらしい。この発想力の展開の激しさは、何なんだろう。)への対抗として作成されていたものでした。トレカでは、防波堤(bulwark)と書かれていたのですが、ここにも圧倒的に社会の中での高等教育を受けた人の中で、主流となっていた近代的神学に「力には力ぢゃ」と対抗しようとした姿が見てとれます。
     このFundamentalsの編集者としては、Yale大学卒(神学校卒)という東部エスタブリッシュメントの出身者であるTorreyがこの全集の編集をし、その全集本を出すことに意味があったし、だからこそ、それが広く受け入れられていたわけで、中西部のどっかの草深い土の匂いのするような地域にあった聖書学校卒のおじさんが出しても影響力を持たなかったでしょうね。これは、のちに紹介する私がギリシア語の勉強する際にもつかったMachen先生なんかにも言えることです。

    野放図な原理主義ラベルの適用とその拡大
     さて、現在では、原理主義とは過激な行動をとる宗教者の集団に適用されていますが、本来キリスト教の中で、聖書に非常に価値を見出す人々に用いられる、蔑称でもなく、尊称でもなかった語であったわけです。聖書に基礎に神とナザレのイエスの言動とキリスト者としてどのように生きるべきなのかを理解していこう、という運動を指す語であったはずの者が、原理主義と呼ばれていたはずなんですけど。聖書を基礎にした、という意味のはずで、その意味では、下記リンクで紹介するJ.I.PackerのFundamentalism and the Word of Godに示されたイギリス型の原理主義だったりします。

    過激派が原理主義者とされる背景
     本来、原理主義者には、穏健派から過激派までが含まれるはずなのですが、なぜ、アメリカ的文脈の中で過激派がイメージされ、わが国でもイメージされ、過激な行動をとる人々に原理主義という言葉が軽々しくつかわれる。イスラム原理主義、日本固有型神道系カルトにも原理主義という言葉がテレビなどで使われる。誰とは言わんがテレ朝の10時ごろにやっている報道番組と称するエンターテイメント番組で元プロレス実況中継アナウンサーの方が、神道系のカルトに対して原理主義というラベルを貼るかのごとき発言をしていたことがあって、あれ、神道系にも原理主義ってあるんだ、と思ったことがあった。神道って、文書情報としての聖典はないはず(古事記とか日本書紀はあるが、それは生活律を明示的に示さない体型のような気がするが)だから、何に対して忠実だという意味で原理主義なのだろうと、そのラベル貼り発言を聞きながら、疑問に思った。

     どうも、その元プロレス実況中継アナウンサーの方は、世間様の常識を外れた過激な教義に対して印象論として気軽に「原理主義」というラベルを貼ったらしい。まぁ、テレビ人のすることだから、どうでもよいのだが。しかし、本来の語義からいえば、成文化された聖典を基礎とする集団に対してしか、原理主義(成文化された聖典を基礎(fundament)とするという意味)というのは成立しえないように思うし、いわゆる成文化された聖典があまり明確でない神道系の集団には適用しずらいと思うのだが。

     キリスト教、ユダヤ教、ムスリム世界、仏教世界でも成文化された聖典があるので、原理主義は成立する。この原理主義者の中のその解釈が偏っていたり、一部に極端な強調がある場合はあり、それが過激な行動へと結びつく。

    アメリカ内での原理主義者による
    過激な言動としての創造論裁判
      アメリカでこれが最も先鋭化したのが、スコープス裁判で争われた『創造論VS進化論』である。あの裁判自体、本来茶番であったもようである(その背景は、青木著 アメリカ福音派の歴史参照)が、いまだにアメリカというキリスト教国家においてのキリスト者集団内での論点となっている。

     この話題は炎上しかねない香ばしい話題でもあるので、さらっと終わりたいが、聖書に神のことばによってできた、と書いてある表現と見かけ上ダーウィニズムや一般に進化論として知られる生物多様性原理の理解の仮説が仮説レベルで矛盾するからであり、それが近代アメリカにおける2項対立論理の中で、どちらかが正、どちらかが誤り(まつがい)として、真偽を論証しようとするからであり、そして、それぞれの立場が自派の論理にこだわるあまり他者に対しての頭からの否定をするから問題になるのだと思う。

     The Simpsonsの中で、Season 17 Episode 14でThe Monkey Trialというタイトルのもと、このScopes裁判を下にひいたエピソードが提示されている。この最後で、Lisa Simpsonが言っていることが面白い。創造論にしても、進化論にしても、相互に考え方を尊重し合い、他者の考え方を理解しあえるはずだし、相互に人格として尊重し合い、共に生きるものとしての存在を認め合うという、その努力を惜しんではならない、といったようなことを言っていたように思う。個人的には、その通りだと思う。それぞれの立場を超えて違いは違いのままとして置いておいて、他者にラベルを貼って終わりにするのではなく、他者を理解し合う努力、共に生きる努力は大事だと思うのだね。

    まとめ
     「原理主義者=過激派」や「原理主義者≒過激派」 ではなく 「原理主義者 ⊇ 過激な行動をとる人々」であり、「原理主義者 ⊇ 学問に対して否定的な態度をとる人々」なのだが、実体としては、「部分集合として含む」のだが、それがこのグループの信仰者集団の全体の半数以上を超えている部分もあったり、学問に対して肯定的な態度を示す人の割合が極端に少ないので、実体としては、「原理主義者≒過激派」あるいは「原理主義者≒学問に対して否定的な態度をとり、常識的な対話ができない過激派」と見えてしまうことも多いのかもしれない、と思う。神はこころと霊を与えたもうたと共に、頭脳も与えたもうたように思うのだが、違うかな。

    次回予告
     ということで、このシリーズ次回は、一応予定でいけばペンテコステの出発点となったC.F.ParhamとW.Seymourを触れる予定。個人的には、ペンテコステ系の信仰の熱さ(or 厚さ)に耐えかねている部分もあるし、あんましペンテコステ系の聖書理解に詳しくないので、割と軽く触れて終わろうかと。その後、ミーちゃんはーちゃんがギリシア語の独習で結構お世話になったMachen先生を紹介する予定。

    これまでの経緯

    福音派が生まれたころの世界むかし話(1
     主要登場人物の紹介

    福音派が生まれたころの世界むかし話(2)
     ジョナサン・エドワーズの前史 アメリカ社会の成立とリバイバル

    福音派が生まれたころの世界むかし話(3)
     ジョナサン・エドワーズ アメリカ社会にロックインされたリバイバル思想

    福音派が生まれたころの世界むかし話(4)
     リバイバル思想と二人のチャールズ チャールズ・フィニーとチャールズ・ホッジ

    福音派が生まれたころの世界むかし話(5)

     プレミレニアリズムとディスペンセイション主義 アイルランド人のジョン・ネルソン・ダービー

    福音派が生まれたころの世界むかし話(6)
     東部エスタブリッシュメント、聖書無謬論、啓蒙時代と2項対立、A.A.ホッジとB.B.ウォーフィールド

    福音派が生まれたころの世界むかし話(7)
     南北戦争後の社会、ディスペンセイション主義と福音主義の融合、伝道熱心な福音派の精神的原点としての大伝道家D.L.ムーディ


    評価:
    価格: ¥5,040
    ショップ: 楽天ブックス
    コメント:社会との関係の分析が弱い、強弱がありすぎる、と言いながらも、専門書として日本語で読める唯一のアメリカにおける福音派関連の発展史。

    評価:
    小原 克博,中田 考,手島 勲矢
    ---
    コメント:コンパクトにまとまっていて、読みやすい名著。社会とのつながりは、こちらの方が説明が濃い。全体像をざくっと知ることができる。

    評価:
    J. I. Packer
    Eerdmans Pub Co
    ¥ 1,327
    (1984-07)
    コメント:イギリスでいうFundamentalismについての本。米国系との雰囲気がかなり違うことが分かるかも。

    コメント
    >創造論にしても、進化論にしても、相互に考え方を尊重し合い、理解しあえるはず

     ここは場外乱闘になっても書かせていただきます。と申しますのは、前回一致したお話しから合意点をを微妙に移動されているからです。
     科学的とされる立場からすれば、考え方を尊重する意味も、理解できる可能性も全くあり得ないはずです。ただ単に仮定(考え方としての枠組みを提示している)を言い放っているに過ぎないわけで、現時点では不確かな状況証拠を羅列しているに過ぎません。確実な因果関係と再現を示して初めて論と言えるわけです。その意味では、五分前に全て辻褄が合うようにこの世界を神が作ったといっているのと何ら変わりがないのです。
     信仰の立場からすれば、信に重点が置かれ、単にそれを信ずるか否かが問題になるのであって、いわゆる合理性などは、これまた全く意味がありませんから、異なる考え方を理解する意味も尊重する意味もありません。
     エキュメニカルの立場で考えても、受容することと存在を認めることは意味合いが異なります。
     表現の自由の範囲で許されると云われるなら合理性はありますが・・・・

     アインシュタインが、量子論に対して「寝ている間にお月様が実は消えているかも知れないって信じられますか」と言ったとか・・・事実と真実、我々の感覚と感情、必ずしも一致するとは限らないわけで・・・
    • ひかる
    • 2013.04.20 Saturday 21:10
    ひかるさま

    コメントありがとうございました。本来であれば、オリジナルのテキストと映像を紹介したいのですが、この回に関しては、スペイン語かイタリア語吹き替えの映像はありますが、それ以外は、21世紀FOXのライトマネジメントの関係で、現在目に見える形の者がございません。

     これ、私の言及の仕方がまずいのです。Lisa Simpson にアニメ作家が語らせた見解は、学問としての創造論を理解できる、というのではなく、隣人として人間として違いを超えてあくまで存在としての人格を理解し共存しようとすることが大事だ、意見の違いを前提としつつ、多様な人間存在を尊重するという見解で、発言者の人格を尊重し、理解しようとする努力を惜しむべきではないのではないか、それをあいつは、○○だから、と否定して終わり、というのはいかがなものか、という意図だったと思います。

    >事実と真実、我々の感覚と感情、必ずしも一致するとは限らないわけで・・・

    これはご指摘の通りです。感情、このもてあまし気味のもの、これがまた思索に影響を及ぼすという、この辺、うっとうしいです、本当に。

    コメントありがとうございました。後刻上の文言は修正しておきます。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2013.04.21 Sunday 05:00
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