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2013.03.26 Tuesday

ミーちゃんはーちゃんと聖書無誤論

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     敬愛してやまない三重のH先生(先生、今年はクワガタ君たちいかがですか?)からお問い合わせがあったので、ミーちゃんはーちゃんと聖書について書いてみようかと。

    ミーちゃんはーちゃんの背景と立場

     ミーちゃんはーちゃんは、一応ファンダ(聖書原理主義)の立場に立ち、福音派と世間の皆さんからありがたいラベルを張っていただいている、人呼んでブラザレン(兄弟兄弟いうちょっと変なやつら)というラベルを張っていただいているグループに属するキリスト者集団の中にいますし、「(翻訳聖書を含めて)聖書は神のことば」という立場には立ちます。

     ただ、「(翻訳聖書を含めて)聖書はイツワリなき完全で純粋な神のことば」か、といわれると、太字下線付き部分については、ちょっと意見を保留したい、というのがミーちゃんはーちゃんの今の見え方でございます。

     なぜかというと、実は、聖書記者 − (聖書テキスト伝達者 ・・・・・・・聖書テキスト伝達者)− 聖書翻訳者 − 読み手という中で、エラーがどうしてもはいっていくような気がするからなのですね。

     わかりにくい例でもうしわけないのですが、ラジオで少し昔の演奏家が演奏したバッハの平均律クラヴィーアの録音を聞く時を例にとりながら、考えたいと思います。


    バッハの平均律クラヴィーアの楽譜で
    考える原典問題
     バッハの頭の中に、平均律クラヴィーアの音楽が浮かんだとしましょう。このバッハの頭の中の「音楽が偽りのない神のことば」に相当すると思います。それを耳で普通の人が聞いて楽しめる音楽として多くの人が理解でき、一人の演奏者で演奏できるようにバッハはその音楽を鍵盤楽曲として楽譜にそれを落としこんでいきます。とはいえ、バッハの手が4本あったり、指は一つの手に8本ついてたりはしないので、演奏できる範囲という制約のなかに作曲者としては落とし込む必要があるでしょう。そのため、無伴奏での演奏用にバッハが譜面に落としていく段階で、頭の中の音楽と限りなく近いけれども、もうその段階で違ったものになっている可能性が高くはないでしょうか。

     そして、バッハが採譜したその楽譜を筆記生と呼ばれる筆記者が転記していきます。そして、その段階で誤差が生じる可能性があります。さらに、楽譜商が、楽譜として販売するために印刷していく段階で、さらに誤差が生じる可能性が含まれています。そして、また、後世の人が、その楽譜の制作転記の誤りを見つけたとして、善意で、演奏しやすく楽譜を変えてしまったとします。そして、時代を経るうちにだんだんバッハの頭の中に合った音楽とは、異なる音楽になっていくように思います。そして、何系統かのコピーされたバッハの楽譜ができることになります。それぞれの系統の楽譜のコピーは、バッハの頭の中の音楽の95%程度再現できているものの、一部は音符が違う何種類かの楽譜群が存在することになります。

     そして、バッハが最初に自分で書いたオリジナル楽譜が失われてしまったとして、そのコピーが何系統か残っていたとします。その何系統か残った楽譜群から、オリジナルを復元する作業がなされたとしましょう。かなり蓋然性の高い復元楽譜になりますが、復元された楽譜はオリジナル楽譜と完全に等しいものである、とはだれにも断言できないわけです。その復元性は、99%なのか、99.9%なのか、99.99%なのかも含めて、その復元率も誰も正確に出せないわけです。なにしろオリジナルはないですし。

     これが写本ですかね。

    楽譜と演奏
     再現されたこの辺がオリジナルかな、と思われる楽譜をもとに当代一流の演奏家が、演奏したものを放送でながすこととしましょう。ミーちゃんはーちゃんは、ミーハーなので、クレン・グールドが演奏したヴァージョンが結構好きです。かなりオリジナルに近いのでは、とグールドが思った楽譜をもとにグレン・グールドが演奏したとしても、そこにはグレン・グールドの解釈が多少なりとも入ったものにならざるを得ません。演奏に中立はないように思います。逆に解釈の入らない音楽は、1伉垢棒擇蕕譴燭修个量佑鮨べるようなものだと思います。確かにそばはそばだけれども、そばとしてののど越しを味わえないように思います。それを「そば」と呼ぶかどうかは少し疑問ですが。

     そして、演奏者(グレン・グールド)も時代に生きる人間ですから、彼が生きた時代の音楽の影響を含んだ演奏にならざるを得ないようにも思うのです。その意味で、今グレン・グールドの平均律クラヴィーアの演奏を聴くときには、彼の60年代から70年代の平均律クラヴィーア理解での平均律クラヴィーアの演奏を聴いていることになるわけです。これが、丁度聖書の各国語翻訳作業に当たると思います。

     ほかの演奏家が平均律クラヴィーアを演奏したとして、多少その違いはあったとしても、音楽の主要な部分は変わらず、ほかの方の演奏をラジオ放送で聞いた方も、ほぼ同じ音楽を平均律クラヴィーアとして聞いているという意味で、共通の土台が存在しうると思います。そして、様々な演奏家による演奏を聴かれた方の間でのバッハの平均律クラヴィーアという音楽に関しての対話は可能であるのではないか。それが、マクグラス先生の「ポスト・モダン世界のキリスト教 ―21世紀における福音の役割」という講演記録を基にした書籍でご提示されていた内容ではないか、と存じます。

    演奏録音と放送
     さて、グールドが演奏した音楽を記録する段階で、新たな問題が生じます。マイクロフォンはそれぞれ特性があり、マイクロフォンの個体ごとに得意な周波数特性や音の録音の仕方に特徴があり、マイクロフォンを通した段階で、グレン・グールドの演奏に限りなく近いとはいうものの、グールドが演奏したの時の音とは違った信号がテープに記録されます。今残っているテープもありますが、時間の経過とともに、テープの素材の劣化、磁気の弱化、磁気録音の磁性体の変性や信号変化もあり、テープヒスなどが生じます。デジタル処理でかなりの雑音は除き、元音源にかぎりなくちかづけますが、それと同時に、グールドの息づかいや鼻歌風の音も消されてしまう可能性があるように思います。雑音処理した音源をラジオで放送したとしても、AMトランジスタラジオでは、どうしても音はトランジスタ系の音になります。そういえば、トランジスタグラマーなんて言葉がありましたが。AM真空管ラジオでは、柔らかな音にはなりますが、放送局の音源が持っていた音質での演奏にはなりえないように思います。FMであれば、AMよりシャープでよりクリアな音になりますが、しかし、それとても受信機と受信システムの変換回路の特性により、スピーカーから再現される音楽は、変わりますので、グレン・グールドが演奏した時に録音された音源の音とは違っているように思います。AM放送をトランジスタラジオで聞いても、真空管ラジオで聞いても、FM放送をトランジスタラジオで聞いても、音楽としては、ほぼ近いもので、バッハの平均律クラヴィーアと呼んでよいと考える許容範囲だとは存じますが。

     このどのようなシステムで聞くか、が説教者と教会の状況に近いのでは、と思います。放送施設も多様ですし、家庭などでの受信機器とその中の受信回路も多様です。受信システムによって、再現される音に微妙に味わいが違うように、説教者と聞き手によって、聖書の理解が違ってくるのだと思います。AM放送が好きな人もいるでしょう。FMが好きな人もいるでしょう。手軽なトランジスタラジオで聞くのが好きな人もいれば、細かな調整ができる真空管アンプが好きな人もいるし、低音重視の設定で聞く人もいるし高音重視の設定が好きな人もいるでしょう。
     どの電波での放送を聴いても流れている音楽は、いずれもグールドの平均律クラヴィーアには違いがありませんが、表現された音楽とそれを受け取った時の印象は受け取った手段によって変わってくるように存じます。

    聞き手の問題

     聞く方の環境もあると思います。放送を聴いているときに、暴走族がぶぉんぶぉんぶぉんと音を鳴らせば、せっかくの音楽がぶち壊しですし、近所のご家庭で夫婦げんかがあれば聞き手も音楽だけに集中できません。
     また、片方の耳が中耳炎になっていれば、ほぼグールドの音源に近い音を聞いたとしても、聞こえている音楽はグールドが演奏したものとは違うものとなっているように思います。補聴器をつけて聞いていれば、補聴器の調子によっても聞こえているものは違ってくるようにも思います。説教者が話している話は同じであっても、聞いている一人ひとりの状態によって、受け取られ、その人の中で意識されるメッセージが違う、ということと似ているかもしれません。

    まとめてみると

     バッハが作曲した平均律クラヴィーアがバッハの頭の中に存在していたのと、私たちがグールドの演奏を放送で聞いた時の音楽は同じでしょうか。ほぼ同じともいえますし、違うともいえるようにも思います。AM放送をトランジスタラジオで聞いても、平均律クラヴィーアの音楽としての本質をつかめる人もいるし、そうでない人もいる。FMデジタル放送で流れる平均律クラヴィーアを高価なオーディオ機器で聞いても、平均律クラヴィーアの本質をつかめる人もいるし、どうやってもつかめない人がいるのと似ているかもしれません。

     しかし、私たちがAMであれ、FMであれ、FMデジタルであれ、ラジオ放送でグールドの平均律クラヴィーアの演奏を聴くとき、バッハの音楽を聴いていると思っているように思います。その意味で、誤差を含んだもの、ある幅を含んだものを、バッハの平均律クラヴィーアと称しているように思います。

    聖書が(誤りなき)神のことばということの限界

     聖書が(誤りなき)神のことば、というとき、こういう事例とよく似ているかな、と思います。私たちは、ラジオで音楽を平均律クラヴィーアを聴くとき、バッハが頭の中に描いた平均律クラヴィーアの音楽に近いと思って聞いているのだろうと思います。それと同じように、聖書が神のことばということは、神が人に与えたもうたことばを受け取り、そして、その意味を思いめぐらし、それぞれのことばで祈るとき、おそらく神がこのようなことを意図されたことであろう(神のみおもいに限られた人間のことばで近づくことを許しておられる)、と理解できることではないか、と思います。

     その意味では、確かに、誤りなき、という語を含んだうえで、聖書は(誤りなき)神のことばではあります。AMで流された放送をトランジスタラジオで聞いてもバッハの平均律クラヴィーアですし、FMの豪華なステレオで、非常に静謐な地下にあるオーディオルームで他の音が入り込まない部屋で聞いたバッハも平均律クラヴィーアではあります。

     各国語で翻訳された聖書も、神のことばであると思いますが、その言語には言語の制約があるので(それぞれの言語で、それを指し示す概念がない言葉もありますから)、最大限の努力はするものの神のお考えそのものの一部を人間側が受け取りそびれる場合もあると思います。その意味で、完全か、というとそうでもないようにも思えます。

     ラジオ放送を聴きながら、聞き手の側でも努力はすること(その方法はいろいろあると思いますが)で、完全に録音時の音源、あるいはバッハが作曲中にイメージした音楽そのものが、どのようなオーディオシステムを使っても再現できないのと非常に似ていると思いますし、その意味で限界があるとおもいます。とはいえ、その限りがあるものであっても、受け取った音楽は確かにバッハの平均律クラヴィーアと理解してよい、あるいは許容してよいものであるように思います。

     それと同様に、神のことば(あるいは神のみ思い)を受け取るものとして人間には限界があるとはいえ、聖書は神のことば(神のみ思い)であり、聖書を通して、そのみ思いに触れるように招かれているのではないだろうか、とおもいます。そして、限界があるものであるものの、多少の許容範囲の中で、神のことば(み思いが含まれたもの)として受け取って(理解してよい)よいとしておられるのではないか、と愚考します。

     実は、あるところで、パリサイ人が宴会の上座を選んで座ろうとするのを見たときに言われたルカの福音書の記述を巡って「とにかく自ら身を低くすることがよいことである」と道徳としての教えを説かれたのだ、と儒教的解釈をしておられる方のお話を拝聴したことがございますが、そのような解釈の事例を含めて、神は、イザヤ書1章18節で

    主は言われる、
    さあ、われわれは互に論じよう。
    たといあなたがたの罪は緋のようであっても、
    雪のように白くなるのだ。
    紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。

    と言っておられるように思います。

    余談 ことばについて
     大学時代に古代オリエント史を受講させていただいた池田裕先生は、そのご講義の中で、中東の言語では、性別、出生からの経過時間でラクダを日本の出世魚のように呼びかえるという話をしてくださったことがございます。日本では年齢性別に関係なく、ラクダはラクダだとされてしまいます。このような例にあるように、すべての言語は1対1対応しえませんし、日本語翻訳した時に失われてしまわざるを得ないものが聖書翻訳には付きまとうように思います。
     
    聞き慣れた音源と聞き慣れない音源

     ある方が持っていて、聞き慣れているAMラジオで、それもAM放送でしかバッハの平均律クラヴィーアを聴いたことがないとしましょう。豪華なステレオでFM放送を聞いた時、自分が普段聞き慣れている平均律クラヴィーアの音と違うので、これは自分が知っている平均律クラヴィーアの音質や音でないから、今聞いている音楽は平均律クラヴィーアではないと言い出すかもしれません。これと似ていることが、リベラル派とラベルが貼られるキリスト者の皆様と福音派とラベルが貼られるキリスト者の皆様の間で起きているように思います。同じ平均律クラヴィーアの聞こえ方が微妙に違うというだけで。

    J.N.DarbyとFFBruce
     身内の事例なら、失礼にあたる人が少ない(身内からは怒られるかもしれませんが・・・)と思いますので、J.N.DarbyとF.F.Bruceを例にとり書いてみようと思います。

     まず、J.N.Darbyから。先ほどのラジオ放送での平均律クラヴィーアのたとえで行くと、彼は、トランジスタラジオを屋外用のラウドスピーカにつなぎ、そのうえで、平均律クラヴィーアの主要旋律部分だけを切り出し、「ほら、これがバッハの平均律クラヴィーアだよ。これならわかりやすいでしょ、みんな聞けるでしょ。長くないでしょ。わかりやすいでしょ。ほら、みんな聞けたでしょ。」ってやっちゃったのだと思います。神と人々への愛情からとはいえ。

     Bruce先生は、ご幼少のみぎり、このような平均律クラヴィーアをかなりたくさん聞かされて、それが平均律クラヴィーアだと思っていたのだけれども、ご成長の過程で、FMラジオでの平均律クラヴィーアをお聞きになり、さらに、オーディオルームで平均律クラヴィーアの全曲をお聞きになり、平均律クラヴィーアの何たるかを極められようとされたのだと思います。そして、私どものキリスト者集団の中で、少しでも良い質での平均律クラヴィーアを聴くことの環境を整えられようとした、のだと思います。

     しかし、屋外用ラウドスピーカにトランジスタラジオの音源から流される平均律クラヴィーアの主旋律のみを平均律クラヴィーアと信じて疑わない人々は、そんな都会風のこじゃれたものは、平均律クラヴィーアではなく、そんな音楽なぞ、悪魔の音楽なので、聞かなくてよい、とBruce先生に石を投げるに近いことをしたようです。残念ですが。

     お二人とも、聖書は神のことば、として語ろうとしましたが、その人々への聞かせ方ということと、その結果はずいぶん違っていたし、そして、それぞれの時代の人々の置かれた環境が違っておりましたし、それらの人々への提示方法とそれぞれの時代の人が受け取った印象はそれぞれについて、かなり違ったのではないか、と思うのです。

     どちらかというと、ミーちゃんはーちゃん的には、F.F.Bruce先生風の生き方をしたいと思っています。もちろん、古典学の知識が壊滅的にはないですから、Bruce先生の域にはそもそも達しえませんが。

    長い鉛筆と短く切った鉛筆
     鉛筆には、Steadler社の製図用鉛筆もあれば、1ドルショップで、10本1ドルの鉛筆もあります。しかし、鉛筆は鉛筆です。ほとんどの鉛筆はもともと200舒未猟垢気ありますが、それを50舒未4つに切って使うこともできます。私どものキリスト者集団は、Steadlerの製図用鉛筆を50舒未砲發箸發箸留筆を切り、それぞれの短い鉛筆を指して、This is a pencil, This is also a pencil, This is a pencil, too. ・・・・というような聖書解釈を提示して、これが聖書だ、と言ってきた部分があるように思います。少なくともわたくしが大学生のころまで自派の教会でお聞きしたお話は、そんな感じでございました。そして、自派が使っている以外の短くない鉛筆は鉛筆ではない、に近いことさえといわれておりました。

     ミーちゃんはーちゃんが、大学院生時分に、大学の図書館でBruce先生の注解を読んだときに、なんだ、これは。これが鉛筆というものか、なるほどこれがステッドラー社の製図鉛筆の新品というものか、というような印象を持ちました。それと同時に、自分が鉛筆だ、This is a pencilと言っていたものは、ステッドラー社の鉛筆の一部でしかなかったのだ、という印象を持ちました。これも歴人学系の先生方が良書を図書館に入れていてくださったおかげだと思います。

     そして、こんな鉛筆を使いたいなぁ、と思い、H先生を含む多くの方の力を借りながら、一人であーでもない、こーでもない、としてまいりました。

     だんだんたとえ話が過ぎ、次第にわけがわからなくなってきましたので、言いたいことをまとめたいと思います。

    結論 聖書は神のことばか?
     聖書は、ご指摘のように神のことばだと思います。翻訳聖書も含め、神のことばと思います。私のような平信徒が言うのはなんですが、ただ、完全に誤りなき、とは言えないように思います。翻訳聖書に普通の人が想定するような、無謬や無誤を求めるのは少し無理があると思いますし、そして、そこまで翻訳者の先生方に求めるのは、かわいそうではないか、と思います。その意味で、「聖別された」完全に無謬の翻訳聖書はないと思っております。

     よくお考えになられない方は、無謬という以上、0.00000000001%の誤差も含まない無謬を想定されます。100%の理想状態、完全状態の無謬を想定されます。そして、2項対立的な考え方に立ち、少しでも受け取り手(指摘した側)にとって矛盾とみえることがあると見ると、「ほれ、矛盾がある、だから、聖書は信用できない」といいつのられます。大変残念なさびしい精神だと思います。

     ところで、完璧であること、すべてのことが理解できること、誤りなく伝えうること、それは、限られた人間には、無理ではないか、と思います。「人には限りがある」ということこそ、神がわれら人に与えたもうた、神の恵みというか憐み(compassion)ではないか、とさえ最近は思います。人が完璧でないがゆえに、神を求めることができるようにも思います。それゆえの神の憐みではないだろうか、と最近考えることが多うございます。人が限られたものであるという、その分別を持ち、神を知ることを求めるための。それは、主が主であると人が知る(J.I.Packer先生の意味で使っています)ためであり、われら人が、神となることがないためであり、主が多様性を喜ばれたように、われら人も多様性を喜ぶためではないかとさえ、思えてきます。

     しかし、そのうえで(限界があっても)、神に接近できるよう招いておられる、という意味で、神がわれらに与えたもうた、という意味で聖書は神のことばと確信しますし、そう『告白』いたします。F.F.Bruce先生が、新約聖書は信用できるか?(絶版なのは悲しいことですが)でご主張になられたのは、限界があっても、神のことばとして信頼できる、ということだったとうっすらと記憶してます。まだ読み返せていませんが。

     それ故に、新改訳聖書のみが『聖別された』唯一のまったく誤りなき聖書とご主張になられるかのように、乱暴なお話をされる方のお話を時に聞きながら、大変残念だなぁ、と思う次第でございます。特に、うちは素人が話しますので。

     しかし、誤りを含む可能性がある翻訳の可能性を含み、さらに限られた人間には、神の御思いとは異なったものとして聞こえる(受け取りかねない)表現があるとしても、それは神のことばであると確信しております。それを完全に神のみおもいを表現できていないとしても、それに近づこうとするのが、説教者の務めでありますし、信徒の生活の中で信徒が招かれていることだと思いますし、信徒一人一人が考えていくべきことではないかと思います。

     また、ミーちゃんはーちゃんにしてみれば、ミーちゃんはーちゃんの話を聞いてくださる奇特な方に、神のことばとして、神のみ思いのその一端を限界のあるもののお話を通して、そして、限界のある翻訳を通してかもしれないけれども、神のことばに力があると確信しつつ、とにかく伝える、渡していく、トラディシオしていくのが、説教者として、そして一介の平信徒としてのミーちゃんはーちゃんの務めではないかなぁ、と存じております。

     長くなり誠に申し訳ございませんが、こんな感じが、私が聖書の無謬性について思うところでございます。インスパイアリングなコメント、ありがとうございました。また、英国系の先生方の理解について、先生から、だらだらとお話をお聞きしたいです。
     

    評価:
    F.F.ブルース
    聖書図書刊行会
    ---
    (1978-10)
    コメント:最初読んだとき、心が震えた本の一つ。

    評価:
    A.E.マクグラス
    教文館
    ¥ 1,890
    (2004-06)
    コメント:ポストモダン社会における公共圏の基礎としての聖書という概念がわかりやすく提示されていたように思う。聖書を通じた対話の可能性を提示しておられた様に思う。

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