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2013.04.03 Wednesday

教会が牧会者のミニ王国となりやすい理由(1)

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     ちょっと、福音派が生まれたころのむかしばなしシリーズをやってみようか、ということで取り組んできたが、ちょっと飽きてきたというのもあるので、気分転換として旅人さんから、なぜ、牧会者(牧師とか神父とか、長老とか教派によって呼び方は様々)が教会を自らのミニ王国とし、自らを王としやすいのか、そしてこの傾向が特に、米国系のキリスト教会集団の影響を受けた単立系の教会でこの傾向が強いのか、について、ミーちゃんはーちゃんが少し考えたことを書いておこうかと。まぁ、このブログ、所詮床屋政談の域を出ませんから。

     まず、全体として、牧会者が教会を自らのミニ王国としやすいのか、ということを考えてみたい。これもまた、教会の歴史が関わっているようなのだが。


    文字として描かれた聖書と
    聖書へのアクセシビリティ
     そもそも、もともと現代の日本(江戸期以降の日本)のように文盲率の低い国というのは、歴史上まれであり、異常に少なく、基本、音声言語による記憶、伝達、交流が行われてきたのが世界のかなりの部分で起きていたことであった。

     中国人が活版技術を作成し、アラビア人の手を経て、西洋人の手に渡り、グーテンベルグ君が聖書を印刷しはじめるまでは、聖書であれ、他のギリシア古典であれ、ラテン文古典であれ、筆者生という人が必死もっしに写経をするような形で、転記していたのであった。イタリアの確かヴェネツィアにあったアルド社というところが、読みやすいフォントで本を出したのが一般社会への書籍の普及の始まりではなかったと記憶している。

     文字がかける、文字が読める、ということ自体、西洋でも、東洋でも、昔はインテリの象徴であったのだ。書物を所有する、という行為に至っては、金持ちしかできないことであったし、書物を持っているということ自体、金持ちの象徴であったのだ。百科事典なんてのがもう典型的。

    文字処理能力と聖書

     こういう背景の中で、キリスト教会においては、文字を読んだり書いたりする訓練の結果、その能力を一応もつとされた牧会者のみが説教が可能である、という文化が生まれていったように思う。そして、その文字処理能力の発展と説教するための聖書をどう読んでどう考えるかの教育機関として、後世の大学の基礎となる教育機関が生まれていった。最古の大学といわれるボローニャも、オックスフォードも、ケンブリッジも、アメリカでのハーバード、イェール、プリンストンなどにしてももともと、このような説教者養成所であり、欧米の名門大学では、このような説教者養成機関を出発点背景に持つところが多い。

     ところで、キリスト教では、初期に文書化されたテキストが形成されていった。このあたりについては、伊藤先生の新約聖書よもやま話が手軽に知ることができて、うれしい本である。伊藤先生、ありがとうございます。

    近代社会と文字処理能力と教育
     それが、近代国家の成立とともに、兵士であっても文字が読めなければ作戦に参加できないこともあり、また商業や産業振興上、文字が読め、四則演算ができることは望ましいことになり、そのため、欧米諸国においても、多くのアジア諸国においても、基礎教育ということが行われたように思う。

     しかし、これはある面、危険なことであった。最近話題のレ・ミゼラブルを見ていただいたらわかっていただけようが、文字が読める、ということは知識や思想(疑念)へのアクセスツールを与えるということでもあるように思う。ある程度良識的な人(分限を知る人、知恵のある人)がしている分には、あまり問題にならないのだが(この技術は、エリートの技術として、貴族階級において生活の中で伝承されてきた)、あまり良識のない人(全能感を持つ人や、ミーちゃんはーちゃんのような厨弐病患者)が持ったら最後、無茶をすることがあるように思う。

     壊すことを知っていても、構造を作りかえることを知らない人が持つとろくでもないことになるのは、歴史に学べばすぐわかる。アノミー状態が生まれるが、まぁ、しばらくすれば、あれ、これまずいか?と思う人が出てくるので、何となく秩序が生まれていく。変なもんだとは思いますが。

    文字処理能力をもつものとしての牧会者

     余談から戻そう。もともとカトリック系及び正教系キリスト教会では、いい悪いは別として聖職者がミサを行う習慣が維持されていった。まぁ、庶民の大半は文字が読めなかったので、仕方がなかったのではあるが。その意味で、聖職者は会衆へのサービス(奉仕)するための存在であったものが、聖職者のみがミサを行うことができるということが確立される中で、そこに特権構造や特権意識が生まれる資源(文字の活用能力)が生まれることになる。

     英神父のご講演現代の霊性の特徴と、聖性のイメージ か 危機の時代におけるキリスト教の霊性のありかただったと思うが、当時の神父たちはまともにラテン語でのミサができなかったので、イエズス会ができて、随分改善されて感謝された、なんてことをおっしゃっていたような記憶がある。そーいえば、どの本だったか忘れたが、中世ヨーロッパでは、職業としての司祭は乞食よりちょっとましな職業とみられていたらしい、と言ったことも何かの本に書いてあったような気がする。

    18世紀までの庶民のマスメディアとしての牧会者

     マスコミが登場するまでの社会において、教職者による講壇の独占は、単に講壇の独占ではない。新聞も、テレビも、ラジオも、劇場もない中、講壇は、テレビであり、新聞であり、ラジオであり、映画スターの位置を牧会者が占めたのだ。もう全てのマスメディアを握ったも同然である。

     ちなみに、現代社会でも革命を起こした時に反乱側がまずしなければいけないことが一つある。それは、ラジオやテレビ、新聞などの言論メディアの掌握である(こんなこと書いていいのかなぁ)。つまり広報の手段を独占することで、人々を誤解させたり、自らに正統性があるかに思えるような印象を与えたりと、人々の意識を変容させることができるのだ。情報をコントロールすることで。

     このことは、226事件でも起きたし、ソ連崩壊の際のモスクワ騒乱の時に起きた。戦後間もなく終戦の詔勅を放送させまいとして陸軍部隊も動いた。いまやっている八重の桜でも、偽勅がでているし、そのうち出ると思うが、長州側が当時誰でもが分かる最大の視覚的メディアである「錦の御旗」という象徴を握った瞬間に、勝負あったになってしまったのだ。そして、薩長同盟側は官軍になり、会津をはじめとする幕府側は賊軍であると、自他ともに認めてしまったのだ。その前に本居史観等が下層武士に普及していたという土壌があったようだが。

     そのあたりの感覚をしっていて、錦の御旗という象徴に向かって銃口や剣先を向けることは逆賊になりかねないということをうまく使って、長州側は錦の御旗を担いだのではないか、と思うのだね。

    地域社会の焦点の一つとしての牧会者
     ところで、もともと、教会を一つの社会としてとらえたときに、そこでの牧会者の発言は、最大のメディアであり、視線の集中点であるという意味で、疑似王権というのか、疑似権力が生じやすい。これは、儀式の意味と同じなのだ。下記の「儀式は何の役に立つか」参照。つまり、そもそも教会において、牧会者はその存在だけで儀式になるのだね。牧会者の発言は、教会内において御用メディアそのものであり、大本営発表よりも教会という社会の中で、効果を持ちかねないものなのだ。

     ところで、ラテン語という中世ヨーロッパの庶民が読めない言語(とはいえ、ローマ時代の普通の市民が使っていた言語)で書かれた聖書を引用しつつしゃべり、その解説を当時の庶民の音声言語でしている限りは、問題が起きなかったのだが、社会の構成が変わり、農本主義から、重商主義や重工主義(啓蒙主義を背景とし、そして近代主義へとつながる社会構造)へと社会が移り、農民中心の庶民からの社会階層の移動が発生し、商工業者を含む新興知識階級の増加と、その社会集団での文字の利用・普及が進むなかで、各国語訳聖書が出るということは、ラテン語が読めるとされている牧会者たちにとって、「俺様たちだけが聖書から語れるという社会の構造とその前提が崩れる」ということを意味し、牧会者が語っていることの妥当性への疑問が生まれるのではなかろーか。これが生まれたのが、ドイツ語聖書であり、英語聖書である。ドイツ語聖書の話はよく知らないが、英語聖書で当初英語翻訳聖書は禁書、密輸品であったらしい。挙句の果てに、ティンダル先生、火あぶりにされて殺されてるし。このあたりの経緯は、下記の田川先生訳によるウィリアム・ティンダルをお読みいただきたい。まぁ、訳者注は田川先生節炸裂である。 


     つまり、教会という社会の構造自体が、牧師に視線が自然に集中するようにできているように思う。その上、公営放送局が牧師によって牛耳られている状態であるがゆえに、牧師の権威が高まり、ミニ王国というのか、ミニ独裁国家ができやすい環境があると思う。

     次回は、情報の非対称性の観点からの予定。なお、このシリーズ、聖書的根拠は全くなく、一般システム論的に、ゲーム理論的に教会を見れば、こう見えるかも、という話である。まさに世的な観点から教会を見たらこうなるかな、という記事である。



     

    評価:
    伊藤明生
    いのちのことば社
    ¥ 1,260
    (2008-09-03)
    コメント:聖書をめぐる様々な味わいに富む雑談をまとめた本。読むだけで楽しいし、あれ、と思うことにも気付くはず。

    評価:
    デイヴィド ダニエル
    勁草書房
    ¥ 8,820
    (2001-01)
    コメント:問題も多いし、それにいちいち突っ込む田川先生の訳注もいらっとするが、ティンデルの聖書翻訳を知るうえでは、非常に有効だと思う。

    評価:
    マイケル・S‐Y. チウェ
    新曜社
    ---
    (2003-09-20)
    コメント:ゲーム理論のレッスンという言葉にひかれて買ったが、ゲーム理論ゲーム理論していなかったのが残念。まぁ、厳密な証明を要しないと理解したうえで、読み物として読むにはよいかも。

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