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2013.03.16 Saturday

福音派が生まれたころの世界むかし話(3)

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     さて、いよいよ、アメリカ福音派の人たちががちがちになった歴史的背景をお話ししていこうと思う。まずは、最初の登場人物、ジョナサン・エドワーズである。

     ジョナサン・エドワーズは、アメリカ史におけるもっとも重要な哲学者にして神学者、大覚醒と呼ばれるリバイバル運動で知られる。

      あるブログ記事によると、以下のような記述があった。

      His sermon “Sinners in the Hands of an Angry God” is one of the most famous sermons in American history. In fact most high school students are required to read this sermon in their high school American literature classes.

     ジョナサン・エドワーズの『怒れる神の御手の中にある罪人』(ををを、ウィキペディアに概略紹介がある。)は、アメリカの説教史でもっとも有名な説教の一つで、実際多くの高校では、高校の英文学のクラスの必読文献になっている。


    ということだそうで。アメリカでは、高校生があれを読むのか。うーん。まぁ、レトリックとしては、一流だし。

     ざっとこの人について話していくと、前回お話ししたピューリタンとして、英国から逃げてきた人たち(カルヴァン派)として、真面目に生きてきた人たちで始まったニューイングランドであったのだが、それも2世3世になるとその子孫の内には、ピューリタン的な生き方に耐えられない人たちや、その思想に同調できない人たちが社会に増加していく。ありていに言ってしまえば、カルヴァン派についていけなくて、信仰すらあるのかないのかよくわかんない人たちが出てくるのだね。その人たちを教会員としてどう扱うのか、ということが問題になってくるんだな。これが。

     日本だと、何で、こんなことが問題になるの?と疑問に持たれる方も多いが、1700年ごろのアメリカには区役所とか市役所とかがないので、地域社会=教会だった時代が長く続いたのだね。出生、死亡などを半ば公的に処理する組織は教会しかなかった。地域社会=教会であるという以上、教会員であることとキリスト者としての適格性が一致しているかどうかが問題になるのだね。教会員(=自分たちのコミュニティの成員)としてのキリスト者としての妥当性が問題になるのだね。地域に住んでいるのだけれども、キリスト者の妥当性(回心の告白が十分でないなどの問題)に関してかなり疑わしい行為をする人たちをどうするのか、ということが問題になってきたのだね。

     具体的には、回心が怪しい人たちが聖餐式と呼ばれる儀式に参加できるかどうかが問題になる。最近、どっかの日本○○教団でも未洗礼者の陪餐問題を根拠に牧師をやめさせられた、やめさせてない、労働者としての牧師かどうか、ということを問題とした裁判になっていたような気もしないでもない。まぁ、牧師と教団間に雇用関係が生じるか、というと法解釈としてミーちゃんはーちゃんは厳しいと思うが。

     ジョナサン・エドワーズの母方のおじいさん(牧師)は、まぁ、道徳的にまともで、神学上も正統的で、教会の権威に従うなら、教会の成員(自分たちのコミュニティの成員)にし、教会の社会への影響力を確保できるようにしようとしたらしい。要するに、オープン・コミュニオンと呼ばれる方式を取り、社会通念上まともなら、教会構成員として認めようとしたらしい。それに対して、ジョナサン・エドワーズはどうも不満だったようで、コミュニティの成員は、キチンと回心した人だけにすべきだ、と言い出したようです。

     その中で、基準を下げ、未回心者の陪餐はちーとまずいんでないか、と言い出したのが、ジョナサン・エドワーズなのだな。なお、ジョナサン・エドワーズは、イェール大学の卒業生で、リバイバルの研究者であったらしい。論文なんかもやたらと書いているらしい。宗教経験の心理学から、社会に及ぼす影響までしていたらしい。(詳しくは、はじめてのジョナサン・エドワーズp56)

     その結果、リバイバルっちゅーのは、異様な神がかり状態でもないし、宗教的な精神錯乱でもない、ということをジョナサン・エドワーズは言っていきます。ジョナサン・エドワーズのリバイバルの理解は、狂喜乱舞するような情念に基づくリバイバルの理解ではなく、あくまで個々の個人の理性に基づいた神との対話だったようです。

     ただ、はじめてのジョナサン・エドワーズを見る限り、ジョナサン・エドワーズが活躍する直前には、かなり情熱的、熱狂的なリバイバルのイメージが広く広がっていたようで、また、急速に広がり、急速にしぼむということがあったようです。それをどう考えるのか、に思想家として取り組み、それに関して彼が書いた文書が広くいきわたったということが、ジョナサン・エドワーズをリバイバルの守護者のような位置に置いてしまったようです。

     また、メソジスト運動の出発点となった(とはいっても、本人は国教会の枠組みにとどまることを選んだ)、ジョン・ウェスレーなどの交流とその影響も『はじめてのジョナサン・エドワーズ」では触れられていました。 

     このお方、のちにイェール学長になるようです。

     ハーバードにしてもイェールにしても、プリンストンにしても、アメリカの大学ってのは、もともと牧師養成所を背景に持つところがやたらと多いのですね。もちろん、オックスフォード、ケンブリッジ、世界最古のイタリアのボローニャ大学にしても、神学部が出発の時点で大きな役割を果たしているわけです。今、日本で神学部というのは、あまり相手にされませんが、本来的には、非常に重要な役割をかつてヨーロッパでは担っていたわけです。マクグラス先生のご指摘にもあるように、科学(Science)は自然神学をその起点としているわけで、本来は対話的なのですが。

     さて、アメリカの建国のその出発の段階で、リバイバルという色が非常に強く、そして、アメリカでもっとも影響力の強い説教者であり、哲学者でもあった、ジョナサン・エドワーズがリバイバル研究者であり、リバイバルを何とか理性的に理解しようとし、多くの好意的な評価をしていった文書を残したことは、アメリカ社会においてのキリスト教に影響を残したように思います。つまり、アメリカのキリスト教の中にリバイバル的な思想がロックインされていってしまったように思うのです。

     そして、さまざまなアメリカ発というよりかは、アメリカで変容したキリスト教が日本にも訪れました。

     それらに関しては、北の国の百姓とんちゃん(とんちゃん様、著書名書いたら、名前明らかにしてるような気が・・・)様のブログ記事の福音派キリスト教とフランクリン・グラハム伝道大会やと福音主義の聖書学:R.P.マーチンの訃報に接していう記事や敬愛してやまない上沼先生が「ヴィトゲンシュタイン、再び」という記事でお書きになっておられることを総合すると、アメリカのキリスト教文化の形成の初期の段階で存在したリバイバル概念が大きく影響した福音主義とリバイバルが過去何度も起き、その度に変容したのがアメリカ由来の福音主義でその中にいろんなものが混じっている、そして、ホロコーストの反省を経てかなり大きく変容した西ヨーロッパ系(グレートブリテン島周辺諸島群を含む)福音主義があり、その経験の結果、アメリカ系の福音主義とはかなり味わいが違うもののようなっている、というあたりになるのではないか、と思うのだね。ルター派やカルバン派などの過去の宗教改革を含めてリバイバルといってよいかというと、かなり疑問だが、キリスト教文化を大きく変容させ、神と人々との関係性を人々に再考させたという意味では、ジョナサン・エドワーズ風にいえば、宗教改革そのもの自身、リバイバルといえるのかもしれない。ただし、宗教改革はリバイバル運動の一種だ、という仮説はミーちゃんはーちゃんの作業仮説でしかない(あ、いのフェスもリバイバル運動の亜種くらいだとは思いますよ)。ドイツ語が全くできないミーちゃんはーちゃんとしては、ドイツ系やオランダ系の神学者は、名前は聞いたことがある位なので、「何それ、おいしいの?」と言わない程度の知識しかない。

     その意味で、アメリカ型のキリスト教の中にロックインされたリバイバル思想(民衆的熱狂を一部に含む)を無視しては、福音派は語れないのかもしれない。これは、意外と見落とされている点であるかもしれない。

     ミーちゃんはーちゃんは、ウェールズ人の宣教師(元中国インランドミッション宣教師)と仲が良かった関係で、D.M.ロイドジョンズの聖書理解とかなり近しいものがあるが、リバイバルと言いながらも、ドクターと呼ばれたD.M.ロイドジョンズ(元外科医)のリバイバル(最下部参照)と、アメリカ系リバイバルとの違いを感じる。この差は何なんでしょう。

     アメリカ建国(といっても東部13州)の段階で、ピューリタンというかなりガチガチの頭の人たちによって13植民地が建設され、そして、ニューイングランドができ、そこでガッチガチの人たちの2世3世の生活が変容し、信仰生活が緩んでいく中で、そのたるんだ信仰生活の引き締め運動というのか、反動運動というのか、元に戻れ運動の中で、リバイバルが起きた、そして、それが後世のアメリカ型キリスト教徒そしてその影響を強く受けた日本の福音派にも影響をなお与えているということを認めたほうがよいかもしれませんねぇ。

     その意味で、アメリカの福音派を考える上で、リバイバルというのは大きな役割を果たし、その運動の分析と大覚醒時代を生きる神学者として置かれたジョナサン・エドワーズが、その後のアメリカの福音派、そして、太平洋戦争後大挙して日本に太平洋を渡ってやってきたアメリカ系の福音派とその影響をたっぷりと受けた日本の福音派に多大なる影響を与えていることを指摘して、今回の記事を閉じたい。

     はじめてのジョナサン・エドワーズ、森本アンリ先生の訳文もあり、非常に読みやすい本です。このシリーズの日本語版、バルトとアウグスティヌスも持ってますが、いずれも大変よろしいと思います。

      


    評価:
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    コメント:アメリカキリスト教史に多大な影響を今なお与え続け、アメリカ福音派の源流の一人といって過言ではなかろう。その人物と入門的な伝記。森本あんり先生の翻訳も読みやすい。

    評価:
    D.M. ロイドジョンズ
    いのちのことば社
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    (2004-10)
    コメント:大英帝国人(ウェールズ人)が書いたリバイバル感。アメリカ発のリバイバルとは少し雰囲気が違う。ただし、ジョナサン・エドワーズのリバイバル理解と似たものがある。

    評価:
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    20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
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    (2008-03-19)
    コメント:セイラムの魔女事件をもとに民衆的熱狂の問題について考えた映画。New Englandの思想的背景がある程度わかりやすく映像として描かれている。

    コメント
    今Sinners in the hands of an angry godをアメリカ英語の授業の中で読んでいます。
    とても理解が難しかったのですが、この記事を読んで理解が深まりました。
    • Miku
    • 2014.10.29 Wednesday 07:43
    Mikuさま

    そうなんですか。こんな記事でも、お役にたつのなら、書いた意味がございました。

    たしかに、ニューイングランドの宗教的低迷とそれに対する対抗運動という線を抜きにあれ読んじゃうと、この爺さん(失礼)何でこんなに激オコぷんぷん丸?って感じになりますから。

    コメント、ありがとうございました。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2014.11.01 Saturday 20:03
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