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2013.03.09 Saturday

福音派が生まれたころの世界むかし話(1)

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     福音派の片隅でゲリラ活動のように、『福音』を語っている(私も騙っていることがあるかもしれない)ものが言うのもなんだが、ここのところ『旅人』さんというありがたい方から頂いたご指摘の中で、『なぜ、【福音派】の牧会者及び信徒にはゴチゴチの人が多いのか?』という疑問が寄せられたので、ミーちゃんはーちゃんが思うところを書いてみたい。

     このためには、『旅人』さんが語っておられるようなテキスト高等批評などを中心とした神学的リベラリズムへの批判的視線が含まれ、高等批評的な聖書の読みに対しての批判的視線が福音派の中で家訓のように継承されてきた事実を認めねばなるまい。確かに、福音派的な素朴な聖書の読みと、テキスト高等批評的な聖書の読みは共通点が皆無という訳ではないが、おそらく、相互に相手の聖書の読みはいかがなものか、と思っている部分はあるとは思う。

     こんなことを言うと怒られるかもしれないが、キリスト教の各派(カトリックであれ、プロテスタントのルター派であれ、カルヴァン派であれ、ツィングリ派であれ、福音派であれ、そのほか諸派であれ)その聖書理解は聖書から派生しているというのはあるかもしれないが、その聖書からの聖書理解とそれぞれの行動パターンや行動様式、聖餐式のスタイルなどは、それらが生まれてきた背景、それらが神学的思惟を深めてきた時代の社会環境や状況とは無縁ではない。

     福音派とは何か、もう複雑すぎて、何が何だか分からなくなっている。非常に多くのグループがあり、もうひとくくりにできないほどになっている。聖霊の働きを重要視するところから、かなり異言や癒し等の事象を限定的に考えるところ(ミーちゃんはーちゃんは、このあたり)もあるし、新約聖書にかなり重点を置く教会もあれば、旧約聖書の特定個所(典型的には、幕屋のところ、エゼキエル書、ダニエル書などの特定の個所)のみに関心をもつ人たちもいるし、旧約聖書を全般的に重要と考える人たちもいる。ブログ記事でふれているように、福音派の中でも旧約聖書から好戦的な態度をとる人たちもいるし、フレンド派やそのほかのグループのように戦争反対の立場に立つ人(ミーちゃんはーちゃんは、こちらの立場)たちもいる。

     ローマカトリックの場合であれば、それこそ解放の神学みたいなゲリラ部隊に近い人たちから、儀式性を強調する人たちまでおられるものの、ローマ教皇による一致という共通部分はある。

     しかし、福音派には、教理的な一致もなければ、対象に関する一致もなく、もう何が何だか、もう、ごった煮状態というのか闇鍋状態に近いところがあると思われる。

     ただ、いま日本で活動をするキリスト教福音派は、たいていの場合、アメリカ経由で来ている人たちからの聖書理解を継承している人たちが多いので、アメリカの福音派と呼ばれる聖書に絶対の価値観を置く人々、典型的には、ビリー・グ●ハム(ビリー・フ●ンクリン・グ●ハムII世)、フ●ンクリン・グ●ハム(ビリー・フ●ンクリン・グ●ハムIII世)、ウィリアム・グ●ハム(ビリー・フ●ンクリン・グ●ハムIV世)やファルウェル牧師、700ク●ブのパッ○・ロバー○ソン)などのテレビ伝道師系の人たちなどが含まれるであろう。

     参考のために、Theologian Trading Cardsで福音派が多く含まれるLos Angels Knights (Fundamentalists and Evangelicals)を紹介してみると、非常にミーちゃんはーちゃんの関係者が多い。歴史的な登場順に書いてみると、こんな感じになる。かれらのTheologian Cardsの記述の概略と共に紹介しよう。

    Edwards, Johnathan(1703-58)
     アメリカ史におけるもっとも重要な哲学者にして神学者、大覚醒と呼ばれるリバイバル運動で知られる。

    Finney, Charles G. (1793-1875)
     コネティカット生まれのアメリカの伝道家1821年のニューヨークでの劇的な回心によって信仰の道に入り、第2次大覚醒運動の中核的人物

    Hodge, Charles(1797-1878)
     19世紀の保守的な長老主義神学の一人、プリンストン大学神学校で奉職。後に学長。

    Darby, John Nelson(1800-82)
     元英国国教会の福音的な司祭。プリマスブラザレンの基礎を作ったグループの中では最も有名。(前千年王国主義)ディスペンセイション神学の父。

    Hodge, A. A.(1820-86)
     高名なCharles Hodgeの息子で19世紀を代表する神学者3年間インドで伝道者として奉仕したのち、プリンストン神学校で神学教育に当たる。

    Moody, D. L.(1837-99)
     19世紀におけるもっとも成功したリバイバル運動の伝道者。貧しいマサチューセッツのユニタリアンの家庭に生まれ、4歳で父をなくす。ボストンで靴の販売人をしている時に回心し、シカゴに移ってのち、伝道を始める。

    Warfield, B. B.(1851-1921)
     ケンタッキー州レキシントンの豊かな家庭に生まれ、のちにプリンストン神学校で教職に当たった中での改革派の影響力の強い神学者となる。

    Torrey, R. A.(1856-1928)
     初期の聖書原理主義の指導的な人物の一人。イェール大学で教育を受け、イェール大学で博士号取得。The Fundamentalsのエディタの一人。

    Seymour, William(1870-1922)
     ホーリネス運動とペンテコステ派の登場時の主要な人物の一人で、テキサス州ヒューストンのParham設立の神学校に学ぶ。Los AngelsのAzusa Street リバイバルで活躍。

    Parham, Charles Fox(1873-1929)
     メソジスト教会の中でのホーリネス運動に関与。アメリカのペンテコステ運動の初期の指導者の一人でその基礎を作った人物。

    Machen, John Gresham(1881-1937)
     長老派の神学者で、プリンストン神学校で新約学の教授。聖書原理主義的と近代主義の議論で保守的な人々の指導的役割を果たす。ミーちゃんはーちゃん家にはこの人のギリシア語の教科書と、キリストの処女降誕(翻訳)があります。

    Bruce, F.F.(1910-90)
     オープン・ブレズレン・チャーチの伝道者を父に持ち、アバディーン大学・ケンブリッジ大学・ウィーン大学で古典学を学ぶ。もっとも高名な新約学者の一人。

    Ockenga, Harold J.(1905-85)
     新福音主義者の指導者の一人、テイラー大学にて学び、のちにプリンストン神学校で学ぶ。その後ウェストミンスター神学校で学ぶ。フラー神学校やゴードンコーンウェル神学校の設立に貢献したことで有名。

    Henry, Carl F.H.(1913-2003)
     20世紀でもっとも高名な福音派の人物の一人。ロングアイランドのドイツ系移民の息子として生まれ、ジャーナリストとして出発するが、のちにWheaton大学で学ぶ。ビリー・グラハムやネルソン・ベルらとChristianity Today設立

    Graham, Billy(1918-)
     20世紀でもっとも影響力のある福音主義者の一人として認識されており、Wheaton大学で教育を受ける。世界的に伝道活動をしており、Christianity Todayの設立者の一人。

     まぁ、20世紀を代表する新約聖書学者(F.F.Bruce)さんの一人から、ペンテコステ派まで、まぁ、実に多種多様というか、ほんとこれだけ見てるだけで、何なんでしょうって、思っちゃいますよね。普通。

    次回、これらの歴史を踏まえて、まず。ジョナサンエドワーズと大覚醒などの背景についてのお話しする予定。


    評価:
    ---
    Zondervan
    ¥ 2,099
    (2012-11-20)
    コメント:神学者とその思想の分類や歴史を知って、整理して遊ぶには面白いかも。

    評価:
    青木 保憲
    明石書店
    ¥ 5,040
    (2012-06-14)
    コメント:いま、日本で一番詳しいアメリカの福音派に関する歴史書。ただし1980年代中葉まで。現代に至る部分がないのが大変残念。

    評価:
    上坂 昇
    明石書店
    ¥ 2,940
    (2008-10-31)
    コメント:基本的に福音派と呼ばれる人たちの概説と、その人たちが起こした政治的ムーブメントに関する本。前半半分読めば外観になるかも。

    コメント
    「福音派とは何か、もう複雑すぎて、何が何だか分からなくなっている。非常に多くのグループがあり、もうひとくくりにできないほどになっている。聖霊の働きを重要視するところから、かなり異言や癒し等の事象を限定的に考えるところもある」

    と、いうことですが、「聖霊の働き、異言や癒しなどに重点を置く」のは聖霊派と言われていますし、旧約聖書の一部に重点を置く等は、特殊な例ではないでしょうか。

    「福音派とは何か、もう何がなんだかわからなくなっている」というのは、一般的な理解からはほど遠いものと思われます。

    「JECA に所属している教派」というのは、なぜかペンテコステ派も加入しているので明確な指標にはなりませんが、「いのちのことば文化圏」に属しているというのは福音派の定義になりませんか?。
    いのちのことば社が出版できる範囲の思想が、福音派の境界線、アウトラインを形成しているのではないでしょうか。

    または、いのちのことばという名称が言い得て妙なように、聖書を無誤、無謬の「誤りなき神の言葉」として、その解釈の正解は一つであるという立場に立脚している、いわゆる「聖書信仰」に立つということで福音派をシンプルに定義できるのではないでしょうか。

    福音派の特徴として、以下のもろもろがあると思いますが、下記の点線までがギリギリ福音派の自己規定ではないかと思われます。点線以下を否定しても福音派でいられるけれども、点線ライン以上を否定すればすなわち福音派ではいられないということで。


    聖書は誤りなき神の言葉

    −−−−−−−−−−−−−−− ( ここまで)

    牧師は神に立てられた権威

    集団内部の聖書の理解には、極めて解釈の範囲の狭い「正解」がある

    創造論

    十分の一献金

    礼拝遵守

    JECA所属
    • 旅人
    • 2013.03.11 Monday 01:01
    またまた、コメント、ありがとうございました。

    福音派、日本とアメリカで定義が変わるみたいです。どこまでを福音派とするかは、いろいろな議論があるようです。アメリカ型の福音派定義によると、聖霊派(ペンテコステ系)も含めて福音派になるようです。上のアメリカ福音派の歴史をお書きになった青木先生はご自身がペンテコステ系の教会の方であるからか、青木氏の本では、ペンテコステ系を含めて福音派としておられます。ご自身を福音派に含められたいのかもしれませんが。

    実は、福音派の定義は、人によってどう定義するかが変わる部分もあるので、ここでは、混乱を防ぐ意味で、Theologian Trading Cardsの分類を基準にしております。ちなみに、うちのキリスト者集団はいかなる外部から張られたラベルであっても拒否していますが、福音派とは自分自身を思っていないでしょう。そして、「私たちはクリスチャンです」と繰り返されるだけだと思います。私は、客観的には、福音派の一部を形成しているとは思いますが。

    いのちのことば社文化圏で言えば、ペンテコステ系の一部も含むので、これもファジーですね。

    「聖書は誤りなき神の言葉」にすると、聖公会(英国国教会)系、カトリック系、正教系の一部のような、伝統的キリスト教群信仰者集団の一部を含むので、これもファジーなっちゃうんですよ。

    「リベラル派」VS「福音派」という対立軸では、「聖書は誤りなき神の言葉」という表現は、プロテスタント教会群の中での福音派を定義するかもしれませんけれども。

    何を読むか、どこで活動しているか、で判定するのは、難しいですね。ただ、何しか読まないか、どこでしか活動しないか、という条件絞り込み型の可能性だとある程度絞れるかもしれませんが。

    この「福音派」とは何か、ということを定義するのは実に難しいように思います。例外に当たるものや、分類に困るものがありますから。

    ただ、レフトビハインドに示された天啓史観や終末論への強調、迫害の概念といった影響を強く受けているグループという形での定義はできるかもしれませんね。

    いずれにせよ、「福音派」「リベラル派」にせよ、アドホックなその時々に応じて、語り手の文脈に応じてつかわれやすいラベルであり、ラベルである以上分類学的な厳密性を求めても、しかたがないか、と思うのですね。まぁ、この辺が福音派だよね、というような一般的な理解はあるかもしれませんが。その意味で、八木谷さんという方の「なんキリ」、「何でも分かるキリスト教大辞典」などの分類に従うという手もありましたね。

    日本の『福音派』とされるキリスト教群の理解のためには、歴史的経緯が重要なため、まずは、アメリカの福音派の展開をサラっと(といってもかなりの分量になりそうですが)触れてみたいと思います。

    今日は、別記事を挙げましたが、水曜日は、アメリカ福音派に多大な影響を与えたジョナサン・エドワーズを取り上げたいと思っております。

    整理に有用なコメント、ありがとうございました。平和がございますように。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2013.03.11 Monday 07:43
    何時もながら、ご丁寧なコメント返しありがとうございました。

    それから、福音派、聖霊派は、なぜコチコチなのか、というよりも、どうして福音派は、神のイメージを恐ろしいイメージにしたいのか、どうして枝葉末節にこだわりやすいのか、愛よりも掟が重視されるのはなぜか、そして、単立系の教会がいとも容易く牧師を王にしたミニ王国になってしまうのはなぜか、等等ということが疑問の中心であり、ここまでブログ主様の助けによって、それらは福音派の聖書の読み方に原因するのではないかということまでわかったように思います。
    今後さらに考える手だてとなる有益な記事を期待しております。

    ついでですが、昨日投稿しました「プロテスタント内の」リベラル/福音派 分岐表を以下のように修正いたします。

    聖書は誤りなき神の言葉

    −−−−−−−−−−−−−−− ( ここまで)

    牧師は神に立てられた権威

    集団内部の聖書の理解には、極めて解釈の範囲の狭い「正解」がある
    ex.
    予定説 あるいは、万人救済論の否定

    神の愛よりも神の裁きの強調

    創造論

    十分の一献金

    敬虔さの表現

    掟の重視
    • 旅人
    • 2013.03.11 Monday 23:58
    旅人様 コメントありがとうございました。

    今後の議論のため、「掟」の意味をご教示いただけると嬉しいです。十戒なのか、聖書の文言そのものなのか、聖書の記述から導き出された教会と社会での行動規範(たとえば、飲酒しない、喫煙しないとか、日曜日は絶対だとか)どれを指しておられるのか、ご教示いただけたら幸甚です。



    >どうして福音派は、神のイメージを恐ろしいイメージにしたいのか、どうして枝葉末節にこだわりやすいのか、愛よりも掟が重視されるのはなぜか、

    ですが、このうち

    「神のイメージが恐ろしいイメージとしたい理由」と「愛よりも掟が重視される理由」は、明日、土曜日の記事でかなり明らかになります。

    一言で言ってしまうと、アメリカの福音派がアメリカで生まれたことによる、ニューイングランドでの大覚醒とリバイバルとアメリカ建国の父祖にピューリタンがやたらと多く、彼らの思想によってアメリカ人の思想が彩られている、という点があると思います。これは明日以降をお楽しみに。



    >単立系の教会がいとも容易く牧師を王にしたミニ王国になってしまうのはなぜか

    ということに関しては、また、別連載で書かないとまずいかもしれません。「リベンジ婚と完璧な結婚と偶像崇拝とカルト(5)最終回」で触れた内容より、情報の非対称という概念を援用しつつ、もう少し掘り下げた記事にしたいと思います。

    またまた、概念を広げるコメントいただき、ありがとうございました。平安がございますように。

    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2013.03.12 Tuesday 15:50
    またしても拙いコメントに対して暖かい返答ありがとうございます。

    「掟」というのは、プロテスタント福音派の中での、明文化されていない「武家諸法度」のような、規範意識のイメージです。

    「しおんややリベラルっぽい掲示板」でニュッサさんという方が紹介されていた聖テレジアの「愛こそが掟です」という言葉の反対概念が、「掟が中心」、掟が重視されている教会のイメージです。
    まったく曖昧のままですみません。

    先ほど、晴佐久神父の「福音の村」のイチジクの木のたとえの説教を読み、心を打たれました。

    福音派、聖霊派の教会は、それぞれ熱心であり、「ちゃんとしている」ことと存じます。

    しかし、神が愛であることを晴佐久神父のように世に向かって曇りなく宣言する、そのことが決定的に欠けてしまっていることに福音派、聖霊派の根本的なズレがあるのではないでしょうか。

    福音派、聖霊派は、結局は「人間の考え、人間の思い」に立脚した人間中心の教義体系であり、そのためそこには、神が寛大極まりない方であり、その神の思いを自分の思いにしようという視点が欠けているのではないかと思います。
    • 旅人
    • 2013.03.12 Tuesday 22:53
    旅人様、コメントありがとうございました。旅人様のコメント、拙くなんかありません。本質をついておられます。

    「掟」の件、理解したと思います。その教会にいる人にとっては、あたりまえだけど、外部の人からはその存在が見えない。しかし、その掟に踏み込んだ瞬間、そこに長くいる信者様が目を三角にして、烈火のごとくそれは聖書的でないから、というあれですね。二世はその体系を知っているので全く困らないけど、外部の人には、「どうしてそれが聖書的?」となる、あれですね。了解しました。

    うちにもあるからなぁ。こういうのいっぱい。長めのスカートはいてかないといけないとか、コーラのんじゃいけない、とか、ファミコンしていちゃいけないとか、聖書にないんだけど、聖書的でないっていうやつ、あれですね。よーく分かります。

    >神が愛であることを晴佐久神父のように世に向かっ
    >て曇りなく宣言する、そのことが決定的に欠けてし
    >まっていることに福音派、聖霊派の根本的なズレが
    >あるのではないでしょうか。

    まぁ、こういう牧師さんというのか教役者おられますねぇ。ずれている人。読み違えている人。ただ、彼らは自己否定すると、それで信者に動揺が走るのが怖いんですよ。たぶん。だって、40年も50年も、その教役者の先輩のその先輩も、語ってきたことを否定することになるし、それを素朴に信じてきた信者さんの信仰を、「あれはウソでした」と否定することに等しいですから。

    日本でもようやく紹介され始めてきたクリス・ライトという人物や、アリスター・マクグラス先生やNTライトという人物がこの種のことを言い始めているようです。

    まぁ、福音派の中でも、昔のグループサウンズのように、コード3つだけで、鳴りものをときどき変えて、展開しているところもあれば、そうでないところもありますし、何ともいい難いです。正直。

    >神が寛大極まりない方であり、その神の思いを自分
    >の思いにしようという視点が欠けているのではない
    >かと思います。

    これに対して、それでいいんかい、と言っているのが、ケリーという方で、偽りの神々、放蕩する神を書いております。いずれも、福音派の出版社のいのちのことば社から出ているという。この本は、最近のいのちのことば社の出版の本の中で出色のよい本です。

    コメント、ありがとうございました。平安がございますように。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2013.03.13 Wednesday 00:03
    初めまして、みーちゃんはーちゃんさん。
    どうぞ、よろしくお願いします。

    >聖書は誤りなき神の言葉」にすると、聖公会(英国国教会)系、カトリック系、正教系の一部のような、伝統的キリスト教群信仰者集団の一部を含むので、これもファジーなっちゃうんですよ。

    これについてですが、私は、いささか違うと思います。

    カトリックや正教会は、そもそも、プロテスタントのような聖書原理がありません。

    そのうえに、カトリックでは、聖職者で、現代の聖書学を受け入れていない人は、まず、まれです。むしろ、フランシスコ会の聖書研究所の例を見てもわかるように、むしろ、積極的に受け入れているとさえ言えます。まあ、中には、プロテスタントの福音派のような人がいますが、比率的には、1パーセントもいません。

    正教は、カトリックに比べれば、保守的と言えますが、それでも、オリヴィエクレマンのようなリベラルな学者もいますし、上で書いたように、そもそも聖書原理がありません。

    結局、カトリックでも、正教でも、聖書原理はなく、その基盤の上に立った十全霊感や部分霊感という考え自体ありません。

    また、聖公会でも、ローチャーチには聖書原理があると言えますが、ハイチャーチになると、むしろ、パラダイムは、カトリックや正教に近いと言えます。

    以上から考えてみると、旅人さんがおっしゃった「聖書は誤りなき神の言葉である(無誤説の意味で)」というのは、事実上、十分、福音派の定義たりえていると思うのですが、いかがでしょうか?


    あと、

    >>神が寛大極まりない方であり、その神の思いを自分
    >>の思いにしようという視点が欠けているのではない
    >>かと思います。

    >これに対して、それでいいんかい、と言っているのが、ケ
    >リーという方で、偽りの神々、放蕩する神を書いておりま
    >す。いずれも、福音派の出版社のいのちのことば社から出
    >ているという。この本は、最近のいのちのことば社の出版
    >の本の中で出色のよい本です。

    この本の内容がどういうものなのかはわからないのですが、

    根本的には、神の本質をどう捉えるかということが分かれ目だと思います。

    聖書には、「神は愛である」と、神の本質について語られているわけです。

    もちろん、神は義であると言えなくもないですが、それは、神のご性質が義であるということであって、神の本質ではない。

    つまり、神は愛そのものだということができるけれども、
    義については、愛である神が、義なるご性質を持っているということです。

    例えて言えば、A君は人間であるという言葉の「人間である」というのが、本質であり、
    A君はやさしいという言葉の「やさしい」というのが、性質であるわけです。

    ところが、カルヴィニズムは、中でも、この後の記事で書かれているジョナサンエドワーズは、この本質と性質の区別をせずに、神を義と愛であると、本質を規定してしまった。

    それでは、神は二重人格の神になってしまう。

    そして、私が今でも覚えているのは、本が手元にないので、正確な引用は示せませんが、

    「神は、人が救われ天国に入ることを喜びたもう愛の神であるが、同時に、人が裁かれ地獄に入ることをも喜び、ご自身に栄光を帰したもう義の神でもある」
    と、実に恐ろしい二重人格の神について語るわけです。

    これに基づいて、エドワーズは、地獄について語り、聞いているものの中で恐怖のあまり、自殺したものもあったそうです。

    この神観が何より問題と言えるわけです。
    ニュッサ様
    コメントありがとうございます。ようこそ。こちらこそよろしくお願いします。杉本さんのところの吉祥寺の杜のあたりでのブログで拝見していましたので、モニターはさせていただいていたのですが、私どものキリスト集会群の源流の一部をなしますダービー派の神学の影響を強くお受けになった方のもとで、大変苦しい思いをされたことは拝察しており、心からのご同情を申し上げます。(来週か再来週くらいにダービーも福音派の神学を変容させた人物として登場させます)

    まぁ、正教会やカトリックに聖書原理がない、リベラル的な聖書解釈を含む人々がかなりいるという意味では、ご指摘の通りでございますし、福音派的な聖書の読みをする人はほとんどいない、というのもその通りなのですが、だからと言って、全部が全部そうでないという意味で、明確な基準にならないようにも思うのですね。福音派においても、無意識的にではありますが、バルト神学の影響を受けておられる方もおられますし。

    ただ、私が申したいことは、ある基準で、○○派・○△派といいつのり、それで他者を一括して切り捨ててしまうことの無益を感じます。まぁ、個人的にはヤミナベでもいいではないか、とも思っているのでございます。もともとミーちゃんはーちゃんが技術屋であることもあり、純血主義者や純化主義者ではございませんので。

    相手にラベルを張って終わりにする、あるいは明確な線を他者との間に引いてしまうことが、これまで多くの悲惨を生んできたと思いますし、そして、線を引くことで自分たちが神の地位を奪うという不幸にもつながってきたとも存じます。もう、そんな不幸はご免蒙りたい、というのがミーちゃんはーちゃんには本音のところであるのですね。

    もとが、技術者で関西人なので、Working Assumptionでむちゃくちゃ不十分が生まれなければ、使える限り使えばよい、とは思っております。主義主張にこだわるなんてことはどうなんかなぁ、と思います。

    次に、神をどうとらえるのか、について。

    まず、私は、素人神学研究者なのでそのことをお断りしておきます。

    そもそも、人間が神の性質や本質がどうだこうだとは断じるあるいは言うのは、いかがなものか、という気がします。それは、ある面人間の理解の枠組みの中に神を捕囚することであり、はたまた、ウエメセで人間が神を見ていることになるからです。

    確かに分かりやすさのためには、この方法論が有効なので、それがあまりに安易に語られてきたと思います。その反省はしておきたいと思います。特に高名な思想家や神学者のお弟子様たちには、この種の先人の主張をご今日するために、わかりやすさをより着きつめた結果、聖書の主張とは違うものを聖書の主張であるかのように語る方が少なくなかったと思っております。

    さて、ご紹介にありました「放蕩する神」は神が人間をあり余るほど愛していることについて述べた本です。その意味で紙における愛の性質について述べられた書籍です。ニュッサ様に合うかどうかは、書店で立ち読みしていただいてご判断されれば、と思います。

    ジョナサン・エドワーズ、チャールズ・フィニー、チャールズ・ホッジなど、エドワーズなどの理解の反対者を含め、アメリカの神学と後の福音派に与えた影響は絶大でありまして、それがさらに不幸を生んでいくわけです。

    本日公開しました、ジョナサン・エドワーズ関連の記事を見ていただけましたらご理解いただけるかとは思いますが、私は、ジョナサン・エドワーズ最高とも思いませんし、ジョナサン・エドワーズ最低とも思いません。ジョナサン・エドワーズとその思惟とはジョナサン・エドワーズがおかれた時代、社会、環境の申し子でもあり、その限界があるわけです。彼は彼なりに必死で神に仕えようとしたのですし、その結果は間違ったものを生み出しました。ルターはルターで神に必死で仕えましたが、それが不幸な結果を生み出しました。カルバンとて、同様でございます。このことを鑑みますときに、人間とはいかにも不幸であり、限りがあるものであることか、ということを思わされます。それを知りつつ、痛みや悲しみを抱える人々ともに神と格闘するように、神を神の座に坐していただきつつ、神と向かい合っていくことの大切さを感じます。

    このあたり、ナウエンという方の思想とお付き合いしているからかもしれませんが。もちろん、ナウエンはナウエンで限界があり、ミーちゃんはーちゃんはミーちゃんはーちゃんとしての限界を抱えており、それと折り合いをつけながら、自らを絶対化し、神の座に据えない(神としない)ようにしながら、神を中心として歩むことの大切さを感じております。

    コメントありがとうございました。平安がニュッサ様の上にご
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2013.03.16 Saturday 09:13
    おはようございます。

    お返事ありがとうございます。

    確かに、父なる神の目からは、カトリック、正教会、福音派、聖霊派、あるいはキリスト者かどうかということまで含めて、線引きなどはなく、ただ、ご自身のいとしごがいるばかりでしょう。

    そして、そういう境界線を引くことが、人間が「神」になろうという罪だということは間違いありません。

    私は、自分のブログで主張しているのですから。

    しかし、混同されているのは、そういう境界線とは、それによって、人が救われるか救われないか、神のこどもであるのかないのかという境界線であり、
    議論のために、人間が区別して語るということではありません。

    もし、先ほど、言った境界線を、あなたが私と同じようにお認めにならないならば、つまり、神の目にはすべての人がいとしごであって、誰も区別されないという意味の境界線という意味ですが、
    そうであるならば、それはすなわち、あなたも万人救済を信じる方ということになりますが、どうもそうは見えません。

    そうではなく、議論のための区別をレッテルというのは、これは、詭弁にすぎません。

    論理学で申しますと、
    合成の誤謬(fallacy of composition)と呼ばれます。

    これは「ある部分がXだから、全体もX」という議論で、合成の誤謬と呼ばれます。

    つまり、あなたご自身の論理も、

    >まぁ、正教会やカトリックに聖書原理がない、リベラル的な聖書解釈を含む人々がかなりいるという意味では、ご指摘の通りでございますし、福音派的な聖書の読みをする人はほとんどいない、というのもその通りなのですが、だからと言って、全部が全部そうでないという意味で、明確な基準にならないようにも思うのですね。

    という詭弁を、残念ながら、用いておられます。

    どうして、正面切って議論されないのでしょうか?

    また、

    >そもそも、人間が神の性質や本質がどうだこうだとは断じるあるいは言うのは、いかがなものか、という気がします。それは、ある面人間の理解の枠組みの中に神を捕囚することであり、はたまた、ウエメセで人間が神を見ていることになるからです。

    これも、詭弁論理を用いておられますね。

    というのは、論じること自体が、上から目線になるわけではないからです。
    もし、論じること自体が上から目線になるのであれば、そもそも、聖書を解釈することなど不可能になることになりましょう。

    しかし、実際、あなたご自身も、あなたの教派も、聖書を解釈して、講壇から語っておられるのですから、これ自体、議論の拒否としか感じられない詭弁になるわけです。


    また、
    >その思惟とはジョナサン・エドワーズがおかれた時代、社会、環境の申し子でもあり、その限界があるわけです。彼は彼なりに必死で神に仕えようとしたのですし、その結果は間違ったものを生み出しました。ルターはルターで神に必死で仕えましたが、それが不幸な結果を生み出しました。カルバンとて、同様でございます。このことを鑑みますときに、人間とはいかにも不幸であり、限りがあるものであることか、ということを思わされます。それを知りつつ、痛みや悲しみを抱える人々ともに神と格闘するように、神を神の座に坐していただきつつ、神と向かい合っていくことの大切さを感じます。

    これについても、不思議な言い方としか思われません。
    人間は不完全だからとは、よく、福音派の方に過去のあやまちを指摘した時に言われることですが、

    不完全だからこそ、議論を尽くして、どこがどう間違っているのか考えるということこそ、大切なことではないのでしょうか?

    これでは、単に責任を回避する言い方にしか聞こえません。
    • ニュッサ
    • 2013.03.16 Saturday 10:29
    どうも、のっけから、詭弁論理を用いておられる点で、実りのある議論はできないように思います。

    それを期待していたのですが、無理なようなので、去ることにいたします。

    福音派は、昔も今も変わらないようですね。
    まことに、残念です。

    • ニュッサ
    • 2013.03.16 Saturday 10:36
    ニュッサ様

    コメントありがとうございました。コメントだけを見て対応しておりましたので、大変失礼いたしました。

     編集あるいは思索の際の技術論として、概念を分かりやすく整理する上で、時にラベルを張って議論することが有益であることは論は待ちませんし、まぁ便利な方法でもあるとは存じます。

     また、ラベルを張って議論していくことも、そして、その分類をしていくことも、一種の合理性はありますが、それゆえの課題もあります。

     すみませんが、非学な私には、ニュッサ様の詭弁あるいは詭弁理論の意味がわかりかねます。丁寧な対論をしていかないと、ニュッサ様のご主張の意味がわかりかねますので、おいおいニュッサ様のブログのご主張は拝読していくことにしてまいりますので、ニュッサ様のおっしゃる詭弁とは、このようなものであるという初歩的な部分についても、ご提示いただけると嬉しく存じます。ぜひ、ニュッサ様のブログで、ニュッサ様のお考えの詭弁とはこのようなことである、ということをご提示いただきたく存じます。そして、私は、貴ブログの全体を読みながら、ニュッサ様のご主張を学ばせていただきます。

     ただ、私が申し上げたいのは、一般化した理論には、一般化が含むいたしかたのない構造的課題として、モデルとしての粗さが生じるため、すべてを一般理論で処理することはかなり無理がある、ということではあります。ニュッサ様が

    >「ある部分がXだから、全体もX」という議論で、合成の誤謬

    ということでご指摘になっておられる話が、一般化しようとした瞬間に一般論には含まれてしまうということです。

     また、私自身は、このブログで福音派に関する一般理論を構築し、展開するという野望や一般理論を構築することに興味があるわけではなく、自分自身の神学の形成を追ってみる資料で日本語であまりまともに読めるものがないので、それを英文から拾いながら読み、自分自身がWorking Assumptionsとするためのメモもとしてご紹介しているだけでございます。私の一般理論としてハーバマスの言う意味での討論(Discourse)を展開せよ、と言われても、当惑している部分はございます。個別の部分についてについて、私が関心がある分野では、討論できる部分もあろうかとは思いますが。

     また、ニュッサ様の短いコメントだけからでは、ニュッサ様が何をご討論されたいのかは測りかねている部分がございますので、しばらくお時間を頂戴したいと思います。

     詭弁理論ということで、このブログを切ってお捨てになられるのもニュッサ様のご自由でございますので、そのニュッサ様のお考えは、尊重いたします。

    続きます。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2013.03.16 Saturday 11:59
    続きです。

     それと、私自身、諦念というのかもう、自分を含め、人間には期待できない、組織にも期待できないという、一種の絶望感をいただいている存在でありますが、Working Assumptionとしてのハーバマスの言う「理性を用いた公共圏の存在」には若干の期待を寄せているものでございますので、福音派のここがおかしいといい募ったり、ここがこうであるべきといい募ったりすることが議論あるいは討論だとは思っていなくて、なぜ、こうなったのか、その要件は何であったのか、現状はどのようなものか、では、どうすればよいのか、ということを素朴に聖書に基づき、歴史に学びつつ、落ち着いて対論するほうがよろしいのでは、と愚考いたします。

     ちなみに、私は万人救済説については、否定的です。

     それから、本ブログのWorking Policyとしてコメント欄では、どうしてもコメント欄を通しての対論やツイッターを買いいたような身近な意見の提出では、討議が粗雑になりますので、ブログ本体の記事で討議(議論)していく予定にしておりますので、貴ブログ記事への応答は、今しばらくお待ちいただくよう、平にお願いする次第でございます。貴ブログの内容を拝読するためには、今の世俗の仕事との関係もございますので、予定で行くと、早くとも半月先ほどになりそうです。ご容赦賜りますように。

     福音派が、『不完全でも、それはそのままでよい。不幸を拡散し続けていてもそれは仕方ない』とも私は思いません。また、現行の諸制度のもと、不幸を完全に防止することが可能だとも思いません。努力したところで、どんなに努力しても到達できるのは、『多少はましなもの』程度のことであって、『どうやったって、完全なものに到達することはありえない』と存じます。

     また、時代の経過と共に『完全であったもの(完全とおもえたもの)は崩れ去り、不完全なものになり下がる』のではないか、と存じております。とはいえ神と格闘し、神とともに時代と格闘し、『多少はましなものが何か』について思いを巡らせること、それを神とともにいる中で創り出すことには意味を見出しておりますけれども。

    コメントありがとうございました。ニュッサ様の上に平安がございますように。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2013.03.16 Saturday 12:07
    いや、詭弁というのは、明快なことです。

    >まぁ、正教会やカトリックに聖書原理がない、リベラル的な聖書解釈を含む人々がかなりいるという意味では、ご指摘の通りでございますし、福音派的な聖書の読みをする人はほとんどいない、というのもその通りなのですが、だからと言って、全部が全部そうでないという意味で、明確な基準にならないようにも思うのですね。


    おっしゃっていることをまとめると、

    .トリックや正教にも、福音派のように「聖書はすべて誤りなき神の言葉である」と聖書を捉える人もいるはずだ。
    =『全部が全部そうでない』

    だから、

    ◆崟蚕颪呂垢戮童蹐蠅覆神の言葉である」は福音派とそれ以外を分ける明確な基準にはなりえない。

    つまり、部分においてXではないから、全体においてもXではないという論理になっているわけです。

    ところが、まず、,蕨西擇気譴討い覆ぁ⊃簑でしかありません。

    次に、これは詭弁的な論理です。

    例えば、日本には、日本人でない人もいるから、日本は、日本人の国ではないと言えるでしょうか?

    どうぞ、他のことに置き換えず、論理的に反駁してください。
    • ニュッサ
    • 2013.03.16 Saturday 12:35
    しかも、

    もうひとつ論理的に破たんしているのは、

    ,砲いて、「聖書は誤りなき神の言葉である」とたとえ、カトリックや正教の人で考える人がいたとしても、
    カトリックや正教には、聖書原理がないのだから(それはあなたもお認めになっていますよね)、

    福音派の言うように、リベラルのように思想霊感や部分霊感ではなく、十全霊感また無誤の意味で「聖書は誤りなき神の言葉である」と言っているわけではないということです。

    つまり、,ら△飽椶誅斥展開において、「聖書は誤りなき神の言葉である」ということが共通ではありません。

    だから,ら△坊誅世垢襪海箸呂任ないことになります。
    • ニュッサ
    • 2013.03.16 Saturday 12:46
    あるいは、ごくごく、圧縮して言えば、
    「あることがあてはまらない例外があるから、全体にもあることがあてはらない」と言うならば、
    それが、例外を無視したラベリングであり、人間が「神」のようになることだと言うならば、

    そもそも、カトリックとか正教とかプロテスタントとか、いやそれだけでなく、人間、動物、自然、すべての名詞自体がラベリングになりましょう。

    しかし、あなたがそういう名詞を使わないわけはないのですから、どう考えても、詭弁でしかないわけです。

    あとは、私は、あなたがこのブログで書いていること全体を詭弁と言っているのではありません。

    これ自体が、ストローマンという詭弁です。ストローマンとは、相手が主張していないことを相手の主張のなかに読み込んで、相手を批判するというものです。

    そうではなく、あなたがコメントで言った具体的なことを指して、その論理構造を詭弁と言っているわけです。
    • ニュッサ
    • 2013.03.16 Saturday 13:04
    ニュッサ様 コメントありがとうございました。

     ニュッサ様の詭弁の定義がわかりました。ニュッサ様は、一般的にある程度の集団的な対象としての認識ができるのであれば、それはそれでWorking Assumptionとして妥当としてもよいではないか、というお立場ですね。私のようにごく例外的な事例を持ち出して、厳密な証明ができないことを云々するのが詭弁だ、ということをご指摘なのですね。

     その定義においては、ご指摘の通り、上記の私のレスポンスは、詭弁に該当します。

     まぁ、今朝からの対論は、ある面でいうと普遍論争の非常にできの悪い再現(これはもう私の対論のアルテが非常にできが悪い、という部分に大きく依存すると思いますが)にしか過ぎないようにも思います。

     ただ、個人的には、これ以前のブログ記事でも何回か触れておりますように、普遍論争に限らず、キリスト教界(Christendom)内で切り合いをするような殺伐とした生き方ってのは、いかがなものか、神にあるものの平和とは何か、地に平和を求め祈るキリスト者の存在と意義とは何か、を考えますと、どうしたものだろうとは思っておりますことだけは申し述べたく存じます。まぁ、私もPacifistの末でございますので。

     個人的にキリスト教界を簡単に分けて考えること、ということは非常にやりにくいし、わけて考える意味があるのだろうか、という疑念を持っております。そして、ある集団に対してラベルを張って、個別の多様性を無視した議論をすることに果たして意味があるかどうか、そこから何が生まれるのだろう、と考えております。元が技術者ですから。実利的に考える習慣がございます。

     まぁ、これは方法論の違いというのではなく、趣味の違いと言った方がよいとは存じます。

    続きます。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2013.03.16 Saturday 14:30
    続きです。

     ところで、今朝以来の対論の問題ですが、「聖書が誤りなき神のことば」という部分の理解にあると考えています。

     私が発言する時には『誤りなき』がかなり弱い、ないしは、その部分の意味のとり方がニュッサ様と私で差異があることによると思います。

     私は「聖書は神のことば」と『誤りなき』を無意識に脱落したうえで理解し、発言しているところから齟齬が発生しているようです。まぁ、本来はこの「誤りなき」の語が何か、それを形成する各語が何を意味するのか、もきちんと定義しないといけませんが。

     『誤りなき』をどう考えるかですが、私自身については、もう今は存在すら確認できない、聖書原典(写本についてすらその成立過程を考えると、少し怪しいかも、と思っておりますが)についてのみ『誤りなき』とできるのであり、各国語に翻訳された聖書と称されるものには、かなり課題が含まれうるという立場に立ちます。とはいえ、通常はそれを手がかりとせざるを得ない、と存じております。その意味で、各国語訳が全く無益だとは思いませんし、翻訳の努力は高く評価するものですが、それでも限界があるように存じます。その意味で『誤りなき』は間主観的に検証不可能ではないか、と存じおります。

     こんなことを言う私は、もう福音派を自称したり、福音派として自身を定義するのは適切ではないかもしれませんね。

     私自身、福音派は非常に定義しにくいし、福音派を定義してみたところで何か得られるものがあるわけでないし、福音派に関して一般論を展開しようと思っていないので、今後も、一応一般に参照可能な分析フレームワークとして現に公開されて存在している、Zondervan社のTheologian Trading Cardsの分類をWorking Assumptionsとしての枠組みとして利用する、という方針で今後も臨みたいと思います。

     私なりにニュッサ様との対論での私の理解との齟齬と誤解の原因を少し探ってみましたが、こんな感じでしょうか。

    ご理解賜りますように。コメント、ありがとうございました。平安がございますように。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2013.03.16 Saturday 14:47
    そうすると、詭弁はお認めになるわけですね。
    つまり、ご自身の主張は、論理的な根拠なき、超論理的な主張であるということになります。

    なぜ、そういうことをなさるかと言うと、ご自身がPacifistであり、実利的に、物事を定義して、論理的に論じることが無用の争いを招くというわけですね。

    信念はひとそれぞれですから、それに口をはさむことつもりはありませんが、
    なぜ、物事を定義して、論理的に論じることが無用の争いを招くかわかりません。

    むしろ、事態は逆であると思います。ちゃんと、物事を定義しないで、超論理的に主張をそれぞれがするから、無用の争いが生じるのではありませんか。

    Pacifistは、平和主義者と日和見主義者の意味がありますが、あなたご自身の主張を聞いておりますと、後者の意味で使っておられるとしか思えません。

    後は、焦点がぼけるので、取り上げませんでしたが、
    「不完全だから、不幸が生じる」という考え方も論理的整合性がありません。

    ジョナサンエドワーズもルターもカルヴァンも、自分のできる限り、神に仕えたのだが、不完全だから、不幸なことも怒ったという主張ですが、

    これは、責任回避としか思われません。

    例えば、ジョナサンエドワーズは、地獄を強調するメッセージを語り、それを聞いて絶望して自殺する人たちが出ました。ルターは、「ユダヤ人は残らず打ち殺せ」と言い、それによってユダヤ人の虐殺も起こりました。カルヴァンは、反三位一体論者のセルヴェトスを火刑に処する許可を与え、セルヴェトスは処刑されました。

    不完全だから、不幸が生じたのではありません。

    ジョナサンエドワーズにしても、ルターにしても、カルヴァンにしても、不完全だから避けることのできない必然性によって、自殺や虐殺や火刑が起きたのではありません。彼らは、自由意志によってそれらのことをなしたのです。そして、自殺や虐殺や火刑は、彼らに責任なき不幸ではなく、彼らの罪です。

    もし、Pacifistというのが、日和見主義者ということではなく、本当の平和主義者ということを意味するのであれば、罪は罪として認め、同じプロテスタントの流れを汲むものとして、彼らの轍を踏まぬように、徹底的に解明すべきではありませんか。

    カトリックでは、例えば、ガリレオの断罪について、近年、罪を認め、撤回しました。それは、遅すぎるようですが、それでも、そういう態度こそ、真に平和を志向することであるように思われます。

    それを、単に、区別して考えるのはやめようということであれば、それは、本当は真に建設的なものとなりうる可能性のある議論も含めて、単に波風を立てないようにするという意味でのPacifist、つまり、日和見主義者ということにしかならないのではないですか。

    つまり、ある意味、辛辣な言い方ですが、何か、政治家の答弁を聞いているような気がするのです。
    「最善を尽くしましたが、不完全な人間でありますゆえに、予想外の不幸も、まことに遺憾ながら起こります」というような。

    聖書をどう捉えるかということについても、あなたご自身がどう捉えるかは自由なのですが、
    あなたがどう捉えるかをもって、福音派全体の意見にはならないし(ここも同じ詭弁の論理ですね)、ましてや、カトリックや正教でどう捉えているかは、あなたのご意見とは、まず切り離して考えなければ、意味のある議論はできないのです。

    つまりは、あなたの言うところを聞いていると、私は私、それを福音派ということでひとくくりにしないでくれと聞こえるのです。

    それは、確かにそういう面もあるのですが、ある集団内で歴史と責任を負っている面がありますので、そこをそんなふうに分離することができるかは、はなはだ疑問です。

    それなら、いっそのこと、クリスチャンとそうでない人の区別も取り払ってしまえば徹底していると思うのですが、
    その区別はキープしておられるようで、残念ながら、非常に恣意的に思われてしまいます。
    • ニュッサ
    • 2013.03.16 Saturday 17:15
    ニュッサ様 コメントありがとうございました。

    >そうすると、詭弁はお認めになるわけですね。

    はい、この部分に関しては、ニュッサ様のおっしゃる定義にしたがえば、詭弁になります。そのことはお認めします。

    >つまり、ご自身の主張は、論理的な根拠なき、超論理的な
    >主張であるということになります。

    はい、この部分についても、私が十分、ニュッサ様の意図を正確にとらえることなく、また、共通の概念定義を行うことなく、お答えいたした結果、詭弁的主張になっていたこともお認めします。それが対論のアルテが十分でなかったとお答えした意図でございます。そして、ニュッサ様と私との間に共通理解がないまま、そして、共通のWorking Assumptionsを十分形成していないまま、議論に臨んだ結果、そうなったこともお認めします。

    >ご自身がPacifistであり、実利的に、物事を定義して、
    >論理的に論じることが無用の争いを招くというわけで
    >すね。

    いえ、そういう訳でありません。論理的にというよりは、間主観的に冷静な対論は必要だと思います。定義を十分にしないまま、共通の土台が何であるかを確認せず、問題の焦点をどこに定めるかを留保したまま、議論を拡散させたまま対論することは、論点が拡散するばかりで、あまり得るものがないのではないか、と存じております。従いまして、対論のテーマを幾分の絞りいただき、問題の焦点をお絞りいただければ、と思います。議論の拡散を防ぐためにも。

    >ジョナサンエドワーズもルターもカルヴァンも、
    >自分のできる限り、神に仕えたのだが、不完全だ
    >から、不幸なことも怒ったという主張ですが、こ
    >れは、責任回避としか思われません。

    私の真意は、上記ご指摘のようなところにはございません。彼らには、彼らの限界があると同時に、そのことを説教者としてそのような状況を生み出した責任は彼らにありますし、私は、そのことの反省に立ち、私自身限界をもったものであるということをわきまえたうえで、説教者とは何をするものかを、いったい何者なのか、ということに関して哲学的反省に立ちつつ、真摯に考えなければならないというのは、私の一貫した立場でございます。

    彼らが生み出したものに対して、Not Guiltyと主張する積りも、彼らを擁護するつもりも毛頭ありません。信徒を教区度の恐怖におとしいれ、それで福音が伝わったとするような説得の方法に堕し、その結果生じた被害についての責任はあると思います。それは、それで反省すべき必要があり、それの再発防止の努力をその時代以降の者は、その集団として行うべきかと思います。その点ではご指摘の通りです。

    ただ、恐怖を出発点にして神の提示することを私個人の説教者として避けるべきこととして重く受け止めてはおりますし、以前そのような説教を無定見にしたことがある者の無知を恥じておるものではございます。ただ、個人個人、どのようなキリスト者様におかれましても、パスカルの言う哲学的反省を行いつつ、ナウエンの表現を借りれば、恐れの家ではなく、神の愛の家にいきることは大事であるという点の主張は、変わりません。

    私を日和見主義者と断じることは、ニュッサ様のご自由でございますし、そう思われるのであれば、そのような印象を与えたということはお認めはいたします。政治家的答弁とおっしゃるのも、わからなくはないですが、教理論争をした挙句、教会を去る人を見ていたものですから、まぁ、それは、どうなんだろうか、と思っているだけです。

    別に、私としては私は私、福音派と一緒にしないでくれ、ということを主張しているつもりもさらさらなく、そのようにご理解になられることも、ニュッサ様のご自由でございますが、ただ、「線を引くこと」を、ニュッサ様は何の目的でされたいのでしょうか、ということを申しあたいだけです。

    ニュッサ様は、どのような目的でどのような価値を「教派の間の線を明確にすること」に見出しておられるのでしょうか。なぜ、そのことが重要だと思われるのかの理由を参照すべき気ブログ記事やお考えを御開陳いただけると、そこに焦点を絞ったより有益な対論になると思うのですが、いかがでしょうか。ご教示いただければ、幸甚に存じます。

    個人的には、違いを尊重しつつ、互いを尊敬をもって相互に対論すること(まぁ、こんな理想的な状況はなかなか起きないのですが)に近いことができればよいなぁ、と思っています。

    コメント、ありがとうございました。平安がございますように。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2013.03.16 Saturday 21:19
    まあ、一点に絞ります。

    私が、福音派というものを定義して、その福音派の中にあなたを含めるということを、あなたは線を引くことと言っておられる。

    そういう意味の線をひくことを、あなたは、実利的な観点から、争いを生み出すだけだと言うわけです。だから、自分はPacifistであるから、線は引かない、区別しないと。

    ところが、そうであるのに、私が議論に加わる前から、コメント欄でも、あるいは、ご自身の記事でも、
    ご自分で「福音派」という言葉を使っておられる。

    もし、本当に、線は引かない、区別しないのであれば、「福音派」という言葉も使えないはずでしょう。

    なぜなら、そういう言葉を言うこと自体が、もう、キリスト者という全体から、線を引き、区別することになるわけだから。

    つまり、ご自分では、「福音派」という言葉を使って、事実、線を引き、それがあいまいなものであれ、区別なさっているのに、他の人が、同じく、定義を確かめようとして「福音派」という言葉を使って同じことをなさると、
    それは、争いを生み出すだけであり、自分を「神」の立場に置くことになると言われる。

    これって矛盾ではないですか?

    お答えください。

    付け加えて言えば、
    ルターは、宗教改革において、カトリックの腐敗を糾弾しました。
    しかし、あなたの論理を使えば、
    その当時のカトリックの中にも、当然、真のキリスト者はいたはずで、
    それなのに、ルターは、カトリックと線引きし、自分を「神」の立場に置いたことになるわけです。
    そうすると、あなたは、それも間違っていたと考えるわけでしょうか?

    上の2点について、明白にお答えください。

    正直に言わせていただければ、あなたの真意がわからないわけです。

    深い考えがあって、このような、普通に考えれば、詭弁としか思われない論理展開をなさるのか、
    それとも、単なる論点回避なのか、
    理解できないわけです。

    ですから、私にわかるように、上記の2点について、明確にお答えください。
    • ニュッサ
    • 2013.03.16 Saturday 22:18
    ざっと、前後を見渡したところ、

    「カトリック」という言葉も、「ペンテコステ派」という言葉も使っておいでになります。

    ますますもって奇怪としか言いようがありません。

    ご自身で、これらの言葉を使っているのは、線引きにも区別にもならないのでしょうか?

    言っている意味がわかりません。
    • ニュッサ
    • 2013.03.16 Saturday 22:36
    ニュッサ様 

    コメントありがとうございました。また、論点を明確化するご質問もいただき、ありがとうございました。

    >私が、福音派というものを定義して、その福音派の中にあなたを
    >含めるということを、あなたは線を引くことと言っておられる。

    これ、ちがうんですね。人々の間に線を引き、正しい側、間違っている側、という2項対立的な図式の中に人々を分類することは、これまで福音派がしてきた、というよりはプロテスタント諸派がしてきた問題の根源にあるように思いますので、このように分類して考える、その効果、その価値、その意義とはなんですか、という意図をおたずねしたいのでございます。

    私は別のところで主張していますが、福音派とラベルを張られることに別段抵抗はありません。他人が張ったラベルを使うのもどんなもんだか、とは言いながらつかっています。

    ただ、これらの分類上の呼称は所詮ラベルが他者を自分たちの集団と区別するために他者が張るという性質のものだと存じます。それを自称するのもどうか、とも思料しますが。議論の単純化と文章が長くならないため、相手の方が福音派だとおっしゃるのなら、それはそれで結構ですが、自分の内的な理解として、他者を細かに分類して、他者と区別をすることにさほど意味はないけどなぁ、と思いながら、他者への尊敬の一環としてそのことを受け入れておるにすぎません。それよりも、共通点を探り、何が、自分と違うのか、という理解をすることの方が役となると思っております。

    私がラベルを使うのは、いわば、気軽に書く上での容易さのためだけです。一言一句定義していたのでは、日が暮れてしまうからです。また、論文でもない粗雑なメモ書きをするためのブログの世界でそこまでしてもねぇ、というのもあります。

    もともと、私のブログ記事、長いというので悪名高く、もっと短くしてくれ、というご要望も多々承っておりますし、多少は努力をいたしておりますけれども、それでも長いということだそうでございます。

    私は、ともすれば脱線しやすく、まぁ、この種の脱線の楽しみをするためにブログを書いております。

    ルターはご指摘の点に置いて、そして多くの悲劇を生んだことについて間違っていた、と思います。私はルターを神の座に据えるつもりもありません。ルターは自説を強調するため、というデフォルメとしてそのことをしたとは思いますが、それは明らかに派その点で間違っていたし、そのことは宗教改革以降のプロテスタント諸派は、そのことを含め、正確にルターを評価し、その愚を繰り返さないようにするべきだというのが、現段階で、そして当面の私の理解です。

    カトリックは、普遍教会としてのカトリックを自称されておられますので、それを使いました。ペンテコステも、自称されている方がおられるので、それを使いました。

    そのことで、カトリックを批判的、ペンテコステも批判的にとらえているわけでなく、それぞれ公同の教会の一部をなすものとして、同一の枠組みキリスト者としてとらえる方がよいと思ってはおりますが、理解の簡素化のために、それらの語を用いております。

    ただ、キリスト教諸派は、公同の教会を形成する以上、よそ様のことを云々したくはない、他者を十分に理解したうえで、その方々の理解がどのようなものになっているのかどうか、ということを考えることは重要だと思います。

    学術論文でもない吹けば飛ぶようなブログ記事を書くのに、いちいち厳密な議論をしていては、面白くもないし、ブログ記事が長くなる、という先にも書いた理由で、割と雑な議論をしております。その点では、ニュッサ様のご意見によれば、詭弁理論の展開を多々していると批判を受けることはやぶさかではありません。

    まぁ、私がまっとうでガチガチの福音派なら、新聞冒頭に、憲法9条を守れ、と大書するようなキリスト新聞社の人と付き合ったり、カトリックの司教様や管区長様、上智大学の学術司祭様のご講演を聞きもしないでしょうし、福音と世界みたいな雑誌にそもそも寄稿したりはしないでしょうし。使徒信条が重要だ、みたいなことは言わないでしょう。

    線引きにあるかならないか、という意味では、外形的には線引きをしていますが、自分の精神性と言いますか霊性の中では、特に明確な線引きをしていないし、したくもない、する意味ってなんざんしょと思っております、いうのがお答にならないかもしれないお答です。

    まぁ、自分でも持て余しているありようをニュッサ様にご理解いただけるかどうかははなはだ心もとないのですが。

    私がいたしましたニュッサ様のお考えの御開陳、ないしは御開陳された記事のご提示もお忘れなくご教示いただけると嬉しく存じます。よろしくお願いいた
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2013.03.17 Sunday 07:39
    意味がわかりました。

    私が福音派という言葉を使うことによって、私が自分は正しい側、福音派は間違っている側と線引きを行なっていると、こういうわけですね。

    まず、大前提として、私は、すべての人間は、神のいとしごであると思っております。
    そして、すべての人間は、神の全能の愛によって、どういうプロセスを通るかは別として、最終的に救われると信じています。

    そういう意味では、もちろん、神の子であるかないか、あるいは、救いという意味において、何の線引きもしていないのです。

    次に、自分のブログの記事でも書いたように、
    私は、人間であるということにおいて、すべての人間の連帯しており、
    さらに、キリストを信じる人間ということにおいて、目にみえるにせよ、見えないにせよ、全歴史と全世界に広がるキリストを信じる人間と連帯しています。

    そういう意味では、誰の罪も、決して、自分と無関係な罪ではありません。

    私は、いわゆる福音派や聖霊派について、批判しますが、それを単に自分と無関係のこととして批判しているわけではありません。

    ですから、自分を正しい側、福音派や聖霊派については間違っている側として一方的に断罪しているわけではないのです。

    しかし、それを基本的な認識として、最近、「福音派や聖霊派は新興宗教である」と言わざるを得ないと思うようになったのは、ただ一点のことです。

    つまり、福音派や聖霊派は、十一献金、聖日厳守、聖書無謬説…、何を信じようとも、批判はありますが、それはそれで自由なわけです。

    しかし、例えば、自分もそうだったわけですが、
    「教会は無料、献金は自由」とHPやパンフや新来者の質問の答えにそう言っておきながら、実際は、あとになって、あるいは、洗礼をうけて身動きが取れなくなってから、十一献金を示すというマインドコントロール的手法については、あえて、はっきり線引きし、これはおかしいと言わざるを得ないと思うようになったわけです。

    おそらく、ブラザレンの流れであれば、あなたご自身の集会にはこれは当てはまらないだろうと思いますが、

    穏健な福音派の私の母教会、他の福音派や聖霊派教会のHPやパンフを見たり、記憶をたどっても、
    「献金は自由」(母教会)、「献金は自由、教会は無料」(他の教会)と至る所に書いてあったり、言ったりしているのですね。

    これがカトリックになると、信者になると教会維持費が必要ですと書いてあったり、言われることが多いわけです。

    ところが、「献金は自由、教会は無料」と言う。

    けれど、本当は、礼拝献金は自由、洗礼を受けるまでは無料かもしれないけれど、
    洗礼を受けて信者になったら、十一献金。

    これは、よくとってもぼったくり商法、悪く言えばマインドコントロールとしか言えないんじゃないか。

    入り口では、あいまいに、無料、自由と言うけれども、
    中に入ると、もう選択の自由はなくて、十一献金するしかなくなる。

    私自身、家では私だけがクリスチャンで、母と妹は未信者で、父がなくなって、彼女らを養わなければならず、しかし、十一献金をささげなければならず、その板挟みで、牧師に相談しても、「祈れば与えられる」とか「無理してもささげていれば与えられる」とかで、結局、足りない分はどんどん借金になり、人生を破綻させてしまったという経験があるのですが、これが、私だけではないのですね。

    そういう人がたくさんいる。

    しかも、こういうマインドコントロール的手法は、献金だけのことではない。

    恵みと言われながら、実は奉仕、
    愛なる神様と言われながら、実はこわい神様、
    真理はあなたを自由にすると言われながら、実は戒めで拘束される…

    入り口と、中に入って言われることが違っている。
    マインドコントロール的な手法を多用している。

    それで、あえて、線引きをし、
    少なくとも、献金ぐらい、ちゃんと明示してもらわなければ、
    すなわち、「洗礼を受けるまでは礼拝の献金は自由、教会派無料ですが、洗礼をお受けになって会員となられた場合は、税控除前の十一献金はおさめていただきます」とHPやパンフに書き、新来者には告知するようにしていただけなければ、

    いわゆるカルト化した教会ではなくても、
    福音派や聖霊派の穏健な教会でも、

    私や他の人のような問題は起きるわけです。

    ですから、そこを明示されるまで、あえて、線引きし、「福音派や聖霊派は新興宗教である」と言っているわけです。

    それは、線引きのための線引きではなく、そういうマインドコントロール的ダブルスタンダードを、まず、少なくとも献金を明示することから、できたら、その他の部分も改めて
    • ニュッサ
    • 2013.03.17 Sunday 08:45
    「十一献金をめぐるマインドコントロールからの解放」という記事を、自分のブログに書きました。

    前のコメントと共にお読みになってくだされば幸いです。

    (どうも、2つ前のコメントですが、長すぎて、最後の部分が切れたようです。付け加えておきます。)

    ですから、そこを明示されるまで、あえて、線引きし、「福音派や聖霊派は新興宗教である」と言っているわけです。

    それは、線引きのための線引きではなく、そういうマインドコントロール的ダブルスタンダードを、まず、少なくとも献金を明示することから、できたら、その他の部分も改めていただくための線引きなのです。

    そんな複雑なことではなく、単純明快なことです。

    ですから、ミーちゃんはーちゃん様におきましても、ご自身はブラザレンでそういうことはないかもしれませんが、賛同してくださって、他の福音派や聖霊派の教会でそういう明示をしてくださるよう呼びかけていただければいいと思うわけです。
    • ニュッサ
    • 2013.03.18 Monday 05:05
    ニュッサ様

    コメントありがとうございました。ご意見をご開陳いただき、相互理解が多少進んだように思います。それは幸甚に存じております。レスポンスが遅くなり、申しわけございません。

    >私が福音派という言葉を使うことによって、私が自
    >分は正しい側、福音派は間違っている側と線引きを
    >行なっていると、こういうわけですね。

    いえ、そうではございません。何ゆえ、線を引くこと、基準を設けることに御関心があるのか、ということにおこだわりになるのか、ということがもう少し知りたかっただけ、でございます。今回のコメントで大分はっきりしましたが。

    いまだにすべての貴ブログの記事を拝読しているわけではございませんで、私との対論が始まったころ周辺の記事を拝読しているだけではございますが、ずいぶんひどい目にお会いになったことに対し、心からのご同情を申し上げます。私にできることは、残念ながらその程度でしかございませんことが、残念でなりませんが。

    >私は、すべての人間は、神のいとしごであると思
    >っております。

    これに関しては、その通りでございます。

    >すべての人間は、神の全能の愛によって、どういう
    >プロセスを通るかは別として、最終的に救われると
    >信じています。

    これは「救われる」の定義によりますが、この部分に関しては、合意を少し留保したいと思います。

    >私は、人間であるということにおいて、すべての人間の連帯しており、
    >さらに、キリストを信じる人間ということにおいて、目にみえるにせ
    >よ、見えないにせよ、全歴史と全世界に広がるキリストを信じる人間
    >と連帯しています。

    この部分に関しても、その通りであると存じます。キリスト者である以上、公同の教会を形成するものと考えますし、そうである以上、他のキリスト教者群(教派とか教団とかいう方が多いですが)に属する方とは尊敬をもってお話しをお伺いしますし、仏教の僧籍の方とも平和のうちに討議というよりはご教示をいただき、そのご理解をお尋ねしてまいりました。

    >そういう意味では、誰の罪も、決して、自分と無関係な罪ではあり
    >ません。
    この部分のご意見がよくわかりかねますので、もう少しご開陳を賜れればと存じます。尚、私の罪理解ですが、神の座に神以外のものを示させるすべてのものであると存じます。それが繁栄の神学であれ、ある方がお持ちの祝福理解であれ、聖書理解と称されるものであれ、それを絶対のものとして神の御座につけることは罪であると思います。

    >私は、いわゆる福音派や聖霊派について、批判しますが、それを単に
    >自分と無関係のこととして批判しているわけではありません。

    ブログを拝見して、いわゆる福音派と呼ばれる教会で大変ご苦労されたということが強く感じられました。衷心よりのご同情を申し上げます。

    >ですから、自分を正しい側、福音派や聖霊派については間違っている
    >側として一方的に断罪しているわけではないのです。
    とはいえ、それだけの経験をされてきたということを考えても、お言葉が激しいので、受け手としては、断罪されているような気がいたしますが。
    >しかし、それを基本的な認識として、最近、「福音派や聖霊派は
    >新興宗教である」と言わざるを得ないと思うようになったのは、
    >ただ一点のことです。

    まぁ、戊辰戦争後渡来した米国系の聖書理解もそうですし、15年戦争後GHQを後ろ盾として渡来した米国系及び一部大英帝国系のいわゆる『福音派』的と分類されうる人々の聖書理解は、未だ300年ほどの歴史しかないという意味では、新興宗教に属するということは論を待ちません。特に、15年戦争後に大挙して渡来した米国系キリスト教者群は1909年に刊行されたScofield Reference Bible内の解釈に依存しており、同聖書(KJV)に付されたScofieldによる注解部分に含まれるかなり特殊な聖書解釈体系を含むものが多く、非常に新興宗教的なものを多く含むと存じております。

    続きます。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2013.03.18 Monday 05:07
    続きです。

    >つまり、福音派や聖霊派は、十一献金、聖日厳守、聖書無謬説…、
    >何を信じよ>うとも、批判はありますが、それはそれで自由なわけです。
    これはご指摘の通りです。言論の主張(信仰理解の主張を含む)は社会全体の豊かさと公義を保証するための基本的な権利として認められるべきと存じます。

    >しかし、例えば、自分もそうだったわけですが、
    >「教会は無料、献金は自由」とHPやパンフや新来者の質問の
    >答えにそう言っておきながら、実際は、あとになって、あるい
    >は、洗礼をうけて身動きが取れなくなってから、十一献金を示
    >すというマインドコントロール的手法については、あえて、
    >はっきり線引きし、これはおかしいと言わざるを得ないと思う
    >ようになったわけです。

    それはそうですね。詐欺的ともいえる、と愚考します。私自身は、十一献金は、一種の基準でありますが、基準以外ではありえないと思います。ただ、ときに私どものキリスト者群(議論の容易のために以下ブラザレンという言葉を使いますが、頭の固い人々からは自分たちはブラザレンではないとご主張されますので念のため、そう主張される方もおられる、とここに付記します)では、レプタ2枚を投げ入れた女性の例を用いながら、最大限捧げるべきだ、とご無体な主張された方のご発言について、ご相談を賜ったことがございます。『そんな聖書の歴史的背景を含む文脈を無視した議論は無視してください』とご回答いたしましたことがございます。

    >穏健な福音派の私の母教会、他の福音派や聖霊派教会のHPや
    >パンフを見たり、記憶をたどっても、「献金は自由」(母教会)、
    >「献金は自由、教会は無料」(他の教会)と至る所に書いてあった
    >り、言ったりしているのですね。

    確かにそのような印象を私も受けます。

    >これがカトリックになると、信者になると教会維持費が必要です
    >と書いてあったり、言われることが多いわけです。

    こちらの方が、現実の実相に近く、また正直でよろしいかと存じます。

    >ところが、「献金は自由、教会は無料」と言う。
    >けれど、本当は、礼拝献金は自由、洗礼を受けるまでは無料かもしれ
    >ないけれど、洗礼を受けて信者になったら、十一献金。
    >これは、よくとってもぼったくり商法、悪く言えばマインドコントロ
    >ールとしか言えないんじゃないか。

    御説に激しく賛同いたします。

    >入り口では、あいまいに、無料、自由と言うけれども、
    >中に入ると、もう選択の自由はなくて、十一献金する
    >しかなくなる。

    これは、詐欺的行為、と言わないまでも、看板に偽りあり、と感じます。ブラザレン派の一部の教会(集会を名乗るところが未だに多いですが)では、献金そのものではないですが、バプテスマまでは、『キリスト(メシア)を贖い主として信じるだけでよいのです』と言っておきながら、いざバプテスマを受け、信徒になった瞬間に手のひらを返したように『奉仕しましょう。成長しましょう。』と奉仕と称されたり、その一貫としての証と称される個人の経歴の強制的告白や各種教会の運営の実作業に対して半ば強要のようなことを求めるキリスト集会群がございます。
     常識と理性のある方は、それで教会を去っていかれます。これは至極当然のことと言え、それはその方のためには、その選択がよかったと思うのです。ただ、キリストの教えとして語られたこと(それは本来のナザレのイエスの主張ではないように思いますので、私は、キリストの教えとして騙られたこと、と書きます)にも苦々しい思いとナザレのイエスのつまずきを生み出すので、何とかならんかとは思いますが、これとても、どうしようもない、というのが現状ですので、まぁ、ブラザレン派の中でも考えることができる人たちには、聖書にもとずいて素朴に疑問をもって考えるようにお勧めしております。(したがって、あるキリスト集会群の責任者の方からは、危険人物扱いされているようでございます)。個人的には、Doubtingもお書きになられた、Alister Edgar McGrath先生に私淑しておりますので。(邦訳未刊)

    続きます。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2013.03.18 Monday 05:17
    続きです。

    >私自身、家では私だけがクリスチャンで、母と妹は未信者で、父がなく
    >なって、彼女らを養わなければならず、しかし、十一献金をささげなけ
    >ればならず、その板挟みで、牧師に相談しても、「祈れば与えられる」
    >とか「無理してもささげていれば与えられる」とかで、結局、足りない
    >分はどんどん借金になり、人生を破綻させてしまったという経験がある
    >のですが、これが、私だけではないのですね。

    そうだと思います。どうぶつ社から出ている『悪霊と聖霊の舞台―沖縄の民衆キリスト教に見る救済世界』池上良正著には、ブラザレン派でイエスと出会い、他のキリスト教群の影響をかなり受けた指導者(牧師と自称されておられるようですが)の方が起こした悲惨な事例が数多く収録されます。もう、涙なしに読めないような実態ばかりでございます。

    >そういう人がたくさんいる。

    所謂『福音派』と呼ばれる人たち、ニュッサ様の用語を借用いたしますならば、『福音派』・『聖霊派』、4月中には翻訳をキリスト新聞社様から出したいのですが、スコット・マクナイトのThe King Jesus Gospelの用語を用いるならば"Soterians(救い派)"の課題であり、問題だと思います。出版されました際には、ご連絡を貴ブログを通してご連絡いたしますので、今しばらくお待ちください。この方たちの最大の問題は、説得することが大好きな点です。その意味で、不幸を無批判に拡大再生産しやすい内的構造をもっている点だと思います。

    >しかも、こういうマインドコントロール的手法は、献金だけの
    >ことではない。
    (中略)
    >入り口と、中に入って言われることが違っている。
    >マインドコントロール的な手法を多用している。

    上記、ブラザレン派に内在する問題として、奉仕の問題を事例にとり、指摘いたしました通り、この問題を抱えているキリスト集会群もございます。それをマインドコントロールと呼ぶかどうかは別として。

    >それで、あえて、線引きをし、
    >少なくとも、献金ぐらい、ちゃんと明示してもらわなければ、
    >すなわち、「洗礼を受けるまでは礼拝の献金は自由、教会派無料
    >ですが、洗礼をお受けになって会員となられた場合は、税控除前
    >の十一献金はおさめていただきます」とHPやパンフに書き、新
    >来者には告知するようにしていただけなければ、いわゆるカルト
    >化した教会ではなくても、福音派や聖霊派の穏健な教会でも、私
    >や他の人のような問題は起きるわけです。

    線引きにこだわられる原因をある程度は理解しました。完全にとは申しませんが、所謂『福音派』・『聖霊派』(Scot McKnightの定義によればSoterians(救い派))と呼ばれる人々がもたらしてきた不幸の拡大再生産を少しでも防止したい、という意図からのご発言であると拝察いたしております。

    >ですから、そこを明示されるまで、あえて、線引きし、「福音派や聖霊
    >派は新興宗教である」と言っているわけです。

    なるほど、高々1909年に出版されたScofield Reference Bibleに付記された注釈部分の影響を受けたキリスト教者群であるにも拘らず、総体呼称としての伝統キリスト者群を含む『キリスト教』の呼称を自ら称するのはいかがなものか、というご主張ですね。そのご主張には、一部留保(では、それらをどう呼ぶべきかという部分について)を置いたまま概ね同意いたしたく存じます。まぁ、私はカトリック教会の役員さんのお知り合いからは、30年ほど前に「ミーちゃんはーちゃんは、異教じゃないけど、僕からしたら異端であるから。モルモンとかは異教だけどね。」と言われて、ある面の真実であるなぁ、と素朴に思ったことがございます。

    >それは、線引きのための線引きではなく、そういうマインドコン
    >トロール的ダブルスタンダードを、まず、少なくとも献金を明示
    >することから、できたら、その他の部分も改めて「十一献金をめ
    >ぐるマインドコントロールからの解放」という記事を、自分のブ
    >ログに書きました。

    拝読いたしました。相当厳しい道を通られたことと存じます。私には、今、何も申し上げることもできません。ご同情と神の平安がニュッサ様のおうえにあることを天地万物の主であるYHWHと呼ばれる方に願うだけでございます。

    続きます。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2013.03.18 Monday 05:20
    続きです。

    最後に、Henri Nouwenという方がお書きになられた断章をご紹介いたしたく、存じます。オランダ人の学問司祭で、米国で活動され、そして、カナダのラルシュコミュニティで奉仕された方でございます。英文ですが、それほど読みにくくはないものですので、ご紹介したいと思います。ニュッサ様のやり取りをしながら、ちょうど読んでおりました。

    オリジナルは、こちらhttp://wp.henrinouwen.org/daily_meditation_blog/から読めます。お時間があれば、他のものもお読みください。日本語では、聖公会出版様が『今日のパン、明日の糧』ということで、翻訳を出版しておられます。

    An Honest Being-With

    Being with a friend in great pain is not easy. It makes us uncomfortable. We do not know what to do or what to say, and we worry about how to respond to what we hear. Our temptation is to say things that come more out of our own fear than out of our care for the person in pain. Sometimes we say things like “Well, you’re doing a lot better than yesterday,” or “You will soon be your old self again,” or “I’m sure you will get over this.” But often we know that what we’re saying is not true, and our friends know it too.

    We do not have to play games with each other. We can simply say: “I am your friend, I am happy to be with you.” We can say that in words or with touch or with loving silence. Sometimes it is good to say: “You don’t have to talk. Just close your eyes. I am here with you, thinking of you, praying for you, loving you.”

    --------------------------
    Not Breaking the Bruised Reeds

    Some of us tend to do away with things that are slightly damaged. Instead of repairing them we say: “Well, I don’t have time to fix it, I might as well throw it in the garbage can and buy a new one.” Often we also treat people this way. We say: “Well, he has a problem with drinking; well, she is quite depressed; well, they have mismanaged their business…we’d better not take the risk of working with them.” When we dismiss people out of hand because of their apparent woundedness, we stunt their lives by ignoring their gifts, which are often buried in their wounds.

    We all are bruised reeds, whether our bruises are visible or not. The compassionate life is the life in which we believe that strength is hidden in weakness and that true community is
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2013.03.18 Monday 05:25
    分量を読み間違え、中断してしまいましたので、続き部分です。ナウエンの文章をまとめて記載しておきます。

    Not Breaking the Bruised Reeds

    Some of us tend to do away with things that are slightly damaged. Instead of repairing them we say: “Well, I don’t have time to fix it, I might as well throw it in the garbage can and buy a new one.” Often we also treat people this way. We say: “Well, he has a problem with drinking; well, she is quite depressed; well, they have mismanaged their business…we’d better not take the risk of working with them.” When we dismiss people out of hand because of their apparent woundedness, we stunt their lives by ignoring their gifts, which are often buried in their wounds.

    We all are bruised reeds, whether our bruises are visible or not. The compassionate life is the life in which we believe that strength is hidden in weakness and that true community is a fellowship of the weak.


    ニュッサ様の上に平安がございますように。コメント、ありがとうございました。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2013.03.18 Monday 05:27
    おはようございます。

    詳しいお返事は、さらに何度か読み直し、考えたうえで差し上げることにしまして、とりあえず、感謝と謝罪の気持ちを伝えたいと思います。

    感謝と言いますのは、これほど、丁寧にお返事をいただけるとは思ってみませんでした。

    もしかしたら、黙殺されるのではないかと思ってさえいたというのが、正直なところです。

    と言うのは、指示する言葉が他にないので使わせていただきますが、福音派と聖霊派での私の30年の信仰生活は、まことに痛みそのものであって、献金問題、聖霊の賜物や霊の戦い、リバイバルをめぐる混乱、親友の副牧師の自殺、最後は、マインドコントロールと、ご存知の事件と、全体がひとつの大きなトラウマでしかありません。

    そして、それ以後、接触した福音派や聖霊派の方とのやりとりも、異端と呼ばれ、反キリストと呼ばれ、「主よ、キリスト教界を汚すこのものの末路を見せてください」と祈られ、満身創痍、痛みの連続です。

    ですから、どうしても、福音派と聖霊派、しかもブラザレン関係の方(他に、言葉がないのでお許しください)と聞いた瞬間に、身構えて、防御の姿勢をとってしまい、さらに、無意識的にせよ、攻撃は最大の防御とばかり、激しい言葉を使ったと思います。

    それについては、謝罪いたします。どうぞ、おゆるし下さい。

    内容につきましては、なるべく早くお答えしたいと思っております。

    ただ、今、マインドコントロールについて学んでいるのですが、過去のトラウマが噴き出て来て、いささか、不安定、具合の悪さも覚えておりますので、場合によりましては、しばらくのご猶予をいただきたいと思います。

    • ニュッサ
    • 2013.03.18 Monday 06:16
    >>そういう意味では、誰の罪も、決して、自分と無関係な罪で>>はあり
    >>ません。
    >この部分のご意見がよくわかりかねますので、もう少しご開陳>を賜れればと存じます。尚、私の罪理解ですが、神の座に神以>外のものを示させるすべてのものであると存じます。それが繁>栄の神学であれ、ある方がお持ちの祝福理解であれ、聖書理解>と称されるものであれ、それを絶対のものとして神の御座につ>けることは罪であると思います。

    納得されるかわかりませんが、
    できるだけの説明をしたいと思います。

    私は、すべての人間は、目に見えないですが、網の目のように霊的なネットワークをなしていると考えており、いいものであれ、そうでないものであれ、単なる個人のものではありえず、この霊的なネットワークを通して、他の人に影響を与えると考えております。連帯とは、具体的にこの霊的ネットワークのことですね。

    ですから、罪さえも、ある意味、個人の罪ですが、共有しているとも言えるわけです。そういう意味で、誰の罪も、自分とは無関係の罪ではないということです。

    この霊的ネットワークについては、私は、もはや、いわゆる聖書主義者ではないので、どこからどうしてそう考えるかと言われると困るのですが、

    ひとつは、神がイスラエルを見られるとき、単に個人として見られるばかりではなく、集団としても見られたということです。

    ふたつめは、この霊的ネットワークのある特別なかたちは、カトリックで言う、諸聖人の通功、使徒信条の聖徒の交わりです。目に見える交わりというだけではなく、場所と時間を超えた霊的交わりということです。

    みっつめは、ギリシャ教父、特にニュッサのグレゴリオスから得た救いの理解です。神が人となられ、その人となれた神が、この人類の霊的ネットワークの中に入ってくることによって、実質的に救いの力を及ぼしているという理解です。

    さらに、罪について、どう考えるかと申しますと、これは創世記のエデンの園の出来事、特に、蛇の誘惑の言葉から、

    人間が善悪の絶対的な基準を得て、自分が「神」(「神」は父なる神ではない、人間の理想的な自己像たる「神」のイメージです)になろうとすることです。

    これは、あなたがおっしゃっている罪理解からそれほど遠いものではないと思います。

    >そうだと思います。どうぶつ社から出ている『悪霊と聖霊
    >の舞台―沖縄の民衆キリスト教に見る救済世界』池上良正
    >著には、ブラザレン派でイエスと出会い、他のキリスト教
    >群の影響をかなり受けた指導者(牧師と自称されておられ
    >るようですが)の方が起こした悲惨な事例が数多く収録さ
    >れます。もう、涙なしに読めないような実態ばかりでござ
    >います。

    そうですね。福音派、その後のいわゆる第3の波、聖霊派と、まさにあの本に書かれているような世界を歩んできました。

    • ニュッサ
    • 2013.03.18 Monday 07:06
    ニュッサ様、ご丁寧なコメントありがとうございます。

    おはようございます。

    >詳しいお返事は、さらに何度か読み直し、考えた
    >うえで差し上げることにしまして、とりあえず、
    >感謝と謝罪の気持ちを伝えたいと思います。

    感謝はありがたく受け取らせていただきますが、謝罪はお構いなく。まぁ、石を投げられる、つぶやかれるのも、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』といわれてそれを甘受されたナザレのイエスの弟子として当然のことと思っておりますから。

    >もしかしたら、黙殺されるのではないかと思って
    >さえいたというのが、正直なところです。

    めんどくさいだろうなぁ、言葉がキッツイなぁ、IPでコメント拒否しようかという思いが、正直一瞬過りましたが、果たしてそれは、ナザレのイエスの弟子として、痛むものと共におられたナザレのイエスの弟子として適切かどうかを考え、できる限りの応答することにいたしました。

    お辛い中を通られたこと、心からのご同情を申し上げるしかない、というのが正直なところでございます。

    後に記事にする予定ですが、福音派・聖霊派の一部(かなりの部分かもしれませんが、統計をとったわけでないので、正確なことは申し上げられませんし、この分類に属されるとニュッサ様がおっしゃられるキリスト者群は調査方法すら限られるので)には、社会構造的にご指摘になられるような問題を生み出しかねない課題が内在しております。それについては、今の神学者トレカ遊びの連載記事が終わったころぐらいに書いてみようかと今原稿作成中です。旅人様からもご要望もございますので。

    まあ、ニュッサ様が某フェローシップで通られた過酷な状況は、惻隠の情をもって拝見しておりましたが、それ以上のことはできずにおりました。通られたことを考えると、激しい言葉を使われ、討議というよりは論争を挑まれるようなお立場をとられるのは幾分理解できますから。

    それでも、お受けしてみようと思ったのは、私の霊性の真実性が問われている、と思ったからです。まぁ、ブラザレン派の一部を形成しているものとして。何をやっても、本来とがめられないのがブラザレン派の特徴のはずですので、ゆるくさまざまなキリスト信仰者群、多宗教の皆様とも連携をとりながら、ゲリラ活動いたしております。

    お返事、あわてなくてよろしいので、落ち着いてからで、ということでお願いいたします。私も、世俗の仕事が平日はございますので、あまり余裕はございませんし。間もなく、出勤いたしますし。

    フラッシュバックのえげつなさ、日常生活にも差しさわりのある様は、コアラさんという方からお聞きしており、また、その軽度のものをリアルに拝見したことがございますので、完全には理解できませんが、ある程度の推測は可能ですので。書いている最中でもフラッシュバックが発生し、不愉快を経験されると思いますので。余り無理なさいませんように。

    ゆったりとまったりと対論するのが、本来私が好むところでございますので。

    コメント、ありがとうございました。平安がニュッサ様の上にございますように。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2013.03.18 Monday 07:10
    >まぁ、ブラザレン派の中でも考えることができる人たちには、聖書にもとずいて素朴に疑問をもって考えるようにお勧めしております。(したがって、あるキリスト集会群の責任者の方からは、危険人物扱いされているようでございます)。個人的には、Doubtingもお書きになられた、Alister Edgar McGrath先生に私淑しておりますので。(邦訳未刊)

    危険人物扱いというのは、あなたがでしょうか?

    Alister Edgar McGrathは、「キリスト教神学入門」を初め、好意をもって読んでいます。McGrathの言われるEvangelicalには、立場が私とは違っていても、抵抗はありません。確か、彼は、カトリックの中にも、彼の言う意味、つまり、聖書を神の言葉として大切にするという意味でのEvangelicalが増えていると言っていましたね。そういう意味では、あなたが、「聖書は神の言葉である」と言うことを持って、ただちに福音派というものを切り分けることに抵抗を示されたのも、わかる気はいたします。

    • ニュッサ
    • 2013.03.18 Monday 07:16
    (これは、上の最新のものに対するお返事ではなく、その上のものに対するお返事の続きです)

    >4月中には翻訳をキリスト新聞社様から出したいのですが、スコット・マクナイトのThe King Jesus Gospelの用語を用いるならば"Soterians(救い派)"の課題であり、問題だと思います。出版されました際には、ご連絡を貴ブログを通してご連絡いたしますので、今しばらくお待ちください。この方たちの最大の問題は、説得することが大好きな点です。その意味で、不幸を無批判に拡大再生産しやすい内的構造をもっている点だと思います。

    実は、これも、語弊ある言い方で、不快感を感じるかもしれませんが、福音派左派には、一抹の期待感は持っていました。N.T.ライトを初めとする人たちです。

    そして、Rob BellのLove winsにつきましては、おそらく、あなたご自身は意義があると思いますが、万人救済と言う方向性もあり、熱心に読んで、翻訳したいとさえ思いました。ただ、これを出してくれるという出版社があるかわかりませんが。

    スコット・マクナイトのThe King Jesus Gospelについては、もうこのタイトルがフラッシュバックを呼び起こし、読まずに推測だけで批判めいた気持ちになっておりました。機会があれば、ちゃんと読んでみることにいたします。

    ナウエンの引用、あなた様の気持ちを表しているものと受け取り、読ませていただきました。

    この出会いを主に感謝いたします。

    まだまだ、フラッシュバックにより認知の歪みを引き起こし、時に、激しい言葉を投げつけることもあるかもわかりませんが、対話を続けていただければ、非常にありがたく思います。

    しおんややりべらるっぽい掲示板の幾人かの例外的な福音派や聖霊派の方を除いて、立場は違っても、対話できる方を得たのは、あなた様には不思議でしょうが、驚愕に近い経験です。

    私自身もまったりモードに入ります。

    お返事は急ぎませんので、ご自身のペースでどうぞよろしくお願いいたします。

    追伸

    ちなみに、法政大学の湯川先生を知っておられたのは驚きました。私は、あそこの哲学科出身で、湯川先生の授業も受けていました。
    • ニュッサ
    • 2013.03.18 Monday 07:33
    >めんどくさいだろうなぁ、言葉がキッツイなぁ、IPでコメント拒否しようかという思いが、正直一瞬過りましたが、果たしてそれは、ナザレのイエスの弟子として、痛むものと共におられたナザレのイエスの弟子として適切かどうかを考え、できる限りの応答することにいたしました。

    プレッシャーをかけたようで申し訳ありません。

    いわば、どん底状態である私には、言葉をきつく投げなければ決してわかってもらないという思いがあるのかも知れませんし、また、それが唯一、自分を守るすべだと思っているのかもわかりません。
    以前は、逆に、もう何も言えなくなっていましたので、今のこの毒舌状態も癒しのプロセスだと思いますが、気づかないうちに、不快感を与えたようで、非常に申し訳なく思います。

    また、めんどうくさく思われるのも、お許しください。
    もはや、以前の私だったら、現在の私に関わるのは、非常にめんどうくさいと思ったでしょうから、そう思われるのもこれまた無理はありません。

    ただ、私からすれば、ここに書き込む自体、非常に怖かったのです。旅人さんが書き込んでいるのを見なければ、おそらく、そんなことはなかったでしょう。しかし、旅人さんが書き込まれているのを見て、推測ですが、その意図が十分伝わっていないように思われて、あえて、恐怖を感じつつ、書き込んだのも事実です。

    しかも、ある意味、自分のことを、あるいは自分の気持ちを開示せねばならず、それにはさらなる恐怖を覚え、勇気を要したこともおわかりください。私の今までの痛ましい経験からすれば、閉じかけた傷に塩をすり込まれるということがほとんどだったわけですから。

    また、お忙しいところに、お手をわずらわせてしまい、これもまた恐縮です。どうぞ、気が向けば、状況が許せば、お返事をください。
    • ニュッサ
    • 2013.03.18 Monday 07:59
    ニュッサ様 コメントがクロスオーバーして、そのまま出勤時間になりましたので、失礼いたしました。

    少しずつ、ゆるくお応えできれば、と思います。

    >連帯とは、具体的にこの霊的ネットワークのことですね。

    一種の共同体概念のことではないか、と理解しています。まぁ、人間はすべてアダムの末としての性質を保有するということも聖書の主張であると思いますので、共有しているといえば共有しているように思います。

    ただ、これを進めていく際には、いくつか留意点があるように思います。バタフライ・エフェクトのような概念ともつながりやすく、また、非キリスト教的なニューエイジ思想を含み易くなるのではないか、そのあたりの見極めが重要ではないかと愚考します。

    罪理解は、そう遠くないですね。創世記の最初の3章は、地雷原のようなところですが、ご指摘のように、「神のようになる」という部分が人が神の御座を占める神の座の簒奪者となった根源という理解でおり、私自身の内を見まししても、この部分が存在するがゆえに、罪を見出すものです。倫理的な罪というよりも、神から隠れようとする志向性という方が正確だと理解しています。

    次に通られた経験について。沖縄の○原さんのところと同じような経緯だったのですか。ご同情申し上げます。

    はい。私は、漏れ伝え聞くところによれば、私のキリスト教会群では、完全にアザゼル扱いのようです。リベラル派に転んだ、と思っている方も少なくないと思いますよ。以前は、神学校、聖書学校に行くだけで、問題になったようですから。

    あ、私は論理の矛盾があろうと、コードがきれいでなくても、実用上問題がなければ、結構幅広く何でも使えるものは使えばいい、というやや無定見なところがございますので、まぁ、矛盾を含んでいる、非合理だと言われれば、お返しすることばはございませんが、問題解決の第3種過誤ともよばれる、「間違った問題をただしく解く」ことにはあまり意味がないかなぁ、と思います。

    この第3種過誤については、こちらをご覧いただければ、と。
    http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=186

    McGrath先生は、私淑しております。年齢がもう少し若く、そちらの方の可能性があれば、学びたかったなぁ、と思いました。F.F.Bruceにも、J.I.Packerにもお話を直接伺いたかったということが時によぎることがあります。

    NTライトを福音派左派とできるかどうかはちょっと?ですが、NTライトの著作は、ちょうど、How God Became Kingが読み終わり、Surprized by Hopeを読んでおりますけど、楽しいですね。自分自身の理解の不足と違った視点を楽しんでおります。どうも、来年2冊ぐらい、邦訳が出るようです。

    まぁ、あの事件が、○○フェローシップとの関連でしたからね。McKnightのタイトルは厳しかったでしょう。日本語では、福音の再発見というようなタイトルになりそうです。

    実は、Rob BellのLove Winsについては、2011年11月に、すでにこのブログで紹介済みでございます。
    http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=275

    対話できる人が少ない、というのは、危険人物扱いや日常の教会生活で経験していますから、理解できないわけではないです。ちょっと相手の方が理解できないことを丁寧に話しても、怒り出す人おられますから。

    続きます。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2013.03.18 Monday 19:05
    続きです。

    法政の湯川先生、懐かしいですね。私は、北関東の某大学で大学1年(単位が目的)と2年の時(単位とは無関係)に先輩から頼まれたから仕方なく来ている、非常勤手当てが増えるので、税金が上がると言いながら、と時に愚痴や余談などもおっしゃりながらの講義を聞かせていただきました。おしゃれな、戦前の大学人の雰囲気をもっておられた先生でしたね。あまり賢くない学生が先生を怒らせると軍鶏みたいな雰囲気に変わられたのを覚えています。不正義が大嫌いな方でした。

    湯川先生のご専門は、フランス哲学だったとお聞きしております。

    ことばの激しさは、一種の叫びCryと受け取らせていただいておりましたので、それはお気づかいいただきませんように。最初は、まぁ、あまりこのブログのコメントで、このような物言いをされる方はおられませんでしたので、いったい何をおっしゃりたいのだろうか。細かなことに妙に拘泥し、論破することに喜びを見出している方なのだろうか、と思いましたが、土曜日の最後のコメントを拝見したあたりから、この方は、完全にウエメセで論破して遊びたい愉快犯の方ではないのかも、という確信めいたものが得られ、まぁ、対論を続ける自信が出てきた、というのがあります。

    ニュッサ様のお名前はかねがね、あちこちで拝見しておりましたので、例の○○フェローシップをブラザレン関係(個人研究として自派の歴史も研究中です。そっちのブログは開店休業状態にしてますが)でモニターしている時に出てきておりましたので、こちらもやや身構えていたように思います。

    このブログ、基本、ちゃらちゃらとおちゃらけでしているので、あんまり怖がられる必要はないですよ。ね、いのフェスの案内とか、おじゃるまる登場でしょ。ただ、大学生の娘からはね、「お父さんのブログ、タイトルはかわいいし、面白そうなのに内容はめちゃややこしい」って苦情をたまわっておりますし。wwww

    ニュッサ様と旅人様、いま遠隔地におられるひかる様の場合、最後に、平安がございますように、と書いておりますが、あれは、痛む人への回復の祈りなのでございます。ほんとですよ。

    つらい思いをされたことについては、心からご同情申し上げます。回復には時間がかかるとは存じますが、ご回復がございますように。

    そして、ご討議ご希望でしたら、ゆるゆるとしかご対応できませんが、いつでも、お気軽に声をかけてくださいますように。わからないことは、わからないとしかお答えできませんけれども。

    平安がございますように。コメント、ありがとうございました。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2013.03.18 Monday 19:37
    お返事ありがとうございます。

    気になる点をいくつかお伺いさせてください。

    ひとつは、霊的ネットワークと、その留意点と考えておられる点についてです。

    バタフライエフェクトという言葉は、恥ずかしながら、耳慣れなかったので、調べてみました。

    「ふつうは、無視できる小さな差が、やがては予測不可能で無視できない大きな差となる」ということですね。

    これが霊的ネットワークという考え方と結びついた時の留意点とは、具体的に何を指しておられるのでしょうか?

    想像するには、神ご自身の予知または予定と抵触するということかもしれないと思うのですが。

    また、もうひとつのニューエイジ的な非キリスト教思想を含みやすいということですが、
    ニューエイジということをどのようにお考えですか?

    私は、グノーシス主義の現代劣化版だと思っています。

    ただ、自分が福音派だった時のことを考えると(今は、カトリックに籍があり、けれど東方キリスト教に深く関心をもっています)、
    福音派(他に用語がないのでお許しください)は、ニューエイジ思想と同じ言葉や用語が使われていると、その文脈上の、あるいは思想全体の用法を考えずに、ニューエイジだと考える傾向があり、その点に不満を持っています。

    というのは、福音派がニューエイジだと考えるものの多くが、実は、それよりもはるか前に、ギリシャ教父が使っていることが多いからです。

    そこを知らずして、キーワードだけで、ニューエイジと判断する傾向を見ると、「おいおい、それってもともとギリシャ教父が使っていたんだよ」と言いたくなります。

    つまり、何においても、中身、思想内容において判断することが大切だと思っているわけです。

    もしかしたら、これも失礼なことを言っていると感じましたら、どうぞ、おゆるし下さい。

    • ニュッサ
    • 2013.03.18 Monday 23:24
    >あ、私は論理の矛盾があろうと、コードがきれいでなくても、実用上問題がなければ、結構幅広く何でも使えるものは使えばいい、というやや無定見なところがございますので、まぁ、矛盾を含んでいる、非合理だと言われれば、お返しすることばはございませんが、問題解決の第3種過誤ともよばれる、「間違った問題をただしく解く」ことにはあまり意味がないかなぁ、と思います。

    この点については、誤解であったと思います。

    過去に論争を私に挑まれた福音派・聖霊派の方々は、ちょうど、姦淫の女の場面でイエスに、「赦さないのか、それとも赦すのか」と、どちらをとっても、罠に陥れるような質問をなされることが多々あり、自分の身を守るために、そういう方たちは詭弁を多用して、印象操作をしてくるために、相手の論理の正統性をチェックしてしまうという悲しき防御反応が出てしまったのだと思います。

    そういう意味では、一乗寺下がり松の後の宮本武蔵ではないですが、修羅場をくぐってきたために、一般の人の何気ない言葉に、知らずして身構えてしまうというサバイバーの悲しき性です。

    確かに、的を得た問題を見つけることが大切だと思います。

    >土曜日の最後のコメントを拝見したあたりから、この方は、完全にウエメセで論破して遊びたい愉快犯の方ではないのかも、という確信めいたものが得られ、まぁ、対論を続ける自信が出てきた、というのがあります。

    今になって、隠れた意図を言えば、別に何かを論破したかったわけではまったくなく、十一献金の明示化について言いたかったのですが、またしてもひどいめに合うのではという恐れが圧倒的にあったのだと思います。

    湯川先生についてはだいぶ可愛がっていただいたので、名前が出てきてびっくりしました。私自身がフランス哲学専攻で、先生のパスカルのパンセのゼミをとっていました。あまり、人数がいなくて、ゆるりとしたゼミでしたけれども。

    Rob Bellの記事については、そう言えば、検索して、貴ブログを読んだ記憶があります。また、ブラザレンについて書かれたHPも読んだ記憶があります、一時は、当然のごとく、いろいろな経緯から、ブラザレンとは何だろうと考えていた時期もありましたので。

    完全な回復には、時間がかかりそうです。祈って主と交わること、聖書学や神学やキリスト教史を通して信仰について自分なりに考えること、マインドコントロールについて学び、自分の内側にあるマインドコントロールから完全に自由になることを課題として、一歩でも進んでいくつもりです。

    討議と言うよりも、時折、質問を含めた対話に来ますのでよろしくお願いいたします。

    お祈り、心から感謝いたします。
    • ニュッサ
    • 2013.03.18 Monday 23:58
    ニュッサ様 今朝は寝坊してあわてて出勤でしたので、お返事遅くなりました。コメントありがとうございました。

    まず、バタフライエフェクトの懸念についてですが、うまく説明できるかどうか、はなはだ疑問ですが、少しトライしてみたいと思います。

    システムとしてとらえてみます。仮に、霊的ネットワークシステムというものが想定できるとして、それをネットワーク概念でとらえると、すべてのものは何らかの形で、つながっていると考えることができます。その結果、システム全体として、非常に大きな効果をもたらすという場合があります。

     そう考えるとき、システムが拡散的に動く(正側(仮によい方向とします)にも拡散的にも動きますし、負の側(仮に望ましくない方向とします)にも拡散的に動きます)か、収束的に動くか、定常状態に達するか、周期的な変動をしながら一定に幅に入るのか、システムがどういう挙動をするかは、システムのつながり方の性質とシステムへの最初の入力に依存すると考えます。(もともとこっち側の人間なんで、技術的な話にすり替えてしまって・・・こうモデルを考えると、便利な部分もあると思うので・・・。)

    >予測不可能で無視できない大きな差となる

    のですが、システムの最終的な状態がどういう状態に遷移するかは、システムのパーツの部分構成とその構造、初期入力によるので、必ずしも、正(良い方向)の入力(インプット)であっても、結果として負(よろしくない方向)での拡散になる場合も存在するのではないか、と存じます。

    ということで、この霊的ネットワークといったとき、余りものをお考えにならない方は、霊的であるが故に霊的ネットワーク万歳と無批判に良いものとして受け止め、それを拡大解釈したり、それを神理解に付け加える可能性があります。

    もちろん、ニュッサ様におかれましては、そのようなことはないと存じておりますが、一つの概念が存在するとそれが独り歩きするということはよく観察される事象でございますので、その点で慎重になりたい、ということでございます。

    >神ご自身の予知または予定と抵触する

    まさにこれです。人間側の入力(神への熱心さ、敬虔・・・)が神の座を占めかねない点が、少し気になります。

    ニューエイジ思想ですが、これは、ご指摘の

    >グノーシス主義の現代劣化版

    と思います。グノーシス主義を人間中心にして焼き直して、自分自身の感情とか、霊性というものを神の座に据えるという問題だと認識しております。ただ、よくよく区別しないと、一見まともな主張なのですが、それがどこかでいつの間にか、人間の感情とか霊性が神の座を占めかねない、という問題を懸念しております。

    ニュッサ様はそんなことはないと思うのですが、これを世に放った瞬間にどのように用いられるかが、読めないという怖さがある点です。

    続きます。 
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2013.03.19 Tuesday 19:23
    福音派が、正か邪か、あるいは、聖か邪かという問題で対論を構築しやすいのは、今後のシリーズでもやんわりと触れていきますけれども福音派の主要教理とその登場人物が、啓蒙思想的な科学絶対、科学万能の時代に生まれてきたことに依存するのではないか、という仮説をもっています。その結果、内在するものとして、正邪を峻厳し、2元論的にものを考えるという考え方が極端な形で出てまいるように存じます。

    それが人を傷つけ、つまずかせ、怒らせ、悲しませる、かなりの原因となっているものと考えております。

    それと、最近の品のない(とご存命であったら湯川先生は多分おっしゃると思います)いわゆる討論番組と称するテレビ番組(朝まで○○とか)の影響とも思いますが、相手を論破し、言葉尻をとらえ、相手の真意を汲み取らない話法が非常に目立つように思います。少し、哲学的な装いのことばをませ、聞き手もそれに参加しているような気分にさせ、あたかもいっぱしの言論人を気取る方が増えてまいりました。大変悲しいことだと思います。

    湯川先生は、「経営哲学」とか「スポーツ哲学」とか「野球哲学」、「人生哲学」とか言った亜種、もどきを大変嫌っておられましたねぇ。「哲学」とは、反省的に間主観的に対話をすることであって、そんな自分の思い込みを哲学と称するなどは、言語道断みたいなことを、ご講義の中でも、また学食でお昼を御馳走になりながら、何度かお話しを聞かせていただいたことがございます。懐かしい思い出です。

    十一献金について、それについて述べてほしい、というコメント、いただいておりながら、すっかり見逃しておりましたが、これは、すでに、隅っ子さんが触れておられますし、私共も既存教会群へのアンチテーゼとして、Faith Missionとして、実際に行いをもって示しつつ、また、過去の人物たちも言論を展開しつつ示して参ったところでございますが、いかんせん、およそ150年たっても、この習慣は改まりません。

    ドイツ系の教会税の伝統が大英帝国、米国で展開していくなかで、さらに変容して米国福音派にあまり明確な根拠なく定着したものが、そのまま戦後わが国に持ち込まれ、それが神の座を占めてしまった(あるいは神の座を与えてしまった)ように思います。

    しかし、この話は、NTライトが新約学者、あるいは新約学にまつわる歴史学者として受け入れられても、実践神学者として受け入れにくい問題と類似の構造をもっています。説としては正しいのだろうが、これまでの牧師の皆さま方の教理として教会員に示してきたことと若干の矛盾を含有するため、受け入れにくい部分がある、ということではないかとみています。ミーちゃんはーちゃんのように、教理の縛りがない、違うかな、と思ったら、違ってました、と気軽に言える立場であれば(本来牧師の皆さまもそうであってほしいと思いますが)、容易なのでしょうが、先任牧師、海外からの宣教師が教えてきたことを否定し、自己の聖書理解を否定し、自己否定につながること、そして、多くのそれに従ってきた信徒の皆さまに動揺が走ることを懸念し、それをしにくい、ということもあるでしょう。それは理解して差し上げたいと思います。

     そのような激しい副作用を含む劇薬は効果は抜群かもしれませんが、実に処方が難しく、また、服用者に痛みが走るものでございます。

     ニュッサ様は、私なんぞよりもはるかに深くフランス系哲学、とりわけパスカルの研究をされた方であると存じますので、このあたりの思考の効用についてはよくご存じのことと存じます。そして、反動の恐ろしさも。

     また、政治家的発言とおっしゃるかもしれませんが、100年かかってできたものは、100年といわないまでも、50年かけて作り替えていくしかないのではないかと愚考します。祈りつつ、期待しつつ、神がおられるということを受け止めつつ、進むのがよいかなぁ、と存じております。

     いろいろお書きいただくうちに、ニュッサ様の置かれた状況、大分整理されてまいりましたし、当初のとんがったご発言の背景も拝承いたしましたので、心からのご同情とご回復を祈念いたしております。

     私自身、ブラザレンという外形的には福音派とラベルを張られるところにおりますが、現在の最大の関心事は、実はナウエンを出発点というか手掛かりとした霊性の神学(北米で言うと、リージェント神学校あたりでしょうか)に大変関心があります。これらは、東方教会、カトリック教会、そして、プロテスタント系教会いずこともつながったものであるように思います。また、この霊性の神学とNTライトやスコット・マクナイト、ダラス・ウィラードたちとの関連があるようにも思います。どこかでつながっているという確信はありますが、まだ文章に
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2013.03.19 Tuesday 20:19
    すみません、切れてしまいました。続きです。

    どこかでつながっているという確信はありますが、まだ文章にするだけの形でまとまっていませんし、見切り発車できるほどにもまとまっておりません。しばらくかかるかと思います。


     今回、ニュッサ様とお出会いすることで、心の友と申しますか、霊性の友と申しますか、霊の友を得ることができたことは何よりでございました。その神の与えし同労者、霊性の友との出会いを全て支配しておられる創造主である方に感謝したいと思います。

     実は、私の霊の師、霊の友は、結構ブログを介しての方が多いのです。このブログの右にあるリンクは、みな私の霊の師、霊の友、そのような方です。リアルが先行した方は、実はお一人様でございます。ただ、リアルでお会いしたことがある方(神出鬼没なので、アポとってお伺いしておりますが)も、かなり増えてまいりましたけれども。

     ニュッサ様の通られた道を考えると、その回復は困難だと思いますし、以前のような状況に戻られるのも、神の配剤、祝福である老化の問題もございますので、難しいかと思います。健康な人も廊下により、変質して参ります。それに耐えがたくなる方も少なくありませんので、軽快を祈念申し上げるとしか申し上げられませんのが、大変残念でございます。

     どうか、豊かな神の憐れみがございますように、とお祈り申し上げます。

     また、お気軽にお越しいただき、ちょっかいかけていただければ、と思います。対論なんて大層なものでないものの方を、どちらかというと歓迎いたしておりますので。

     神の豊かな祝福がございますように。コメントありがとうございました。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2013.03.19 Tuesday 20:47
    お返事ありがとうございました。

    実は、霊的ネットワークをめぐるバタフライエフェクトの話ですが、ある程度、お答えを予想はいたしておりました。

    典型的な文科系の人間なので、理解が十分かはわかりません。

    >システムの最終的な状態がどういう状態に遷移するかは、システムのパーツの部分構成とその構造、初期入力によるので、必ずしも、正(良い方向)の入力(インプット)であっても、結果として負(よろしくない方向)での拡散になる場合も存在するのではないか、と存じます。

    私のわかる、文科系的な言い方に直させていただければ、正の入力、つまり、プラスエネルギーが、結果的に悪いものをもたらすこともありうるということですね。

    これは、非常によくわかります。

    ちょっとずれるかもわかりませんが、
    入力されるものが、プラスエネルギー(熱心さ、善行、信仰など)とマイナスエネルギー(罪など)と考え、プラスエネルギーに打ち勝とうとすると、いくつか問題が生じます。

    第1は、あなたご自身がおっっしゃったように、プラスエネルギーが「神」になることです。

    それが、中世カトリックにおいては、プラスエネルギーを自分のなす功績ととらえ、プロテスタントにおいては、自分のわざである信仰ととらえ、聖霊運動においては、自分の祈りによる聖霊の力や現れととらえる傾向が出てくるわけです。

    そういう意味での、功績にしても、信仰にしても、聖霊の力や現れにしても、人間から発しているのであり、結果的に、負での拡散になる、つまり、悪をもたらすことは、おっしゃるとおり、十分、考えられることです。

    ですから、これがそういう方向に進むと、人間が「神」になろうとするニューエイジやグノシースに近づいていくことは、よくわかります。

    • ニュッサ
    • 2013.03.19 Tuesday 23:35
    第2は、入力されるものは、プラスエネルギーだけではなく、マイナスエネルギーもあるのですから、絶えず、プラスエネルギーとマイナスエネルギーのせめぎあいになるわけで、不安定になるわけです。プラスエネルギーが、マイナスエネルギーに完全に打ち勝ってしまうことは、理念上はあるけれども、現実にはあり得ません。

    すると、これはこれで、マニ教の光の神と闇の神、アウグスティヌスの神の国と地の国、聖霊派の聖霊と悪霊のパワーエンカウンターのような、二元論に堕してしまうわけです。

    これも非常に大きな問題となる。


    しかし、神が人となって、全人類、全世界、全宇宙という例的ネットワークに入ってきてくださって及ぼすエネルギーは、実は、プラスエネルギーでもマイナスエネルギーでもないのです。

    それをはっきりギリシャ教父が言っているわけではないのですが、私は、東方キリスト教の心臓を言われる「イエスの祈り」を祈ることによってそれがわかったのです。

    それ以前は聖霊派だったわけですけれども、先ほど言いましたように、自分が「聖霊」のプラスエネルギーと罪のマイナスエネルギーのせめぎ合いの中にいて、非常に不安定だったわけです。聖霊の賜物、また、癒しとか奇跡とか不思議とかしるしを体験することは、その時には高揚しますけれども、罪のマイナスエネルギーを消滅させることは決してできない。むしろ、そういう著しい「聖霊」の力と現れを体験することは、不安定を激化させるだけのものだったのです。
    • ニュッサ
    • 2013.03.19 Tuesday 23:48
    それで、何とか不安定から脱しようとして、どんなに祈りの量を増やしても余計、不安定になるばかりで埒があかない。

    そこで、出会ったのが、「イエスの祈り」だったわけです。
    これは、「主イエス・キリスト、神の子、罪びとなる我を憐れみたまえ」と、呼吸や心臓の鼓動に合わせて絶えず祈り続けるという、プロテスタントからするとはなはだ奇妙な祈りです。

    しかし、藁にもすがるつもりで、「イエスの祈り」を祈り続けたところ、これもまた不思議な話ですが、いわゆる奇跡や不思議やしるしが消えて行ったわけです。

    もっと言うと、自分の中の「聖霊」から来ていると思ったプラスエネルギーがふっと消えていく、それとともに、マイナスエネルギーも小さくなり消えていくわけです。

    持続するわけではないけれど、心が透明になって、いいようもない静謐が見えてくる。それは、問題がなくなるということではなくて、その問題の奥に、それに揺るがされない静謐がすでにあることに気づくことなのです。ちょうど、海の表面は大嵐でも、海の中は静かであるというのと似ています。
    神々しくなるのではなく、「神」になるわけでもない、ただの人間になる。

    • ニュッサ
    • 2013.03.20 Wednesday 00:09
    それで、なんだろう、これはと考えるようにもなって、これはプラスエネルギーでもない、マイナスエネルギーでもない、むしろ、プラスとマイナスをゼロ化するエネルギーであり、プラス方向に「神」になろうとする人間も、マイナス方向にこの世の「神」になろうとする人間も、ゼロに、ただの人間に突き戻すエネルギーだと思い至ったわけです。

    そして、まさに、愛とは、まさにこのゼロ化するエネルギーであると、わかったわけです。

    ですから、受肉した神がこの霊的ネットワークに入って来られて、及ぼしているのは、プラスでもマイナスでもなく、それらとは全く異質の、いや、むしろ、それらをゼロ化するエネルギーであるわけなんです。

    長くなりましたので、これ以外については、また、日をあらためてできる時にしたいと思います。

    お仕事も説教の準備もありますでしょうから、お暇な時、気が向いたら、お返事ください。
    • ニュッサ
    • 2013.03.20 Wednesday 00:12
    ニュッサ様

    コメントありがとうございました。図もなく、わかりにくい議論を展開しまして、誠に申し訳ございません。この話、面白いので、図を作ってみようかと思っています。しばらく、お待ちください。

    また、論点整理していただき、ありがとうございました。

    >私のわかる、文科系的な言い方に直させていただければ、
    >正の入力、つまり、プラスエネルギーが、結果的に悪い
    >ものをもたらすこともありうるということですね。

    はい。その通りです。前にだと思って始めたことは、実は大きなお世話になっていた。正しいことと思って始めたことが、戦争に至っていた、貧しい人たちへの愛と思って始めたことが、その人の自立と復帰を阻んでいた。もう枚挙にいとまがござりません。残念なことですが。

    第1のプラスエネルギーそのものが神になる、というのもその通りです。

    第2のプラスか負かの二元論に陥ること、それもご指摘の通りです。

     とりわけ、評価システム、評価基準がなかなか確立しにくいものでは、単純化のために印象論で決めてしまうというところもあります。正も必要であれば、負も必要、動脈もいれば、静脈もいる、両者そろって、一貫したシステムとしての機能を果たす、ということがあるはずなのですが、どうも、正だけがよい、とする方たちも多くって。

    >エネルギーは、実は、プラスエネルギーでもマイナスエネルギーでもないのです。

    というご指摘ですが、人間の価値基準で測りえない、あるいは図ってはならない領域、ということかなぁ、と愚考いたしました。

    いわゆる主の祈りとされるイエスの祈りの言及に見られるように、「み名をあがめさせたまえ/み国を来たらせたまえ」の部分ということはそういうことなのかなぁ、と思います。一部のキリスト教関係の方は、「天国入れてください、終末が早く来ますように」と誤解されているようですが、個人的には、「神のバジレイアに私が従うことができ、多くの人々も神のバジレイアに尊敬をもって従うことができますように」と共同体性をもった祈りなのではないか、と思います。

    続きます。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2013.03.20 Wednesday 06:28
    続きです。

    同じことを指示しているかどうかは、はなはだ疑問ですが、お感じになっておられる静謐な気持ち、というのは、地上で経験し得る「神のバジレイア」、すなわち、神と人との修復された不完全な形ではあるものの神との関係なのかもしれません。

    私が考える霊のネットワークのお話し、また、図にしてみますね。ちょっと面白そうなんで、少しお時間いただくかもしれませんが。

    夜、お休みになられることができ、痛みを伴いながらもご軽快に向かいつつあることを貴ブログで知り、うれしく思います。そして、神に感謝いたしております。

    コメントありがとうございました。そして、ニュッサ様のうえに平安と慰めがございますように。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2013.03.20 Wednesday 06:34
    おはようございます。

    今日は、ちょっと気温が下がりましたが、おかげでかえってよく眠れました。

    >はい。その通りです。前にだと思って始めたことは、実は大きなお世話になっていた。正しいことと思って始めたことが、戦争に至っていた、貧しい人たちへの愛と思って始めたことが、その人の自立と復帰を阻んでいた。もう枚挙にいとまがござりません。残念なことですが。

    そうですね。実は、大きな悪を生み出すのは、善意だったりするわけです。人間の罪の恐ろしさは、すぐ罪としてわかるような個人的罪ではなく、善意が罪になるということです。平和を守るために、あるいは、民主主義を守るために、あるいは、聖都を奪還するために、戦争をし、ミサイルを撃ち込み、虐殺をする。このあたりも、このバタフライエフェクトと関係しているかもしれません。むしろ、霊的ネットワークという考えがそういう現象を説明できるかもわかりません。プラスエネルギーがシステム総体としては、大きなマイナスエネルギーを生み出すということです。

    >とりわけ、評価システム、評価基準がなかなか確立しにくいものでは、単純化のために印象論で決めてしまうというところもあります。正も必要であれば、負も必要、動脈もいれば、静脈もいる、両者そろって、一貫したシステムとしての機能を果たす、ということがあるはずなのですが、どうも、正だけがよい、とする方たちも多くって。

    つまりは、善悪二元論と言う絶対的な評価基準はうまく作用しないということですね。ちょっとずれますが、パリサイ人や律法学者の律法を絶対的な善悪の判断基準とすることが、取税人、売春婦、障害者などを悪として切り捨てることになり、ついには、イエスご自身さえも、悪として処刑することになった。まさに、人間が、何かを絶対的な判断基準とすることによって、「神」のようになろうとすることだ。

    しかし、人類全体までひろげた霊的ネットワークというものは、本来、パウロの言うような教会=肢体論と同じく、プラスもマイナスも共有することによって、一部分が傷めば全体も痛み、一部分が喜べば全体も喜びを共にするというような、全体性の回復であるわけなんです。

    また、目に見えない助け合い、霊的共助、コンスタンティヌス帝によるキリスト教の国教化で、多くの人たちが当時、裁くで修道者になったわけですけれども、そういう人たちも、自分たちは、ただひとり、砂漠にいるのではなく、全人類とはっきりつながっている感覚があった。
    • ニュッサ
    • 2013.03.21 Thursday 07:19
    >>(愛と言う)エネルギーは、実は、プラスエネルギーでもマイナスエネルギーでもないのです。

    >というご指摘ですが、人間の価値基準で測りえない、あるいは図ってはならない領域、ということかなぁ、と愚考いたしました。

    愛というエネルギーは、実は、神そのものであるわけです。ある神学者は、聖霊の第一の名は愛であると言いましたが、愛は聖霊そのものと言ってもいい。

    しかし、神は、決して、人間の認識対象にはならない。善悪の判断基準によっては、決して、認識できない。認識できたと思ったら、それは、神ご自身ではなく、「神」であるわけです。自分の写し絵にすぎない。

    それは、愛というエネルギーについても同様なのですね。

    「神のバジレイア」についてもそのとおりだと思うのです。実は、救いとは、この、人間全体、世界全体、宇宙全体に拡がる霊的ネットワークの中に、受肉された神が入られることによって、

    そこに神のバジレイアが現出するということだと思います。今は、不完全だがやがて完全になり、今は目に見えないけれどもやがて目に見えるかたちで。


    「こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。」(エフェソ1:10)

    天にあるものも地にあるものも、すべてのものが、キリストのうちに、再び、ひとつに集められまとめられるということを、救いとして示したのが、ヨハネの弟子の教父であるエイレナイオスです。これは、再統合と呼ばれます。

    受肉された神が霊的ネットワークの中に入られることによって、このネットワークでつながる人間、被造物すべてのものが、愛のエネルギーによって、再統合され、キリストにおいてひとつにされる、これこそが、神のバジレイアであるわけです。

    このあたりは、N.T.ライトの示す救済観とも無関係ではないと思います。実は、彼は、アウグスティヌス捕囚から解き放たれて、古代キリスト教の救済観に戻ろうとする試みであると、私には思われます。

    長くなりました。みーちゃんはーちゃんさんに、神の平安がありますように。
    • ニュッサ
    • 2013.03.21 Thursday 07:48
    追伸

    もうひとつの論点を付け加えます。

    >お感じになっておられる静謐な気持ち、というのは、地上で経験し得る「神のバジレイア」、すなわち、神と人との修復された不完全な形ではあるものの神との関係なのかもしれません。

    それは、人間が神のかたちに創られていると関係していると思います。

    神のかたちに創られているとは、プラスマイナスという判断基準でプラスということではなく、
    むしろ、ゼロ、ただの人間、透明な存在になることによって、神ご自身を現すようになるということだと思います。

    イエスご自身もそういう存在だったのだと思います。これについて、私のブログの「黙示」という記事をご覧ください。

    静謐とは、この透明な存在になることです。
    海の波がなくなった時、海が別の存在になるのではなく、海は透明になり、深みにあるものを現すようになります。
    人間も、プラスエネルギーとマイナスエネルギーの波が止んだとき、人間が何か別の存在になるのではなく、そのままで、神ご自身を現すようになる。これが、まことの聖化だと思っています。まことの聖化とは、だから、プラス方向ではなくて、むしろ、ゼロ、人間化であり、それはキリスト化なのです。
    • ニュッサ
    • 2013.03.21 Thursday 08:34
    ニュッサ様

    コメントありがとうございました。

    >大きな悪を生み出すのは、善意だったりするわけです。
    >人間の罪の恐ろしさは、すぐ罪としてわかるような個人
    >的罪ではなく、善意が罪になるということです。

    おまけにたちが悪いのは、自分が善意であるから、自らが善であり、自らが義であり、前なる自分が行った様々な結果も善であると無批判に思うところにあるように私は思います。

    >霊的ネットワークという考えがそういう現象を説明でき
    >るかもわかりません。

    そうですね、説明するツール(モデル)として一定の有効性はあると考えますが、そのためにはもう少し精緻化した方がよろしいのでは、と愚考します。さらに、第3者の誤解および誤用を抑止するような工夫と、相手に受け取ってもらいやすい取り組みというのは必要かもしれません。


    >善悪二元論と言う絶対的な評価基準はうまく作用しない
    >ということですね。

    そうですね。もう少し言うと、善悪2元論的な思考法には限界があるということと、そもそも、『絶対的な評価』ということを想定した時点で、思考者、発話者が絶対なるもの、まったき者、すなわち、神になっているということだろうと思います。

    >まさに、人間が、何かを絶対的な判断基準とすることに
    >よって、「神」のようになろうとすることだ。

    ご指摘の通りか、と存じます。そして、課題は、そのことに人は気がつきにくい、という面もあるように思います。

    >それは、神ご自身ではなく、「神」であるわけです。
    >自分の写し絵にすぎない。
    >それは、愛というエネルギーについても同様なのですね。

    「神」というのは、YHWHだと自分が思う者、という理解でよろしいでしょうか。であるとすれば、そのように存じます。人間は神(YHWH)ではないから、神のそのものが愛であるとすれば、その一部は霊(聖霊)を通して味わい得るけれども、神(YHWH)の完全な愛に耐えきれないのではないか、と思います。おそらく、ヨハネが、「まったき愛は恐れを締め出す」という時の愛は、神(YHWH)そのもののを指しているとは愚号します。人間はまったき愛に耐えきれないのではないか、とも愚考します。

    続きます。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2013.03.21 Thursday 22:07
    続きです。

    >実は、救いとは、この、人間全体、世界全体、宇宙全体に
    >拡がる霊的ネットワークの中に、受肉された神が入られる
    >ことによって、そこに神のバジレイアが現出するというこ
    >とだと思います。

    もう少し緻密に考えた方がよいかもしれませんが、おおむね、ご指摘の通りだと思います。イエスの出生以前から、神の国が始まっているものの、ある面、十字架の上でのナザレのイエスの死の時、すなわち幕屋が裂けた時、神の国の現出がより完全に近い形で始まったのではないか、と愚考しておりますが、現段階で、これをうまく言葉で表現することができておらず、このことに考えを巡らせ続けております。

    >今は、不完全だがやがて完全になり、今は目に見えない
    >けれどもやがて目に見えるかたちで。

    おそらく、最終形はそうなるのだと思います。聖書の言う永遠性、というのが完全な形だと存じております。

    >N.T.ライトの示す救済観とも無関係ではないと思います。
    >実は、彼は、アウグスティヌス捕囚から解き放たれて、
    >古代キリスト教の救済観に戻ろうとする試みであると、
    >私には思われます。

    そうですね。かなり荒っぽく言ってしまうとそうなると思います。スコット、マクナイトのKing Jesus Gospel(邦題 福音の再発見の予定)も、ライトの影響をかなり受けていると思います。

    >ただの人間、透明な存在になることによって、神ご自身
    >を現すようになるということだと思います。

    透明な存在、ということが少し理解しかねておりますので、もう少し、対話をお続けいただければ、と思います。

    貴ブログでの記事『黙示』というブログ記事を拝見して、「透明」という意味の理解が少し進んだような気がします。勝手に人間が作り上げた理想化された「神」(それはある人にとっては、完全な倫理的な神であり、別の人にとっては、当時のローマの帝国の圧政から王国としての自立を獲得させるものであり、または、弱者の回復を遂げさせる存在であり、・・・と自分にとって都合のよい手前勝手なイメージ)ではなく、地上を歩かれた神(YHWH)そのものを指し示すことができる存在、という理解のような気がしますが、それでよろしいでしょうか。

    >そのままで、神ご自身を現すようになる。

    ということですが、愚考致しますに、人は神となりえないのでは、と存じますので、言い換えるならば、神の光を表示するもの(世におかれた神の光すなわち世の光)となり、神そのものを指し示すものとなる、と表現しても、そう違わないでしょうか。現す、という語感の意味をどのように考えるのか、というあたりのことかとは思いますが。

    ニュッサ様と共に、このように神とは何か、人とは何か、を考え、メシア、キリストを考え、そして、思いを巡らせること、何より幸甚に存じます。それこそ、限りのある人間にゆるされた範囲での神との格闘でもあり、祈りであり、永遠を思う心の働きのように思います。

    非常に示唆に富むポイントと思索を深める手掛かりをご指摘いただき、ありがとうございました。

    ニュッサ様の上に平安と慰めがございますように。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2013.03.21 Thursday 22:39
    こんばんわ。

    早速ですが、

    >>霊的ネットワークという考えがそういう現象を説明でき
    るかもわかりません。

    >そうですね、説明するツール(モデル)として一定の有効性はあると考えますが、そのためにはもう少し精緻化した方がよろしいのでは、と愚考します。さらに、第3者の誤解および誤用を抑止するような工夫と、相手に受け取ってもらいやすい取り組みというのは必要かもしれません。

    精緻化ですか。それは、なかなか難しいことですね。

    第一に、これは、おっしゃる通り、祈りによる直観から出たひとつのモデルと言うか、比喩にしか過ぎません。比喩と言うものは、場合によっては、精緻化することによって、その比喩が指している当のものから外れていくことが、往々にしてあるものです。

    第二に、私自身が直観の人なので、精緻化するのに、大きな意義を見出していないこともあります。小田垣雅也が「現代のキリスト教」で述べているように、ポストモダンにおいては、神学自体、もはや、大きな物語ではありえず、パンセのようなものだと言っている通りです。

    しかし、神が許せば、精緻化したいという気持ちもないこともないのですが、自分にそういう資格があるかどうかととまどうわけです。

    >もう少し言うと、善悪2元論的な思考法には限界があるということと、そもそも、『絶対的な評価』ということを想定した時点で、思考者、発話者が絶対なるもの、まったき者、すなわち、神になっているということだろうと思います。

    そうですね。それが、神学であれ、教理であれ、律法であれ、聖書の解釈であれ、さらには、聖書そのものであれ、信仰であれ、それが、絶対的な判断基準になると、必然的に、二分法的な思考を生み出すのは確かだと思います。

    >>まさに、人間が、何かを絶対的な判断基準とすることに
    よって、「神」のようになろうとすることだ。

    >ご指摘の通りか、と存じます。そして、課題は、そのことに人は気がつきにくい、という面もあるように思います。

    だからこそ、救いと言うものは、何かを基準にして、内と外というように、二分して分離することではなく、むしろ、内と外を統合する、聖書の言葉で言えば、
    「二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄する」(エペソ2:14〜15)だと思います。
    • ニュッサ
    • 2013.03.21 Thursday 23:20
    >>それは、神ご自身ではなく、「神」であるわけです。
    自分の写し絵にすぎない。
    それは、愛というエネルギーについても同様なのですね。

    >「神」というのは、YHWHだと自分が思う者、という理解でよろしいでしょうか。であるとすれば、そのように存じます。人間は神(YHWH)ではないから、神のそのものが愛であるとすれば、その一部は霊(聖霊)を通して味わい得るけれども、神(YHWH)の完全な愛に耐えきれないのではないか、と思います。おそらく、ヨハネが、「まったき愛は恐れを締め出す」という時の愛は、神(YHWH)そのもののを指しているとは愚号します。人間はまったき愛に耐えきれないのではないか、とも愚考します。

    実は、このあたりは、私のブログで、神を対象化して知ることができるかということで、かなり扱っているのです。もし、興味がおありでしたら、
    「対象としての神の解体」「『神』否定」「神は対象でないことの意味」「神は対象にあらず」「対象化・物象化=『神』になろうとする罪」「対象としての『神』の解体補遺」「再び神の対象化について」「対象なるイエスと対象ならざる神」(いっぱいありますね)をご覧ください。

    今は、ごくごく簡単に述べておきますと、

    まず、前提として、私たちが認識対象として知りうるのは、私たちの存在と同じか、それを下回る存在だけです。

    つまり、神そのものは、私たちの存在をはるかに超えるお方であるがゆえに、私たちは、神そのものを知ることができないわけです。

    しかし、それでは、まったく知ることができないかと言うと、私たちは神を知ることができないが、神は人になってご自身を私たちに知らせてくださったわけです。

    人となった神において、私たちは神を知ることができる。いわば、イエス・キリストは、神の顔ということができる。私たちは、イエスにおいて、神にお会いすることができるわけです。

    それでも、神ご自身を対象にすることはできないけれど、イエスご自身を通して神を知るのですが、しかし、その知り得た神を、対象化して概念やイメージに変えてしまうことはできないということなのです。

    愛とエネルギーは、実に、神そのものなので、それは愛と言うエネルギーについても成り立つ、つまり、プラスでもマイナスでもなく、ゼロ化するエネルギーとしてしか知りえないということになります。
    • ニュッサ
    • 2013.03.21 Thursday 23:51
    実は、この後、1時間以上かけて書いた部分を間違って消してしまったので、そこについては、後日改めて書きます。
    できれば、そこをもう一度書いてから、お返事くだされば幸いです。

    とりあえず、おやすみなさい。
    • ニュッサ
    • 2013.03.22 Friday 01:01
    ニュッサ様 コメントありがとうございました。昨夜も十分お休みになられているとよいのですが。

    なるほど、確かに精緻化は難しいようにも思います。ただ、公表を前提にではなく、自分の神との取り組み、神との対話として、内に秘めたるものとして、してみるのは大変面白いかもしれません。あわててませんので、ゆるりとやりましょう。

    内と外に分けて事さらに違いを言いつのることは、ほとんど意味がなく、それよりも、どこまでが共通部分かを考える方がよろしかろう、と思います。その上で、なぜ違いがあるのかの対話をする方が、より豊かな味わいのある生き方ができるものと思います。

    神について、ご教示ありがとうございました。貴ブログ記事を拝読させていただきます。

    神と人との関係、神についてのお考え、では改めまして。

    どうぞごゆるりとご思惟をお深めくださいますように。

    今回は、お礼のみにて、失礼いたします。

    ニュッサ様の上に主の平安と慰めがございますように。良い一日をお過ごしください。



    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2013.03.22 Friday 06:45
    おはようございます。あまり、熟睡できない夜を過ごしました。このお返事について、うつらうつら考えておりましたので。

    >>N.T.ライトの示す救済観とも無関係ではないと思います。
    …アウグスティヌス捕囚から解き放たれて、
    古代キリスト教の救済観に戻ろうとする試みである…

    >かなり荒っぽく言ってしまうとそうなると思います。スコット、マクナイトのKing Jesus Gospel(邦題 福音の再発見の予定)も、ライトの影響をかなり受けていると思います。

    これについては、私のブログの「古代教会のオリジナルに帰ろうとする動きとそれに対する非難」をご覧ください。

    さて、核心は、救いについてどう考えるか、人が神を指示する存在ではなく、人が神を現すと言うかということです。

    実は、このあたりについては、かなりの時間を費やして、祈りつつ考えを深めてきたところでした。

    ただ、おそらく、ここについては、東方キリスト教の影響を受けた私とプロテスタントでは、かなり違っているので、いきなり、人を躓かすのもためらわれて、書くのを躊躇したのです。それで、おおざっぱなところだけお話ししたわけです。問題は、受肉した神が、霊的ネットワークに入って来られて、どういうことが起こるかということです。

    まず、東方キリスト教においては、神化ということを言うわけです。それは、聖書的には、第2ペテロ1:4で言われていることです。

    教父であるアタナシオスははっきり言っています。

    「神が人になったのは、人が神になるためである。」

    ここに基づいて、神化ということが言われ、東方キリスト教において、このことは異端でも何でもなく、むしろ、救いの中心であるわけです。

    ただ、ウェスレーは、この教えについて知っており、躓きを恐れて、神化を聖化と言い換えました。
    また、東方キリスト教が、大分裂後に、西方キリスト教に接触した際に、グレゴリオスパラマスが、結局、

    人は、神の本質にあずかるという意味で神になることはできず、ただ、神のエネルゲイア(働き)において、神になることができるのだと、神学化しました。

    そして、東方のこの神化の教理において、いろいろ調べると、人間が人間であることは決して失われないということです。

    だが、しかし、
    私は、罪というものを、人間が、善悪の絶対的な基準を得て、「神」になろうとしてやまないことだと考えており、また、神化を聖化と言い換えたウェスレーの流れにおいて、後に、カルト的な傾向が頻発していることを考えて、
    最初は、神化を受け入れていたのですが、後に、これをそのままではどうにも受け入れがたく思うようになりました。

    コメントが行き違いになってしまいましたね。

    では、ゆるりとまず、根本的なことだけおおざっぱに書いていきたいと思います。

    さきほどの続きです。

    それで、バルトが神の人間性ということを主張しているのを知り(これについては、「神的ヒューマニズム」という記事をご覧ください)、祈りに祈って、大胆にもアタナシオスの定式を変えたわけです。

    「神が人になったのは、人が神になるためである」
    (アタナシオス)

    「神が人になったのは、人が人になるためである」
    (私)

    これが何を意味しているかと言うと、

    神が人になったことで、あの創世記のエデンの園の蛇の誘惑以来、あらゆる試みにおいて、宗教においてさえも、「神」になろうとしてやまない人間が人間に突き戻されるということですね。つまり、人間疎外とは、人間が人間であることに耐えられず、それから逃走して、「神」になり、他の人間に対し、絶対的な裁判官また支配者になろうということですから。

    以上については、「なぜ、私は神になるという神化を言わないか」という記事にも書かれています。
    ところで、西方キリスト教と東方キリスト教の大きな違いは、西方キリスト教では、救いというものを、受肉、十字架、復活、昇天、聖霊降臨というキリストがなしたみわざに基盤をおいて考えるところであり、特に、プロテスタントは、中でも十字架に中心を置くわけです。

    ところが、東方キリスト教においては、みわざではなく、キリストの存在そのもの、パースンそのものに重点があります。つまり、受肉のみわざではなく、受肉したお方、十字架にかかったお方、復活したお方、昇天したお方、聖霊を注いだお方というようにです。これは正しい感覚だと思うのですね。そして、プロテスタントとは対照的に、受肉に強調点があります。それは、さきほどのアタナシオスの定式でも現れていますが、他の東方の教父、例えば、ニュッサのグレゴリオスでも同じです。

    先ほどの話に戻ります。

    さらに、自分なりに読みかえた定式、
    「神が人になったのは、人が人になるためである」ということをもう少し、広げようと思ったわけです。

    そのあたりは、ブログの過去の記事にあらわれていると思いますが、今、要約して言うと、

    十字架と復活は、実は、

    第一に、あらゆることにおいて、特に、宗教において、隠れた形で、「神」になろうとしてやまない人間である私が、人となられた神を十字架につけることによって、「神」になろうとしてやまない罪を決定的にあらわにされたことであり、

    第二に、そういう「神」になろうとしてやまない人間である私が、キリストと共に死んで(十字架)、キリストと共に復活して新しくされた(復活)ことを意味するわけです。

    しかし、それに終わるばかりではなく、福音書で、キリストが来たのは、聖霊を注ぐことが目的だと言われているように、

    天に昇り、父からご自身を通して聖霊をお注ぎになったのは、つまり、昇天と聖霊降臨は、

    私という存在のもっとも深いところにご自身の霊を注ぎ込んでくださったのだということです。

    しかし、新約聖書では、ご存知のように、人間の霊と聖霊の区別がなされていないのであるから、また、パウロのガラテヤ2:20にも表れているように、大胆に言えば、神が私になってくださったということになるわけです。これについては、「ガラテヤ2:20」「自我の磔殺の間違い」神が人となられ、私となられたのはどういう意味か」「神が人になり私になられたのは、人が人であり私が私になるためである」「さらに神が私となられたのはどういう意味か」「神は私になられた〜秘儀中の秘儀」「『神が私となった』という奥義中の奥義」「救いの奥義である自己交換」という記事をごらんください。

    それで、結局、

    神が人になられ、十字架にかかり復活し昇天して聖霊を注いで、私になられたのは、人が人になり、私が私が私になるためであると考え、

    まとめて、
    「神が人になられ私になられたのは、人が人になり私が私になるためである」と定式化したわけです。

    これは、前の定式に付け加えて、結局、神が人になることによって(つまり、受肉し、十字架にかかり、復活して)、「神」になろうとしてやまない人間は人に戻され(人間疎外の癒し)、さらに、神が私になることによって(昇天し、聖霊を注いで)、私以外のものになろうとしてやまない私が私に戻され(自己疎外の癒し)、私が神を生きるのではなく、神が私を生きてくださるということを意味しています。


    このことを踏まえ、人間が神を指示するでは距離がありすぎるのであって、人間が神を現すと言うわけです。

    もちろん、以上書く中でも述べたように、人間は神にはなりえません。しかし、神は人になってくださったわけです。また、私は神にはなりえませんが、神は私になってくださったわけです。

    「神は人になった」しかし、「人は神にはならない」
    「神は私になった」しかし、「私は神にはならない」

    という不可逆であるわけです。つまり、神と人については、滝沢克己という神学者が言う「不可分・不可同・不可逆」が成り立つのですね。不可分だから、神と人はひとつであって、人は神を現すと言うことができる。しかし、人は神ではない(不可同)。また、神が人になり、私になったのではあるが、人は神にならず、また私は神にはならない(不可逆)。これについては、「不可分・不可同・不可逆」という記事、また重なりますが、「神は私となられた〜秘儀中の秘儀」をご覧ください。

    さらにここからもうひとつの側面もあるのですが、それはおいおいと言うことにします。

    お仕事に祝福と神の平安がありますように。
    ニュッサ様 コメントありがとうございました。

    古代教会のオリジナルに帰ろうとする動きとそれに対する非難の古いほうの記事を、拝見しました。これは、Ad Fontes ですから、いつの時代も、原点回帰の運動があり、それがまたその運動そのものが変質し、またその変質が他のキリスト者群に影響を与えていくという、ダイナミックな運動体としての教会なのかもしれませんね。

    確かにご指摘になっておられるように、東方系の霊性は、ナウエンやジャンバニエなどの西方カトリック教会、さらに、プロテスタント系における霊性の神学の再検討と共に、一定の理解とその正統な位置を取り戻していますが、そこに感性というものの介在を前提と申しますか、その部分を重視して考えますので、どちらかというと頭でっかちになった西方型のキリスト者には、厳しい面があるのかもしれません。NTライトを読み、マクナイトなどを読み、ダラス・ウィラードなどやGordon T. SmithやRegent College系統の方の書かれたものなどを読んでいると、どこかでつながっているということはあるのですが、いまだに体系化、言語化できていないです。私の中で。

    まだ、お書きになっておられる個別の記事を読めておりませんので、十字架論、復活論に関しては、もう少し検討するお時間を頂戴いたしたくぞんじます。その点で、神の民論をどう考えるのか、については詳細に検討するご猶予をいただきたく存じます。

    >人間は神にはなりえません。しかし、神は人になってく
    >ださったわけです。また、私は神にはなりえませんが、
    >神は私になってくださったわけです。

    これは、本当にそうですね。


    >お仕事に祝福と神の平安がありますように。

    温かいお言葉頂き、ありがとうございました。本日、世に出られる方々に向かって、同じことを申しあげたところでございます。 PAX と。

    中途半端な応答で申し訳ございませんが、よろしくご理解賜りたく。

    ニュッサ様の上に、平安とご快復がございますように。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2013.03.22 Friday 20:56
    ミーちゃんはーちゃんさん、ありがとうございます。

    どうぞ、ゆっくりと返事をくださいませ。

    今、試しに、もうひとつ違うブログに、今まで自分が書いてきたことを、幾分、体系的にまとめようと思っていますが、なにぶん、病気もありますから、いったい、いつのことになるやらわかりません。

    自分が祈り考えたことに意味があるかはわかりませんが、自分自身に意味があったことは事実です。

    あまりに激しいいろいろなことに衝撃を受け、もみくちゃにされ、えぐられるように傷つけられ…

    とにかく、私が私をもう生きられない、私が私を生きるのはどう考えても、絶対、不可能だ、死ぬしかない、いや、生きる苦しみの方が死ぬ苦しみより大きいと思い、

    のたうちまわりながら、祈った時に、
    『お前がお前を生きられなくても、私がお前を生きる』と聞こえたのです。

    それは、耳で聞いたわけではもちろんなく、
    しかし、自分の腹の底、存在の一番奥深いところから、決して疑えないような響きをもって。

    『そうだ、私は私を生きられない。けれど、あなたは私を生きてくださる』とはっとわかった時に、
    癒されたのでもない、心が動揺しなくなったわけでもない、けれども、よろめきながらも、みっともないさまをさらしながらも、私は私を生きていけると思ったのです。

    ですから、その時、さらに、わずかを付け加えました。

    「神が人になり、私となられ、さらに私を生きてくださるのは、人が人になり、私が私になり、私が私を生きるためである」と。

    そう、決して頭で考えたのではありません。
    血みどろになって、心で考えたのです。

    では、いつでもけっこうですので、ゆっくりお待ち申し上げております。

    主の豊かな平安がありますように。
    • ニュッサ
    • 2013.03.22 Friday 21:35
    ニュッサ様 おはようございます。コメントありがとうございます。

    では、お言葉に甘えて、少しお時間をいただきながら、考えさせていただきます。ご理解を感謝いたします。

    さて、ニュッサ様のことは、旧吉祥寺の杜からと○○フェローシップのあの方のブログ記事やそのほか関連のブログ群で、かなり厳しい道を通られたことは、断片的にしか知りえませんでしたが、お書きになられたことなどは、ごくごく一部であったのだと確信しております。それをCompassionをもって拝見しておりました。とはいえ、○○フェローシップの方も、かなり変わった方なので何かするとうっとうしそうなので、それ以上のことはできずにおりました。

    まさに、イギリス人ならBloodyという言葉を使うと思います。イギリス人は、この語がお好きなようです。

    そうですね。神は、「生きよ。我汝と共にある。恐れるでない。」と私たちというか、すべての神の愛されるべき対象なるもの、におっしゃっているように思います。

    貴ブログ、ゆるりと拝見しながら、思惟を巡らせたいと存じます。このコメントへのお返事、どうかなされませんように。いったんここで置きたいと思います。

    コメントありがとうございました。ニュッサ様の上に平安がございますように。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2013.03.23 Saturday 07:28
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