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2013.03.05 Tuesday

上智大学大阪サテライトキャンパスでの雨宮先生講演会の記録

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     2013年2月16日、大阪サクラファミリア併設上智大学大阪サテライトキャンパスにて開催された雨宮慧先生の公開講座についての記録を書いておこうかと。青字部分がミーちゃんはーちゃんの感想。

     雨宮先生は、コンピュータ嫌いだとどこかの本に書いてあったが、まず、配布された資料が縦書きであることに驚いた。縦書きの資料って。すごい久しぶり。A4なのに縦書きって・・・

    肝心のご講演内容ですが、ざっとまとめると、こんな感じかと。

     ダビデはサウル王を殺さずに済ませるが、王権を確立してのち、ある段階から弱いダビデになっていく。

     その弱いダビデになった原因は、バトシェバとの事件である、対アンモン戦をしている最中で、当時は、雨季(冬)は休戦するのが習いであった。
     ところで、ある日ダビデが昼寝から目が覚ますと、女性(ウリヤの奥さん)が水浴びをしているのをみたのだが、この女性が美しかった。もし、バトシェバが人妻でなければ后にすればよいのだが、人妻なので、后にしたのでは姦淫になる。そこで不倫へとつながっていく。

     そして、バトシェバが子供を宿した時にダビデは隠そうとして隠ぺい工作をする。隠す、というのは、自覚的に罪を犯した、という認識があったのだろう。そもそも、隠すというのは、自分では処理ができないから隠すのである。

     ウリヤは軍人(ヨアブの家来)であり、対アンモン戦に参戦している。そこで、ヘト人ウリアを呼び戻して、家に帰そうとする。しかし、ウリアは感づいていたかもしれない。ダビデは、生まれてくる子を、なんとしてもウリアの子供にしたかった。

     ほとほと困り果てたダビデは、ウリヤはヨアブに帰される。ウリヤが託されて帰った手紙は、ウリヤ自分を殺す場所に置かれる、という内容であった。それをもってウリヤは前線に帰っていく。

     この後、弱いダビデに変化する。そして、息子の問題行動に注意を与えることすらできないダビデへとなっていく。

     ダビデは、エルサレムの宮殿と思われる場所のダビデの部屋で過ごすことになる。今から考えれば、なぜ、これが宮殿とわかるのか、ような場所だったであろうが、当時の一般大衆とは違う部屋であった。
     ダビデの過ごした時代、部屋には、ほとんどモノは何もなかった。
     
     いまは、それぞれの部屋に技術的な知恵(エアコン、PC、電話など)が満ち溢れており、これらはダビデ時代とは雲泥の差ではある。

     そこで、バトシェバ事件をもう一度考えてみると、今でいう新聞だね、スキャンダルのような事件であった。確かに、技術的な知恵は進化している・・どう生きるべきかという知恵、分別は進歩していない。退歩しているのでは?とも思われる。


     このように、技術的な知識というのか知恵と分別を分けて考える視点、そのような視点から聖書を読んでいくことは大切だと思う。それこそ、分別だと思う。それを一つの日本語翻訳聖書にたよってしまうと、誤解する人は出るだろうなぁ、と思った。



     確かにIPS細胞が開発され、難病の人たちがその苦しみから解放される可能性があるものの、どう生きたらよいのかに関する知恵はさほど進歩していないのではないか。

     ヨブ記28は、おおむね紀元前5世紀ごろに成立したと考えられる。さらに、28章は後から追記された可能性が高いが、紀元前2世紀よりは古いものと思われる。
    まず、ヨブ記28章の1-11節では、神は技術的知恵について触れておられる。そして、これらの技術的知恵は、どう生きるかと無縁のものであり、宝石や資源がふれられている。

     また、7節では、猛禽、禿鷹、獅子という3種類の動物を並べて記載された上で、「だが人は・・・・」と触れられている。

     さらに、ヨブ記28章12節から、技術的知恵ではない生き方についての知恵あるいは分別について語られていて、宝石よりはるかに高い価値をもつ知恵がどこに供えられたかは人間は知らない。ということが示されている。

     ところで、知恵(分別)はどこから来るのか、ということについて、12節で「知恵はどこに見出されるのか?」と問いかけがされている。

     現在の技術的な知恵は日進月歩で変化しているものの、どう生きるかの分別としての知恵はほとんど進歩していない。この知恵は、人の目には隠されている。その道を知っているのは神である。神を恐れ敬うことがなければ、知恵を知ることがない。というのが旧約聖書の主張であるように思われる。

     では、新約ではどうだろうか。ルカ12:13-21を考えてみると、
    20節で神は、金持ちに対して、愚かな者よ。と述べている。知恵というのは、賢さであり、おろかということは、知恵がない、ということである。

     この金持ちにたいして、「今夜お前のいのちは取り上げられる。」と神が言っておられるが、現在に至るまでも、誰もこれは知らないことではある。

     ルカ12章13-21節のこの部分、一人称単数の表現が多い。「私の・・・・」、「私の・・・」「私の・・・」という所有代名詞が利用されている。これは、自分に対して関心のあり方を示しており、この私のという自分への関心がしつこいほど繰り返されている。

     自分の力によるいのちの獲得。自分のためだけにいのちを使う。ということの問題である。この金持ちは、問題解決能力はあったでしょうが、聖書の言う賢さは頭の関係とは無関係であったのではないでしょうか。

     この金持ちの頭の中には、神の場所がない。他者もない。神の場所を用意しないことが愚かさそのものなのではないでしょうか。

     どう生きるかについての知恵は、神のための場所を用意することであり、それがない限り解決はできないことだと思います。


     そうだよね。これこそ、偶像崇拝。神の座から神を追いだし、神の場所を他者に明け渡す。これこそ、分別としての知恵がないことだ、と旧約の知恵文学とイエスの金持ちのたとえはその通りであるなぁ、と思った次第。今でも、私の、私の、私の、と言い募り、自分が神になっている人は少なからずおられると思うし、キリスト者にもおられるのではないか、まずミーちゃんはーちゃん自身がそうでないか、とちょっと反省。だからこそ、ミーちゃんはーちゃんに派キリストが必要と思った次第。


    また、ヨブ記の28章に戻ると、27-28節での表現は、神のための場所を我々の中に作って生きる生き方を示しているように思う。

     これに関連して、知恵文学について話題が移って行きました。

     知恵文学は箴言・ヨブ記 ・コヘレトの言葉・続編の中では、知恵の書・シラ書(ベンシラの書)断片的に知恵の詩篇も含まれるものであり、今回は、知恵文学の流れを抑えることをしたい。そして、どう生きるかは、問い続けられる問題なのではないか。

     知恵のことばの収集はいつも行われてきたが、その収集が際立つ時があり、時期ごとに特徴がある。
     というのは、イスラエルの社会にとって、社会の在り方が以前と違っているとともに、必要とされる知恵の問題が変わってくるものと考えられる。

    第1期
     経験に基づく法則化から得られた知恵である。このとらえ方の特徴は、ブラックボックスとしての世界でとらえている。こちらであることをするとほかで別の事が起こる。(ミーちゃんはーちゃんは、そーいえば、バタフライエフェクトという映画や言葉があったなぁ、と思ってしまった)。

     典型的には、夕焼けなら、明日は晴れ。といったものである。理由はわからないけれども、経験的な知識としての理解があるものである。
     箴言10章以降がこれにあたる。これは、ソロモンの格言集であり、このような格言が収集された。いわば、ことわざ付き日めくりカレンダーのことわざの羅列みたいなところがある。
     ソロモンの格言集は、ソロモン時代の格言が集められたものであり、箴言10章以下の部分にもっとも古い古層がみられるのではないか。

    第2期
     夕焼けであったが雨が降った。というような、ことわざであっても、常に当てはまるとは限らない、ということをふくんだものである。これは、ある種の格言の崩壊を含む様な格言である。その意味で、ことわざの含む意味の喪失や、社会における共通価値の喪失、秩序の崩壊などを背景にしていると考えられる。典型的には、コヘレトのテーマ、ヨブ記のテーマなのであろう。

     経験則が成り立たない場合がありうる。ヨブ記の中に解決めいたものが書かれているように考えられる。

     社会での事象に意味が見いだせないじだいのものである。典型的には、捕囚時代であろう。紀元前6世紀にユダヤがバビロンにより滅ぼされ、バビロンに移動することになる。587-539  BCの現象の後にヨブ記、コヘレトは書かれている。

     それは、なぜ、こんな(捕囚のような)悲劇が起きるのか、それが関心の中心であったことと深い関係があるだろう。捕囚で、故郷を失う。外国での生活を余儀なくされた中で起きたことであった。

    第3期 シラ書、知恵の書
     人間の限界を認識するまで知的活動の結果得られた知恵文学である。知恵の尽くされたところで神と出会う。
     シラ書、知恵の書、箴言の1-9章 神を恐れることが知恵の始まり、などに知恵を尽くした揚句に神を見るというその信仰の姿が出てきている。

     という話を聞いているときに、どんどんと上階から音がするので、工事でもしているのか、と思いきや、実は上階でフラメンコの練習だったそうで、一時中断。

     外典の中のシラ書2世紀、知恵の書1世紀であり、新約の時代の直前にこれらの文書が書かれたとお話しになっておられた。

     箴言には表題が登場してくる。このように表題があることは、時代の異なる知恵文学が集められていることを示している。おそらく箴言の1章の1節は最も新しいものではないだろうか。というのは、第3期のスローガン、神を恐れることは知恵の肇のようなものが含まれているからである。箴言25章の1節は、この書が、知恵文学の一種のアンソロジーになっていることを示している。

     箴言10章からは、もっとも古い格言集で、ソロモンの格言集で始まる。まるで、日めくりカレンダーのことわざのようである。一種のお説教であり、誰もが聞きたがらない内容に対して、どうやって引き付けるのかの工夫として、イメージを使って聞かせよう、としているように思われる。たとえば、10章の1節2節は論理的な関係性はないし、3節も独立した格言である。ただし、4と5は勤勉という点で共通している。これらのように箴言は、前後の関連が極めて薄い。まさに日めくりカレンダー状態に近い。

     10章の13節では、1−6節と13節以降が対比され、構成をもって書かれている。知恵について触れた7-12節は、日めくりカレンダーよりは聞きやすくなった格言であり、愚かさについて、10節では第3期(紀元前2-1世紀のもの)のスローガンがふくまれており、9章以前は、それ以降に比べずっと手が込んでいる。

    第2期は、知恵文学の中で大変興味深いものであり、この中の代表作としてヨブ記を取り上げる。このヨブ記は、最初と最後に散文があり、真中に韻文があるというサンドイッチ構造をしている。

     散文で書かれた部分のヨブは優等生そのものである。1章の最後は、自らの子供が死ぬ中で、「私は裸で母の胎を出た。与えたもう神は取りたもう神。」といっている。3章から韻文が始まり、神にさけぶ、楯つく、抗議するヨブが出てくる。

     180度違っているが、どう説明すればよいのか。

     可能性の問題として、重病の患者との平行関係を見ることができるかもしれない。信仰深い方で重病になった方が、なぜ苦しまなければならないのか、という声を上げることがある。信仰深さと「なぜか」という問いである。同一人物に併存する信仰深さと神への叫びを見ることができよう。

     何が問題であろうか。韻文の構成は、はっきりしていて、≪ヨブの嘆き≫ −≪3人の友人との討論≫ − ≪ヨブの嘆き≫という構造をとっている
     計3回にわたって行われる、エリファズとヨブの対話の中で、エリファズは、病気になったことに対して、「どうして人は聖くありえよう。」「人間は罪びとだ。」「どこかで罪を行っているからだ。」と原因を言い立てている。
     神が間違うわけがない。罪の告白が、神の慰めを受ける道であり、エリファズは、ヨブに対して、間違いを認めて神の慰めをうけよ。と言っている。

     確かに、エリファズは正しいことを言っているがヨブの耳には届かない。これは、慰めるふりをして苦しめていることになっているのではないか。

     エリファズは慰めようとした。ヨブにとっては慰めになっていない。確かに、エリファズは主張は形式的には正しい。しかし、問題がある。それは、エリファズの考えは、応報主義 罪があれば悪い結果となるという考え方である。
     自分たちの見方の中でしか良しあしをとらえていない味方であり、何が悪いことなのかを常識的に処理している。常識的な見方に終わっている。神にとって悪と、人にとって悪いことを区別していない。

     最後の散文に、主は、エリファズに向かってこのように語る。お前とお前の友人に対して怒っている。あなた方は、正しく語っていない。神の不当性を訴えていたヨブの方が正しく語っていたことが指摘されている。

     この部分を聞きながら、自分たちの聖書に基づく生き方を考えた方がよいかなぁ、とミーちゃんはーちゃんは思ってしもうた。人間には理解できないことのほうが多い。しかしその理解できない人間に神を求める心、思惟を与えたのは神ご自身なのだ、と。

     我々が考えるべきことは、いろんなことについて、人間の常識で納めるのではなく、あくまでも神の思いは何なのか、ということを問い続けることに意味を見出す必要があるだろう。
     
     この前のナウエン研究会で取り上げたFinding Meaning of Our Life and Times(日本語では、あめんどうの『ナウエンと読む福音書』では、「今の生活と時代における意味を見つける」 あめんどうは、今年創業20年を迎えられたそうです。おめでとうございます。)の表現でいえば、不幸な事件(たとえば津波の被害とか地震の被害)に直面した人に対して、その人たちが悪かったからだ、という理解は、律法的な解釈、人間的な知恵での解釈であり、不幸な事件の存在から、神がすべての人に語りかけておられ、自分を含めてすべての人に神が必要なのだ、ということを考えることが、霊的に解釈するということなのだろう。

     マルコ6章で安息日にナザレで教えるイエスの姿がある。「この人はこのようなことをどこから得たのか。このような奇跡は何か。大工ではないか。」と多くの人がイエスにつまづいた。ここでの、 驚きは、からかうような驚きではない。良い意味での驚きである。そして、おどろきがつまづきへと人々を導いた。

     原因は、このことばの中にある。「どこからか、これはなんなのか。」というぶぶんである。この素朴な疑問や疑いを問い続けていれば、イエスの本質にたどり着いたはずではないかと思う。

     「この人は大工ではないか、我々の仲間だ」ということにつまづきの原因がある。自分たちの知識でイエスを理解しようとした。イエスは、もっと深い人であった。神もそうである。何が悪か、何が罪か、を自分で今の常識で処理してしまうと、神について神について正しく語らない。神について、正しく語るためには、何なのか、どこからなのか、を問い続けること、これが重要でないか。だからこそ、最後にヨブは正しく語ったと神は評価しておられる。

     常識の中で終わらせないこと、神をとらえないことが大事。そして、神について、問い続けていくことがだいじではないだろうか。問い続ける勇気が必要であり、常識的なところで処理し、慰めた結果、他者を苦しめるけっかにおわるのではないか、出来合いの答えで済ませないことが大切なのだろう。

     J.I.PackerのKnowing God(神について)という本を思い出してしまった。

     第3期の知恵文学はギリシア的なヘレニズムの快楽主義への批判として生まれた知恵文学であって、ギリシア世界の中でのユダヤ社会における知恵文学の流れがたどり着いた結論であると、そしてそこに含まれる「神を恐れることが知恵のはじめ」の含意の深さがあり、神を恐れることを問い続けることの大切さが示されているのではないか、というご主張が述べられただけで、時間切れで詳細は触れられずじまい。ちょっと残念でした。

    評価:
    J.I.パッカー
    いのちのことば社
    ---
    (1978-07)
    コメント:いい本なんですが…分厚いですが。

    評価:
    ヘンリ・ナウエン
    あめんどう
    ¥ 2,415
    (2008-04-30)
    コメント:霊性を深く考えさせられるきっかけをもらった本。この本からミーちゃんはーちゃんのナウエン研究が始まった。

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