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2013.02.13 Wednesday

人生いろいろ、ディスペンセイション説いろいろ(3)

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      さて、今回も引き続き、ディスペンセイション神学研究会の資料集からご紹介してみたい。今回は第2回の講究録からご紹介してみんとす(完全に厨二病設定である)。なお、あまりにマニアックなネタなので、パスしたい方は、パスしていただいた方が、よろしいかと思う。

     今回の講究録では3人の登場人物が出てきて、高木慶太氏、古林三樹夫氏、真鍋孝氏のお三方が登場する。印象で言えば、高木氏が、プログレッシブ・ディスペンセイション説にリバイスド・ディスペンセイションからの疑問をぶつけるメモ、古林氏が解釈論の違いを見るときに門外感から見たほんとにそれでいいんかい?という疑問を含めた論文、真鍋氏がプログレッシブ・ディスペンセイション説側からのポイントを整理した小論文、というノリであったように思う。

     Bassが触れているような(下記のリンク参照)伝統的なDispensation(Pastor Dispensationalistの理解)でもあるようなClassic Dispensation説は今回は紹介されずであった。

     いくつか、なるほどねぇ、と思った部分をこの3つの文書から拾ってみたい。あくまで、個人的趣味で、へぇー、ほぉーと思った部分についてであるので、皆さんの関心を満たさないかもしれないが、オリジナルを読まれたい方は、福音聖書神学校にお問い合わせを。全冊セットで、送料込1500円前後のはず。

     まず、リバイスド・ディスペンセイション説の高木氏のメモから。

     旧約の神の概念は、ユダヤ人の立場からユダヤ人に対して書かれたものですから、異邦人の立場からすると偏っているように見えても仕方がないでしょうか。教会が神のご計画の中で非常に重要な部分を占めていることは明白ですが、イスラエル中心に書かれた旧約聖書の中では山の峰と峰の間の、見えない谷の合間、すなわち合間になっているのではないでしょうか。(p4

     これは、リバイスド・ディスペンセイション説が教会挿入説を唱えているという批判を受けての反論であろう。その意味で、高木氏がユダヤ人の視点から聖書をとらえようとしていることが分かる。このあたりが、クリスチャン・シオニズムとの親和性が高い原因なのかもしれない。類似の見解が、

     教会時代は、「挿入」とか「横道にそれた」とかいうのではなく、ライリーが言うように、神の、イスラエルに対するプログラムにおける「合間」と考えればおいのではないでしょうか。あるいは「イスラエルが一時棚上げされて『イスラエル中心』から『異邦人も含めた教会中心』の時代に移った」といえば問題は少なくなるのではないでしょうか。(p5
     こういう表現を見ていると、リバイスド・ディスペンセイション説が違う意味で、ユダヤ(イスラエル)人中心に見ていて、幅広く世界全体の諸国民をとらえようとしていないのではないか、という感じがするんですが・・・。まぁ、ユダヤ人中心主義というかシオニズム運動の成立時期にクラッシック・ディスペンセイション説が重なっているので、シオニズムとこのディスペンセイション説は無関係ではないような気がするのは、このあたりなんですね。ディスペンセイション説の人々は、自分が意図せずシオニスト的立場であることを認識しておられないことが多いのが困りもんなんですが。

     従来のディスペンセーション主義は、千年王国時代には、艱難時代にキリストを信じてキリストの再臨まで生き延びたキリストの再臨まで生き延びたユダヤ人は普通の体をもったまま御国に入り、イスラエルに約束されていたパレスティナの特定の領土で最も祝福された民族として生活すること、同じく艱難時代に救われて再臨まで生き延びた異邦人も普通の体をもったままで、イスラエルの約束の地以外の世界各地に住み、神の祝福にあずかること、また、教会時代の聖徒たちは、キリストの再臨のときにキリストとともに天から地上に来、復活の体をもったままキリストの地上での支配することを信じています。(p7)
    あと、NTライトの議論との関連では、使徒2:22−36を高木氏は次のように理解しておられることを示しておられる(下線と赤字はミーちゃんはーちゃんによる)。そして、プログレッシブ・ディスペンセイション説について、いくつかの疑問を出しておられる。

      キリストのことは、ダビデによって預言されていた。ダビデは自分の事をいっていたのではなく、キリストについて預言していたのである。神はキリストをダビデの王座に就かせると予言された。その予言の実現のためには、キリストは死んだままでいてはだめで、復活されねばならない。そして復活されることも預言されていた。神はイエスを復活され、それによって預言されていたキリストであることを証明され、そのあとご自分の右の座に着かせられた。神の右の座に疲れたキリストは、信じた者たちに聖霊をお注ぎになった。そして今はご自分の敵が完全に滅ぼされる時を、神の右の座で待っておられる。
     したがって、ペテロは「イエスこそ、
    将来ダビデの王座に着かれるお方である」といっているのであり、(そのためダビデ契約を引用しているのであり)、
    「キリストは今すでにダビデの王座についておられる」と言っていないのではないでしょうか。(pp.7−8)

    「王座に着かれた」ということは、その時から「王としての支配がはじまった」ことを意味するのではないでしょうか。もし支配しておられるなら、神の力がこの世界にもっと強力に働いているはずではないでしょうか。(中略)現在、父なる神の右の座で将来サタンを征服し敗北さえる時を待っておられるのではないでしょうか。(p9)

    王が王座に坐しておられるにもかかわらず「支配されていない」とはどういうことでしょうか。それでは、現在王として何をしておられるのでしょうか。(p9)

    マタイ19:28「世が改まって人の子がその栄光の座に着くとき、わたしに従ってきたあなた方も12の座について、イスラエルの12の部族をさばくのです」やマタイ25:31の人の子がその栄光を帯びてくるとき人の子はその栄光の位に着きますなどからすると、キリストは、再臨の時に初めて王座に着かれるのであり、今は神の右の座でその時を待っておられるのではないでしょうか。(pp.9−10)

     このあたりのところが、NTライトの聖書の読み方(Narrative)として聖書を読んでいく読み方と、我がキリスト者集団の大半の人々などや、この高木氏の聖書のあるべき読み方であるとも主張されている字義通りの聖書解釈がぶつかるところなのだろうと思う。特に最後の3つの質問は、字義通りの読み方、特定の場所だけにこだわって読むようなマイオピック(近視眼的)な読み方をする方が多いわがキリスト者集団の人々には、How God Became King(最下部参照)などが読みにくい原因となるだろう。ただ、どんな対論が当日会場でなされたのか、ということはちょっと知りたいように思ったが。

     次に古林氏の論文(これは完全に論文スタイル)では、個人的な神学理解の変遷を踏まえたうえで、Dispensation 主義の再考をしておられた。面白かったのは、認知とそれが言及するもので触れられている部分で、象徴をどう読み解いていくのか、文脈から象徴をどう解釈していく部分の検討が必要だという部分であったかな。

     あと、面白い部分を少し引用しておこうかと。以下、赤字はミーちゃんはーちゃんによる補足。

      我々が提案したいことは、D主義(ディスペンセイション主義)としての一貫した字義的解釈という基本を捨てることは、早まったことだということである。文法的―歴史的解釈は、すべの福音主義者たちによって採用されているが、創世記から黙示録まで一貫してそれを適用するのは、D主義者だけだと、多くの人が認めている。非D主義的福音主義者たちは、文法的―歴史的―神学的解釈用いる傾向にある。(ゆるやかな霊的解釈。なぜなら旧約のイスラエルを彼らの信じる新約神学の基礎にしたがって、教会と置き換えるので。)(p8)
      (中略)
     おそらく一貫性ある字義的解釈への批判者たちの中には、古いD的立場をとるともに対して過去とした苛立ちを感じる人々がいるが、それは我々あの現代文化が持つ解釈学的な「前理解」のインパクトによるものではないだろうか。今日の風潮は、自己中心的相対主義のそれであって、絶対真理の概念に基づいた認識論ではない。この発想は、確実性を破壊した人々の中に、煮え切らない態度を創り出すものである。
     もしも前理解が思考にインパクトを与えるのなら、その通りではあるが、一貫した字義的解釈の拒否は、D主義の発展というより、D主義の外で広く受け入れられている解釈法の採用の反映に他ならなるのである。(p9)
    という表現が少し目を引いた。古林氏も古林氏のお立場は良く存じ上げないのであるが、字義通りの解釈はすべからくD主義に至らなければならない、という前提があるように感じられてしょうがない。ミーちゃんはーちゃんは、基本キリスト教界におけるゲリラ活動家なんで、別に使えれば何でもよいという工学的発想に立つので、この解釈法しか採用してはらなないとは全く思っていない。そういう立場からすれば、一番最後の部分は、D主義の孤立化を指示すような一種のにほひを感じるのだが。
     あと、面白かったのは、今後への提言の中で触れられていたことである。赤字部分はミーちゃんはーちゃんによる。

     「知っていることに基づいて、知らないことを説明する」(From known to unknown)ということが教育学や教授法の常道であるが、今回のレポートをまとめようとして、私自身まだよく走らないことを土台にして、もっと知らないことを説明しなければならないことに気がついた。これはやればやるほど、当人も聴き手もチンプンカンプンなレポートとなる。私の知る限り、わが国ではD主義(ディスペンセイション主義)神学と契約神学の間に、神学論争らしきものがないからであり、論争があってしかるべきだということすら一般教役者に走られてないような気がする。ここに我々日本人神学者の原点があるべきであり、ここからスタートしない限り、PDも他の論争もチンプンカンプンになる。

    と書かれていたが、しかし、D主義神学と契約神学の間の論争は、この本が出版された1997年以降、現在に至る15年の間になされたのだろうか。だれか教えてー!

     あと、高木氏と古林氏の意見を受けて、真鍋氏が書いておられることの中に、C.C.ライリーがプログレッシブ・ディスペンセイション説の批判として、C.C.ライリーらのリバイスド・ディスペンセイション説が字義通りの釈義に立つのに比べ、プログレッシブ・ディスペンセイション説はComplementary Hermeneutic(相互補完的解釈)であると批判しているのだけれども、この批判が、正しいのか、ということの検討が必要だ、としておられた。

     あと、真鍋論文から面白いところを少し引用して、この記事を終ろう。赤字部分はミーちゃんはーちゃんによる。

    RDの立場 ―Discontinuity(非連続)―
     この従来の立場は、教会を挿入された時代と見る。旧約聖書の預言の本来の成就ではなく、神の隠されていたご計画がこの時代になってはじめて実現して、神の預言者に明らかにされたとする。このような旧約と新約の教会の関係は、非連続の関係にあると言える。(p5)

    (中略)

     ここに見られるライリーの見解
    (概説新約聖書の神学 聖書図書刊行会(1981)p.92)はイエスの初期伝道と後期伝道を区別して、初期には千年の王国提示の宣教を行い、後期は奥義としての御国の宣教をしたと考える。もちろん、後期伝道は、今教会時代にあって私たちが宣教しているものと同じと考える。彼はマタイの福音書がこのような区別を明確に掲示していると考え、この福音書だけが神学の枠組を与えている福音書としている。この立場に見られるのは、旧約預言の継続としてのイエスの初期伝道と教会時代のあり方を掲示したイエスの後期伝道との間にある一種の断絶である。旧約と教会時代は「非連続」という関係でとらえられていると言える。このような見方は、ライリーだけではなく、RD
    (リバイスド・ディスペンセイション説)の立場に立つ神学者のほとんどに見ることができる。(p.6)

    ということであった。この当否は、ミーちゃんはーちゃんにはわかりかねるが、リバイスド・ディスペンセーション論の人々が、マタイの福音書だけを重視するのであれば、ある種のバランスを崩した聖書理解ともなりかねないよなぁ、とは思った。リバイスド・ディスペンセイション説は、クラッシック・ディスペンセイション説に比べて、もうちょっと、ぶつぶつに切られた昔給食で出てきていたスパゲッティを食べている感じなのだろう。個人的には、のど越し重視派なので、長い固ゆでのスパゲッティや長浜ラーメンでも、カタ(ハリガネのちょっと前)が好きなのだが(それはどうでもよい話であるが)。

     真鍋論文の最後の結語の部分の記述を引用して、今回のものを終ろう。

     従来のRD
    (リバイスド・ディスペンセイション説)は教会時代に対する不当な扱いに過激に反応するあまり、教会時代を聖書が指示していることを超えて旧約聖書において過小評価してしまったと思われる。イエス・キリストの教会は、旧約聖書の重要なテーマであるにも拘らず、それがほとんど掲示されていないかのような立場をとってしまった。ここに、教会挿入説とか王国延期説とかいう神学的立場を許してしまうことになったのである。
     PD
    (プログレッシブ・ディスペンセイション説)は、このようなRD
    (リバイスド・ディスペンセイション説)の行き過ぎに気づいて出てきたところがある。最近の福音主義神学研究の中心の一つである新約における旧約の引用の徹底した聖書神学的研究は、新約の著者がいかに全面的に旧約の啓示によっており、そこにイエス・キリストの初臨から再臨に至る人類救済の業が見事に預言されていることを明らかにした。(中略)ここに見るのは、旧約と新約のダイナミックな相関関係である。教会時代が挿入だるという考えからは程遠い密接な関係である。PD(プログレッシブ・ディスペンセイション説)が打ち出したCH「相互補完的解釈」は、このような違いから捉えなければならない。
     PD
    (プログレッシブ・ディスペンセイション説)は完全であるとか、問題のない神学体系であるとかいうつもりはない。ただ、契約神学、あるいは置換神学といわれるものの明らかな行きすぎと従来のRD
    リバイスド・ディスペンセイション説の持つ行き過ぎに気付き、聖書的是正を加えたことだけは確かである。(p.9)

    なるほど、こうやって説明されてみると、プログレッシブ・ディスペンセイション説に立つUgoUgoコメント王子には、NTライトの議論はあまり違和感がなく、従来型のクラッシック・ディスペンセイション説やリバイスド・ディスペンセイション説では、違和感が強いというのがすっきりとわかった感じがする。

     しかし、学び手であるミーちゃんはーちゃんがこのあたりをきちんと区別せずに一緒たくれにしてディスペンセイション説というもんだから、混乱が生じたのだね。そもそもうちのキリスト者集団では、ディスペンセイションというと、「何それ、おいしいの?」の人が多いので、その味わひの区別もつかない人が多いかもしれない。それはそれで、幸せなんで、その幸せなままでよい方はそのままの信仰生活をお続けくだされたく・・・。





    評価:
    Clarence B. Bass
    Wipf & Stock Pub
    ¥ 1,698
    (2005-02-27)
    コメント:すこし内容的には古いが、福音聖書神学校に客員としておられたらしいBassの本。Dispensation主義神学の背景について、わかりやすい。ブラザレン史の入門書にもなる。

    評価:
    N. T. Wright
    HarperOne
    ¥ 1,810
    (2012-03-13)
    コメント:FB上での読書会での指定図書。聖書の読み方に偏りがあるだろうなぁ、ということと、ローマ皇帝時代にイエスがいかに画期的な人物であったのかを知ることになった1冊。お勧め。

    コメント
    >それはそれで、幸せなんで、その幸せなままでよい方はそのままの信仰生活をお続けくだされたく・・・。

     ものすごい斜め上から目線なんですが・・・

     デモよ〜〜〜〜く考えてみてください。識らないってことがどれだけ心に平安をもたらし、豊かな信仰生活を紡いでくれるかを・・・
     ナマジ、神学などかじると、次々と識らなかったことが明らかになり、学ばねばと焦燥感に急き立てられることか。

     フレンドに若干あこがれがあったりします。
     アーミッシュとメノナイトにもすこし・・・
    • ひかる
    • 2013.02.13 Wednesday 17:25
    ひかる様、コメントありがとうございます。

    あー、そうなんですよね。識らないことはある面、幸せなんですよ。人生が残り、どう考えても、10年未満の人に、考えなおしてくだされ、とは言いにくいんですよ。正直。うちの教会(集会)にもそういう方がおられるので、その人たちに向かって、ねェ。「過去の考えをお捨てくだされ、あなたの信じてきたことは、どうもまつがいでした。」と人生の最後に不幸のどん底に落としこむのはどうかな、ということで、

    >幸せなんで、その幸せなままでよい方はそのままの信仰生活をお続けくだされたく・・・。

    なんです。

    しかし、どうも聖書理解の根本的な雰囲気が違うのにもかかわらず、これからの世代に残りの人生がどう考えても10年未満の方が、講壇から(うちは生涯現役体制なので)や他の場所で自分の物差しで若い人の人生の生き方をはかり、そればかりでなく、若い人々の生き方を縛るのは、個人的にどうかなぁ、と思うので、こういう表現しかないかなぁ、と。

    ウエメセでも、冷めているわけでもなく、現実的には、このあたりで落とさないとね、というあたりなんですね。知りたい人に知らなくてよい、というのもミーちゃんはーちゃんのスタイルではないので。

    ただ、残りの人生が10年未満他人の幸せは壊したくないし、現在の20〜30代の若者たちの生き方は縛りたくないし。この辺が、教会全体を見るものとしては、どの辺でバランスとるか、神経使うんです。実際。

    まぁ、ミーちゃんはーちゃんが技術者だからかもしれませんが、現代の様にこれだけ多様な文化や思想や考え方や文献がある社会の中で、考えたほうがいいのは、その文化や思想や考え方や文献が実用上どの程度の有効性があるか、ということであるようにおもいます。まぁ、今回の記事の様に分類して遊ぶことに意味があるわけではないのはご指摘の通りです。

    まぁ、別記事の怪物クンへのリプライコメントにも書きましたが、まぁ、ここのところの連載記事は、ある面最後の花火(すかしっぺ。下品でスマソ)への序章ではあるのですね。

    まぁ、ディスペンセイション説について、もうちょっと知りたいとおっしゃってくださる奇特な方もおられたので紹介している次第。また、最近の連載のディスペンセイション神学研究会後発行のご紹介中の本がなかなか入手が困難だということもあるので、まぁ、ポイントだけでもお知らせしているのがここのところの連載の意味です。

    アーミッシュは、一つの極致ですし、フレンドも極致ですね。ブラザレンもその意味では、極致でしょう。実際にそれを貫くのはかなりしんどいですけど。

    ミーちゃんはーちゃんは、乗りかかった船なので、最後まで乗っているかもしれません。なんかそんな気がします。

    コメント、ありがとうございました。また、コメントいただけたら幸甚でございます。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2013.02.13 Wednesday 22:49
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