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2013.02.09 Saturday

人生いろいろ、ディスペンセイション説いろいろ(2)

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     では、お約束通り、今回もディスペンセーション神学研究会の資料集から、面白そうなところを拾っていこうかと。今日は、第1回の資料集から。

     前回、クラッシック・ディスペンセイション神学、リバイスド・ディスペンセイション神学、プログレッシブ・ディスペイセイション神学という3つの分類があることをばお話ししたが、その共通土台として、第1回資料集の中で、真鍋(1996)では、19世紀のブラザレン運動に起源があるとされており、ナイアガラ聖書会議で、20世紀初頭のアメリカのキリスト教会に影響をもたらし、1909年のScofield Reference Bible(いわゆるスコフィールド版聖書と呼ばれる注釈つきの欽定訳聖書)の普及に伴い、スコフィールド版聖書に付された考え方が、ディスペンセイション神学と呼ばれるようになり、根本主義運動(Fundamentalismときに聖書原理主義運動とも呼ばれる)の神学的土台になったとされている。

     さらに、真鍋(1996)では、このディスペンセイション神学の共通要素として、8つの特徴が共通してみられる、ということが指摘されている。


    1.聖書の権威性
    2.ディスペンセイション(神との人類がかかわる方式を明示するある特定の配剤)の存在
    3.教会の独自性(異邦人とユダヤ人の区別のなさなど)
    4.普遍的教会の実際的意義
    5.聖書預言の重要性
    6.艱難期を未来のこととする千年紀前再臨説
    7.キリストの切迫再臨(艱難期後携挙説を含む)
    8.イスラエル民族の国家的回復


    そのうえで、古典的ディスペンセイション説の特徴として

    1.二元論的概念(天的な贖われた人々(教会)と地上的な人類)
    2.ディスペンセイション(神による人類の忠誠のテスト)
    3.教会の性格としての天的性質の強調(組織としての教会の区別と歴史的挿入物としての教会理解)
    4.二元論的聖書理解(世と神のもの)
    5.聖書における契約の分割(アブラハム契約の天的・地上的性質とそれ以外の契約は地上的性質)

    という性質があり、

    さらに、修正ディスペンセイション説の特徴として(同じものは省略)、
    1.二元論的な見方の修正
     天的存在と地上的な人類の区別の緩和とイスラエルと教会という区別の導入
    2.永遠の状態
     イスラエルと教会もともに永遠の命を持つ
    3. 神の国
     霊的な王国(教会)と王国の奥義的な形式(キリスト教界)C.C.ライリー
     教会時代を神の王国の奥義的な形式(教会)ワルバード
     現代の神権王国(D.ペンテコステ)

    という特徴があり、最後にプログレッシブ・ディスペンセイション説の特徴として、

    1.漸進的啓示における善的な贖い
     地上的、国家的、政治的、社会的、霊的などの諸領域からなる包括的な救い
    2.ディスペンセイション
     歴史的に継続して、連続的に変化する神の配剤としての理解
    3.教会の性質
     イザヤ、エレミア、エゼキエルの預言した新しい契約(預言)の成就としての教会。
     ただし一部は未完
    4.聖書理解
     不断に発展し続ける歴史的な字義的解釈と一致した字義的解釈
    5.聖書の契約
     アブラハム契約がすべての契約の基礎であるが、新しい契約はキリストの再臨で完成。
    6.神の国
     神の国と終末的預言は一つであり、神の国と天の御国の区別は存在しない。
     
    とまとめておられる。

     あと、この巻で参考になったのは、もともとこのディスペンセイションは、テルトリアヌスがギリシア語のoikonomiaをdispensatioとラテン語訳したことに端を発するらしい。また、このディスペンセイションという概念の5つの特徴は、

    1.人間の歩みに対する神の主権性
    2.神の目的と全体的な計画
    3.神と人との相互関係性
    4.人の側に責任や要求されていることの存在
    5.ディスペンセイションの推移の存在

    という点があるということとされている。

    あと、プログレッシブ・ディスペンセイション説の最大の特徴は、従来型のクラッシック・ディスペンセイション説やリバイズド・ディスペンセイション説での教会の非連続(断絶)性や教会時代と千年王国時代の断続性への挑戦というのか、変更を聖書から吟味させる点にあるそうだ。

     服部(1996)において、非常に興味深い議論が展開されている。

     
    神は、いつも王としてふるまわれたということも可能である。(p8)

    という指摘や

     
    ダビデの子孫の支配者は全世界の支配者となり、イスラエルばかりでなくすべての民族を治めるようになる。彼にあってダビデの家は回復され永遠に確立される。彼は力強く神のみ玉に満たされており恵深く知恵に富んでいる。しかし、彼について一番良く言われている性格は正義である。彼は正義をもって支配される。
     その王国は世界的な政治的宗教的王国として立てられる。それは地上に建てられ、エルサレムに中心を置き、イスラエルばかりでなくすべての民族が含まれる。(p9)


    という指摘であり、これまでのクラッシック・ディスペンセイション説やリバイスド・ディスペンセイション説とは異なるプログレッシブ・ディスペンセイションの立場である。
     同論文によれば、プログレッシブ・ディスペンセイション説では、終末を終末の王国としてとらえ、それを4段階に分けて考えられているようであり、

     第1段階では、イエスの地上での生活での神の国であり、
     第2段階は異邦人とイスラエル人が同じ神を礼拝するという教会という形での神の国であり、
     第3段階は、千年王国時代を想定している王であり、地上に完全かつ、永遠にまた不滅のものとして完全にあらわれ、
     第4段階ということになるということらしい。

     なるほど、このようなプログレッシブ・ディスペンセイションに立つ見方であれば、NTライトの主要な主張と神の国の理解とはそう齟齬は起こさないだろうなぁ、と思った。

     個人的には、クラッシック・ディスペンセイションを、聖書を読む際の前提として当然かのように受け取っている信徒さんが多い、キリスト者集団にいる。その意味で、プログレッシブ・ディスペンセイション説の変貌ぶりには、ちーと驚き、これが同じディスペンセイション説とされることに驚きを感じたが、まぁ、クラッシックであれ、リバイスドであれ、プログレッシブであれ、一つの聖書理解の仮説にすぎないということを認識しつつ、素朴に聖書を読む努力が欠かせないかなぁ、と思った次第。

     まぁ、これらの前提なしに聖書が読みたい、それに縛られるのではなく、聖書を読みたい、そして、信徒さんにも、ある特定の聖書の読み方が『正しい』と思わずに聖書を読んでいただきたい、と思うのであった。

    参考文献
     真鍋 孝(1996)ブレイシングとボックの立場 前半, 第1回 ディスペンセーション神学研究会 資料集, ディスペンセーション神学会(福音聖書神学校)
     服部 尚(1996)ブレイシングとボックの立場 後半, 第1回 ディスペンセーション神学研究会 資料集, ディスペンセーション神学会(福音聖書神学校)


    コメント
    初めてコメントをさせていただきます。
    私は、PDの立場で学びを始めましたので、ライトの主張を非常に受け止めやすく感じています。


    PDにしろ、ライトによる聖書の見方にせよ、

    聖書そのものを、なるべく前提なしに読んでいこうとした努力の結果出てきたものであると思います。

    そこに、これまでに唱えられてきた前提へのカウンターがあるという面は否めませんので、ライトにしてもPDにしても「反○○」という強調があるのではないでしょうか。

    (教会へのとらえ方であったり、義という言葉の意味、ユダヤ教理解で。)

    そういう意味で、これらの読み方にもやはり、枠があり、そのもとで統合されていますので、偏った強調が含まれうると思います。

    素朴な聖書の読みということは、不可能に近いのですから、

    他の立場からの議論に応じるという姿勢をもって、

    ある枠を(自覚であれ、無自覚であれ)採用せざるを得ないのではないでしょうか。

     聖書の内容を語ろうとするなら、枠を持たずには語れないのですから、自分の枠を、修正可能な前提であるという自覚を持つことが精一杯であるように思います。

    • 怪物くん
    • 2013.02.13 Wednesday 13:30
    怪物くん様 コメントありがとうございました。

    あーKGKのOさんのところでお名前を拝見いたした気がいたしますが、その方とお見受けいたしました。

    >聖書そのものを、なるべく前提なしに読んでいこうとした努力の結果出てきたものであると思います。
    >そこに、これまでに唱えられてきた前提へのカウンターがあるという面は否めませんので、ライトにしてもPDにしても「反○○」という強調があるのではないでしょうか。

    これはその通りだと思います。いえば、CDでも、同じような側面はあるわけで・・・私がこのブログや別ブログしているのも、実はCDというかキリスト集会的あるいは福音派のキリスト教会的な何かへの反論でもあるのですね。実は。


    >素朴な聖書の読みということは、不可能に近いのですから、
    >他の立場からの議論に応じるという姿勢をもって、
    >ある枠を(自覚であれ、無自覚であれ)採用せざるを得ないのではないでしょうか。

    ある面、そうなんです。それが必ずしも悪いわけではない。ただし、繰り返しやっていると、それが正当化されてしまい、無批判になる部分があるように存じます。一種、ウソをつき続けていると、それを本人も本当だと思ってしまうというような例があるように。

    その面で、自己を批判的にとらえるということが大事だと思うのです。

    ある面、私は、ハーバマスの影響をかなり強く受けておりますので、理性におけるコミュニケーション(それが聖書であれ、個人であれ、異なる聖書理解であれ)にかけている部分があり、自己に対しても普段の批判を向けていく(しんどいことですが)していく必要はあろうかと思います。

    ただ、上にも書きましたように

    >クラッシックであれ、リバイスドであれ、プログレッシブであれ、一つの聖書理解の仮説にすぎないということを認識しつつ、

    が怪物くん様のおっしゃる

    >聖書そのものを、なるべく前提なしに読んでいこうとした努力



    >素朴な聖書の読みということは、不可能に近いのですから、
    >他の立場からの議論に応じるという姿勢をもって、

    というご指摘とパラレルな関係にあると私は思うのですがね。

    貴重なご指摘、ありがとうございました。

    まぁ、この一連の記事、UgoUgoさんのNTライトセミナーの記事 http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=357 へのコメントで、Classic Dispensationを前提にした私の議論と、UgoUgoさんのPDを前提にした議論がかみ合っていないことから調査が始まったことだったのですね。KGKのO主事さんが読んでおられた本をようやく読みました。福音主義神学会には属していないので、そんな本があることもつゆ知らず幸せな日々を過ごしておりましたが…

    知ってしまったのと、鹿たんさんという方から、ご希望が寄せられましたので、読んだついでにメモ代わりにまとめたものでございます。

    まぁ、あと最後の記事までもう2回ありますので、最後に一番の本音の部分を書いてしまおうかと・・・。現在のこれらの記事はまだ、それまでの地ならし部分です。最終回の花火をお楽しみに。

    コメント、ありがとうございました。また、コメントくだされば、幸甚。

    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2013.02.13 Wednesday 22:23
    コメントに丁寧に応じていただき、ありがとうございました。

    ご推察通り、O主事のブログによくお邪魔しているものです。

     かわむかい様の仰るとおり、私がコメントしたことと、記事でのべられている主張とは、並行関係であると思います。


    立場の違いから勝手に感じてしまった事が有り、コメントしたくなってしまったようです。

     
     語る側に立ちますと、やはり枠を持たずには、語れません。その中で、自己吟味、枠の再構築をし続けているという立場から見ると、


    >これらの前提なしに聖書が読みたい、それに縛られるので はなく、聖書を読みたい、そして、信徒さんにも、ある特 定の聖書の読み方が『正しい』と思わずに聖書を読んでい ただきたい、と思うのであった

    ということに、賛成なのですが、どこかしっくりこない、

    そもそも、枠なしには、読めないのでは?という自己弁護のようなものが入ってしまったように思います。


     所属されている団体に込められた思いや、以前の議論をわからずに、反応してしまいましたので、

    少しの差異に、敏感になってしまったように思います。


    >語り続けていると、無批判になりがち
    ということ、そのとおりなのだなあと、思わされます。

    ありがとうございました。
    • 怪物くん
    • 2013.02.15 Friday 07:54
    怪物くん様

     ご丁寧なお返事、いたみいります。

    >立場の違いから勝手に感じてしまった事が有り、コメントしたくなってしまったようです。

    いえいえ、コメントいただき、ありがたく存じております。まぁ、自分自身と自派に対する批判意識はつねに持ちたく思っておりますので、時にキーボードが先走りがちになり、物言いがかなり厳しくなったりはいたします。非礼の段、お許しのほどを。

    まぁ、最初は枠なしには読めないのは確かではあるのですが、枠にとらわれ、枠でしか読まない、そして字面だけ読んで、そしてどこかで聞いてきた話を再現しながら、わかった気になられる方がかなり多いのも悲しいかなまた事実ではあるように思うのですが・・・

    補助輪つけた自転車に、子供がまたがり、得々と「僕自転車乗れるんだ・・・」と言っているうちはかわいいのですが、大の大人が「自転車は補助輪をつけて乗るのが唯一正しい乗り方であり、他の乗り方があってはならない・・・」と講壇からのたまうのは、見ていて、「なんだかなぁ」と思います。本当に・・・。

    人間、枠を離れると不安になる部分もあるようで、その不安に耐えきれず枠にすがりつかれる方もおられるので・・・このあたりの塩梅がかなり困難であると存じます。

    コメント、ありがとうございました。

    また、お越しいただき、コメントしていただければ、幸甚に存じます。よろしくお願いいたします。

    ではでは。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2013.02.15 Friday 12:22
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