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2013.02.04 Monday

チャーチホッパーについてなーんとなーく思うこと 現代の教会

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     この前、チャーチホッパーの話を

     お一人様クリスチャンと元クリスチャン問題とブラック教会を考える(2)


     お一人様クリスチャンと元クリスチャン問題とブラック教会を考える(3)


    というブログ記事で書いていたら、親切な、そして、敬愛するK先生が以下のブログ記事をご紹介して下された。もともと、ご紹介いただいた記事は、Christianity Todayのサイトではある。大変ありがたい先生である。K先生、ありがとうございます。本当に、キリスト教関連の人間サーチエンジンのような方である(あ、鹿たんもだよぉ)。K先生、ありがとうございます。


     日本語変換しながら、紹介しながら、ミーちゃんはーちゃんの思うところを述べていきたい。赤字部分は、ミーちゃんはーちゃんのコメント。

    -------------------以下日本語変換-----------------------

    チャーチホッパーの弁護として

     チャーチホッパーは、多くの牧師たちをいらいらさせる存在であり、牧師は彼らのことを消費者、と呼ぶ。教会の指導者たちは、彼らを、成長が十分でなく、そこの浅い、そして、霊的な成長にとらえられた極めて深刻なケースの人々で、鳥肌が立つような感覚を求める人たちであるとされる。彼らは、ある自由参加形式の教会のもちよりパーティに参加するかのように、会衆(教会)をより好みするような関与意識に薄い人たちなのだろうか?

     まぁ、確かに、アメリカでは教会数も種類も多いので、消費者的な、いいとこどりをする薩摩の守、いやフリーライダーのような、いいとこどり大好きみたいな人たちがイメージされることが多いみたいですね。アメリカで、チャーチホッパーって聞いたら、そんな感じ。クリスマス・イースター(クリスマスとイースターは教会に行く)クリスチャン、クリスマスクリスチャン(クリスマスだけ教会に行くクリスチャン、イースタークリスチャンはあまり聞かない。)も案外多いしね。ま、これだと、神社に元朝参りに行くのとあまり変わんないかもしれませんね。確かに。(ちなみに、イースターはアメリカではイースターエッグハンティングのイベントがある教会も多く、このイベントをやると子供がやたらといっぱい来るらしい。カリフォルニアで通っていた教会で、このイースターエッグハントの手伝いもした。)

     チャーチホッパーはあらぬ濡れ衣を着せられているのだ。そして、我々は、これらの信者たちについて、真剣に考え、なぜ、彼らが長期的な関係を地域の教会員の人々と長期的な関係を結ぶに困難を覚えているのかを考えるべきであろう。

     これはそうだよね。チャーチホッパーと言え、彼らのすべてが真剣に考えていないというわけではないのはその通りである。チャーチホッパーの皆さまの一部がそうであったとしても。チャーチホッパーの皆様は、彼らが意図的にあっちこっちに動いている場合もあるだろうけど、止むに止まれず、チャーチホッパーになっている人も少なくないのは、その通りであると思う。日本では、これができないところも多いので、そうなるとお一人様クリスチャン化が進む。

     確かに、あるチャーチホッパーの人々は、消費者タイプというパターンに当てはまる人々もいる。彼らは、一つの会衆にこころから関与するのではなく、さまざまな教会を自分自身が必要と思うに従ってがぶ飲みしようとする人々である。神話的ともいえる『完璧な』教会を見つけようとして放浪している多くの人々がいるのだ。

     まぁ、あきらめがつくまでは、完璧な教会を求めて、西へ東へ、流れ流れて、フライング・ダッチマン(さまよえるオランダ人)ならぬフライング・チャーチマンになっちまった人たちが、いるのであろう。それこそ、フライング・チャーチマンという伝説ができるかもしれない。日本では、スーッと消えていくという意味でフライング・チャーチマン化していると言えよう。

     CSルイスの悪魔からの手紙ではこのことについて、信者の生活に関して破壊行為をどのようにするかを悪魔の未熟な手下のコーチする部分で、このことを少しふれている。『もし、人が、教会に行く習慣が抜けないとしたら、次にすることは、彼が教会の評論家や鑑定士になるまで、近所の教会すべてを回るようにすることだ』と。

     専門家は、教会のリーダーにこれらのさまよえる人々をどのように包摂すべきかを提案しているし、ほかの人々は、牧師たちにどのようにしてパラサイト(寄生者)のようなチャーチホッパーたちを避けることを薦めている。何年もの間、私は牧師たちがチャーチホッピングを人格的な欠陥や、キリストの弟子となることに失敗していること、成熟のなさ、信仰の緩みなどを理由とするの聞き続けてきた。

     チャーチホッパー、パラサイト信者説。私が言ってんじゃありませんから。アメリカで、そう言っている人がいて、そういうパラサイト信者を避けるように教えている人たちがいるってことで。水谷潔先生命名による「子泣きジジイ」信徒と似ているかもしれない。でも、チャーチホッパーは少し違うような気がするのだ。一部には、霊的成長の過程にある人々もいて、そのコミュニケーションができなくて、苦しんでいる人々もいないわけではないと思う。一応、もし、そういう読者がいれば、以下に紹介するロイドジョンズ先生の霊的スランプをお勧めする。名著である。

    しかし、興味深いことには、教会の会衆が動いているのではない。多くの研究が、指導的にある牧師の平均在職年数が、2年半から、7年程度であり、牧師がその教会を去る理由は、その教会から出た信徒と同じ理由が反響しているのだ。

     この部分を読んだときは、わが目を疑った。
    おい、まじかよ、と。

     確かに、アメリカの教会での牧師の移動は非常に激しい。教会数が多かったり、開拓しているのもあるとは思っていたのが、牧師もアメリカではこらえ性がない人たちが多いということか。多分。アメリカ人は、基本、こらえ性がない人が多いのは確かである。安易にペインキラーにたよったり、クイックフィックスと呼ばれる安易な解決策が大好きな人たちでもある。だからこそ、マニュアル本が受ける文化なのだね。そして、プラグマティストである彼らは、それをやってしまうのだ。そして、うまくいかないと他のマニュアル本にたよるという。

     そういう意味では、2年半から7年で、辞職というこの数字はアメリカならで、はかも。日本では、3世代にわたって同じ教会の牧会をしている教会というのもあるらしいけど。うーん、お隣の国かと思うてしもうた。この話を聞いたときは・・・。一子相伝もすごいが・・・。いやぁ、アブラハム。イサク、ヤコブ・・・か。

     底の浅いそして、成熟していない確信をもち、教会の分裂や混乱に直面した時、いなくなるような信仰をもった信徒は教会にもいる。身体的生活のストレスがもっとトラブルをうみだすようになり、チャーチホッピングするよりもそれらが価値あるようになると、彼らは混乱をやめ、チャーチホッピングをやめるのだ。

     物理的に電車に乗れなくなる、だれかに依存しなければならなくなる、となると、そりゃ、チャーチホッピングもできなくなりますしねぇ。まぁ、これでよい、と思えるようになるまで、探し続けるのも人の世の常、ですしね。この辺が、『消費者』(スーパーをはしごしてよいものを探し回る人たち)という言葉につながるのかも。

     牧師たちが教会について積極的に関与するよう、会衆に言うことでもあるヘブル10章24-25節の文脈が我々の究極の救いである。『また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。』これは、教会から離れた生活に移行しようとする人々に対して向けられた人であると同時に、私たちが、チャーチホッパーとなっている人々を支援するのを助ける方法も示している。

     教会に集うという関与は、確かに、霊的な成熟のしるしであるかもしれない。しかしながら、多くの教会に定期的に行く人々の多くは、家族や他の社会的な理由から、教会への帰属意識を持っているにすぎないのだ。教会を今なお探し回っている人々の背景には、さまざまな経緯があり、それが、前の教会での対立的な関係であったり、彼らが隠そうとするかもしれない、過去に道を踏み外したことや、他の多くの理由からそうしているのである。

     この聖書の箇所は、わがキリスト者集団でも、それぞれが所属する教会に行くべし、という根拠として用いられることも多いのだが、このヘブル書の表現からそのような解釈をとりだすためには、次の様な操作というのか、内容が意図的でないにせよ、加えられているように思う。

     「
    ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、」の中に勝手に

     「ある人々のように、自分が今いるこの教会(集会あるいは教派・教団)にいっしょに集まることをやめたりしないで、」

    と意識的にあるいは無意識的に太字下線付きの部分の文言が挿入されて語られることが多いような気がする。ま、うちは、基本使徒信条を知らない人が多いので仕方がないが・・・。まぁ、この種の誤解というか、十分な聖書理解が欠如しているが故の誤用(ミーちゃんはーちゃんに言わせると)は、使徒信条を言うところでもあるのかしらん。

     使徒信条の中には、我聖なる公同の教会を・・・信ず、があるはずなのに・・・。聖なる
    公同の教会がいつの間にか、自分とこの教会だけをさすものになっているあたりが・・・

     
    私と夫は、33年間の結婚生活で、チャーチホッピングの時期を過ごしてきた。確かに日曜日の朝、あちこちの教会に行き歩くことやハイキングに行ったりすることは、より楽しい経験であったりしたのだろうが、私たち夫婦のコミュニティを求める気持ちや、意味ある集団的な礼拝は、私たちの新参者としての疲労を毎度打ち負かすものであった。

     私には、現在、何人もの、チャーチホッパーと呼ばれる人々がいる。これらのさまよえる人々は、ある場所に留まりたいと望みながら、彼らは、定着する教会となるとそこを見つけるのに、非常に厳しい困難を考えているのだ。

     そうなんだよね。こういう何処にも属せない信徒さん、フライング・ダッチマンならぬフライング・チャーチマンやフライング・チャーチウーマンの皆さま方が、こちらのブログにもいらっしゃるみたいだし、また、別ブログにも時々いらっしゃって、遊んでいってくださる。

     はい、うちのブログは歓迎してますよ。どなた様も。こういうフライング・ダッチマンならぬフライング・チャーチパーソンの皆さまももちろんでございます。皆様は、下の画像のような状況に不幸にして陥っておられ、そこから、脱出しようともがき苦しんでおられるの方も少なくないことはよく存じ上げておりますので。はい。また、適当に遊んで行ってください。このブログを見ている限りは、『信仰の破船』とか言って、皆様方のことを裁いたりはしませんから。フライングダッチマンは、ちゃんと、水中航行も水上航行もできるスーパーシップですから。ただし、すーっと音もなく現れ、音もなく消えていくという意味でも、日本の場合はフライングチャーチマンかも。詳しくは、ディズニー映画、パイレーツオブカリビアン 三部作をご覧下され。

     それに、個人的に、リアルな環境の中で、そういう方ともお付き合いが何人かございますし。いろいろ、そういう方にお聞きしてますと、でも、フライング・チャーチパーソンとなられてしまった方だけに問題があったわけでもないし、教会や他の教会だけに問題があったわけでもございますまい。不幸な一時的なことだと心得てござるがゆえに、ご安心を。



     上の写真は、映画パイレーツ オブ カリビアンに出てくる、フライング・ダッチマン

    次のような人を考えてほしい。
     以前の教会の中での人々の権力闘争に巻き込まれ、燃え尽きてしまった信徒のリーダー、これまで訪問したほとんどの教会で、悲しみを経験し疑いを抱いた人々、ある人々は一回だけ訪れるであろうし、ある人々はそこにしばらくとどまることもあるだろう。こういう人はあきらめていないのだ。健全な(教会という)コミュニティという中で回復が起きることを知っているからなのだ。

     この話を見ながら、ジャン・ヴァニエの「小さき者からの光」(あめんどう)のp57にある記述

    私たちは、自分自身が愛され、支えられない限り、他者を思いやったり、他者にかかわりを持ち続けたりすることはできません。これは不思議なことですが、人間の現実なのです。

    を思い出してしまった。クリスチャニティ・トゥデイのブログ記事を書いた人が言いたいのも、人は愛されて初めて、愛される存在であることを感じ、そうして初めて、他人を愛する存在になる、ということを言いたいのだろうと思う。
     そして、ミーちゃんはーちゃんは、みなさんがどこかの教会というコミュニティ、それも比較的健全なコミュニティの中で、支えられ、愛され、回復されることを願っておりますです。はい。

     遠方にある郊外の家族的な教会に行った、子供のいない20代のカップルは、二つの教会にいったものの、それらで『新来会者』としてみなされることから逃れられず、それぞれ6か月はとりあえず試してみた。しかし、彼らは、彼らが子供がないという事実から、部外者扱いされたのだ。その場所では、子供こそが、その教会内の会衆の中に入り込んでいくためのくさびであったからなのだ。

     これもあるよね。おばさん信者さんたちが新婚カップルを捕まえては、まだ子供ができないのはおかしい、と言い出したり、好奇や偏見の目で見る人たちもいない訳ではない。さまざまな要因が働いてそうなっているのかもしれないのに、それをそのまま受け止めないのは、どうなんだか、と思う。それこそ、俗悪なうわさ話、ではないだろうか。個人で、俗悪なゴシップを発行するのはおやめくだされ、と申し上げたい。そんなことをする暇があるのなら、神の前に静まり、だれにも言わず、神の前に祈って差し上げてほしい。そのカップルのために。それが、覆う愛というものではないだろうか、とミーちゃんはーちゃんは思うぞ。

     身体的、精神的障害を持つ特別な助けのいる10代のシングルマザーは、彼女が離婚したということから受け入れてもらえる教会がない。彼女が教会探しをやめてしまえば、簡単なことだろう。しかし、彼女は、霊的なサポートを求めているので、できる限り彼女は教会を訪れ続けるのだ。

     これに関して、子供たちがうるさいという理由のために教会に行けなくなったご家庭のことを思い出してしまった。具体的に何例か存じ上げている。非常に残念だと思う。イエスは、この小さきものを、とおっしゃったように思うのだが、それは、ミーちゃんはーちゃんの聖書理解が不足しているのであろう。多分。あと、礼拝をユダヤ教の教会の様にする教会も。子供が騒いでうるさいから、別室にするという。それって、なんなんでしょうね。

     このような害毒を含むような(toxic)教会でのネガティブな経験にも関わらず、孤独にもかからず、受け入れる気持ちや牧会上の配慮が不足する教会にもかかわらず、これらの友人たちは、家となるべき教会を見つけられるという希望を以て、教会巡りをしているのだ。

     ミーちゃんはーちゃんじゃないです。Toxicと書いたりしているのは。おまわりさん、この人です。ぜひ、この人のサイトで確認してください。
     しかし、この部分を読みながら、思い出してしまった。クリスチャニティ・トゥデイのブログ記事を書いた人が言いたいのも次のようなナウエンのことば(ヘンリ・ナウエン 『わが家への道』 工藤信夫訳 あめんどう)ではないだろうか。

     最も狡猾で、分裂を引き起こし、人を傷つける力は、神への奉仕と称してつかわれる力です。「宗教によって傷つけられた」という人のおびたたしい数に私は圧倒されます。牧師や司祭による心ない言葉、あるいは、人を裁くような言葉、ある主のライフスタイルを取る人への教会内の批判的意見、交わりの場に歓迎されない雰囲気、病気や死に瀕している人への無関心、その他のことで受けた数知れない心の傷。こうした傷は、この世から拒絶されたことにより、長く人々の心に残ることが多いものです。
     また、別居、あるいは離婚した多くの男女、あるいは大変な数の同性愛者たち、さらには多くのホームレスの人々が、神の家族である教会の兄弟姉妹から歓迎されてないと感じ、神のもとを去って行きました。愛をもって迎えられることを期待したのに、実際は宗教の持つ力にさらされてしまったのです。(pp.27-28)

    うーん。あ、これ、ナウエンが言っておるのですよ。

     彼らは、共に集まるのをやめているのではないのだ。彼らは、1世紀の散らされていたヘブライ人の信者たちに向けられたこれらのことばの精神を完全につかんでいる教会を探しているのだ。

      そう、ナウエンが言う宗教の持つ力に人をさらさない配慮をもった教会を探しているのが、フライングチャーチマンのようなお方たちの一部にはおられるのだろう。

     ルターは、『教会を見つけようとする人は最初に教会を見つけるべきだ。何処にキリストがいるか、そして、どんな信仰が彼の中にあるかを彼がどこにキリストの信者がいるかを知るまで、人は知ることができようか。』ある場合、彼らは教会探しのマラソンを続けていくのだ。

     最後に、チャーチホッパーの皆さん、フライング・チャーチマンの皆さん、フライング・チャーチウィメンの皆さん、フライング・チャーチパーソンの皆さん。良い教会と出会い、みな様の上に神からの平和と神の平和がございますように。
     そして、教会が言葉では神のメッセージを伝えながらも、行動では人のメッセージも伝えるダブルメッセージを伝える場になりませんように。ミーちゃんはーちゃんもそうならないように、とりあえず鎮まろう。

     

    以下、原文。オリジナルはこちら。
    ------------------------------------------------------------------
    In Defense of Church Hoppers

    They irritate many pastors, who label them "consumers." Church leaders have characterized them as immature, shallow, goosebump-seekers with a serious case of arrested spiritual development. Are church hoppers people with commitment issues who sample the congregations as if they were visiting one free-range church potluck?

    Church hoppers get a bum rap, and it's time for us to seriously consider these believers and why they struggle to maintain a long-term relationship with a local body.

    Yes, there are some church hoppers who fit the consumer stereotype, imbibing from a variety of different churches according to their felt needs rather than committing themselves wholeheartedly to a single congregation. There are plenty of church hoppers on a quest to find the mythical "perfect" church.

    C.S. Lewis' scribe demon, Screwtape, offers this bit of coaching to his young protégé on how to sabotage the life of a believer: "If a man can't be cured of churchgoing, the next best thing is to send him all over the neighborhood looking for the church that 'suits' him until he becomes a taster or connoisseur of churches."

    Experts offer church leaders advice on how to assimilate these wandering sheep. Others recommend ways pastors can rid themselves of church hopping "parasites." Through the years, I've heard pastors ascribe church hopping to character flaws, discipleship failures, lack of maturity, or flaccid faith.

    But curiously, congregants aren't the only ones moving around. Various studies cite the tenure of the average senior pastor ranging from two and a half years to seven years or more, and the reasons pastors leave their churches frequently echo the reasons given by exiting congregants.

    There are church members with shallow, immature belief whose faith may fade when faced with a church split or disruption. They've decided the mess and stress of body life is more trouble than it's worth, and the hop stops.

    Our perseverance is the context for Hebrews 10:24-25, often used by pastors to challenge members to commit to a church: "And let us consider how we may spur one another on toward love and good deeds, not giving up meeting together, as some are in the habit of doing, but encouraging one another―and all the more as you see the Day approaching." The passage refers to some who have downshifted to church-free lives, but also offers us a helpful way to support other church hoppers.

     The commitment to meet together may be a mark of spiritual maturity; however, plenty of church-goers maintain their affiliation solely for family or social reasons. Those still on the search for a church often have a backstory, whether a conflict at a former congregation, a moral misstep they are trying to hide or any number of reasons.

    My husband and I have been through periods of church hopping during our 33-year marriage. It would have been more pleasant to skip the Sunday morning visitor routine and go out for brunch or take a hike, but our desire for community and meaningful corporate worship trumped our newbie fatigue every time.

    I currently have several friends who might be characterized as church hoppers. These wanderers do long to stay put, but face steep challenges when it comes to finding a church home. Consider:

        A congregational lay leader has become burnt out after years of church politics at his former church. Every new church he visits triggers grief and suspicion; some after just one visit, others after he sojourns there for a few months. He isn't giving up, as he knows that the healing will happen in the context of healthy community.

        After a relocation to a family-centered far-flung suburb, a pair of childless 20-somethings can't seem to get past being the "new people" in the two churches they've tried for about six months each. They've chalked their outsider status up to the fact that they don't have children, which seem to be the key to cracking into these congregations' social circles.

        A single mom of a teen with special needs can't find a church hospitable to both her divorced status and her son's physical and emotional challenges. It would be much simpler if she gave up her church search, but she continues to visit churches when she can because she is longing for spiritual support.

    Despite a negative experience with a toxic church, despite loneliness, despite facing a lack of hospitality or ministry resources, each of these friends continues their hop with the hope of finding a church home.

    They have not "given up on meeting together." Their persistent and prolonged church searches fully capture the spirit of those words penned to the dispersed Hebrew believers in the first century.

    Martin Luther said, "Anyone who is to find Christ must first find the church. How could anyone know where Christ is and what faith is in him unless he knew where his believers are?" Sometimes it takes a marathon of church hopping to find them.


    評価:
    D. M. ロイドジョンズ
    聖書図書刊行会
    ---
    (1983)
    コメント:霊性の成長とその中での苦しみについての古典的名著だと思うのだが。なんと、14000円?リパブックス出んかな。

    評価:
    ジャン・バニエ
    あめんどう
    ¥ 1,260
    (2010-08-20)
    コメント:薄い本だが味わいのある、慰めと憐れみについて味わうことができる本。ナウエンがいたラルシュコミュニティの創始者の書かれた本。

    評価:
    ヘンリ ナウエン
    あめんどう
    ---
    (2005-07-20)
    コメント:良い。極上。すべての教会に傷ついた人々のためのレクイエム。在庫のあるうちにお買い求めを。次はいつ出ることか・・・

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