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2013.01.16 Wednesday

秀吉はなぜキリシタンを嫌ったのか、伴天連追放令の背景 第2回目参加記(4)

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     先月末に上智大学の大阪キャンパスで開催された講演会「秀吉はなぜキリシタンを嫌ったのか-伴天連追放令の背景」 への第2回目の参加記のその4を書いておこうかと思う。前回同様、以下、黒字は、川村先生のご主張。青は、ミーちゃんはーちゃんが思ったことである。

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     今回は、秀吉とこのキリシタンベルトと秀吉のキリシタン対策との関係である。

     なぜ、秀吉は嫌がったか、について、秀吉がこのラインに気付いたのが秀吉の九州征伐をおこなった、1578年ではないか。

     秀吉は、高瀬(現玉名)まで移動する。そこで、キリシタンにとっての高瀬と茂木の重要性に気付いた。この九州征伐が終わった直後、その帰り道に、伴天連追放令を出している。それに伴って、長崎を没収し、天領化している。この直後、1578年5月に大友宗麟没、6月に伴天連追放令、7月に大村純忠月没となっている。

     秀吉にとっては、大友宗麟の死去に伴い、九州に広がるキリシタンに遠慮する必要がなくなったのではないか。
     
     今回の講演会に参加させていただいて、大友宗麟をもう一度見直す必要があると思った。完全にブラインドサイドであった。完全に徳川政権時のの策に弄されていると思った。なんとなく、九州のおキリシタン大名の一人という感じでしかとらえていなかったが、実は、非常に重要な人物であったようだ。しかし、九州に住んでないと、郷土史関係の資料が入らんのでつらいなぁ。


     バテレン追放令の様々な解釈があるが、九州を統治するための方法として、キリシタンの自主独立的な地域形成は秀吉にとって避けて通れない壁ではないだろうか。自主独立したキリシタン寺内は、寺内町としての政権からの介入を嫌う性質に加え、領域を超えた形でのキリシタン寺内の連続性を恐れ、権力にたてつく危険性とその独自の論理性が許せなかったのではないか。そして、長崎の先に、フィリピン、インドのゴア、そしてポルトガルにつながる道を秀吉は見出したのであろう。

     長崎を完全に日本側に抑えられるのは、当時のポルトガル政府とイエズス会とは直接関係ないといわれてもポルトガルという海洋通商国家にとっては、つらい現実であったであろう。

     海軍をはじめとして、海洋通商国家の海運事業者にとって寄港地というのは生命線である。水や生鮮食料品を中心とした食料の調達地、武器の補給と補修、病人の治療、船員の休養・交代、船舶の補修などを実施する支援がないと、船舶だけでは機能しないらしい。

     現代の原子力潜水艦や原子力空母であれば、航行能力だけであれば、2年位は無寄港で機能できるのであるが、生鮮食料品や船員の休養、交代などがあるため、数カ月に1地度くらいは寄港する必要があるのだ。

     特に船底につくフジツボとかといった海洋生物の船底への付着は船の速度をむちゃくちゃ落とすのである。航海しているだけで、これらの海洋生物が付着するので、それを定期的に外していくためにも入港して作業する必要があるのだ。今の船は、塗装で付着をある程度は防止しているというものの、定期的なメンテナンス作業は欠かせないのだそうで。

     その意味で、極東の寄港地としてのマニラ、台湾(キールン)、琉球、長崎というのは重要であったものと思われる。


    長崎は、インドのゴア、マカオとよく似ている。これらは、拠点開発方式で建設されていった。

    インドのゴアの地図は、こちら。
    http://mapsofgoa.com/old_goa/#&lat=15.500995&lng=73.911166&z=15&mt=hybrid


    マカオの地図はこちら
    http://memory.loc.gov/ammem/gmdhtml/macau/macau.html


     こういうの見ていると、スペイン系の人たちがどちらかといえば、大陸型、領土型国家を目指したのに比べて、ポルトガル人が海洋型通商国家を目指していったのがよくわかる。カリフォルニアにいた経験で言えば、スペイン系の人々は、支配国で、陸路にかなり頼った感じがする。カリフォルニアにある、エルカミノレアルなんかが典型的にそうである。まぁ、カリフォルニアでは、海岸ががけばっかなうえに、寒流が流れ込んでいて海水温が異様に低いので、港をつなぐ形の拠点開発方式がなじみにくいかもしれないけれども。

     多分、この形式はどの国の海洋国家もとった方式であり、海洋通商にとっては、これが一番便利がいいのである。古くはフェニキア人やギリシア人がこの方式を採用しているし、その後継者のヴェネツィア人は、中世の都市国家を挙げてこの方式に取り組んだものと思われる。このあたりのことは、海の都の物語参照されたい。


     要するに秀吉君は、キリシタン寺内町の連続体であるキリシタンベルトを許容できなかった。その結果、バテレン追放令につながったのではないかということである。秀吉は九州征伐の中での実地踏査でこのキリシタン寺内が九州の大友領内に点在とはいうものの、街道に沿う形で存在し、それが連携していることを発見しており、その最たるものが、長崎にあることを見たため、バテレン追放令を出したと考えるのが自然であろう。

     バテレン追放令の後、イエズス会はどうしたかの対応については、長崎に教会領が無くなった後、慎重に秀吉と対応したらしい。その結果、1597年26聖人殉教 26人中23人がフランシスコ会の修道僧 イエズス会は3人だったらしい。その意味で、この長崎の26聖人の殉教事件は、どちらかというと、イエズス会の事件ではなく、フランシスコ会の事件と言えよう。
     この時の画像が、こちらhttp://www.cbcj.catholic.jp/jpn/memo/26_saints.htmであるが、大きな十字架は23基であり、これはフランシスコ会側の犠牲者らしい。そして建物の中から見ているパーデレたちは、どうもイエズス会を示すらしい。(ソースは川村先生)

     逆の絵もあるらしくそちらでは3人のイエズス会士が上に書かれており、下側には、23の十字架が書かれているという画像があるらしい。

     このあたり、イエズス会とフランシスコ会の違いを際立たせていて面白かった。

     ミーちゃんはーちゃんが住んでいたカリフォルニアは、基本フランシスコ会が伝道して回った地域であり、地域をカトリック的信仰で塗りつぶすかのようなスペイン型のミッションが見られた地域であり、拠点支配、という感じにはなっていおらず、ローラー型領域支配になっていたように思う。このあたり、カリフォルニアの歴史をきちんと学校で習ったわけではないので、何とも言えないが。

     高校の世界史は、中世を暗黒時代でひとまとめにする先生から習ってしまったので、中世ヨーロッパ史をまともに勉強したことがない。残念だなぁ。今、あわてて勉強しているが。そんな関係もあり、スペインとポルトガルの微妙な関係はよくわからない。


     秀吉は、キリシタンの影響があまりにも目に余るので、もう一度追放令の強化したと理解するのがよいであろう。石田光成は完全に抑えるのは、ほとんど無理と進言した。それに対して秀吉は、あのイエズス会については無視しててもよい。おとなしくしているから。しかし、殉教目的で入国し、あちこちの街頭でアジ演説しているフランシスコ会の人々許さない、と言っている。(←ソースは不明。川村先生談)


     イエズス会は、文化に順応しながら伝道を考えたものの、フランシスコ会系は、南米からフィリピン経由。トップに宣教することで、キリスト教国化が成立した歴史を経由した国からきていることもあり、同じ方法論を日本にも適用したのではないか。その結果、既存文化を無視する形で考慮しなくてやってくる。スペイン、フィリピン的な十字架を掲げ、我に艱難辛苦を与えよ、といったような新興スタイルを称賛するような宣教方法であったらしい。こんな狂信者が増えてはかなわん、ということで、秀吉は、宣教の弾圧に向かったのではないか。

     フランシスコ会はスペインでは洗足派、厳格派、がちがちの超右派連合である。その意味で、清貧を主張している派閥であり、それが日本にやってきた。ちょうど、この厳格派の日本到来が伴天連追放令前後であった。狩野内膳(神戸市南蛮美術館が所蔵する南蛮屏風の作者)はフランシスコ会をはだしに描いている。狩野内膳は、内部者ではないかという説もある。

     その図(部分)が、こちら。



     赤で囲った部分の黒服を着ているのがイエズス会士、青でくくった部分のグレーの服を着て荒縄で帯の代わりにしているのがフランシスコ会士。確かに、グレーの服は、はだしだし、顔つきがちょっとおっかない。黒服は、靴を履いている。

     確かに、現地化の問題一つとっても、当時の聖書翻訳において、神という概念を説明するのに関して、現地化の苦労をしたのは、イエズス会であったらしいことをにおわせる記述が、鈴木範久氏の「聖書の日本語」に見受けられる。なんせ、神を大日と翻訳してしまい当時の日本人からちょっと好奇の目で見られたという記述が鈴木氏の本に出てくる。

     この辺、フランシスコ会とイエズス会の微妙な違いが見受けられて面白い。事実かどうか知らないが、フランシスコ会の強烈さが出ているエピソードとして、このフランシスコ会の名前のもとになったアッシジのフランチェスコ(ミーちゃんはーちゃんが最近もらった宝物の
    Theologian Trading Cardによれば、アッシジのフランチェスコはMunich Monks所属で、同チームのメンバーには、Benedict of NursiaやCatherine of Sienaなど)は十字軍のときに、エジプトのスルタンのところに巡礼を認めよと交渉に行き、このエジプトのスルタン相手に伝道したらしい。そのあたりのことが、塩野七生の十字軍物語にも書かれていた。史実性は知らない。

     しかし、この殉教に向かって敢えて突進していくような一種の狂信性とでもいうような性質は、確かにフランシスコ会の持つ強烈さであり、強靭さでもあるような気がする。特攻精神あふれる人々であったようだ。その意味で、メキシコから太平洋を渡り、フィリピンを経由してやってきたスペイン系のフランシスコ会の狂信的にも見える信仰者集団と、インドのゴア経由で日本にやってきたポルトガル系の宣教師ではどうも味わいが違ったらしい。

     なお、十字軍が出たついでであるが、アラビアのロレンスで知られるロレンスは、この十字軍の城郭研究をしていたらしい。それも塩野七生の十字軍物語に書かれていたような気がする。そういえば。

     次回でこの連載の最終回その5 なぜ、秀吉がキリシタンを嫌ったのか、についての講演会の報告です。よろしければ、次回もどうぞ。



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    コメント
    >長崎に教会領が無くなった後、慎重に秀吉と対応したらしい。

     まじめに資料に当たったわけでもありませんし、まともに学んだわけでもありませんが、その後触れておられるように、この二つの修道会の伝道方針は大きく異なっていたとの見方はよく聞きます。

     これが修道会の方針によるのか、たまたま来日したグループの性格によるものなのか・・・
     不確かな伝聞記憶ですが、イエズス会の本部への報告書で、フランシスコ会の布教方法を現地の事情も知らずにトラブルを起こして此方までやりにくくなっていると批判しているとか・・・・
    • ひかる
    • 2013.01.16 Wednesday 10:58
    ひかる様

    コメントありがとうございます。どうもねぇ。修道会ごとに、神父様の雰囲気も信徒の皆さんの雰囲気も実はかなり異なるようです(ただし、カリフォルニアの経験のみからです)。今回少しふれましたが、フランシスコ会の持つ特有の苛烈さがカリフォルニアでもあったやに聞いております。

    おそらく、たまたま来日したのがゴア経由のポルトガル人系宣教師だった、というのがあるとは思います。

    >イエズス会の本部への報告書で、フランシスコ会の
    >布教方法を現地の事情も知らずにトラブルを起こし
    >て此方までやりにくくなっていると批判していると
    >か・・・・

    このお話も、川村先生はしておられましたが、まぁ、日本にはフランシスコ会の方もおられますし、フランシスコ改訳聖書も使いますもので、あまり失礼に当たってもいけませんので、やんわりとまるめております。

    コメント、ありがとうございました。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2013.01.16 Wednesday 12:52
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