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2013.01.12 Saturday

秀吉はなぜキリシタンを嫌ったのか、伴天連追放令の背景 第2回目参加記(3)

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     途中、2回ほど別話題が入ったのだけれども、また、通常トラックに戻しておこう。

     先月末に上智大学の大阪キャンパスで開催された講演会「秀吉はなぜキリシタンを嫌ったのか-伴天連追放令の背景」 への第2回目の参加記のその3を書いておこうかと思う。前回同様、以下、黒字は、川村先生のご主張。青は、ミーちゃんはーちゃんが思ったことである。

    -------------------------------------------------------------------------
     大友宗麟の九州経営とキリシタンについてのお話があった。大友宗麟は、沖の浜に南蛮船が漂着した時(1551年9月)に、フランシスコ・ザビエルを自邸に招いている。この時、大友宗麟(23−24歳)、ザビエル(42−43歳)であったらしい。 

     大友宗麟は、その政権確立に当たって、大友義鑑に対するクーデターでもある、2階崩れの変(大友館の2階で起きたクーデター事件)の結果、大友宗麟は家督を継承することになる。父が派遣していた菊池義武(おじ)を肥後で破るし、その後、豊前、筑前の実効支配を画策に着手する。

     この結果、九州は竜造寺・大友・島津の三つ巴の戦いになり、とくに、肥後熊本のとりあい(竜造寺と大友と島津)をすることになる。今の県の領域でいえば、薩摩の島津、大分福岡あたりの大友、佐賀を支配した竜造寺という勢力分布の中に、大村氏は西郷氏や深堀氏という大村領の周辺の土豪との対決、竜造寺の島原北部の侵攻、諫早制圧などがある。この時期に、大友氏は宮崎県の耳川で島津に大敗して以降、大友氏はその勢力が凋落し始め、支配領域は、豊後に限定され始める。そして、この衰退過程の中、大友宗麟はキリシタンになる。

     大友氏側から見てみれば、南からは、いつも薩摩島津氏に責められ、天草・八代・阿蘇周辺・豊後は大友宗麟の領域であり、これに、キリシタンつながりということで、大村氏(肥前)・有馬氏(島原)との連合で生存をはかろうとするところがあったのではないか。そこに、竜造寺が、くさびを打ち込むように肥前から南下政策をとり、強行突破しようとする中、百合野合戦で、島原統治していた有馬氏が大敗する。その中で、竜造寺が北側から島原半島に侵攻し、諫早(伊佐早)を橋頭保として占領する。この結果、島原半島の北目(ほとんどキリシタンなし)と南目(ほとんどキリシタンばかり)に文化が大きく分かれることになった。

     この中で、島原半島にある口之津(現在 長崎県南島原市口之津町丙4134−71)は非常に重要であった。ポルトガル船の来航地のひとつであり、イエズス会のヴァリニャーノが来た。

     口之津は、島原半島の南西端にある港であり、島原湾に入るための通路に待っている町である。ちょうど、黒海に入る艦隊を睥睨するコンスタンティノープル、地中海に入る艦隊を睥睨するジブラルタルと同様に重要拠点であった。そして、ここを押さえるものが、島原湾、八代海有明海を抑えると言ってよい。

     海軍の寄港地としては理想的な場所であり、戦略拠点であると言ってよい。特に西側に山を抱えることで、この口之津は、偏西風からの影響を防げるばかりか、港湾としては非常に望ましい条件を持っていると言えよう。おそらく、山がすぐに迫っていることから、港湾深度が深く巨大な船の入港にも耐える港であることが想像される。

     これを放置する海軍人はいない、と思われるほどの良港である。土地支配型の領主であれば、港自体は小さいので、あまり意味がないのだが、海上交通において、港が存在することは非常に大きな意味を持つ。このことに関しては、下記に示す塩野七生の海の都の物語をご覧いただきたい。



     さて、大友宗麟の領地とキリシタン分布を見てみると、完全に重なる。大友宗麟は、一時的とはいえ、博多、日田、秋月を拠点として領有しており、キリシタン分布を見ていると、大友領とその付近にみられる。これが、佐賀のあたりとなると、もうキリシタン痕跡を見つけるのは実に困難で、薩摩でも困難である。

     長崎は良好でもあるのだが、大友領という意味では、他の敵対する封建領主の領土内で長崎は孤立している。

     また、ルイス・アルメイダは大友領内を歩き回り伝道しているらしい。その大友領内の朽網(現在の長湯温泉のあたり)には、ルカスと名乗る長老のもとに共同体があったことが記録に残っている。

     このルートの近傍に、肥後街道、豊後街道の存在したらしい。このキリシタンベルトの北周りの途上に甘木があり、その先につながる博多への日田街道がある。このあたりにも、キリシタンの共同体の存在し、博多にもキリシタンの共同体があったらしい。

     前回も書いたが、日田はのちに天領になっている。日田は、この筑後川で有明海から遡上したところにあり、木材などを筑後川経由で輸送されたし、その後は石炭などがこの筑後川沿いに運ばれていった。日田の温泉は商業化されてつまらんが、泉質はそんなに悪くなかったように思う。

     以前のブログ記事で、このキリシタンベルトを紹介する際に菊池川経由での遡上し大分に抜けるルートを比定したが、個人的には、佐賀の龍造寺が領土を拡張していないときには、この筑後川沿いのルートをたどったのではないか、と想像している。というのは、筑後川沿いのルートの方が、ルートの高低差がかなり緩いからである。もし、筑後川南岸がキリシタンベルトであるとすると、この南側をたどりながら、日田に抜ける方がはるかに楽だからである。現国道387号線(旧日田街道)を菊池から、中津江、小国、ぬる湯(この温泉はなかなか素敵)川底、宝泉寺、壁湯、豊後中村、湯布院、別府と抜けていくよりは、筑後川を遡上し、大牟田、日田、小国、ぬる湯、川底、
    宝泉寺、壁湯、豊後中村、湯布院、別府と抜けていく方が自然なような気がする。おそらく、平時というか大友の勢力が増長していたときはこの筑後川ルートを使い、大友の勢力が弱体化すればするほど、より南側のルートを通ったものと思われる。ちなみに、最後にご紹介する森さんの比定ルートは、この筑後川ルートである。

     さて、玉名(高瀬と呼ばれた内水交通の港町 ちょうど京都の伏見に当たる)は、菊池川の上流の内陸港であり、肥後米の出荷港として栄えたばかりでなく、朝鮮中国からの貿易港でもあったらしい。非常に栄えた町らしい。ここにも、キリシタン共同体があったらしい。

     ここには、未だ行ったことがないので、今度九州探題に行くときには探索してみようかと思っている。その前に文献調査が先ですね。

     さて、このようにみてみると、キリシタンの街が、島原、高瀬(玉名)、長湯 府内となり、大分と長崎までを結ぶルートがあり、その拠点としての高瀬(玉名)があり、玉名と天草を結ぶ海上交通ルートがあったのではないだろうか。

     九州中部に点在するような感じではあるが、信徒の共同体があり、それを拠点に宣教師は行き来している。記録によれば、片道4日で往来したらしい。また、陸路より海上の方が楽である。

     お話の中で、当時の船を用いた海上交通路の話はあったが、当時の内水交通路の話があまりなかった。しかし、当時は、陸路よりもおそらく川下り路線の方が移動速度は相当早かったはずである。川の河口へ向かっての流れを使って、水上を移動すればかなり楽に移動できたはずである。それもあって、4日ということだったのであろう。距離で言えば、陸上ルート[のみ]で、160キロくらいであるから、一日徒歩の限界が30キロ換算で5日、40キロ換算で4日であるから、内水河川ルートで時間を稼がない限り、厳しいと思われる。まぁ、かなり急いで移動した上、途中馬を使ったとか、かごを使ったというのはあるだろうが。

     ところで、信徒の共同体、コンフラリア・ミゼリコルディアは、病者の世話以外にも、よきサマリア人の話のように、旅行者の支援というのがある。教会や修道院が十分成立しなかった日本において、それぞれの場所にあったコンフラリア・ミゼリコルディアが、旅行者の宿泊を提供する組織として機能したであろうし、その地のコンフラリアにとって、パードレや他所の信徒を受け入れることは、信徒の交流(コイノニアあるいはコミュニオ)として重要であったであろう。それに関する挿話も、森禮子サンの本には、老婆が宣教師たちをもてなすためにおそらく寝具として使っていたわらを燃やして食事を提供した話が出てくる。

     我々は、現代社会の移動の大変さや近世の江戸幕府による移動の禁制を前提に、地域間交流を限定的に取り扱いがちであるが、実は江戸時代以前、かなり自由な地域間交流(それが商人を中心としたものであれ)が行われていたのであることを忘れているようである。各地にある、五日市、廿日市、十日市という地名が残すように、定期開催市場(市)を介した住民との交流があったはずである。なんか網野先生の本にもそんなことが書いてあったような気がする(無縁・公界・楽 下記リンク参照)。


     富山先生の中世長崎の研究として、長崎はそもそも漁港でしかなかったが、1569年にイエズス会がポルトガル船の誘致している。しかし、松浦党との関係で、北浦を追い出されることになった。福田小浦にポルトガル船の寄港地がもともとあったが、1570年ごろから長崎が港湾としての工事がなされ、貿易港として開発されていた。

     1570年代には、現在の川沿いが港のラインであり、当時のイエズス会の領地としては、出島と白い部分が六町であり、城塞化された六町は、竹垣で長崎のこの部分がイエズス会領であることを明らかにした。大村の長崎寄進状はこの領域と、長崎の茂木港の領域をイエズス会領にすることを認めたものであった。下記の古地図で白塗りした部分。


    九州大学記録資料館九州文化史資料部門所蔵
     (「松木文庫」No.613)
      http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/nagasakiezu/kaibou.html
    の図を加工


     この図から比定した長崎の旧イエズス会領(現地調査してないので、正確さに欠けるのはご容赦を)


    現代の図は、Yahoo!Mapを利用している。

     どうも、南蛮船というのは、毎年1回入港していたらしいが、船が1隻入港すると相当ぼろもうけできた状況であった。というのは、サンフェリペ号が座礁した時、その船内の財宝だけで、土佐一国の領国1年分の経費がまかなえたほどであった。

     珍しい南蛮渡来のものを満載してやってくるそれこそ、宝の船だったらしい。そりゃそうだろう。日本では製造できないヴェネツィアンガラス(ギヤマン)だのワインだの、鋼鉄だのさまざまなもの満載で来るわけであるし。もともと、メキシコに渡るはずであるから、メキシコで売りさばけるようなものが大量に積んであったのだろう。
     
     ところで、この教会領のうち、現在の県庁あたりがイエズス会レジデンスでパードレたちが住んでいた教会堂があった。この長崎がイエズス会のものになったが、大村純忠による寄進状であるが、原文は、もともと茂木長崎寄進状となっており、長崎とその南側の現在の長崎市の茂木地区をイエズス会のアレッサンドロ・ヴァリニャーノに寄進するという内容である。茂木が先に書かれていることにも表れるように、茂木は当時の戦略拠点であった。というのは、長崎の地政学的状況というのが、長崎はかろうじて大村領でキリシタンが多い地域であるものの、西郷氏や竜造寺氏に阻まれ長崎は孤立しかねない環境にあった。このため、会場を迂回する形や口之津から陸上経路で、万が一のことがあったとき、キリシタンは長崎をレフージキャンプ(キリシタン難民キャンプ)にする予定があったものと思われる。

     つまり、海上ルートで、大友配下の玉名(高瀬) ー海上ルートー 口之津 ー海上ルートー 茂木 ー海上または陸上ルートー 長崎ということをヴァリニャーノは構想したのではないかと思われる。


     長崎港の南側の茂木は、中部九州のキリシタンのエマージェンシーベイルアウトルート(緊急時脱出ルート)の観点からいえば、長崎の戦略拠点であった。この茂木経由で長崎まで来てしまえば、長崎港のキールのついた水深の深い大型帆船を横付けして、脱出させることは、海兵(海軍で陸上戦する専門部隊 アメリカ海軍海兵隊が有名)の存在さえあれば、不可能である。

     ベトナム戦末期のフリクウェント・ウィンドウ作戦で、米軍が撤退する間際に空母にヘリでピストン輸送したのと同様である。その時の映像がこちら。空母Midwayの甲板上での映像はこちら

    http://www.youtube.com/watch?v=eGsK8Wkhbp8


     どうも、こういうことが言われてこなかった背景には、地元の地方史家の方たちは、自分たちが研究対象とする都道府県や市町村単位を先験的な分析範囲として定義して、つなげてみる観点がなかった。

     ま、これは世界史でも同じことであることは前回の記事でしてきたところ。交流史というのは、歴史的文書資料が残りにくいし、発地と着地の両方の資料にあたらねばならないので、非常に研究しにくい。したがって、これまでこういう面倒なことは研究なされてこなかったのかもしれない。


     キリシタンベルトが完成したのが、1580年ごろで、これは、キリシタン墓石の集中で実証される。)。海の連結を含めた超領域支配として定義されたのではないだろうか。これに関しては、森禮子さんによる調査手記があるらしい。

     現段階で、この森さんの本は手に入れて、一応読んだ。数十次にわたる実踏査録であり、キリシタン遺物やキリシタン墓、教会、どのような地域でどのような生活が行われていたのか、に関する紀行文になっている。毎回の調査行ごとに文章ができているので、どこでどのようなキリシタン遺跡を見たのか、ということが分かりにくいが、かなり詳細な情報を残してくれているという意味で、貴重な史料である。

     そのうち、森さんが残してくれた記述をもとに、キリシタン遺物マップでも作ってみようか、と思っている。Google Mapsのサービスでも使いながら。

     特に、秋月という町の当時のキリシタン社会における重要性が分かった。今度九州に行ったときには、行ってみようと思う。

     
    コメント
    >一日徒歩の限界が30キロ換算

     これは現代人のひ弱な体力中心で考えるからです。
     中世の屈強な人たち、親鸞や一遍の足跡を訪ねてみると、通常に行動距離が40kmはあります。それも今では道無き道になっていて、一日がかりでやっと踏破できるような道を、日帰りで説教までしていた記述も残っています。
     近代体格体力の落ちていた江戸時代でも40km/日歩く人はざらにいたようです。
     160km四日なら当たり前の距離だとおもいます。
     阿仏尼が子供をつれていて30km/日程度で歩いた記録もあります。中世東海道を16日出歩いています。
    • ひかる
    • 2013.01.13 Sunday 02:58
    ひかるさま

    ありがとうございます。確かに、赤穂事件の伝達なんかの移動による伝達など見ていると、陸路660キロを昼夜兼行で4日くらいで伝達していますから、40キロ/日は中世人にとっては不可能ではない、というものの陸上ルートで160kmだけであれば4日は可能ですが、長崎まで行き来したことを考えると、海上ルートで1日は必要なので、4日はちょっと厳しいかなぁ、と思います。確かに現状の書き方は正確ではないので、後刻修正いたしておきます。

    コメントありがとうございました。

     
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2013.01.13 Sunday 07:23
     海上交通(河川を含め)は不安定(天候:雨風)とはいえ、陸路よりもずっと早いと言われています。特に瀬戸内、日本海廻船は多量で安定した運搬を担っていたようです。
     愛知県熱田から三重県桑名までの海路、浜名湖の渡しに対応する姫街道など、安定と早さの選択により近世迄は両立していたようです。
     また多量運搬に適するため、大阪、江戸はつい戦争前までは発達した運河を持っていました。今は殆ど廃止され痕跡しかとどめませんが、河川を利用した閘門式運河もあちこちに見られます。河道の整備も今とは利用形態が大きく異なっていたはずです。

     それと、人肩運搬の場合、急峻さ拠りも距離の短さが重要で、それが荷駄、荷車になると行動可能能力に合わせて勾配が緩く距離が長くなる。明治期の初期国道、その後の改良を観察するとよくわかります。只人肩の痕跡は残っていない場合が多いのでつい忘れがちになります。

     関東ですと、奥多摩、日原、丹波山、小菅、相模津久井、甲州郡内などの交流史や集落の発展を見ていくと、今では殆ど考えられないような場所を通っていたようです。そして学者さんですら結構誤解されている部分だとおもいます。
    • ひかる
    • 2013.01.13 Sunday 19:40
    ひかる様 コメントありがとうございました。

    たしかに、

    >瀬戸内、日本海廻船は多量で安定した運搬を担っていた

    ですね。特に、内海では潮目の読み違いさえしなければ、かなり速かったようです。
    今でも、東京の隅田川河口なんかは閘門式運河の閘門だけ残ってますね。また勝鬨橋なんかもありましたしね。土木分野で橋梁の構造勉強させられたときに何度かに行きました。

    実は、今住んでいる神戸でも魚屋道(深江浜-有馬)・徳川道など、この種の振り荷運送や徒歩中心道が残っております。実は家の近所を徳川道のルートが一部走っております。

     ご指摘のところ、西側では、そんな感じかもしれません。関東の東側では、利根―蚕飼を経て益子あたりまで河川交通があったようですね。こういうローカルな郷土史のような交通史に関しては、あまり研究が進んでいないようですね。

    民衆史をする人が少ない上に、地域史研究がかなりバカにされている部分があるように思います。

    ただ、キリシタン研究は、郷土史家による部分が多く、キリシタン遺物研究においては、郷土史家の貢献抜きにはどうも語れないようです。それだけ、政権側の記録抹消が徹底的だったようです。

    コメント、ありがとうございました。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2013.01.14 Monday 12:28
    管理者の承認待ちコメントです。
    • -
    • 2013.01.15 Tuesday 05:40
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