<< あけましておじゃほー | main | 秀吉はなぜキリシタンを嫌ったのか、伴天連追放令の背景 第2回目参加記(2) >>
2013.01.02 Wednesday

秀吉はなぜキリシタンを嫌ったのか、伴天連追放令の背景 第2回目参加記(1)

0


     ここのところ、結構福音派について、どうなんかなぁ、と思う、といったような重たい記事を書いたので、少し気分を取り直して、この前行ってきた上智大学の公開講座の参加記を5回くらいにわたって、書いてみようかと。

     黒字は、川村先生のご主張。濃紺は、ミーちゃんはーちゃんが思ったことである。

    ------------------------------------------------

    まず、前回の復習から始まった。


     前回は、秀吉の伴天連追放令の覚書の解説をしました。そして、キリシタンの共同体は、一向宗の寺内と同じ認識がされていたようでした。特に秀吉にとっては、寺内と同じものと認識された可能性が高いのでは、ということでした。

     さらに、キリシタン時代の共同体形成を考えるとき、コンフラリア (コンフラリア・ミゼリコルディア)が重要で、特筆すべきは、別府あたりの府内のハンセン病者とともにあったコンフラリア・ミゼリコルディアの存在は大きい。

     また、堺、長崎にもコンフラリア・ミゼリコルディアがあり、このコンフラリア・ミゼリコルディアの人々は、のちに禁教の状況においても、地下にもぐりながら活動を継続したのですが、もともとの慈善のための共同組織から、時代を下る経過で対迫害型対応組織への変容をしていき、最終的には潜伏型組織へとなりました。また、聖職者の存在を前提としていないため、聖職者がさまざまな要因で取り除かれ、いなくなっていても組織としての存続は可能であったのだろう。逆に、聖職者依存型の組織であれば、聖職者が存在しなくなった場合、組織として機能せず、徳川時代に潜伏しつつも、組織としての存在は維持できなかったであろう。

     これを聞きながら、あれ、コンフラリア・ミゼリコルディアってのは、ベトコン時代述ベトコンゲリラ、あるいは、組織論的には、アルカイダ型の組織構造であったようだ。そりゃ、強いわ。こういうゲリラ組織は、別にヘッドがいるわけじゃなし、神出鬼没だし、調整して動くわけでなし。正規軍型の部隊が一番苦労するのが、このタイプ。ミーちゃんはーちゃんちの教会群も、基本このタイプ。キリスト教界内のゲリラ部隊みたいな教会群。娘から、うちの教会のことを、どう説明したらいいかわからん、と聞かれたので、「イギリス聖公会の分離派で、時と場合と必要に応じて、いろんなキリスト教会群と連携できるキリスト教会のゲリラ組織。公式のアンプレラ組織がない単立教会の集合体」といえば、といったら、余計わからんと言われてしもうた。


     「様式論的にはイギリス聖公会内のオックスフォード運動の影響を受けているので、ややカトリック教会よりで、教理的には完璧に国教会内の福音派」とか言ったら、もっとわからんだろうし。はははは・・・・。まあ、うちは教理らしい教理がないのでねぇ。困ってしまう。基本、使徒信条の内容賛成するものの、信条もつことに絶対反対派なんていったら・・・・。うちは、一致すべき祈祷書すらない。ケースバイケースの緩やかな連携って言われてもね。そりゃ、説明に困るはね。ま、国教会から独立した、独立伝道部隊(ゲリラ部隊)とでもいいましょうか。

     それで、1612年に江戸幕府から禁教令がでて、隠れキリシタン(妥当ではない表現かも、ということだそうである。)になっていくが、基本、この時期のキリシタンの行動は、教会づくりよりは、共同体づくりであった。特筆すべきことは、以下の2点で、
      
    ー主独立の組織構成 日本に導入可能であったこと

     この寺内組織と類似の、自主独立共同体は当時の豊臣政権にとっては、言うこと聞かないで、自分たちで勝手にいろいろやってくれる集団を抱える組織になるので、国家後世の統一を行う上で、大きな問題であったらしい。これまでもずいぶん繰り返しふれたが、秀吉の視点からは、一向宗の講組織あるいは一向宗における寺内と同じと理解したため、危険視された可能性が高い。

    超領域性
     活動領域が藩を超え、藩の枠組みにとらわれない存在であったこと

     キリシタンは、その性格上、藩とか、地域という枠を超えて連携を模索する傾向にあり、それが危険視されたのではないか、というご指摘があった。連携されてしまうと、一種の独立国が内部にちょろちょろある感じになるので、それが支配の妨げになるのでは、と危惧したものと思われる。

     秀吉にとっては全国を統一していきたいという希望があり、一向宗においても、寺内切とよばれる、寺内組織の崩壊・破壊工作を実施していて、秀吉の支配下に入るなら文句を言わないという路線をとっていたらしい。その具体例が、西本願寺、東本願寺であり、これらの2寺を京都に戻したことに表れているのではないだろうか。

     特に秀吉が恐れたのは、封建的な縦系統のネットワークに対抗する統治形態であり、それこそ、キリシタンが持っていた横方向にも広がるネットワーク構造の統治ネットワークとそのネットワークが中部九州でカバーする領域の広さに存在し、秀吉の西国支配の際の問題になったのではないか、と思われる、ということを指摘しておられた。

     九州各県、特に長崎・熊本・大分の地方史家の書くもののなかでのキリシタン資料は、非常に数量の点でも、多くて詳しく、非常に重要であるものの、実は一つの視点が抜けていることを指摘しておられた。それは、各都道府県の県という領域で区切られてしまっており、全体を見渡す視点がないという点であるとのことである。

     地域研究は、外部から与えられた領域の枠組み、それが旧藩領別や現在の都道府県割の領域区分であってもそうだが、ある程度自然的なまとまりとはいえ、その人為的なまとまりの枠組みをおくため、そこで分断されてしまうがために、見逃してしまっている部分があるのではないか、という視点である。

     たとえば、各県の地名辞典や歴史事典というのがあるが、人はその政治的な枠組みを決定づける領域でのみ生きるのではなく、交易するなどの交流をもつので、地方史・地域史では、その交流の視点が抜けてしまうというご指摘である。

     というのは、郷土史家の場合、政治的な境界である旧藩や現在の自治体の領域を研究対象としてしまい、そこに視点が縛られてしまい、より広い背景の中であるいは当時の時代の全体像を見ることができないという問題を含む可能性を指摘しておられた。


     このお話を聞きながら、それは、日本史や世界史をやるときも同様であるなぁ、と思ってしもうた。実は、一国の歴史をとってみても、交流史がどうしても無視されてしまう。よその国の領土で起きたことまで含めて考えるという思想形態がどうもないのである。古代ローマ時代なんか、イタリア半島の動きを語るのにアフリカや、今の中東、そして、ドイツ辺りや、イギリス辺りまでの民族移動が完全に関係してくるのだ。比較的島で安定しているはずのブリテン島(今のウェールズ、スコットランド、イングランド)とその周辺諸島群でも安定していない。かなり孤立しているアイルランドですら、大陸での出来事などが関係している。

     今でこそ、尖閣諸島はどの国に領有権が発生するかでもめているが、そもそも国境線が意識されるようになったのは、国民国家の成立を待たねばならないし、近代地図が作成されていったのも国境画定という必要に迫られてのことである。

     現在でも県境や市町村界が明確に定められていないところは山ほどある。大体とんでもない山の中だったりするので、厳密に定義することが意味がないからだが、このことを理解しにくい人がいるらしい。地上のどのような土地でも、そこの帰属はどこかに決まっていると信じてやまない人々がおられる。そんなことしても意味ないのに、とミーちゃんはーちゃんは思うのだが。

     日本史でも、中国本土、朝鮮半島、台湾、済州島、フィリピン、マレーシア、ベトナム、今のシベリアあたりまでの交流史を見ないと本来語れないはずであるが、それは学問研究の外部として切り捨ててしまっている部分は多少はあるだろう。民俗学関係者は、これをかなり熱心にしておられるようであるが。

     国境を越えた交流といえば、ミーちゃんはーちゃんが以前、学会で済州島に行った時、あまりに北部九州(福岡の飯塚あたり)と民家の建築や屋内の配置や農地の斜面保護対策の技術体系が似ていたので、驚いた記憶がある。

     川村先生によれば、このように、自分が研究対象とする特定の範囲(地域領域についての歴史)の研究は深くしていくが、それを横につないでみようという発想がない、ということだそうで。

     そりゃそうだわね。経済学関係の研究者は、どうしても、価値の交換という視点に着目して物事を見る訓練を受けるので、どうしても、その視点で社会や人間関係といったものを見がちになるが、実は、取引には、価値の交換という側面以外にもコミュニケーションや政治的な行為という部分が影響したり、取引形態などに含まれる歴史的経緯なんてことがあるのだが、理論経済学系の研究者はその部分を捨象してしまうのである。

     今でこそ、横幹連合(昔は学際なんてことを言ったが)なんてことが言われ始めて、学問分野の連携などが始まっているものの、こんなことをしていると、どんどん幅が広がって、収拾がつかなくなってしまう。論文が書けないし、評価してもらえなくなっていくし、アウトプットは出なくなる。なので、手っ取り早く、枠を決めて、その枠で書いちゃう、ということになるのだとは思う。まぁ、やり始めたらきりがない、というのもあるし。まぁ、横につないだところで、見えないものは見えない、と半分あきらめかけている。

     まぁ、人間には理解や情報処理の限界があるので、どうしても枠組みを先に決めてものを見てしまうという特徴がそれぞれの学問分野にないわけではないように思う。ただ、枠を広げることは、他の分野を含めて物事を考えるので、自己否定ともなりかねないので、厳しいことを研究者につきつける。そして、それぞれの分野の知識も必要になるから、実はこれがなかなか進まないのだ。大事だとわかってはいても。

     ある面で、キリスト教も似たようなものかもしれない。それぞれの教派に固有の視点というかメガネというかが存在して、それぞれが物事を違うように見せてしまい、違うように見えてしまうが故に円滑なコミュニケーションが成立しない、挙句の果てに、もめて近親憎悪に終わってしまうことは学問分野でも、キリスト教界でもあるとは思う。

     当事者ではなく、はたから見ていると、なんだか滑稽なんですけど。まぁ、学者先生も教会関係者もまじめな方が多いのでねぇ。

     次回は、地方史家の書いたものの問題と、川村先生のご主張でもあるキリシタンベルトについてのお話へと続く。





    コメント
    コメントする








     
    Calendar
      12345
    6789101112
    13141516171819
    20212223242526
    2728293031  
    << October 2019 >>
    ブクログ
    G
    Selected Entries
    Categories
    Archives
    Recent Comment
    Links
    Profile
    Search this site.
    Others
    Mobile
    qrcode
    Powered by
    30days Album
    無料ブログ作成サービス JUGEM