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2012.12.15 Saturday

マニフィカット を 聞きながら

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     先日の日曜日のプログラムで、バッハのマニフィカットを主に使いながら、マリアの賛歌と旧約聖書の関係について、少し考えた。

     ミーちゃんはーちゃんは、福音派でも、ゲリラ活動的な単立のゆるく連携したキリスト教会群の中で、これまで生活していたので、使徒信条はおろか、主の祈りすら教会の信徒全体で集合的に唱えたことがない。教会暦などは全く無視である。無原罪の御宿りなどという言葉すらまーったく無関係に能天気にキリスト者生活を過ごしていた。

     世間様がクリスマス、クリスマスと言うので、仕方なく、世間様並みに12月に入ると、「クリスマス会」と称したイベントを教会ではするが、自慢ではないが、25日にクリスマス祝会などはした事がない。まぁ、日本では仕事日だしね。アメリカにいた時は、24時間364日動いているスーパーでも、24日の4時には店じまいをして、25日は、ガソリンスタンドや警察・消防以外、完全に一日休んでいたが、日本ではそうではないのでねぇ。仕方ないとは言え。今年も出勤日であるが、定時に帰る予定。


     クリスマス会をするにしても、「これは子供向けだ、子供向けだ」ということをマントラのように唱えながら、自分自身を説得しながら(あるいは騙しながら)、クリスマス会をすることが常であった。

     そんなこともあるので、この前、テゼの祈りのクリスマス会に参加した時にも、主の祈りが新改訳バージョンでしかいえなくて、ちらっと肩身の狭い思いをした。

     最近まで、ミーちゃんはーちゃんが主に活動しているキリスト者集団では、イースターすら教会活動の中では全く無視してきた。その中で、うちは無視するが世間様はそうでない、と繰り返しくどくどと説明し、イースターの重要性を説いてきたのだが、「教会内で変な奴」と思われていたようである。

     ようやく、イースターが認識されるようになったのは、教会員以外の人がイースターの日に来ることが多かった、という実績があってはじめて、認識されはじめた。これまで、ミーちゃんはーちゃんたちの集団では、イースターの主日に総会を入れるほど、これらのものを敵視、あるいは敵視とはいかなくても無視していたのである。ただ、総会している最中に外部の方がこられて、非常に気まずい思いをしたことが何回もあったのではあるが、それでもイースターの主日に総会を開くことは問題がないのでは、といわれる方もおられる。ふしキリやふしふしキリや、Penのキリスト教特集が売れる時代でも、である。それはそれでどうでもよいことだが、イースターは、大事だと思うぞ。ミーちゃんはーちゃん個人としては。


     そんな教会生活を、かれこれ40年近く (信仰者になってからは30年ほど) 過ごしてきたミーちゃんはーちゃんにとっては、聖書を読むとき、マリアの賛歌や、エリザベツの賛歌、ザカリアの賛歌などは、一応読むのだが、さらっと目で追うだけで、「知ってる、知ってる」以上終わり、と意味を考えずに読み飛ばす習慣が長らく続いてきた。


     今回、バッハのマニフィカット(ラテン文とドイツ語が混じったもの)を改めて、ラテン語で読み、意味を解釈し、その意味を深く考えたときに、こんな大事なものを単に「マリアの賛歌」として読み飛ばしていたのか、ということを知り愕然とした。聖書を味わっているとは言えないとんでもない読み方だったのだ。

     あの賛美の中には、エリザベツの賛美に応答する形で、マリアの深い理解と、メシアとしてのイエスが示されているのだ。旧約聖書に預言されていたキリストがいよいよ来るという期待感と紅葉館が旧約聖書的な表現をもちいつつ、その表現がなされているのだ。

     中でも、ミーちゃんはーちゃんにとって衝撃的であった部分を示してみよう。それは、ルカ1章51−54節である。

    1:51 主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、
    1:52 権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、
    1:53 飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。
    1:54 主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。


    「心の思いの高ぶっている者を追い散らし」
    という表現は、

     高ぶるものは、これまで、自らを神の座に据えるために、神の座から神を追い出してきたのだ。その神の座から神を追い出したもの(自ら)がおいだされることで、神が神の御座に着座されるということが回復されることを示しているのだ。

    「権力ある者を王位から引き降ろされます。」という表現は、

     これを理解するためには、イスラエルにおける王権の成立に関する理解が重要になるだろう。もともと、荒野でイスラエルの民が歩み行く中では、民の中央を歩み、民を先導するのは王である神YHWH(ヤファウェー、イェホヴァとか、エフォヴァとかエホバとか、ジェフォヴァと呼ばれる)だったのだ。しかし、カナンの地に定着していく中で、周辺の諸国民が持っていた王制を見てしまい、それに心が奪われる形で、王制というものへの姦淫(激しい言葉だが、この語を使いたい)がイスラエルで行われた結果、YHWHがお認めになられた結果、サムエルによってサウルが立てられ、ダビデ・ソロモンへと引き継がれていった。それらの人間を旧約聖書がある程度評価するかのように理解しているかもしれないが、それは、日曜学校的な聖書理解であり、成熟した大人の旧約理解とは言えないだろう。サムエルにしても、サウルにしても、ダビデにしても、ソロモンにしても、神が選びし器ではあるが、それが神の座を占めることを神は姦淫としてお許しになっておられないようにミーちゃんはーちゃんは思うのだ。

     これを現代的なコンテキスト(文脈や環境)の中で解釈するならば、牧師や牧会者は、神の器であるが、神の座を占めてはならないのではないだろうか。そのことをこの個所は教えるのではないだろうか。

     「低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。」について

     これは、弱きものへの心配りがされるという詩篇138篇6節、ヨブ記5:11やエゼキエル21:26で示された預言が実現するということが言われているのではないだろうか。つまり、社会の構造が、神の国では、この地上の国のものと大きく異なり、その価値構造が大きく変わるということを意味しているのではないだろうか。ミーちゃんはーちゃんの言う神の国というのは、死んだあといく天国という意味ではない。神の支配のうちで、という意味である。神の国とは、通常想定される死後の世界の事ではないと思うのだ。神の国とは、神の支配の中でこの地上での生を生き生きと神と共に生活していくことなのではないだろうか。
     そして、ここでマリアの賛歌の中では、山上の説教の中でのマタイ5章の「幸いなるかな」で始まるイエスの発言の内容が含まれている。これを後世からの理解に立った後世の記載と理解することもできるが、たとえそうであっても、これがマリアの賛歌に含まれている意味は大きいのではないだろうか。

    「主はそのあわれみをいつまでも忘れないで」について

     この部分は、神の性質に関する出エジプト33:19との関連が深く、憐れみにおける神の主権が語られている。さらに、この部分と関係が深いと考えられる申命記32:36では、憐れみが神のわざであることが思い起こされる。そればかりではなく、次の一節へとつづいていく。

    「そのしもべイスラエルをお助けになりました。」
    について

     ここは、申命記33:29やイザヤ41:14、エレミヤ33:26が思い起こされるのだ。そして、イエスによって、ナザレのイエスによって、それがキリストとして十字架の上で殺されることを通して神の王座に就くという逆説(パラドックス)を通してのみ、イスラエルの救済というか、無力なイエスが、神の座にもどることを通してイスラエル自体が助けられるというパラドックスが実現するように思う。

     ミーちゃんはーちゃんには、これが本当にマリアの賛美として彼女が口にしたものかどうかはよくわからない。たとえマリアが実際にこの通り口にしていなかったとしても、福音書記者ないしは後世の使徒たちが、この賛美を書きたいと思った、書かざるを得ないと思った、あるいは、神が書かしめた、ということの方がよほど重要ではないかとおもう。こんなことを書くから、聖書原理主義者の皆さんからは、リベラルとディスられるのだろうし、ミーちゃんはーちゃんは聖書の権威性を認めてないといわれるかもしれないが、しかし、ミーちゃんはーちゃんは、真正性のみが聖書の権威性や無謬性の保証ではないのではないか?と素朴に思うのだ。まぁ、非難したいならされたらよろしい。本当に大事な問題なのは、ミーちゃんはーちゃんの考え方や思いや立場よりも、このマリアの賛歌が、聖書に記されているということなのだから。

     以前このブログだったかどこかで、大学時代オリエント史の面白さを教えていただいた、池田裕先生が講義でお語りになったことを今もまた、思い出している。

     「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。(イザヤ書1章18節)

     どうか、この神と論じ合ってほしい。ミーちゃんはーちゃんとではなく。まァ、コメントくだされば、お応えしますけど。

     このクリスマスを神とあなたが聖書テキストと格闘しつつ論じ合う、その時期として欲しい。その入り口として、マリアの賛歌(マニフィカットで知られる)は重要な賛美だと、ミーちゃんはーちゃんは思うぞ。



    評価:
    ---
    Euroarts
    ¥ 1,495
    (2004-11-29)
    コメント:言わずと知れたトン・コープマン指揮によるマニフィカット輸入盤なので、リージョンフリープレイヤーが必要。

    評価:
    Scot McKnight
    Zondervan
    ¥ 1,367
    (2011-09-13)
    コメント:お勧めの一冊。近日中に日本語訳が出るかも、www.kingjesus.jugem.jp 参照。

    コメント
    >日本では仕事日だしね。

     どうやらここでは、休めそう・・・取り敢ずですが、ここはカトリックの国ってことになっている様子で・・・無理矢理稼働させても、レイバー(働く人たち)がまず出てこないようす。
     といっても、いく場所(教会)はないんですよね。南アフリカにはあるみたいですが・・・でも実際は違うだろうし
     本物のゴスペル聞くために、探してみるのも・・・とは言っても、治安が良くないので無理かな。
     モスクはすぐ近くにあって、朝晩お祈りが聞こえてくるのですが、教会は見える範囲(安全に行動可能な範囲)にはなさそうです。

    >主の祈りが新改訳バージョンでしかいえなくて

     それを言い出すと、へブル語かコイーネってことになるんで・・・私など未だに文語、カトですら今時使っていないって・・・
     とか言いながら、今の教皇さん、ピオ13世なるアナクロ組織と仲がよいらしくて、ラテン語復活させようと色々画策している様子・・・ラテン語そのものにも問題があるっていうのに今更なんですが・・・・
    • ひかる
    • 2012.12.16 Sunday 23:10
    渇いた喉に冷い水、遠い地からの良い便り。(箴 25:25)

    お元気そうで何よりでございます。
    まぁ、旧宗主国の支配者層の宗教が形式的にその国を支配するルールを決めるのは、よくあることですのでねぇ。そうですか。教会にアクセスできないのは、お辛いですね。祈りのうちに覚えます。

    文語は文語の良さがございますね。

    まぁ、ヨーロッパの教養人にとっては、いまだにラテン語への憧憬がございますようで。単にそれだけではないかと。教養あるイングランド人と付き合っていると、時に閉口いたしますが・・・。

    賛美などでは、最初につくられた言語を翻訳したものは、いかに翻訳が素晴らしくても、違和感がどうしても抜けません。

    コメント、ありがとうございました。主の守りがひかる様のおられる貴地においてもございますように。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2012.12.17 Monday 07:58
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