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2012.12.04 Tuesday

バテレン追放令とキリシタンの講演会に参加して(3) 最終回

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     上智大学大阪キャンパスで行われた川村先生による秀吉の伴天連追放令とキリシタンについての講演に関するご紹介の第3回目(多分今回の公演については、最終回)は、公園の公判で行われた寺内町とそれまで日本に存在した組織と、現代のキリスト教会との関係を考えてこの連載を閉じたいとおもうのだな。明日からは、通常の投稿に戻ります。

    なお、この以前の講演内容については、

    バテレン追放令とキリシタンの講演会に参加して(1)

    バテレン追放令とキリシタンの講演会に参加して(2)

     御講演の後半部分で、川村先生は、いよいよ寺内についての歴史的分析に移る。

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     まず、キリシタンの寺内とはどこだろうか。それは存在したのだろうか。という歴史学的な問いかけに対して、それがあったのが長崎であった、とご紹介された。

     このキリシタンにおける寺内に関しては、実は大村純忠がイエズス会に対しての土地をしたことに始まるらしい。1580年に、イエズス会の教会領として大村純忠によって一種プレゼントの形で、大村領全体が寄進され、イエズス会の所領として認知されている。

     天正8年4月に大村純忠(ドン・バルトロメウ)とその息子(ドン・サンチョ)によって署名された長崎寄進状というのがあり、欧文のスペイン語による証文のみが残っている。ただ、おそらくは、もともと口約束だった可能性があるとのことであった。配布資料としてこの文書の画像が配布されたが、それを見る限り、条文本文の筆跡と両者のサインが同じ筆跡であることから、その可能性が高いと思われる。

     この寄進状によれば、巡回師父のヴァリニャーノに行政権、司法権(死刑を含む)を譲渡している。ただし、関税徴収権だけは大村家が持つことになっている。さらに、茂木(モンギ)をさし上げますとの記述もある。茂木(モンギ)の文字が長崎より先に書いてある。この茂木という地名が重要。次回これを解説してもらえるそうです。もともと、茂木および長崎の寄進状ではあるが、これらの寄進地のうち、宣教師にとっては茂木が重要であったようである。

     次に、寺内とは何か、ということをお話しされた。寺内町の研究は仁木先生という方がしておられるのだが、この寺内というのは、前回も軽く触れたが、信仰者の共同体とそれが実効支配する地域ことである。秀吉が、キリスト教の共同体を寺内とみた根拠とは何だろうか、ということをお話しされた。

     寺内に相当するのが、コンフラリアであり、当時キリシタンの中では、カトリック教会内には、司教制度のようなヒエラルキー制度ではなかった。当時、日本には、司教が存在せず、教会ヒエラルキーが存在しないのがキリシタンの特徴であった。

     イエズス会のミッションがあっただけである。ミッション、布教宣教区が存在していただけだった。教皇がミッションに対して関与する、間接的関与の形であり、当時のキリシタンは、小教区制度ではなかった、とのことであった。

     キリシタンとキリシタンの人数の変容を考えてみると、1593年のイエズス会の統計で、22万5千人であり、そのすべてを宣教師が指導しているわけではない。当時日本にいたのは、40人の宣教師だけ。宣教師一人に5000人の割合であり、この当時は、いま、南米のジャングルの中でジープに乗りながら、神父が巡回しながら1日に5−7回もミサをするのに駆け回っているような宣教状態であり、コンフラリアはフィリピンのベーシック共同体みたいなかもしれない、というお話であった。

     となると、各地の信仰共同体は、神父がいなくても、指導者がいなくても、メンバーだけで自主独立する方法を取り、ときどき、神父がやってきて赦しの秘跡をするような形だっただろうとのことであった。地域の指導者たちが共同体を運営するようなものだろう。

     このような自主運営組織をラテン語で、コンフラテルニタス CONFRATERNITASといい、フランス語で、コンフレール、イタリア語でコンフラテルニタ、ポルトガル語でコンフラリア、英語でブラザフッドと呼ばれる。このコンフラリアは、13世紀出発のヨーロッパ発の信徒共同体であるが、当時の日本の信徒は割と自然に、このコンフラリアというキリスト教世界の社会制度を受け入れたのである。

     ところで、このコンフラリアが日本に移植され、日本で成長した時に同じような花が咲いたのかを検討してみたい。実は、かなり、日本的な変化をした、ということであった。

     実は、このコンフラリアが寺内構造に類似しているそうだ。中世史の池上先生・河原先生などと川村先生はコンフラリアの共同研究をすすめられているそうだが、いま、ヨーロッパではコンフラリア研究が非常に熱心に行われているそうだ。コンフラリア研究は、一種の民衆史研究といえるそうである。

     次に、この概念が、日本に渡来してきている事に焦点をあてて考えたい。日本ではこのコンフラリアの概念は、知られていたが、ヨーロッパのコンフラリアとの違いがみられる。
    コンフラリアは、イタリアの都市コムーネCommune(フランス風に発音すれば、コミューン)に範をとったものであり、キリスト教信心会ともいわれるが、同じ市民共同体でも、ギルドはビジネス向け共同体であり、コンフラリア修道会規則と誓願による信仰者の共同体であるそうだ。なお、コンフラリアは、定員制となっているそうだ。

     このコンフラリア内では、リーダーは自主的に決めることになっている。ラウディシでは、ただ、讃美歌を歌って練り歩くコンフラリアもある。フィレンツェでは、現在もなお、126団体あるらしい。

     フィリピンには、スペイン配下のメキシコから、ルソンへと伝播しているそうだ。このコンフラリアは、日本では組とか、組講とよばれた。なお、信心とは親鸞のことばで、浄土真宗で、キリシタンは、当時信心を用語としては利用せず、ラテン語の音をそのままとりながら、フェーデ Fedeと言っていたらしい。

     スペインでのコンフラリアの一つにセビリアのコンフラリア・ミゼリコルディアがあるそうであるが、この集団では、顔まですっぽりかぶる真っ黒な服着て歩いている団体だそうだ。このミゼリコルディア(慈悲)のコンフラリア(共同体組織)は、主に慈善事業を行っているらしい。具体的には、マタイ25章にある、死者の埋葬。病人の介護、旅人に宿を与え、病人を訪問 それに倣って、同じことをしている集団だそうだ。黒頭巾を頭からすっぽりかぶり、顔を隠すらしいのだが、こうするのは、偽善者だと思われないためだそうだ。そのコンフラリア・ミゼリコルディアの概念が宣教師により日本にもたらされて来ている。


     1552-53年にかけて、コスメ・デ・トレルス、ルイス・デ・アルメイダが、大友領へ移動し、その当時の移籍は、現在発掘調査中だそうだ。このコンフラリア・ミゼリコルディアは、12名の信徒集めて共同体を結成し、病人看護にあたった共同体だそうである。コンフラリア・ミゼリコルディアは12名(12使徒にちなむ)から構成され、大友領内での医療施設の薬局を手伝わせた。この病院施設は、アルメイダにより大拡張され、豊後府内病院として1557年に活動を開始する。この病院には、内科と外科が設置され、リスボンのミゼリコルディア・コンフラリアの基準が豊後府内のコンフラリアに授与されている。

     このコンフラリアのメンバーが病人と行き倒れの死者などの埋葬をおこなった。また、この集団は行き倒れの死者の埋葬で有名になって、このコンフラリア・ミゼリコルディアが提灯行列を出すなど、葬儀を非常にきちんとやった記録が残っている。このため、3000人の周辺の農村から集まったそうだ。

     また、ハンセン病などのターミナル・ケア病棟第3病棟を構築し、慈善院と呼ばれたそうだ。ところで当時の社会では、ハンセン病者のケアとか、一般市民がするものではなかったらしい。

     延喜式が定められた10世紀に穢れという概念が生み出され、触穢の概念が、天皇家を中心に影響したらしい。死体の運送などは、当時の16世紀では、特定の社会集団が専門にやっていたもので、当時の一般の庶民は、絶対やってはいけないこととされていたらしい。それを当時の一般市民(百姓)である彼らが進んでやったので、非常に驚きをもって受け止められたようだ。それで、それに共鳴して、参加する人々が増えてきた。

     一応、当時は、病気や死体(人体、動物を含む)などへの禁忌があり、それに触れたものは1月間穢れるということになっている。ただ、1カ月たつと自動でリセットされるらしい。そして、豊後の12人の共同体の延長が広がっていった。大友宗麟は、自分の館の道を隔てて打破あるものの、其の館の真横にこの慈悲院を家臣団大反対にあいながらも、建設したらしい。

     こんな形で、コンフラリアに対してシンパシーを持つ人々が増えていって、大分市に病院ができると、周辺の村人に伝わり、さらにそれが伝わっていきという形で、拡散していった。この経緯の中で、府内の施設とは別に、周辺の村にも礼拝堂ができたそうだ。その礼拝堂での、50人、100人単位の改宗が起きた。キリスト教集団の拡充が口コミで、なされていった。大分市鶴崎(高田)と呼ばれた地域にある、コンフラリアを看坊と当時呼ばれ、府内などにいた慈悲役と呼ばれる人たちが本部リーダーにあたるらしい。そして、地元では、この看坊と呼ばれる人たちが、数年交代で、後退に支部リーダーを務めるという構造を取った。

     コンフラリア・ミゼリコルディアのシステムは、一種の民間人による相互扶助団体の構築であった。実は府内から、1レグアないし2レグア、(4キロから8キロ)の地点が鶴崎集落であった。

     伴天連追放令、江戸幕府の追放令があったが、このコンフラリア(信徒だけの共同体)であり、非常に幸甚であった。なぜならば、宣教師がいなくても、自主独立であり、宣教師がいなくても、村落共同体として生き延びた。隠れキリシタンの源泉とすごい結束力の根源とノウハウは、キリシタン時代の当初からあった。それが、寺内町という制度であり、それがコンフラリアに化けたということらしい。なお、コンフラリアは、時代時代に応じて、この組の役割を変化させ、そして、自主独立で運営されたらしい。

     ところで、このコンフラリアに加盟した信徒は、もともとのどのような信仰を持って行ったかというと、浄土真宗であった。この豊後の高谷には、1400年代から続く浄土真宗の道場があり、それは厳密な意味で言うとお寺ではないが、道場経営者が経営する一つの民家を仏間にして通っていた。その道場では、民間人、毛坊主が教えていた。半分僧職、半分民間人の立場で、講または組の全員で、お金を出し合って道場を運営していた。この毛坊主は、ある地域では、看坊(コンフラリア)に相当するらしい。つまり、真宗道場との相似性から、コンフラリアが日本に定着していったらしい。 

     日本で戦国時代に、ヨーロッパの組織論をもとにした組織類型が定着したのは、日本でのこの看房(浄土真宗の道場)といった組織論の類型があったから、アナロジーが働いたと考えられる。

     浄土真宗では、光明本尊が信仰の対象となるが、お金かかるから仏像ではなく阿弥陀仏の絵か、南無阿弥陀仏の文字とその背後に書かれた認可状つきのものであり、キリシタンも同じことをしていたのではないかと考えられる。なお、大分市の高田は、本願寺派の九州ナンバーワンの総本山があったらしい。

     このように考えていくと、本願寺派にかぶってキリシタンが広がったという仮説ができる。両社とも、非常によく似た組織であり、キリシタンの組織と道場経営組織の類似性が、非常に高いものであった。

     1630年代迫害期についてのマテウス文書によれば、慈悲役、看坊、総代という真宗の用語が利用されていることからも、キリシタンも真宗道場との類似性を想定してコンフラリアを理解し、それが具体的に構想されている可能性がある。

     その意味で、キリシタンの寺内町とは、外国の影響を受けた強力な自主自治独立共同体としてのキリシタン寺内町という存在は、天下人へのチャレンジだと秀吉は考えたため、このことは、実に赦しがたいと考えた可能性があるのではないか、ということであった。

     実は、伴天連追放令の前の3月に秀吉は、九州を大友家からの救援要請を受けて九州に軍をすすめたが、その際に、実情を把握したのではないかと思われる。これは、実に禁教令の3か月前である。

     長崎を中心としたキリシタン史で、なぜ、危険視したかというと、大分から長崎をつなぐキリシタンンベルトができていたからである。詳細は次回公開講座で、ということであった。


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     ところで、このお話をうかがいながら、寺内という共同体組織というのが、キリシタン理解の核になるということがよくわかった。ミーちゃんはーちゃんのプロテスタンのカスは、最近まで、この共同体ということが分からなかった。ナウエンの冷静の神学を始めて、カトリック的なものを理解する概念として、この共同体制の重要性に気付いたのだ、信仰共同体であると同時に、生活共同体(生活協同組合ではない)の存在こそ、カトリック的な霊性を理解する鍵であることに気付いたのだ。ミーちゃんはーちゃんはお馬鹿であったのだ。この重要性を理解せずにカトリック的な世界観はどうやっても理解できるわけがない。

     あと、よくある誤解に、近代、とくに15年戦争(某保守党党首は、大東亜戦争と呼んでいたが、時代錯誤的だなぁ、と正直ちょっと思った)後の日本のカトリック教会構造として、この時代のキリシタンを理解してはならないのだ。イエズス会によるカトリックの変容を経て成立した近現代のカトリック的なものと、それ以前のきりしたん的なものは大きく違うようだ。司教区がないというのがそれなのだ。

     この話を聞きながら、あれ、キリシタンって、無教会のキリスト者集団とキリスト集会と自称する集団とそっくりじゃないか、と思ってしまったのだな。組織を作らず、ゲリラ的に活動する、アメーバー型組織である。これは、非常に組織構成原理として外部からの耐衝撃性が強いのだ。実は、アルカイダなどのテロリスト組織や米軍がヴェトナムで手を焼いたヴェトコンなんかがこの種の組織であり、のちに海兵隊は、この種のゲリラ戦研究を通して、ゲリラ戦の戦闘技術を自分のものにしていった。

     ヒエラルキー型の組織であれば、組織のトップを暗殺するなり、逮捕するなりしてしまえば、その組織は崩壊する。指導者を殺してしまえばよいのだ。後は、兵隊は我が身かわいさに逃げ出してしまうか、集団投降してしまう。典型的には、中国で項羽が殺されてしまった後の楚軍やゴリアテなきあとは移送したパレスチナ(ペリシテ)兵みたいなものである。

     ところが、アメーバ型組織では、トップがいなくなっても、自律的に運動を再開してしまうので、適当に自律型の柔軟な組織が適当に判断して動いていってしまうので、トップが倒れても大丈夫、になっているのだね。だから、迫害時であっても、地下にもぐりながらデモ活動ができたようだ。ただ、その信仰自体は本質が忘れられ、形式化したみたいだが。数百年後にカトリック教会が長崎にできたときには、カトリック教会から隠れキリシタンの方は、仲間に入れてもらえない、ということもあったようだが・・・・。

     まぁ、今のキリスト集会でも、一部にトップ依存になっていたキリスト集会や、トップ依存になっているキリスト集会もないわけではないけれども、本来、ゲリラはゲリラ組織がいいのだなぁ、と素朴に思ってしまった。

     ミーちゃんはーちゃんが左向きなのは、そうか、コンフラリアという共同体概念に近い概念の親交者集団にいるからなのね、と思ってしもうた。まぁ、共同体概念への志向が強ければ、基本、左向き、フラット型組織志向になるのは理の当然ですな。

     スペインの黒服を着て歩きまわっているコンフラリア・ミゼリコルディアの話を聞きながら、日本だと、ほとんどゴスロリ系のコスプレにしか見えないだろうなぁ、と思っていたが、よく考えてみれば、同じような黒頭巾かぶった黒服集団が、登場した話が、確か、塩野七海の海の都の物語にあったと思う。同書よれば、乞食記をしたベネチアの没落貴族も、この黒一色の服を着て黒頭巾かぶって、だれ変わらないようにして、生活用の金をもらっていた記述があったように記憶している。

     あと、ミゼリコルディアの中で、リーダーが数年交代で変わるというのを聞いて、あー、こういうの、キリスト集会を自称する集団で、こういう交代があるといいのになぁ、と思った。適当に交代させることで、一個人への権力の集中を防ぐことができると同時に、その集団の全体としてのメンバーの能力アップにつながるからである。そうであるからこそ、ゲリラ型組織としての能力の向上につながるからである。内村鑑三だったか誰だったか忘れたが、無教会派では、どうしても教役者が限られることもあり、先生主義がはびこる、というのがどっかに書いてあった記憶があるが、こういう強制的な交代性があれば、それを少しは防ぐことができただろうに。無教会の皆さんやキリスト集会の皆さん、やりませんかねぇ。こういう強制的な指導者の交代制度。真面目な話。

     島津征伐として知られる秀吉とその将兵の九州行が、キリシタン禁令の根拠だと聞いたことはあったが、実はその背景に九州のコンフラリアの存在とその自主独立性、ゲリラ組織のようなものや、寺内と呼ばれる宗教を盾にした自治組織の危険性ということまでは思いいたらなかった。秀吉とその将兵の九州行の段階で、現実のコンフラリアの姿を見たときに、「やっべー」と秀吉君が思ったのではないか、というのが、川村先生の説らしい。なるほどねー。そりゃー税金納めなくていい、神のものだ、みんな共同で生きましょうぜ、という集団には、為政者は手を焼くよねー。

     あと、延喜式と差別の対象になった集落とそこに住んでおられる方々とその共同体関連に関しては、下に紹介した網野先生の本を参考にしてね。本当に参考になるから。

     次回予告、って、川村先生もミーちゃんはーちゃんと同じノリなんだ、とちょっとびっくり。その次回予告として触れられたキリシタンベルトの話を聞きながら、カリフォルニアにある、エル・カミノ・レアル(王の道)という話を思い出した。カリフォルニアの、エル・カミノ・レアルは、メキシコにいたカトリックの宣教師たちがカリフォルニアで伝道(カリフォルニアミッション)した道である。この、エル・カミノレアルは、カリフォルニアの小学生の4年生か5年生で必ず習う話らしい。サンディエゴ起点、サンフランシスコ終点の伝道旅行の道とそこに点在する教会群の話を思い出してしまった。実は、ミーちゃんはーちゃんがレンタルしていた果樹園付きの戸建て住宅は丘の上にあったのだが、丘を降りたところの前の道が、実はエルカミノレアルだったらしい。道々に、鐘の形をしたストリートファニチャーが置いてあった。

     ミーちゃんはーちゃんは、サンタ・バーバラに住んでいたので、このうちいくつかのミッションには行ったことがある。行ったことがあるのは、以下の4つである。

    • ミッション・サンディエゴ・デ・アルカラ (1769年)
    • ミッション・サンルイスオビスポ・デ・トロサ (1772年)
    • ミッション・サンブエナベントゥラ (1782年)
    • ミッション・サンタバーバラ (1786年)
    である。

     なお、サンタ・バーバラの郊外には、サンタクローススレーンというのがミーちゃんはーちゃんが滞在したころには道路として存在した。今はよくわからんです。はい。

    ぜひ大きな地図で見る をクリックして、ズームしてください。


    大きな地図で見る



     最後まで、見てくださった奇特な方にだけ、ご連絡。

     実は、ミーちゃんはーちゃんが今度の日曜日の午後、芦屋恵キリスト集会というところで、バッハのマニフィカットの動画などをつかいながら講演をいたします。詳しくは、『芦屋恵キリスト集会』で検索するか、リンク集のトップにある『芦屋恵キリスト集会』のリンクをクリック、してください。入出場は自由らしいですよ。よろしければ、ぜひ。って、ステマだよね〜。




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