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2012.12.01 Saturday

日銀券と神と聖書的のインフレについて

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     最近、某党の党首様が「目標インフレ論」や「日銀による国債の全額受け入れ(一応市中銀行経由という条件付きになった)」が話題になっており、日銀法の改正を含め、インフレに誘導するという政策が話題になっているが、中央銀行の独立性がなぜ重要か、中央銀行券の信任がどのような形で行われるのか、マネタリーフローのことをわかっていてしゃべっているのかな?と思っている。

     最近出るらしい本のことについて、ヤンキー牧師が書かれていたものを読みながら、日本という国では、つくづく神のインフレが進んでいるのだなぁ、と思ったのである。この記事でツイッターから派生したことが記事になったことが「前田敦子はキリストを超えた」をキリスト教会は超えるか?のタイトルのもとで、書かれていたが、実は、ミーちゃんはーちゃんもあのツイートに噛んでいて、身元を明らかにしていなかったので、地雷を踏まずにかろうじてセーフになったのだ。あーよかった。

     キリスト教会は、こういう下劣な販売促進の罠に対しては、一切相手にせず、あっさりスルーするという反応もあるでしょう。でも、やはり、「冒涜的」と受け止められるこのタイトルを見過ごすわけにはいかないでしょう。特に国際社会において、「日本人の劣等性」「宗教的無知」と評価されないかと心配です。

    と書いてありましたが、日本人の宗教音痴はすでに世界的に有名な定説(と某宗教団体のグル風に言ってみた。正しくは著名な他者からの認識)なので、あまり気にしなくてもよいのでは、と思います。食事の話題で、宗教と政治は厳禁ですから。ごはんがまずくなる上に、場が気まずくなるし、なんせ、19世紀くらいのステーキナイフなんかは、殺傷道具になりますから。日本のステーキナイフは、穏やかですが・・・。

     また、その中には、

    宗教には通常、神秘性や癒しが伴います。特に日本人の宗教観には、それがアピールするのです。論理性や倫理道徳性よりも、神秘と癒しなのです。「よく分からないありがたさ」とか「心が癒され慰められる」ことを現代日本人は宗教に優先的に求めます。

    とありましたが、これ、キリスト教界でも他人事ではないかもしれない、と思うのです。こころ静め、神の御座に神に御着座いただいた上で、こころを神に向けていくという手間暇かかる霊性ではなく、お湯を注いで3分待つような安易な霊性に流れているのではないか、と思うのですね。

     このブログの記事「日本での教会を考えるためのお勧めの一冊 第5回」でも、キリスト新聞社さんの「宣教ってなんだ?」から引用しつつ、ご紹介したとおり、その本の中には、次のような記述がある。くどいようだが、このブログは、キリ新の御用ブログではないつもり。

     現代を『脱宗教化』の時代とみる人々もいるようだ。しかし、霊性に関して言えば、 人々は霊性を喪失するのではなく、霊性を個人化し現世化する仕方で霊的なものを求めているのだ。(中略)総合的な世界観に基づく全人格的な霊性とは異な る、個人的で即時的な霊性をもとめている。(p.42)

     キリスト教会自体も、この現代の霊性の求めに応じ、即時的即物的なカップめんのような霊性を提供しているのかもしれない。替え玉が来るような博多トンコツ長浜ラーメンのような本物の霊性ではなく、博多ラーメンと称するカップめんの霊性を提供しているのかもしれない。ラーメンで霊性を語る不謹慎さはこの際認める。

     癒しと称して、霊の癒しでなく感情の癒しを与え、神秘性と称して、神のミステリオンではなく、特殊な説教者の聖書理解や神理解を語ったことはないだろうか。正直に言おう。ミーちゃんはーちゃんは、癒しでしたことはないが、神秘性では、ディスペンセイション説に乗ったがために、それに近いことをしたことが以前はある。深く反省しているが。

     ただ、ヲタ文化では、日本文化がある一面そうであるように、神の乱発が見られる。もともと800万の神様がいるので、少々増えたところで問題ないのかもしれないが、ヲタ社会では、比較的神が軽くつかわれる部分がある。一応、地雷を踏まないように「ネ申」と書いてはいるものの、AKBのみならず、ヲタ文化では、神という語が容易というのか安易に使われる。

    http://nico.xii.jp/doc/?id=%E7%A5%9Eをクリック



    http://dic.nicovideo.jp/a/%E7%A5%9Eをクリック


    AKB48ネ申テレビという番組まである。


     以上のようなことを、キリスト教関連のブログで書いたり紹介すべきではないかもしれないが、実に軽佻浮薄に神が使われているのだ。これをご教示したところ、K先生をミーちゃんはーちゃんはツイッター上で降参させてしもうた。すみません。K先生。そんなつもりぢゃ・・・。

     そもそも、一番下のリンクで紹介する鈴木範久著「聖書の日本語」でも紹介されるように、英語のGodをどう翻訳するのかは、歴史的に大きく変遷してきた。いい悪いは別として、最初の翻訳のころに「神」を使わないほうがよかったかなぁ、とミーちゃんはーちゃんは思うのだなぁ。日本では、当時からすでに、神という語のインフレ化がもともと進んでいるうえに、最近は、なんでも神にしちゃったり、すぐに神がかったりするので、神のインフレ率は、インフレ率という意味では、某保守系政党の党首さんにとってみれば、うらやましい限りのインフレ率だと思う。多分。
     
     と思って、いたら、いつも拝読しているマクナイト先生のブログで、

    When is Theology Truly “Biblical”

    というタイトルで、聖書的がアメリカでインフレ率が激しいという記事が出ていた。そのまま引用する。

    Everyone claims their theology is biblical. Which means “biblical” is used by everyone and so many different approaches use “biblical” that “biblical” diminishes in value. It becomes, sad to say, little more than a claim to authority.

    What does it take for you to say something is “biblical”? Does biblical theology (as historical description ― below) hold theology hostage to historical discoveries?


     全員が、彼らの神学が聖書的であるということを主張する。それは、『聖書的』がすべての人によって使われており、非常に異なったアプローチがそれぞれ『聖書的である』と主張するあまり、『聖書的』ということの価値が大きく減じているのだ。悲しいことではあるが、聖書的というのは、権威があるということ以上のものを指しているのだ。

     何かが『聖書的』というとき、『聖書的』は、あなたにとって何をもってそういうのだろうか。聖書的神学(歴史的な記述は以下に示す この部分は省略。)は歴史的な発見にたいして、神学を人質にしていないだろうか?


     聖書的が、キリスト者の中で軽くあしらわれている、ということをマクナイト先生はあっさりと認めておられる。あーあ、いっちゃった。そうか、アメリカでもそうなんだな〜。

     特に、うちのキリスト者集団は、自分たちの主張を正当であるというあまり、「聖書的」が多用される傾向にあるように思う。たとえば、教会堂の中でのイスの配置の仕方や、葡萄ジュースかブドウ酒か、それを入れる入れ物や、パンの焼き方まで「聖書的」であることで、時にうれしくない論争が起きる。それこそ、聖書的でないようにミーちゃんはーちゃんは思うのだが。それを見ながら、好きにしてくだされ、私は、イエスが王であることを皆さんとご一緒に覚えたい、ただそれだけですから、と思っているがそうもいかないときもあるのでちーとつらい。

     聖書は、心をつくし、思いをつくし、知性をつくし、力を尽くしてあなたの神である主を愛せ、というと同時に、あなたの隣人を愛せ、とも言っているし、兄弟でもめ事があるまま、祭壇に出てよいのか?とも言っているのにもかかわらず、こういったことや聖書理解の細かな点で、神学論争を繰り広げるのは、果たして聖書的なのであろうか、とミーちゃんはーちゃんは思っている。うちのキリスト者集団では、相当『聖書的』という語のインフレ率は高いと思う。

     昨日の夜は、わが町で開かれていた『テゼの集い』に参加してきたのだが、聖書の言葉をもとにした短く単純なメロディラインの曲を正教の信徒も、カトリックの信徒も、プロテスタントの信徒もみんなで賛美しながら、レクティオ・ディビナのように味わうように賛美と聖句の意味を覚えていくような集いであった。こういうの、いいなぁ、と思う。神を味わうというか、神に知られ、神を知る、ということの意味を感じた時間を過ごしたように思った。そして、『聖書的』ってなんざんしょ、と思ってしまったのだな。これが。少なくとも、他の人々も受け入れ愛、神と共に歩む民が一体となって神を覚え、祈る(なんか祈祷書で一致しようとする英国国教会と似ているが)も、確かに聖書的っちゃ、聖書的ではあるよな。と思った。

     いろんなもの(日銀券、神、聖書的を含め、なんでもそうだが)を人間のご都合でインフレ率を上げて、価値を下げるのをやめてほしい、と思ったミーちゃんはーちゃんでした。



    評価:
    鈴木 範久
    岩波書店
    ---
    (2006-02-23)
    コメント:非常に良い本。聖書の翻訳語の変遷などを追っていて、今使っている翻訳聖書の可能性と限界を深く知れる1冊。読みやすい。

    評価:
    J.I.パッカー
    いのちのことば社
    ---
    (1978-07)
    コメント:オリジナルは、Knowing God(神を知ること)。名著。一人でも多くの人に読んでほしい本。

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