<< 結婚相手としての牧師の厳しさ | main | 日銀券と神と聖書的のインフレについて >>
2012.11.28 Wednesday

『シャープ』教会を読みながら

0


    敬愛するヤンキー牧師先生が、またまた、面白い記事を書いておられる。

     「シャープ教会」を考える(1)「シャープ教会」とは?

    「シャープ教会」を考える(2)過去の成功体験の呪縛

    「シャープ教会」を考える(3)過去の成功体験に縛られぬために

    「シャープ教会」を考える(4)痛い時代の読み間違い

    「シャープ教会」を考える(5)宣教対象を忘れての内輪受け重視


     これらの記事は、ホンハイグループにばらばらに切り分けられ、おいしいところだけ買収されかかった日本の大手家電メーカ(液晶で超有名)の失敗と類似の軌跡をたどりかねない教会に関して書かれたものであり、大変面白く拝読した。

     もともと、シャープは、現在のかたちの実用に耐えうるシャープペンなんかを最初に開発した会社であり、カシオとの激烈な電卓戦争の中、電卓で液晶技術を確立したメーカーさんであった。ミーちゃんはーちゃんもいまだに、大学時代(今を去ること約30年前)に購入したシャープの関数電卓(パソコンやエクセルのない時代に統計計算をする際の必須アイテム)を我が家の家族は、いまだに使っている。演算の入力が確認できるのがありがたい逸品電卓であった。さすがに液晶パネルが根性なくなりつつあるが。 カシオのは、ゴムだったので、使用時に違和感があったが、シャープのはプラスチックだったので、ミーちゃんはーちゃんの手にはなじんだ。以上余談終わり。

     ポイントをぐぐっと絞っていってしまえば、この記事では、過去の成功事例に引きずられ、それが足かせになっていき本来のものを失っていく教会の姿、化石化していく教会の姿である。これは日本だけで起きているのではない。ヨーロッパでも、アメリカでも起きているのだ。多分。

     実は、この点は様々な本で指摘されている。ミーちゃんはーちゃんが覚えているのであれば、メイド・イン・ジャパンのキリスト教(この本は名著)(以下リンク参照)で引用されていたFFブルースの本からの引用がある。

    共同体が従来の環境から新たな未知の環境に移植される際によく見受けられるのは、伝統の固定化、あるいはまさに化石化ともいうべき重大な局面である。伝統を移植当時の型通りに残そうとこだわることによって、共同体はアイデンティティと安心感を保とうとしているのかもしれない。もっとも有名な例は、おそらくアーミッシュだろう。なぜ有名かといえば、その伝統が彼らの生活様式全般を形成しているかどうかである。しかしそこまで包括的でないものも考慮に入れるなら、これはごくありふれた現象である。
    (中略)
    古くから定着しているなじみ深い教会の中に留まるほうが安全で心地よい、と感じるものは多い。明るくなると、いつくしんできた伝統の不具合―暗いままなら隠しておけた不具合―が照らし出されてしまうかもしれないのだ。


     マーク・R・マリンズ著 高崎 恵訳 トランス・ビュー, pp. 10-11. オリジナルは、上の訳書の情報によれば、Bruce, F.F., Tradition Old and New,(Exetor: Paternoster Press 1970),pp. 17-18.

     それ以外にも、たとえば、マクグラス先生の本でも、次のような文章がございます。オリジナルは、A・E・マクグラスの著作「ポスト・モダン世界のキリスト教 21世紀における福音の役割」(稲垣久和監訳・教文館 pp.81-83)(以下リンク参照)には、以下のような記述がみられた。

    2 伝統には伝統主義者と言う意味 も含まれています。それは以前の世代のプレッシャーであり、私たちが以前の世代の人たちとまったく同じように考え行動し続けることを要求します。そのよう にして福音主義を16,18,19世紀の世界観に閉じ込めてしまうのです。「伝統」にどのような形であれ、権威を与えることは、福音主義が死者と夢中歩行することを強要することであり、それは現代のサンフランシスコで18世紀の服装をするのと同じほど滑稽なことです。キリスト教が人々からどのように見られているかに非常に敏感な時代に―「求道者に配慮した」礼拝が増えているのを見てください―、伝統への関心は全く場違いであるように思えます。伝統は同時代性に真っ向から対立するのです。

      J・I・パッカーにとって「伝統」とは、聖書が過去どのように読まれてきたかを考慮しながら聖書を読む意欲です。それは長期にわたって存続するキリスト教信仰の共同体的側面に気づくということであり、多くの福音主義者たちの浅薄な個人主義に疑問を投げかけます。聖書の解釈には、一個人が識別可能なものを超 えたものがあります。伝統とは、信仰における私たちの先人がどのように聖書を理解してきたかに積極的に十分な重きを置こうとすることです。それは、聖書解釈を含み、キリスト教信仰の共同的性質を強く思い起こさせることになります。
    とあった。まさしく、ヤンキー牧師の、

    最後にまとめておきましょう。

     「時代に媚びることなく、時代を読む」
     「本質を変えることなく、時代に適応する」
     「自世代の充足より、次世代への理解と関心」

    というまとめは、これらのまとめでもあるのだ。マクグラス先生とFFブルース先生と水谷潔先生は、基本的に同じことを、違う表現で言っているにすぎない。マクグラス先生とFFブルース先生は、多少表現が高尚であるかもしれないが。さらに、ここでも紹介した、越川先生の宣教って何だ、の本などの記述も基本的にそう。たとえば、第6回(リンクはここ)に御紹介した記事などが典型である。といって、水谷潔先生が高尚でないわけではないように思う。ただ、わかりやすさ、というか若い人のウケを考えてサブカル風の遊びにしておられるだけだろうとは思う。たとえば、「昭和博物館」「昭和教会文化保存会」のような表現は受け狙いでしょう。ミーちゃんはーちゃんは受けました。面白かったです。

     あと、まぁ、基本的に大和郷の教会で、小嶋先生がネガティブ・イメージでおっしゃっていることとも、相似関係にあるだろう。

     小嶋先生のネガティブ・イメージの記事を受けて伝統について、地に手をつけて考えた。 でミーちゃんはーちゃんが書いておいたことや、HK様(HK様ありがとう)のコメント受けて、変容と具体的世界で書いておいたこととも、寝屋川キリスト福音館のブログ主の先生がイオタの相克でおっしゃっておることも似ているし、マクナイト先生がキング・ジーザス・ゴスペルで、救済主義者(ソテリアンズ)についておっしゃっていることと共通すると思うのだなぁ。これが。

     と思って読んでいたら、この前、お昼ごはんを一緒に食べた泉さん(泉さん、見てる?)からその時に紹介されたGordon T. Smith(動画はここをクリック。英語のみ。講演で、公共圏としての教会と仕事やミッションとの関係に触れておられる。非常に重要な講演だと思うた)の本 A Holy Meal(以下リンク参照)に面白い文章が書いてあった。なお、同姓同名でイギリス人で怪しげな本を出している人がいるので、注意が必要。Gordon T. Smithの本は邦訳がないはず。

     教文館さんか、新教出版社さんか、地引網出版さんか、どっかの出版社さんだしませんかねぇ。

     一応、引用して日本語変換しておこうかと。

     まず第一に、重要なこととして強調しておきたいのは、記念すること(Remembrance)の行為は、センチメンタルなノスタルジー(懐古趣味)の行為ではないのだ。ある人々にとっては、記念することは、過去にすむような無益なことより少しだけ、ましなことかもしれない。ある人々にとっては、 現在の経験や現実よりも彼らの心になじんだ過去のほうがもっとなじみがあるのだろう。彼らは、ノスタルジックに現在とはまったく一致しない、過去の出来事 を振り返るのだ。特別な記憶は、現在の時を楽しく享受する能力を損なうような方法で、祝われることになる。私たちの職場や我々がその一部をなす教会という コミュニティでも、この種の記憶を見出すことができる。人々は、昔のことに心傾け、その昔とは、当然のことながらよいもので、そのようにあってほしいと思うような昔なのである。

     このような見方の問題の一部は、過去のできことは、ただそうであったというだけであることである。過去の出来事は、過去のことなのである。物体にしても言語にしても、考え方にしても、感覚にしてもそれにしがみつくことはできるが、それは、歴史における個人的な関心の問題でしかないのだ。しかし、 人々が、過去の黄金の時代を再び生きようとすることの危険は、彼らが現代の完全につながろうとしていないことなのだ。それが、その人の歴史であろうと、ある個人の歴史であろうと教会の歴史であろうと、ある組織の歴史であろうと、そういう気持ちになる人々よりも、もっと面白くて単純だった時代として記憶されている時代であろうと。あるクリスチャンたちが、昔の時代の宗教を語る時、彼らの人生の初期の時代と心の中で結びついたものとして、語るのを聞くことがあ るだろう。ある人々は、過去の軍事的な戦闘を再現してその中で生きようとすることを愛してやまない人がいる。今日の私たちにどのような意味があるのかやそ の象徴的な意味、ということを考えることなく戦闘が行われた場所を訪ねるのが好きな人がいる。むしろ、彼らは先頭そのものを再現するのである。爆発音や、煙、ほこりや、そのシーンの中での栄光やヒロイズムを再現しようとして古いユニフォームでそれを再現するのである。彼らの過去への愛情は、過去を偶像化し、さらに現代において新らたに生きることから遠ざけているのだ。

     そのような記念の仕方は、人々の益にはならない。我々は、詳細や過去に起 こった細かなことを覚えているかもしれないが、記憶は、今この場において、示され、そして、私たちが明日に向かって生きるための勇気を与えるときにはじめて、益になるのだ。ノスタルジックな記憶というのは、真に過去を記憶することではない。正統的な記念する行為というのは、我々が過去を知ることを可能にし、今日を活性化するものなのだ。そして、今抱える現在の危険性と機会において存在することができ、将来に希望を持って今日を享受できるようにするものであるべ きなのだ。


      First, it is important to stress that this act of remembrance is not sentimental nosalgia.  For some, acts of remembering are little more than futile attempts to live in the past.  Some people are more attuned to the past they hold in their minds than to their present experience and reality.  They look back nostalgically on a past event that for them can never be matched by the present.  Special memories are celebrated in a way that diminishes their capacity to enjoy and relish the present moment. We find this kind of "memory" in our place of work and in the church communities of which we are a part. People hark back to a previous time that, inevitably, is a better time, and they wish that things could be as they used to be.


      Part of the problem with this prespective is that past events are just that:  They are past. We can try to hold on, somehow, to material things, language, ideas, and feeling as a matter of personal interest in  "history." But the danger is that when people relive a golden age of the past - from their own personal history or the history of a people or a church or an organization, a period that may strike them as more interesting or less complicated than their own age - they are not truly connected to the present.  You may hear some Christians speak of that old-time religion, which for them bring to mind associations link with an earlier time in their lives.  Some people love to relive a military battle of the past.  They do not visit a battle scene to ask what it might mean for us today and to appreciate its symbolic significance.  Rather, for us today and to appreciate its symbolic significance.  Rather, they enact the battle itself, with all the noise, smoke, dust, and old uniforms in an attempt to relive a scene of glory and heroism.  Their love of the past both idealizes that past and also keeps them from truly living in the present.

     Such remenbrancing does not serve people well. We may remember the details or the specifics of what happend in the past, but memories serve us well only if they enable us to be fully present in the here and now and grant us courage to face tommorrow.  Nostalgic sentimantalism is not true remembering.  An authentic act of remembrance allows the past to inform and animate the present; it enables us to be fully present for current challenges and opportunities, to relish what we have now and to face the future with hope.

                from A Holy Meal: The Lord's Supper   
                         
    in the Life of the Church(pp.36-37)

     つまり、Gordon T. Smithさんによれば、「過去にとらわれ、過去の中にノスタルジックに生きる生き方、昔はよかった、今の若者はなってない、昔の栄光にすがりつくような記念の仕方、記憶の仕方は、何の役にも立たないのだ。いまは世の中がどんどん悪くなっている、わしの若いころは…などというのは、NGです。」とおっしゃっておられるのだ。

     御意。とミーちゃんはーちゃんは思うぞ。
     禿同。とミーちゃんはーちゃんは、思うぞ。

     ディスペンセイション主義者の中には、創造の出発点から、どんどん人間は悪化をしていくという概念に立っておられる方も少なからず居られるのだが、それはおかしいかもね、といことに、Gordon T. Smithさんの理解だと、なるとは思う。そりゃそうだ。時代を経れば経るほど悪くなるのだとすれば、最初の殺人事件はもっと後でよいはずだ。世界で最初の殺人事件(カイン容疑者によるアベル殺害事件、警視庁とFBIとKGBともうすぐなくなるかもしれないスコットランドヤードとインターポールがカイン容疑者を特別手配中、なわけない)は、アダムとエバが御存命のうちから起きているからだ。

     ミーちゃんはーちゃんの聖書理解に間違いがなければ、という前提ではあるが、そもそも、神から離れた瞬間に人間たちは、すでにヲワコン化し、残念な人たちになってしまっているのだ。だから、若者の皆さん。あなたたちがヲワった感で満ち溢れていても、気にする必要はない。人類はすでにヲワっているのだから。

     ただ、きちんと現代に生きることを過去から神と共に生きながら、そして神の民と共に生きながら、考える形で覚えるのであれば、ヲワった感から脱出できるはずだ、というのがイエスの主張のはずで、そのイエスの主張を、How God Became Kingで、「そんな、あまりに捨てたもんじゃございませんぜ。イエスを旧約聖書から一貫して示されている王として正当に迎えるならば」とNTライト先生は、言っておられるように思うんだが。

     それから、ちょっとだけ追加で話しておきたいことがある。旧南部連合(Southern Confederationだったっけ?)に属した州のあたりに行くと、いまだに、ぶっ違いになった旗をあげている車や家がある。この種の人たちは、いまだに奴隷制に賛成だったり、有色人種に偏見がある人たちがいるので、注意しよう。詳しくは、このあたりをおちょくった、イギリスのテレビドキュメンタリー C.S.A.(映像は、こちら )を見てみよう。

     この映像は、すべてネタなので、真剣に信じないように。CMもぜーんぶ、ウソピョーンです。ただ、アメリカ史がわかっていないと、この映画のギャグは分からないかもしれません。ただ、イギリス作の映画なので、結構ブラックジョークが効いています。南部なまりも、英国人に配慮してか、かなり緩めです。

     また、この南部諸州では、南北戦争を再現して(一応空砲)遊んだり、観光名所にしたりする人たちもいるので、あまり、そんな記憶の仕方はおかしい、とか言ってからかうと、マスケット銃から実弾が飛び出すかもしれないので注意。

     そういう人たちが、リース・ウィザースプーン主演のラブコメのSweet Home Alabama!(邦題 メラニーは行く!)に出てくる。映像はこちら。(1分30秒ぐらいから南北戦争のバトルを南部の趣味人が再現するシーン。)この映画の英語の南部なまりというほど、ひどくないです。私が出会った、南部人のリアルな南部なまりは、もっと分かりにくいものでした。

     正しい記念の仕方は、デンゼル・ワシントン主演の映画Remember The Titans(邦題 タイタンズを忘れない)でデンゼル・ワシントンが演ずるハーマン・ブーン・コーチが、ゲティスバーグに行くことで、記念するやり方が一番近いかもしれない。 その時の映像はこちらをクリック。(1分40秒くらいからが記憶に関する演説)

     ま、いずれにしても、キリスト者にとっては、現在と将来をどうイエスの物語として紡いでいくのか、ということが大事だってことで、今日はこのあたりで。ではでは。

     ねねぇ、教文館さんか新教さん。Gordon T. Smithの本、出しませんか?新教さん、キリスト教笑百科もいいんですが、それより、これ、出しませんか?おねげーしますだ。





     


    評価:
    マーク・R. マリンズ
    トランスビュー
    ¥ 3,990
    (2005-04-28)
    コメント:日本で変容してしまって、キリスト教?と言いたくなるキリスト者集団に関してのキリスト教学的見地からの再検討したほんです。面白い。ブラザレンがこれにかかわっているのも面白かった。

    評価:
    A.E.マクグラス
    教文館
    ¥ 1,890
    (2004-06)
    コメント:入手できるうちに入手しておいたほうがよいかも。現代社会とキリスト教徒の関係を考える際において、かなり有益な補助線を与えてくれる公園が含まれた1冊。

    評価:
    Gordon T. Smith
    Baker Academic
    ¥ 925
    (2005-08)
    コメント:マクグラスの「聖餐」とナウエンの「開かれた手で」に、ジャン・バニエのエッセンス、NTライトの最近の著作のエッセンスとをかけて料理したらこうなるかなぁ、というタイプの本。だれか日本語版ださないかな。

    コメント
     拙ブログの怪しげな論説を、強力な神学的根拠でフォローしていただき、感謝感激であります。ここ二週ほどの御ブログの記事は、他が発信しない貴重かつシリアスな内容が多く、大変、教えられ、考えさせられております。これからも尊い発信を楽しみにしています。
    • 水谷潔
    • 2012.11.29 Thursday 21:20
    ヤンキー牧師先生と呼ばせていただきますね。

    いえいえ、私は、Accidental Pseudo-Theologianなので、正規に教育を受けたことがないものですので、お恥ずかしい限りです。おほめの言葉、ありがとうございます。

    このタイプのことは、本邦のキリスト教界では、あまりだれもご発言なされないし、私は教派・教団・団体を背負っているわけでもないですし、平信徒ですので、好き勝手なことを言えるのかなぁ、と思っております。そういう意味で言うと、イマージェントの走りようなのゲリラ集団的なキリスト者集団にいるからできるという特権をしばらく享受いたしたいと存じております。

    お励まし、ありがとうございます。心から感謝申し上げます。先生みたいに毎日、というのは、つらいですが。

    今後とも御笑覧いただければ、幸甚でございます。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2012.11.30 Friday 08:07
    管理者の承認待ちコメントです。
    • -
    • 2012.11.30 Friday 16:50
    N先生

    御連絡、ありがとうございました。ややこしいことを避けるために、身元を隠しておりますので、失礼いたしました。

    後ほどご連絡いたします。連絡先なくすといやなので、コメントは非公開、このまま残させてください。

    コメントありがとうございました。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2012.12.01 Saturday 06:43
    コメントする








     
    Calendar
    1234567
    891011121314
    15161718192021
    22232425262728
    2930     
    << September 2019 >>
    ブクログ
    G
    Selected Entries
    Categories
    Archives
    Recent Comment
    Links
    Profile
    Search this site.
    Others
    Mobile
    qrcode
    Powered by
    30days Album
    無料ブログ作成サービス JUGEM