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2012.12.12 Wednesday

アメリカ人の福音派の神学部の大学教員が、アメリカの福音派の軍国化について語ったこと(3)

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      ようやく最近は、通常ベースに戻ったものの、水谷先生のブログで紹介されてからと言うもの、携帯の利用者の方のアクセスが増えた。このブログは川原泉さんの作品と同じように文字がやたらと多いブログです。ブログと言えないほど文字が多いです。携帯電話の方には、申し訳ないが、今回もいよーに長いです。誠に申し訳ござらん。先にお詫び申し上げ奉る。

     今回のネタは、非常に重要なので、ミーちゃんはーちゃんは茶々を入れずに真剣に紹介したい。以下の文章は、アメリカのカリフォルニア州の神学校の先生がお書きになられた文書を若干の注を入れながら紹介したものである。まず、以下の文章を静かに読んで、ぜひ考えてもらいたい。できるだけ多くのキリスト者に。そして、戦争だ、とすぐ言うキリスト者たちに。日本にはいないだろうけれども。戦争だ、と言い出すのは福音主義者のみに限られない。ただ、アメリカ国内で福音主義者を自称する人々に多いのではあるが。


     これ以前の記事は以下のとおりである。これらをお読みでない方は、まず、こちらを読まれた方がよいだろう。

    アメリカ人の福音派の大学教員が、アメリカの福音派について語ったこと(1)

    アメリカ人の福音派の神学部の大学教員が、アメリカの福音派について語ったこと(2)

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    福音主義・軍事優先主義そしてローマ13章



     このポストは、Preston Sprinkleによる3つの投稿のシリーズの3番目である。Preston Sprinkleの詳しい情報は、このポストの最下部に記載している。

     この前のポストで、旧約聖書が実際には、戦争行為と暴力を(時にではあるものの)認めているとはいうものの、軍事優先主義を非難していることを指摘した。しかし多くの場合、過去、軍拡競争を旧約聖書から擁護してきた人々はローマ13章1-7節を根拠にしてきた。その場所は、変化に富んだもので、また、戦闘的な解釈されてきた歴史を持っている場所である。アドルフ・ヒトラーやロバート・ムガベ(注 ジンバブエの大統領 白人の農場強制収用で知られる  Mugabe and the White Africanここをクリックで映像が見えます。 http://www.dailymotion.com/video/xuz3d6_yy-yyyyyyyyyytv-mugabe-and-the-white-african-yy-2012-11-09_shortfilms#.UKq5JGfPxvk 参照)や他の近年の自称『キリスト者』の独裁者が、この聖句を、彼らが国内での敵とみなすものを合法的に死刑にするために用いられてきた神聖な方法論(  原文はticket)であったのである。1世代前に戻らなくても、ローマ13章は、南アフリカのアパルトヘイトのための特権を与えるものとして用いられてきた。そして、アメリカのキリスト者の指導者たちも、奴隷制の時代や、もっと近くでは、人種隔離的な時代に用いてきた。もし、ある州が黒人が白人と同じ 水道から飲むことができないとするならば、それをすることは神に与えられた当然の権利だとしていたのだ。


     ローマ13章のようなそのような見方は、今日、少し行き過ぎであるとみなされているが、それにしても、ごくわずかだけ、という理解である。 Wayne Grudem を例にとってみれば、彼は『良い政府の手にある剣は、悪を行う者たちに打ち勝つために、神が与えたまいし兵器である(Politics, 407)』と言っている。さらに、これをアメリカのイラクやアフガニスタンでの戦闘に当てはめている(私は、Grudem を目立たせようとしているのではなく、むしろ、彼のものの見方は、近年の、そして私が見るところによれば、福音派の考え方の代表的なものであると言えそうだと思っている)。実際、ローマ 13章は、Grudem の本の全体を通して引用され、ヨハネ3章16節に近い位置を与えられている。それは、キリスト者が戦争を考えるべきであると、そのレンズを通せば、そう見えるようになる完全無欠なレンズでもある。この前提には、もちろん、アメリカは良い国家であり、イラクやアフガニスタンは悪い国家であるという前提がある。もちろん、イラクやアフガニスタンは悪い国かもしれない。しかし、だれがよいとか悪いとかを決められるのだろうか?それは攻守逆転して、ローマ13章が無人爆撃機で非戦闘員や子供を殺したことの報復として、そして、南カンダハルやハディータ(  南カンダハルの都市)で起きたことの報復として、パキスタンや、イラクのアメリカ侵攻の根拠になるとしたらどうだろう。こう見れば、我々はローマ13章を誤読しているのだ。


     しかしながら、ローマ13章は暴力礼賛・政府礼賛・正義の戦い理論(あるいは、正義の戦い一般)を擁護するものとして受け止められてきたが、実は、この部分は、実際にはこれらのものを全く含まない。以下にその理由を示そう。

     まず、ローマ13章は、外国に対するローマの戦争方針について語っているのではなく、ローマの市民に対する法的な行為についての方針について語っているのである。パウロのフレーズ、剣を帯びている(13:4)は、政府の法治管轄権の内部での警察活動を意味しているのであって、領土外での戦争を意味しているわけではない。このテキストを具体的にはアメリカのイラクでの戦争に適用して、この方針を支持するために用いることは、パウロが言おうとしていることをはるかに超えていることだ。他国に対する戦争を行うことは、たとえそれが先制攻撃の名で行われようとも、ローマ13章のパウロの主張を反映するものではない。

     第2にこの節は、教会が政府の権限に従順に従う(  obey)ように命じるものではなく、そのような政府の権威を受け入れる( submit)ものである。今日、サブミッション(  受け入れること)はオビーディエンス(服従)を含み、オビーディエンス( 服従)は、時にサブミッションを含んでいる。これら両者の間に意味的な重なりがある。しかし、パウロがここで、従うに当たる典型的なギリシア語(ペイターケイン・ペイセースタイ・ウパコーエイン)の一つを使っていないことは重要なこととして認識すべきであろう(注 使われているのはHupotassoフーポタッソォ 服する。従う。自主的な意思で責任ある人と思われる人に協力する、または、自主的に責任を担う)。キリスト者がキリストの法に服する(  obey)とは、彼らの王から与えられた徳律の道を歩むことなのである。もし、世俗の国家の法が、キリストの法と対立しない限り、人々は世俗の国家の法に従うのである。しかしながら、神への忠誠から逸脱しない範囲で国家に忠誠を従うのであって、国家への無批判な忠誠から逸脱することではないのだ。別な表現では、政府への革命行為をしてはならないということだ。それを尊重し、そのために祈り、それがよくなるように働き掛け、政府に対する課税に従うことである。しかし、あなた方は、バビロンやローマや、そしてアメリカのような地における亡命者として、寄留者として生きていることを覚える必要があるだろう。あるいは、高名な新約学者 C.E.B.クランフィールドのことばによれば、国家に従うこととは、国家を尊重し、神の定めたもうた法(注 聖書の主張)に対立しない限り従うという範囲で従うものであり、国家が神の法に反する場合、責任を以て、そして真摯にそれに不服従することである。(Cranfield, ローマ人への手紙注解, 662ページ).

     第3にパウロの表明は、旧約聖書に広くみられる神が神の御思いを実現するために世俗(注 あるいは世間)の国家を通して働かれるという事実(注 真実)を反映したものである。なぜならは多くの政治家の姿、具体的には、イザヤ書44-45章の中で、ペルシャのキュロス(Cyrus)王、エレミヤ書27章6 節、43勝10節でバビロンのネブカデネザル王、神が、『わが憤りのこん棒(日本語では鞭)』、『わが怒りの杖』と呼ばれた無慈悲で悪意に満ち満ちたアッシリアなどに見られるように、旧約聖書は、これらも含め、『神のしもべ』としてとらえているのだ。『神のしもべ』という語は、イスラエルの神に対して、喜んで仕えたローマ帝国(紀元4世紀以降の帝国)のことを意味していない。むしろ、神がローマを神の手先として用いる神の能力を言及しているのだ。神が世俗の(そして時に悪意に満ちた)組織を神の意志を実現するために用いるからといって、アッシリアが市民を生きたまま皮をはいだりするような非道な行為や、1世紀にローマが無辜の民を 1000人単位で十字架刑で殺害したようなことをなんでも神がお認めになっているということを意味しない。神は、そのような悪をも神の意志の実現のための方法として用いられるのである(創世記50:20・士師記14:4)。このことは、悪そのもの自体を神が承認されておられるということを意味しないのである。

     第4に、神の主な活動は、悪を懲らしめ、善に報いるような政府を通しておこなわれる。しかし、そのことをパウロはここで言っているだろうか。すべての政府が、いつも悪を正義を以て懲らしめ、そして善に報いるだろうか。あなたは正しい。ローマは、バブテスマのヨハネの首を切ったのと同じ政府であり、そして罪のないイエスを十字架で掛けて殺したのと同じ政府である。実際ローマ13章を書いてから数年のうちに、ネロ帝は、キリスト者をタールに漬け込み、そしてその人々に火をつけ、自分自身の庭園の明かりとして用いたのである。これらのことはすべて、平和と正義を実現するという名のもとに行われたのである。パウロはローマがしたいことは何でもできるという白紙委任状をローマに書いたわけではない。パウロの言明は、ローマは、『あなたに益を与えるための、神のしもべ』であるとともに、『悪を行う人には怒りをもって報い』るものであるということは、神が政府を通して正義の技を働かれるということやそうすることができるということであり、朝刊をちらっと見ればわかるように、政府がすることは、常に正義に値するということではない。ローマ13章は、すべての政府の活動をけがれなきものとするためのものないし、この部分は、政府に関する新約聖書のもっと包括的な理解を得るために、黙示録13章、17-18章とともに読まれるべきものであるのだ。

     最後のポイントは、もっとも教会にとって重要なものである。もし、このポイントを見のがすなら、ローマ13章でパウロが言っている神の王国の国民としての理解を得ていないことになる。パウロが、ローマを通じて神の報復を実施しているという時、キリスト者が(注 私的)報復をしてはならないこと、あるいは公的報復以上の報復を勧めていないことを意味しているのだ。少ししか離れていない、この二つの言明を見てほしい。

     愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」(口語訳 ローマ 12:19)

    彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。(口語訳 ローマ 13:4)

     パウロは、神の怒りとローマ帝国による報復を教会に憤りと報復をしないように命じたすぐ後に書いているのだ。復讐は神の業であり、我々の業ではない。我々は、悪に報いる必要がないのだ。なぜなら、われわれは神の意志を信じているからである。神の意志による復讐の唯一の方法は、政府の権威を通してのみである。パウロの実際の立論のことばによれば、ローマ12章で、彼が言ったことを13章で再確認しているのだ。つまり、あなたを攻め立てるものを祝福せよ、あなたの敵を愛しなさい。そして、政府に協力しなさい。キリスト者が戦争で人を殺すことからは大きく離れているのであり、ローマ13章は、この暴力のみちあふれた世界において、教会がしっかりとした平和な態度をとることを強調したものなのだ。

     このように、ローマ13章は、神の王国の国民の中での軍事優先的な態度を推進するものではありえないのだ。


     Preston Sprinkle博士は、カリフォルニア州シミ・バレーにある Eternity Bible Collegeの聖書研究の教授でありベストセラー作家である。これらのポストは、彼の聖書における戦争と暴力に関する研究から派生したものであり、それは、David C.Cookから来年8月に公刊される“Fight: A Christian Case for Non-Violence,”においても書かれている。

     Sprinkle博士のウェブサイト(prestonsprinkle.com)やツイッターで彼の考えを追うことができる。
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     これを読みながら、というか日本語変換しながら、思ったのことは、聖書の乱用が多すぎる、ということである。みことばへの敬意が足らないのは、人の事を言えた義理ではないが、自分の都合のよいように聖書のことばを切り刻み、本来の文脈から離して、ほら、こうでしょ、という展開があまりに多すぎる。牽強付会(けんきょうふかい)にもほどがある、と思ったのだ。

     以前このブログで、神の名を騙る( いただいたコメントから、キリスト者2世問題をまたまた再考してみた)という話をしたが、まさしく、聖書のテキストをカットアンドペースとして自分たちのやりたい事に無理やり結び付けるとは、神の名を借りて、神のことばを騙ることにならないだろうか。つまり、軍事的なコンテキストを無理やり聖書から読みこんでいくことは、聖書テキストの誤用を超えて、意図的な読み込みをしてるのではいだろうか。

     そもそも、神は歴史的なコンテキストの中で、ある特定の時代の特定の環境や状況のものと、特定の方法で、イスラエルに関与をされた、と理解するのがまず当然であろう。それを一般的な真理として拡張するためには相当無理をしなければならないが、黒革表紙に金文字でThe Holy Bibleと書かれた書物を軍事マニュアルにする人々は、一般的な指針として書かれた、そして示された事例を特定の問題に当てはめるような聖書理解上の無理や文脈のコンテキストを全く無視し、聖書にこう書いてあるではないか、だから我々の行為は聖書、すなわち、神のことばによって正当化されうるし、それは神のみ心であるという読み込みをすることがあるようだが、それはもともと無理ゲー(攻略、または最終場面に到達する事がほとんど不可能なコンピュータゲーム)にちかい。聖書は、基本的な行為について、実はどうこうしなさい、という指定はほとんどなく、〜〜してはならない、となっているのだ。禁止事項はなしてならないが、個別の条件でどういう行動をとるのか、は、神の意図を求めながら生きる中で人間の責任において決めることではないか、と思う。それを無理やり神のことばにすり替えるのは、神への責任転嫁ですらあり、非常に無責任な行為だと思う。それは、発言者の座に自らの意思を据えるという意味で、アダムとエバがエデンの園でやったことではないか、と思うのだ。まさに自分の思い、という偶像に対する偶像礼拝なのである。

     また、この場所で使われている聖書の従うという Hupotassoフーポタッソォについて、ミーちゃんはーちゃんが調べてみたところ、夫人が夫に従う(1 コリント 14:34 エペソ 5:21-22 コロサイ 3:18や第1ペテロ 5:5の長老に従えがこのHupotassoが使われているが、著者の言うとおりだとすれば、従う、というのは、あくまで自己意思で主体的に重荷を負うと いう意味であり、日本語の通常の語感に基づく「従う」という意味とは大幅に違ってくる。問題は、カルト化した教会、あるいはキリスト教カルトや、DVがみられるような家庭の中で、このHupotassoが誤って理解され、無理やり正当化に誤用される点が大きな問題なのだと思う。


     なるほど。パウロが言う剣を帯びているというのは、警察権の行使の話で、他国との交戦権の話ではない、という指摘は重要だと思う。

     ただ、アメリカ人は、いまだに自分たちこそが唯一神から世界の警察権の管轄を与えられた民だと思い込んでいる節があるので、やたらと他国に入って行って、自分たちの考える正義を押しつけるのが大好きなのだ。自分たち以外の正義や問題解決法は誤っているとは言わないまでも、問題があるくらいには思っているので、自分たちのルールを押し付ける癖がある。典型的に表れるのが、海外基地での警察権の行使である。なので、あちこちで紛争があると、世界の警察官として出て行きたがる精神構造はある。迷惑な話であるが。個人としてのアメリカ人は好きだが、システムとその背後にあるアメリカ人の精神構造は、大変残念だと言わざるを得ない。

     さらに、在外米軍基地での警察権は、米軍憲兵隊USMPが持つ。なので、他国の土地をレンタルしていても、無神経にこの基地内での警察権の行使は、米国内国法規による、と大書できるのである。対日本人に対する警察権も米軍基地内では、米軍憲兵隊が持つというのが彼らの感覚なので、何度言っても、彼らはそれを書くのだ。大体、自分勝手にやりたいカウボーイたちに何を言っても、聞く気がないのだ。アメリカ人の素朴さ、単純さが、他国理解をさせなくする際の障害になるのだ。

     アメリカ人は、自分のルールが世界のルールであると思い込み、そのルールを無批判に他者に強要することを無自覚にする傾向がある。自覚して意図的にやるのもたちが悪いが、それ以上に無自覚にやるのも、余計にたちが悪い。

     他人に言われても、気づきもしないし、下手に他人が指摘すれば怒りだしてしまうのだ。だから、このPreston Sprinkleというアメリカ人の福音派の聖書学校の教授が、福音派に向かって語ったことに意味があるのだ。日本人が言ったところで、お前らから教わる必然性がどこにあるのか、というだろうし、英国人が言ったところで、わしらの事にくちばし突っ込むな、といわれるのがおちである。だからこそ、アメリカ人がアメリカ人に対して、ホィッスルブローしたところにこのブログの意味がある。若干ステマっぽいのはあるけれども。


     ところで、日本のキリスト教のかなりの部分は、米国系の宣教師によって日本にもたらされた。その結果として、アメリカ風のキリスト教であることの影響は否定できないと思う。こんなことを書くと、私たちは唯一の正統的な使徒時代以来のユダヤ的なコンテキストも保持しているキリスト者だという人たちもおられるので、その人たちからブーイングを浴びそうであるが、しかし、日本の福音派における、その神学におけるアメリカ的特性は、本当にそう容易に否定できうるものだろうか。そして、自分たちの主張が正しいからという思い込みで、他者にそのルールの強要をしていないだろうか。

     そして、服従する、服するという言葉が日本社会の中で、かなり誤用されてきたのではないか、とミーちゃんはーちゃんは思うのだ。日本社会では、年長者や社会的地位が高い、あるいはかなりの人がその能力を認める人には権威性が発生する。そして、その件にある人が、〜〜だ。と言われれば、みんなそう思う、というように社会の構造ができているとしか思えない部分がある。皆がその権威に服すると言うよりは、その権威の言動に盲従する現象が起きるのだ。その最たる例がテレビである。テレビでしゃべったことがある人であれば、だれしもが、本物だろうと思い込むのである。要するにテレビ出演者本位主義がはびこっていることになるのだ。いかにその内容がなかろうと、テレビの言うことは絶対と、ジョージ・オーウェルが1984で厳しく批判した現象が起きているのだ。

     最近のアップルコンピュータの流行を見ていて、そう思う。私の研究分野では、アップルコンピュータが最近まで使いにくい環境だったので、自慢にもならないが、アップル社の製品は使ったことがない。しかし、今では猫も杓子もアップル社の製品で市場はアップルのパワーに圧倒されている。フリークな人はフリークな人で、アップルフリークしたらよろしい。しかし、わけわからないのにアップルフリークになる人、まさに勝ち馬に乗るためにアップルフリークになる人たちが一番かなわない。

     それをこの前のシンプソンズでは、ものすごい批判をしていた。アップルコンピュータがIBMのPC市場に殴り込みをかけた時の映像を皮肉って作品にしていた。アップルよ。あなたたちは、1984年に、マッキントシュを出した時には、人々を解放する戦士であったのに、現在は人々をマッキントッシュの世界に縛り付けているではないか、という批判である。なかで、Steve Mobs(悪党たちのスティーブといった感じになる)とまで言っている。

     1984年のアップルコンピュータによるCM映像がこちら。http://www.youtube.com/watch?v=OH6ZEsYxiT8 

    それを皮肉ったThe Simpsonsの動画がこちら。http://www.youtube.com/watch?v=CZGIn9bpALo

     それと同じように、日本では、指導者に従う、ということは、指導者に盲従する、という意味に理解されやすいのだ。そのような、儒教的な文化がそうさせる部分もある。あくまで、指導者に服する、とか指導者に従う、というのは、主体的に指導者の重荷をそっと分担するということであり、何から何まで言うことを聞くということを聖書は言っていないのだ。日本語聖書の表現に縛られてしまっている多くの日本のカルト化した教会を見ているとそう思う。それを利用して、聖書を用いて騙っている牧師や責任者を見るのは、実に残念だ。それを防ぐのが聖書の原点にまで戻った釈義であり、それをしていないのは、非常に残念だと思う。

     もちろん、指導者だけの責任ではない。カルト化してしまえば、犠牲者が新たな加害者となり、その加害者による犠牲者が、また別の被害者を生み出す加害者になるのだ。被害者と加害者の拡大再生産が起きるのだ。それを防ぐのは牧師の自己批判でもあるが、健全な良識ある信徒の批判もそれを止めうるのだ。正気の沙汰を失った浅野内匠を止めた梶川殿のように、正気の沙汰を失った牧師をお止めし、お諫めするのは、梶川殿のような常識人の信徒の出番なのである。お止めし、お諫めすることの方が、ほんとうの武士の情けではなかろーか。

     そして、我々が服すべきものは、聖書の文言そのものではなく、それを人に与えたもうた神の御名のではないだろうか。聖書は、その神が我々に与えたもうたゆえに大切であり、聖書を通して、それを与えたもうた神の栄光を考え、求めるために聖書を読むのではないだろうか。回数多く読めば、それが立派という概念はどこかまつがっている(全面的に間違っているとは一概に言えないので)とミーちゃんはーちゃんは思うのだが、それはミーちゃんはーちゃんがまつがっている、からなのだろう。

     最後の復讐すること、武力の行使は、神の権限であるということは単に戦争を勝手にしてはならないということではない。単に争ってはならないということではないだろう。神の意図を我々が訪ね求めなければならないということであるし、いやしくも神の民であると自己を定義する以上、勝手に武力を用いて神になりかわって、神の怒りだ、とか言って武力を行使するのは、神の権威を侵害し、神の権威を人間が簒奪することに他ならない、ということを思った。セーラームーンは、「月に変わってお仕置きよ」なので、月に変わってお仕置きするだけなので、別に大したことはないのだが、「人間が、神に変わってお仕置きよ」はいただけないのではないだろうか。

     そんなことを読みながら、思った。今日も長くなってしもーた。スマソ。


    Evangelicals, Militarism, and Romans 13 (Preston Sprinkle)

    This post is the 3d in a series of three by Preston Sprinkle, whose information is at the bottom of this post.

    In my last post, I showed that the Old Testament actually condemns militarism, even though it sanctions (on some occasions) warfare and violence. But most who defend militarism race past the Old Testament and camp out on Romans 13:1-7, a passage with a checkered, and quite frightful, interpretive history. Adolph Hitler, Robert Mugabe, and other recent “Christian” dictators have celebrated the passage as their divine ticket to execute justice on whomever they deemed to be enemies of the state. Not more than a generation ago, Romans 13 was hailed as the charter for apartheid in South Africa, and as did American Christian leaders during the years of slavery and, nearer at hand, the years of segregation. If the state mandates that blacks can’t drink from the same water fountain as whites, they very well have the divine right to say so.

    Most now would see such a view of Romans 13 as going a bit too far. But only a bit. Wayne Grudem, for instance, says that the “sword in the hand of good government is God’s designate weapon to defeat evildoers” (Politics, 407), and goes on to apply this to America’s wars in Iraq and Afghanistan. (I don’t mean to keep singling out Grudem, but his views are recent and, from what I’ve found, representative of much of Evangelical thinking.) In fact, Romans 13; being ubiquitously cited throughout Grudem’s book, is given a near-John 3:16 status: the definitive lens through which Christians should think about war. The assumption, of course, is that America is the good nation and Iraq and Afghanistan are the bad nations. Maybe they are, but who gets to determine who is good and who is bad? Were it flipped around and Romans 13 was used to validated Pakistan’s or Iraq’s invasion of America as punishment for horrific drone strikes killing civilians and children, or wholesale slaughter of women and children in, for instance, southern Kandahar or Haditha, most would see this as a mis-reading of Romans 13.

    However, although Romans 13 has been taken to celebrate violence, praise the government, or vindicate Just War Theory (or just warfare in general), the passage actually does none of these. Here’s why.

    First, Romans 13 does not speak of Rome’s warfare policy against foreign nations, but of its police and judicial action toward its own citizens. Paul’s phrase “bear the sword” (13:4) refers to police action within a government’s jurisdiction, not warfare outside its territory. Using this text to support, for instance, America’s war in Iraq goes beyond what Paul is actually saying. Waging war against another nation―even in the name of preemptive strike―does not reflect Paul’s point in Romans 13.

    Second, the passage does not tell the church to “obey” governing authorities, but “submit to” such authorities. Now, submission sometimes involves obedience, and obedience sometimes involves submission; there’s an overlap in meaning. But it’s important to note that Paul does not use one of the typical Greek words for “obey” here (peitharkein, peithesthai, and upakouein). The difference is that Christians “obey” the law of Christ, receiving their moral marching orders from their King. And in as much as the laws of the state don’t conflict with the law of Christ, they obey. But they do so out of allegiance to God, not out of an uncritical allegiance to the state. Don’t revolt against the government, in other words. Honor it, pray for it, work for its good and pay the taxes that it demands. But always remember you are aliens living in exile in Babylon, Rome―or America. Or in the words of famed NT scholar, C.E.B. Cranfield: Submission to the state means “respecting them, obeying them so far as such obedience does not conflict with God’s laws, and seriously and responsibly disobeying them when it does” (Cranfield, Romans, 662).

    Third, Paul’s statement reflects a widespread truth in the Old Testament about God working through secular nations to carry out His will. For instance, the Old Testament calls many political figures “God’s servant,” such as Cyrus king of Persia (Isa 44-45), Nebuchadnezzar king of Babylon (Jer 27:6; 43:10), and the ruthlessly wicked nation of Assyria (Isa 10:5), which God calls the “club of my wrath” and the “rod of my anger.” The phrase “God’s servant” doesn’t refer to Rome’s happy service to Israel’s God, but to God’s ability to use Rome as an instrument in His hands. Just because God uses secular (and sometimes quite evil) institutions to carry out His will, does not mean that God approves of everything they do―whether it be Assyria’s sadistic practice of skinning civilians alive, or Rome’s crucifixion of thousands of innocent people in the first century. God can still channel such evil to carry out His will (Gen 50:20; Judges 14:4). This doesn’t mean that He approves of the evil itself.

    Fourth, the main activity God does through governments is to punish evil and reward good. But what does Paul mean here? Does every government always justly punish evil and reward good? Ya right. Rome was the same government that beheaded John the Baptist, clubbed Paul on several occasions, and crucified an innocent Jew named Jesus. In fact, just a few years after Paul penned Romans 13; Caesar Nero would dip Christians in tar, light them on fire, and set them up as human illumination for his garden. All in the name of keeping peace and executing justice. So Paul doesn’t write Rome a blank check to do whatever it wants to do. Paul’s statement that Rome is “God’s servant for your good” and “an avenger who carries out wrath on the wrongdoer” must mean that God can and does work justice through governments, but not everything governments do can be labeled justice, as a quick glance at the morning paper will verify. Romans 13 does not sanitized all governing activities and it should be read alongside Revelation 13 and 17-18 to get a more comprehensive NT view on government.

    The final point is the most significant for the church. If you miss this point, then you won’t understand what Paul is saying to citizens of God’s kingdom in Romans 13. When Paul says that God executes vengeance through Rome, it was to further prohibit, not encourage, Christians from doing so. Compare these two statements, which are only a few verses apart:

     Beloved, never avenge yourselves, but leave it to the wrath of God, for it is written, “Vengeance is mine, I will repay, says the Lord.” (Rom 12:19)

    For he is the servant of God, an avenger who carries out the wrath of God on the wrongdoer. (Rom 13:4)

    Paul makes the claim that God’s wrath and vengeance is carried out through Rome seconds after he commanded the church not to carry out wrath and vengeance. Vengeance is God’s business, not ours. We don’t need to avenge evil, because we believe that God will. And one way that God will avenge is through governing authorities. In terms of Paul’s actual argument, Romans 13 only confirms what he said in Romans 12: Bless those who persecute you, love your enemy, don’t avenge evil, and submit to your governing authorities. Far from encouraging Christians to kill in war, Romans 13 underscores the church’s peaceful posture in a violent world.

    Romans 13 cannot be used to foster a militaristic spirit among citizens of God’s kingdom.

    Dr. Preston Sprinkle is a best selling author and professor of Biblical Studies at Eternity Bible College in Simi Valley, CA. These posts stem from his work on warfare and violence in the Bible, which will be published as Fight: A Christian Case for Non-Violence, by David C. Cook in Aug. 2013. You can visit Preston’s website (prestonsprinkle.com) or follow him on Twitter@PrestonSprinkle



    評価:
    石浜 みかる
    日本基督教団出版局
    ¥ 1,785
    (2007-08)
    コメント:15年戦争を経由したキリスト者たちについての読みやすい本。

    評価:
    石浜 みかる
    日本基督教団出版局
    ¥ 2,625
    (1999-08)
    コメント:高いけれども、過去の日本のキリスト者の動きを知ることができるかも。

    評価:
    George Orwell
    Signet Classics
    ¥ 609
    (1950-07-01)
    コメント:言わずと知れたジョージ・オーウェルの名著。

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