<< NTライトセミナー第1回目の参加記(元アドレス) | main | 日本での教会を考えるためのお勧めの一冊 第4回 >>
2012.10.19 Friday

NTライトセミナー第1回目の参加記

0
      お茶の水で開催されたNTライトセミナーの参加記を書いてみようかと。また、このブログでのメモは、各パネリストやフロアの皆さんからの正確な発言ではなく、かなりミーちゃんはーちゃんが感じたことや、ご発言の趣旨の解釈が含まれておりますことをお断りしておきます。なお、青字の部分は、ミーちゃんはー ちゃんの感想、独り言、思ったことです。また、キリスト新聞社刊の「宣教って何だ」についてはまたあらためてご紹介の予定。

     まず、この会の最初は、Uさんの開会のことばとお祈りから始まりました。

     そのあとすぐ、最初は出版社A代表のOさんからOさんの個人的な信仰歴との関連で、信徒の立場から、聖書理解をさらに深めることになったNTライトについてのお話がありました。

     最初は、ワシントンポストやABCテレビで取り上げられた、携挙は神話的だ(多分、コレ)というお話が非常にアメリカ人の(いわゆる福音派と呼ばれる)多く人々にとってショッキングなことととらえられたことがふれられました。携挙でイメージされる天国観は、ギリシア思想の影響を受けて作られたものである可能性が述べられました。

      その後、Oさんがキリストと出会ったキリスト者集団が持つ天啓史観(いわゆるディスペンセーション主義)との出会いについて、70年代から80年代中葉のハル・リンゼイの「地球最後の日」が出たり、オイルショックやニクソンショックがあったり、ノストラダムスの大予言が出たりという社会文化環境の中で、宇野正美というオジサンがだんだん、変わった預言理解に傾倒していって、それが信者間で話題になっていたことや、グレース・ハルセルというジャーナリストが 書いた千年王国主義に立つ原理主義グループに潜入して(イスラエル聖地旅行にひそかに潜り込んで現地まで行かれたらしいが、そんなことしなくても、どっかのその種類の教会に行くと、得々と語ってくれて頭が腐るほど聞かせてくれたのに)書いたレポート「核戦争と待望する人々(朝日選書)」'下記リンク参照) が紹介された。

     Oさんご自身がディスペンセーション主義者の皆さんに抱えていた違和感、預言成就のためとはいえ、戦争行為という暴力の 容認、平和と開放と自由がイエスの主張であるにもかかわらず、それが無視されているありさまがずっとくすぶっておられたようであった。そこに、ライト先生登場で、本来の聖書に全体としての主張の中のコンテキストで読んでいくことを示された、ということをお話になられておられた。

     使徒時代に は、神の国理解、天の国理解が天上の雲の上で下界を見下ろすような霊的な世界ではなく、ユダヤ的な理解をしていたはずで、いわゆる中世の天国と地獄、ダンテの新曲、中世の絵画にあらわされたような、異教徒と戦った十字軍兵士などが天国に行ってほめられる、システィナ聖堂の天井にある最後の審判に描かれたよ うな天国理解がどこかでずれており、神の国理解の再定義をしていく必要があることをNTライト先生の本を読んでお感じになったそうである。実際の絵画の画 像を見せながら、ご紹介くださったが、プロジェクターがあれば、とは思った。

     また、Amazing Graceなどの歌いなれた聖歌にも、この種の感じは含まれており、それがかなり信徒の理解に影響しているのでは、ということであった。

     また、ライト説によれば、地上に神の国が到着した、というのが神の国理解であり、life after life after deathという構造になっているのではないか(参考動画はこれかな)、 という理解の重要性をお話になられた。その意味で、イエスは、「神の国」の働きを開始した旧約的な神の国理解でとらえるべきで、そこから、現実世界の問題 との対応をどうとっていくかの大切さ(世界観が影響する)をNTライトさんは問うておられるのであり、新天新地を待ち望みつつ、今ここに生きることの大切 さを述べておられるのではないか、と呼んでおられるとのことであった。

     このご意見に対して、Kさんは、ライトが我々に迫っていることの 一つは、天国観の再検討ではないか、ということを述べられました。Tさんはカナダのリージェント・カレッジで開催された牧師向けのセミナーで、福音書の テーマとは何か(The Gospel in the Gospels[ライトさんが大好きなギャグ]) について聞きに行ったところからライトを知ることになり、もともとルター派的なところにいたのだけれども、現在の福音自由教会がディスペンセイション神学 の影響を強く受けたところであるので、若干、気持ちが揺れる部分があったりするということをお話になられました。

     またKさんが、第2ペテロの3章6節には、「焼き尽くされる」という表現があるが、その部分の釈義というのか解釈の問題があり、別訳もあるし、どう訳すか、どう解釈するかが問題、ということをお話しなられた。

      そのあと、Tさんから、ディスペンセイション主義の終末論や、スコフィールドの解釈以外のものも問題で、ディスペンセイションでは、そもそも聖書理解の体系ともいうべきものであり、7つにぶった切って考えることが問題で、その結果、どうしてもこの世から逃避的になり、神様が来る再臨を待つような信仰になる のではないか、ということお話になっておられました。

     Uさんからは、この辺りの議論がきっちりされているのが、Surprised by HopeというC.S.ルイスのSurprised by Joyを明らかに下敷きにした本であることや、アメリカで仮死状態で天国に行ったと主張する子供の話がTime Magazineで取り上げられ、その話とNTライトの理解が乗った特集号があった、そうです。

     まぁ、現在のような聖書理解になっている根源としては、プラトン主義の霊肉二元論であり、それがいまだにキリスト教の天国理解や神理解に影響を及ぼしている、ということらしいです。

      2番目にお話になられたKさんからは、NTライトの専門領域は、「史的イエス」と「パウロ研究」であるものの、ライトは『複雑』で『ダイナミック』な聖書の権威観を持っていることをご紹介されたように思います。そして、NTライトの聖書理解における権威観のポイントとして、聖書の文字で書かれた文章そのも のに権威があるのではなく、聖書の文字で書かれた文章を書かせた神に権威があるのであって、神から派生する権威性を持つ文書が聖書であることを見逃すとエラいことになるというご主張のようだ、ということをお話ししてくださった。

     特に、聖書権威観として、「神の自己啓示(情報コミュニケーション)」として理解した場合、論争の具としての聖書のことば理解となりがちで、とお話になっておられた。まさしく、いけるパリサイ人化してしまうキリスト者の姿である。うちのキリスト者集団の関係者が以前はやたらと多かった某北関東国立大学の聖書研究会では、日夜、この種の聖書のことばを使ったさばき合いが起きた、と聞いたことがある。

     さて、Kさんは、5幕からなる劇に見られる聖書の権威としてNTライトがみており、
    旧約部に関しては、

     O1 創造(創世記1−2章)
     O2 堕落(創世記3-11勝)
     O3 イスラエル(アブラハムからメシアの直前まで)
    新約聖書に関しては
     N1 イエス(十字架の死と復活)
     N2α 新約聖書/初代教会(「イスラエルのストーリー」を成就するイエスを語り宣言する)
     N2ω 究極の終末(ローマ8章Iコリ15黙示21-22章)

    と なっておりこのような演劇の基本の大まかに演技する方向性が神から示されたのが、キリスト者であり、演技指針である聖書に示されたの方向性に従いつつ、即興で演じることがキリスト者の役割であることがはなされた。進行している現代という時代の中でドラマは進行しているのであり、それに合わせてキリスト者 は、即興での演技をしていくのである、ということのご説明があった。具体的な固定的な行為の拘束が聖書の目的ではないこともお話になられた。

     Kさんは、新約と旧約の中で、流れの転換、場面の転換があり、一つの断絶があると理解しているとお話しておられた。

     フロアからの質問で、どう聖書を読めばよいのか、という質問が出たが、逐語霊感説や無誤論、無謬論に立つ聖書の読み方は、近代的な真理観、啓蒙主義的な聖書理解の遺物であり(あーあ、言っちゃった。うちでこんなこと言ったら、石投げられそう。Tさんのところも、そうかも)、もっとダイナミックな現実社会での行動の指針を与える書物としての聖書としてNTライト先生はとらえておられる、ということのお話があった。

     また、マクグラスの言うような伝統の意義(詳しくは、キリスト新聞社の「聖餐」で 見れるかな)をNTライトはどう考えているのだろうか、ということが取り上げられていたが、カルビンにしても、ルターにしても彼らが抱えた現実の問題に適応して聖書から考えたのであり、現代人も同様に自分たちの問題として、問題をとらえなおすべきであり、伝統の相対化が重要ではないかというお話がありまし た。決して、線形的な発展論という意味でのLinear Progressをライトは想定しているわけではない、ということだそうです。

     ミーちゃんはーちゃん風に言うと、そう、各教派で掛けることになっている教派メガネをはずして聖書を読むことが大切なのね、というお話でした。

      これに関して、Tさんからは、聖書を解釈するにしても、右の頬を打たれたら、左の頬を向けなさい、というのは、クリスチャンはダスキンさんのレンタルドア マットになりなさい、という意味ではなく、当時のユダヤ人が抱えていた聖書理解に立ち返ってイエスの言葉を理解することでわかってくる、ということでし た。このためにも、当時の聖書理解に立ち戻ることが重要、というのがNTライト先生のご主張であることをご説明された。特に、ユダヤ人が反ローマ帝国のゲ リラ活動(今のパレスティナゲリラ見たいなこと)すると、その反動として、イスラエルが壊滅すること、神殿崩壊につながることを主張することになるので、「お止めになられたら」というイエスの政治的発言であることなどをご説明になられた。

     3番目には、Uさんがお話になられ、ライトが非常に歴史的な感覚が鋭く、さらに細かなところまで丁寧な目配りがされており、また深いこと、その歴史感覚と聖書理解の結びつきがあること、聖書の権威性の現代的な意味について、Simply Christianの第6章IsraelやPaul:A Fresh Perspective(読みかけで家に置いてきた)Challenge of Jesus 7章 Walking to Emmaus in a Postmodern Worldからご説明された。

     Simply Christianのなかでは、NTライト先生がホロコースト記念館に立ち寄られた時、感じられたヨーロッパの『クリスチャン』文化の中に潜む反ユダヤ性 の部分(62-63ページの私訳)をご紹介になられ、この辺りにヨーロッパ人としてのNTライトを感じる、とおっしゃっておられた。ホロコーストを海の向こう(大西洋の向こう)のけしからんナチスドイツの出来事、と単純にかたずけられないユダヤ問題を内包し続けるヨーロッパ人としてのNTライトが出ている のでは、というご指摘であった。

     そーいえば、確かに、映画「炎のランナー」でもユダヤ人差別が出てくるし、映画「日の名残 沈むころ」でもユダヤ人差別が出てくる。結構、ヨーロッパにとってはユダヤ人問題は現在もなお進行形であるのだろうと思う。

     2点目に当時のユダヤ社会の時代背景からみた闘争としての十字架の話があったが、これは、ライトの講演で、映画『パーフェクトストーム』でたとえられていたやつだ。なお、ミーちゃんはーちゃんは、映画の宣伝CFとThe Simpsonsのパロディ(Season 18 Episode 10)でしか見ていない。

     これを図にすると

      宗教   − 哲学(文化) − 政治(軍事)
     ユダヤ教   ギリシア哲学   ローマ
     ヘブライズム ヘレニズム    ローマ法

    の社会であることがあり、それが聖書理解やイエスのことばの背景にあることが触れられた。
    ライトの解釈の枠組みとその世界観として、

          →  Narrative  ←
         ↓     ↑    ↓
        Symbol  ←  →  Praxis
         ↑     ↓    ↑
          → Questions   ←

    というNarrative(物語)、Symbols(エレメント・律法・安息日・神殿)Praxis(生活習慣)Questions(では、どういきるべきか?)がそれぞれ複雑に入り組み(ダイナミックに入り組んでいて)それが聖書の世界観を構成しているのでは、というご説明をされた。その意味で、近代の世界観を聖書の世界観へ回帰させる必要があり、全部のものごとが川の流れのように切れることなくイエスのところに集まってくるような解釈の考え方が、ライトの特徴であり、分断されないところが特徴だろう、というお話がされました。

     最後にポストモダン社会としてのエマオの途上にかんしては、現代の多文化化、多元主義が進んだポストモダン社会の中で、キリスト教が社会の中心でなくなったという意味で、ヨーロッパ人の生活感覚として、キリスト教がヲワッタ観があり、その中でも、Foundational documents(How God Became King p.111)としての聖書の重要性がふれられていた。

      パネルの方からは、今を生きるヨーロッパのキリスト者として生きるNTライトのすごみ、キリスト者の歴史認識を教えられる、というご意見(Oさん)や、 NTライトでは、新創造ではなく再創造のほうが近く都市のイメージで、神の国が述べられていることが述べられ(Kさん)、Oさんの「創造から再創造」に対して、むしろ「創造から新創造」ではないか、なぜなら再創造だとエデンの園に戻ってしまうが「新天新地」では都市のイメージで表現されている。また1コリント15章では朽ちてしまう体がwill be transformedとあるように変えられていくのだ、という趣旨のご発言がございました。「ユダヤ人=福音に敵対」という単純な構造ではなく、「 彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、父祖たちのゆえに、愛されている者なのです。(ロマ 11:28)」をみれば、ユダヤ人は、神に愛されたものであることが書かれているのに、後半部分が読み飛ばされている。その意味で、NTライトのヨベルの 年をアフリカ諸国への借金棒引きという形でイギリスで実現していったあたりのNTライトの歴史観と聖書理解に裏打ちされた現実社会とのかかわりを見ることも 重要ではないか(Tさん)というお話もあった。

     最後にお話しされたTさんは、ダニエル書の解釈についてのイエス解釈との関連をお話し され、ダニエル書7:13-14での「人の子が雲に」という部分がイエスがユダヤ人から総スカンを食った原因であることのご説明があった。なお、人の子が 栄光の座に就く、人の子が支配することが完成したのが、ユダヤ人の王として行った十字架であり、復活や十字架は王の王、主の主の業であることを見ることが 重要であることの説明があった。一部のキリスト者は、ともすれば、ひたすら再臨を待ち望みがちであること、さらに、再臨に飛びつきがちなキリスト者にとっ て、神の支配がはじまった場所としての十字架を見ることが重要ではないか、とお話がされた。

     ダニエル9章24節の70週の最後の1週目 にいるのが我々だ、という聖書理解がディスペンセイション主義的な聖書理解の影響を受けたキリスト者集団では幅を利かせており、艱難前に携挙されるので、 「あとは、不敬虔なものとユダヤ人に任せておけば、みなよろし」みたいな理解が幅を利かせているけれども、「それもどうななのかなぁ」というお話があっ た。

     というのは、この70週に関する議論が当時のユダヤ人の間で盛んにされており、最終的にユダヤが勝つという軍事的政治的根拠のない 強硬論が当時のユダヤで幅を利かせており、このような聖書の読み方がユダヤ人を滅ぼすことになったのではないだろうか、という提示がされた。その意味で、 ディスペンセイション神学の影響下は、2000年前のユダヤ人の聖書理解(預言理解)をそのまま引き継いでおり、その理解から出てないかもね、というお話がされた。(これは、ミーちゃんはーちゃんにしてみると、当たり前なのだな。だって、ディスペンセイションを言い出した人たちは、自分たちこそ、初代教会の正当な後継者と、あまり明確な根拠なく思っているので、基準は、2000年前の使徒時代のユダヤ人に戻るしかないのですね。)

    追加情報
     ただ、どうも、ご発言者のTさんによると使徒たちは、ダニエル書をきちんと理解しておられたのだけど、一般のユダヤ人は強行論だった、ディスペンセイション主義の方は、使徒的でないダニエル書やエゼキエル書の読み方をしているのでは?ということだそうで(うちの中では面と向かって、そんなことはいえそうにないので、これがまた困りものなのですが…)。そういえば、ぜロットとも呼ばれる熱心党員なんかが出てきますね。熱心な人は行き過ぎる傾向が時にあるようで・・・。


     さらに、ダニエル12章23節からは、この復活預言はイエスにおいて最初に実現したものであることがあることが示された。さらに、ダニエル書は全体を読むと、悪と積極的な戦いを展開しなくても、神が最終的な勝利を与えてくださるということが記されているということをお話しされようとしておられたようであった。

      その意味で、ダニエル書は、異教の国の中でダニエルにとって、YHWYこそが神であり、そのことに死をかけてまでも忠実であったということが重要なのでは ないか、と思う。このダニエル書は、1世紀のユダヤ人に愛読されたものであり、その意味で、今のディスペンセイション主義者も、このユダヤ人と同じような 読み方をしているかもしれませんねぇ、というお話があった。

     NTPG(New Testament and the People of God)はユダヤ人にとってイエスとは何か、ということを示した書であるし。Jesus Victory of Godは十字架は神の勝利であることを示した書である、というお話があった。この話を聞きながら、荒野の試練の中で、イエスが悪魔に行った、あなたの神で ある主を試みてはならない、の「あなたの神である主」はすごい意味を持っているのだなぁ、ということを改めて確認。

     それから、フロアからの質問で、ライトの最近追加された部分のある本 Scripture and the Authority of Godでは、結婚と安息日の問題が取り上げておられ、ライトが割と保守的な性倫理と聖職者像を持っていることなどが紹介された。

     また、この質問の関連で、安息日の有効性に関しては、ライトはどうも、ユダヤ律法をユダヤと他民族を分けるための識別子(マーカー そうか、律法は拡張子なのだな) である可能性があり、それが現代を含めて拘束性をもつものではないこと、イエスの十字架で、諸民族の間の隔てというのか区別が廃棄された後、律法は識別子としての意味を持たなくなったこと(なぜかと言えば、すべての民族が神の民となれることになったから)その中心軸(転換点)として十字架と復活があること が述べられた。そして、そのことを弟子たちが主の日などを含め、具体的な形(praxis)にしていったのではないか、という説明があったように思う。

      「十字架と復活がターニングポイントになるのか?」というフロアからの質問に関しては、その意味で、ユダヤ的聖書を包括するようなものとして、キリスト者 的聖書があるのであることや、十字架と復活がターニングポイントだというのであるというよりも、新しい時代になった、ということ、新しい創造の時代が始 まったという歴史認識に立ち、使徒たちが歴史認識をもとに、さまざまな儀式や習慣を読み変えていったのではないだろうか、ということがKさんから提示された。

     また、マルコ13章とその並行記事が、世の終わりや終末記述であると理解してきた歴史的理解があるが、本来、これらは、そのよう に十字架にイエスがつくことが王としての完成させることだ、と理解できなかった当時の使徒たちに十分理解されたのだろうか、ということをかんがえると、こ の部分は本来、これから起こる十字架に関するテキストではないだろうか、ということがKさんから示された。

     Tさんからは、中間時代のユダヤ人が読んでいたもの(旧約外典)の理解というのは重要で、この部分を見ないと、当時の人がどのようにイエスの発言を理解していたのかどうかは分からな い、というお話もあった。そう、ミーちゃんはーちゃんも、外典は大学院以来最近フランシスコ会訳を手に入れるまでは、読んでいない。

     あと、この話の中で、そういう意味で言うとイエスの十字架の死と復活は、転換点というのか、筋力や動力の動きを変えるジョイント(関節)みたいな役割をしているんだろうなぁ、という感想を持った。エネルギーの流れとしては同一方向なのだけれども、エネルギーの方向性が拡散波動していくような感じかもしれない。イエスの十字架と死と復活は、その意味で、光を拡散させるレンズというのかプリズムみたいな感じかもしれないなぁ、と思った。

     あ と、ミーちゃんはーちゃんが個人的にウケたのは、「説教の中で、このようなもっとダイナミックな聖書解釈をお話しするのだが、聞いてくださっている信徒の皆さんがこれまでの伝統的な聖書理解の枠組みに大きく影響されておられるみたいなので・・・・」とちょっと困っておられるような発言や、「聖書釈義に困る と、テキストとしてちょっと、NTライトの書いたものを参考にする」とか、そういった発言もできて、「そっかー、そーゆーライト先生の本の使い方もあったか」、と改めて感心した次第。

      しかし、この研究会、とっても面白かったが、ディスペンセイション的聖書理解にどっぷり、自分たちがその聖書理解に大きく依存していることにすら意識がな い人々や、エゼキエル書と、ダニエル書と、黙示録だけをかなり頻繁に開けるために、その部分の聖書の端っこが膨らんでしまっている人たちもいる我がキリス ト者集団の片隅にいるものとしては、「ををを。ディスられた。」と思ってしまった。「すいませんのぉ。神秘主義者的なところのあるJNダービーさんが根拠薄弱なある女性が喋ったかなり特殊な聖書理解に乗っかって、わけわからん体系を作り上 げ、スコフィールドさんが聖書にディスペンセイション神学理解を聖書にくっつけて売りあるいたりしたもんで、北米のバイブルベルトに普及させてしもうて・・・」、「オズワルド・J・スミスさんも、スコフィールド版聖書をかなり熱心に読んでいたみたいだし・・・・」。なんか、ちょっこし肩身の狭い思いをした研究会でもありましたが、普段思っていることが、ワサワサ出てきたので、楽しくもありました。

     私は、自派の中では肩身が狭いですが、適当にこんなブログを書いて、遊んでおります。パネリストのお一人のKさんにもかわいがってもらっているし。

     今回、Uさんのお顔をまじかで拝見できたこと、Tさんとライブでお会いできたこと、KさんとOさんには再会できたこと、鹿たんと瞬間フェローシップできたことだけでも、来たかいがあったというもの。楽しい一日でした。

     だれかー、関西でもこういうのやりませんか?ぜひ、関西でも・・・。

     まぁ、ミーちゃんはーちゃんは、ヒラ信徒なので、NTライト先生を知らなくても、しょうがないし、そもそも、ミーハーな人間なので、面白いものは、単に面白い、と思って騒いだところでも、お許しいただけるかなぁ。

     あー、今回も長かった。ここまでお付き合いいただいた皆さんに、心から感謝。


    評価:
    ハル・リンゼイ
    いのちのことば社
    ---
    (1982)

    コメント
    楽しく(?)読ませていただきました。私も同じような中で育ってきたのでミーちゃんはーちゃんさんの感想は全く自分のことのようでした。まあ今いるところもほぼ同じ聖書観、終末観ですけど(-_-;)。
    また楽しみにしています。
    • Tago
    • 2012.10.19 Friday 11:21
    ををを。これは、これは。Tagoさま ご無沙汰しております。ときどき、拝見しております。また、最近Blog再開されたようで。

    そうですか。Tagoさまも。やはり。この種の問題というか素朴な疑問、抱えていても牧師先生とか、年長の信者さんとか、長老とかには聞きにくいですからね。

    Bassの本

    http://www.amazon.co.jp/Backgrounds-Dispensationalism-Historical-Ecclesiastical-Implications/dp/1597520810/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1350639735&sr=8-1

    によれば、Pastor Dispensationalist が意外と多いらしいので、うちだけではないですね。

    聞かれるほうも、困ってしまうでしょうし、適当なこと言われて逃げられてしまうことが多いでしょうし。なにせ、ディスペンの背景を知っている人があまりに限られるわりに、ディスペンセイション主義自体、結構表街道歩んでますから。ティム・ラヘイの左後(英語に直してくださいね)みたいに。困ったもんだ。

    またのご来場をお待ちしております。&#9836;
    ペコ (((:D)┓
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2012.10.19 Friday 18:48
    その研究会が何をご主張され、何を言いたいのか、正直さっぱりわからないという印象でした。いくつかありますので、ご教示いただければ幸いなのですが・・・少しずつお伺いさせていただきます。
    まず一つ目。

    「携挙でイメージされる天国観は、ギリシア思想の影響を受けて作られたものである可能性」
    →この天国観がいわゆるD主義によるということでしょうか?D主義が出る前の(正しかった?)天国観が、D主義によって変えられたと言っているように私は受け取れますが、そういう理解でよろしいでしょうか?FBの方には、「ディスペンセイション主義聖書理解がもたらした天国観や世界観に対しての課題と再検討の必要性」とありましたので、多分そういうことですよねぇ?
     でも、「いわゆる中世の天国と地獄、ダンテの新曲、中世の絵画にあらわされたような、異教徒と戦った十字軍兵士などが天国に行ってほめられる、システィナ聖堂の天井にある最後の審判に描かれたような天国理解がどこかでずれており、神の国理解の再定義をしていく必要があることをNTライト先生の本を読んでお感じになった」とあるのですが・・・このような天国観(具体的にはどのような天国観かはわかりませんが)は、D主義がでるはるか前のものでは?
     むしろ私が学んだディスペンセーショナリストを自認している先生は、「神の国理解、天の国理解が天上の雲の上で下界を見下ろすような霊的な世界ではなく、ユダヤ的な理解」を教えて下さいましたけど・・・
    • ugougo
    • 2012.10.23 Tuesday 13:04
    UgoUgoさま コメントありがとうございます。

    この研究会は、何か大それたことをやろうとか、Dispensationalismをぶっ潰そうとか、といった主張をされる場ではありません。それぞれが、NTライトという最近アメリカで注目され始めた神学者の書いたものをどう読むのか、ということに関して、それぞれの人が何を感じたのか、ということをかるーく発表して、それが日本で幅を利かせている聖書理解とどう関係するのか、ということに関することに関して、それぞれの立場で、思うところを発表された会だとおもいます。多分。

    従いまして、NTライトの書いたものを読んでおられない方には、何が何だか、ということになります。

    日本では、間もなく何冊かの本が出版されるかもしれませんが、今のところは、NTライト読書会

    http://www014.upp.so-net.ne.jp/NTW-dokushokai/

    で公開されておられる内容を読まれないと、かなり理解に苦しみますです。はい。

    FB上で内容を公開することも考えたのですが、当日参加された方の中でもFBの中におられない方がおられるので、一般に見られて、自分が管理しているところで対応が取れるところ、ということで、ここで上げてあります。

    ということで、これが事情説明。

    まず、ご質問にご回答します。

    「携挙でイメージされる天国観は、ギリシア思想の影響を受けて作られたものである可能性」

    というのは、Dispensation主義とは直接関係しません。Dispensation主義が生まれるはるか前にギリシア思想の影響を受けた天国観が西欧社会の文化として定着しており、それの上にDispensation主義が載っている、というほうが正確です。

    従いまして、

    >D主義が出る前の(正しかった?)天国観が、D主義によって
    >変えられたと言っているように私は受け取れますが、そういう
    >理解でよろしいでしょうか?

    いえ、そうではなく、もともとあった天国観が、古典的Dispensation主義によって、より強化された形で、アメリカ中西部に住んでいて主にScofield Bibleと呼ばれるScofieldというおじさんの解説がついた聖書を中心に読まれた方々とその影響を受けた方々の天国理解に影響を与えたのではないか、ということが当日のお話で、ライト自身は、「携挙が神話」ではなく、Mythic と言っているだけで、当時のユダヤ人がイメージした神の国理解とは一致しない、というのが、昔からのライトの主張のようです。

    ここでの問題は、天国と神の国の理解がDispensation主義の後継者の方々の中でややもすれば混乱していることがより深刻な問題で、NTライトは、講演を聞く限り、天国の存在は疑っていない、と理解しています。

    上記の記事では、関連する部分に関しては、極力NTライトの発言が載ったビデオクリップを紹介しているので、記事中の茶色の文字部分をクリックすると、オリジナルの発言(英語のみでスマソ)のソースにたどりつけるようになっております。そちらをまず、ご覧いただければ、と存じます。

    続きます。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2012.10.23 Tuesday 18:25
    UgoUgo様

    続きです。

    >FBの方には、「ディスペンセイション主義聖書理解が
    >もたらした天国観や世界観に対しての課題と再検討の必
    >要性」とありましたので、多分そういうことですよねぇ?

    これに関して言えば、ディスペンセイション主義聖書理解がもたらした、天国観(と神の国理解の混乱)や世界観に対しての課題と再検討の必要性と書くべきだったかもしれません。

    ご存じのとおり、Dispensation史観は、歴史を連続的、重層的、連携的にみる部分が弱く、モデルとして時間分断的にみるところが強うございますので、旧約聖書の解釈にやや厳しいところがあるのは、ご存じの通りかと思います。

    >このような天国観(具体的にはどのような天国観かはわ
    >かりませんが)は、D主義がでるはるか前のものでは?

    その通りです。それは上に書いたとおりです。

    >「神の国理解、天の国理解が天上の雲の上で下界を見下
    >ろすような霊的な世界ではなく、ユダヤ的な理解」

    というDispensationalismの理解ですが、さまざまな形でモデル化されて、かなりの部分の一般のキリスト者の間に広がっている天国観としては、Tim Lahey著『Left Behind』や子供用の讃美歌の「福音の汽車」が典型的にそうですが、ユダヤ的な新天新地の理解とちがう19世紀までに形成された西洋文化と一体化したギリシア霊肉二元論的なものとして提示される場合も、少なくありません。

    現在、Dispensation主義といっても、非常に多様化・細分化しており、ひとくくりにできないのが実際ではないか、と思います。しかし、 Clarence B Bass著 Backgrounds to dispensationalism: Its historical genesis and ecclesiastical implications, 

    http://www.amazon.com/Backgrounds-dispensationalism-historical-ecclesiastical-implications/dp/0801005353

    でのPastor Dispensationalistに分類される天国理解では、ややもすれば、19世紀までに形成された西洋文化と一体化したギリシア霊肉二元論的なものとして提示されることが多いこともまた、事実です。UgoUgoさんがその系譜に属す、と言っているわけではありません。私が、今いるキリスト者集団の中では、70年代から80年代にその種の話を結構聞いてきた、という経験はございますが。

    その意味で、上で議論しているDispensationalismはおそらく社会の中で大半を占めるPastor Dispensationalistという意味でのDispensationalismだとお考えください。

    詳細の理解について、よくわからないので、何とも申し上げにくいのですが、UgoUgo様がご指摘になられた理解の方がおられるとすれば、ご指摘の理解は、NTライトの神の国理解、天国理解とはそれほど大きな違いがないのではないか、とも思います。

    「なんで今頃になってNTライトが注目されるのかよくわからない」とおっしゃる方もおられます。「彼の主張は、20年この方、あまり変わらないのに、なぜ今頃?」というご主張でございます。NTライトが北米で注目を浴びた背景には、John Piperさんという、北米でかなり影響力の強い牧師兼神学者の方にNTライトさんが議論で勝ちゃった影響ではないか、という部分もあろうか、と思います。

    どうも、NTライトさんの聖書の読み方としては、素朴に聖書をひたすら読み、そして、読んだ内容を彼の頭の中で、全体像の中でバランスさせる、という部分があるようなので、聖書の読み方は、私どもとそう違わない、と思います。

    いずれにしても、自分自身の聖書理解をいったん客体化してみる、という意味では、NTライトさんの主張は、一つの参照点を与えるようには、参加して思いました。

    以上、コメントへのご回答でございます。

    コメント、ありがとうございました。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2012.10.23 Tuesday 18:53
    丁寧なコメントありがとうございました。
    確かにライトさんの著書は読んでいないので、わからないところがあってもしかたないかなぁと思いつつ、読んでおりました。ただ、読んでまず感じた感想が、「ゆがんだ天国理解の原因はD主義にある」と御主張されているように読みとれたので、聞いてみた次第です。
    まぁ結論としては、「相互の影響はあるが、D主義がゆがめたのではない」ということですね。

    じゃあ、2つ目です。
    「Oさんご自身がディスペンセーション主義者の皆さんに抱えていた違和感、預言成就のためとはいえ、戦争行為という暴力の 容認、平和と開放と自由がイエスの主張であるにもかかわらず、それが無視されているありさまがずっとくすぶっておられたようであった。」とのことですが、D主義を採用している人たちは、預言成就の為に暴力を容認し、平和と解放と自由を無視しているということでしょうか?D主義と「預言成就の為の暴力の容認、平和と解放と自由の無視」がどう関係するのか教えていただけますか。
    私自身は「戦争行為や暴力の容認、平和と解放と自由」には人一倍敏感なつもりですし、私にとっては「戦争行為や暴力の容認、平和と解放と自由を無視」しているとしか思われない発言をする反D主義牧師を知っておりますので、理解できないのです・・・D主義の影響というよりは、ただ何も考えていないだけなんじゃね?という気がしてなりません。
    「本来の聖書に全体としての主張の中のコンテキストで読んでいくことを示された」なんてことは、D主義であろうが、なかろうが、聖書であろうがなかろうが、本を読むときの基本中の基本な気がしてならいないのです(ライトさんの著作を通してそのことに目が開かれた体験を否定するものでは全くありません)。


    • ugougo
    • 2012.10.23 Tuesday 23:18
    UgoUgo様、コメント、ありがとうございました。

     ご理解いただき、こころから感謝申し上げます。ご指摘の通り、「相互の影響があるがD主義がゆがめたのではない」なんですが、「もともとひずんでいたものを、さらに違う形で歪めていった」ということだろうとは思います。今年の信念の関西地区での信徒研修会で、関西のある伝道者の方が語られた内容がまさにそうだったように記憶しております。

    続いて、2つ目の質問に関して、お答えいたします。

    > D主義を採用している人たちは、預言成就の為に暴力を容認し、
    >平和と解放と自由を無視しているということでしょうか?D主義
    >と「預言成就の為の暴力の容認、平和と解放と自由の無視」が
    >どう関係するのか教えていただけますか。

    まず、D主義と我がキリスト者集団の関係をお話ししたほうがよいと思います。D主義は、わがキリスト教集団の初期のころの代表的な信者さんでありますJ.N.ダービーがその形成と発展、普及に大きな役割を果たしています。さらに、そのダービーの関係者のScofieldが普及にScofield聖書を通して、北米で大きな役割を果たしました。

    現在の日本の我がキリスト者集団のD主義はD主義でも古典的D主義の系譜に属すると思います。その後当時関西方面におられた宇野正美さんはその理解をさらに発展させ、日本内で特殊なD主義(UgoUgoさんに言わせるとUnopensationalismかもしれませんが)が展開されていきます。
     関西方面では、この特殊なD主義が『学び』や『福音』として語られる中で広がるとともに、特に徳間書店という一般書店から「旧約聖書の大予言」や「ユダヤが解ると世界が見えてくる」あたりの本を出したことで、「一般社会からの承認を得たまともな本」と誤解した信者さんが増えたことが影響していると思います。そのころ、関東の中央線沿線のKキリスト集会の確かい教関係者の信者さんが『空中携挙』という本を自費出版されて、関西の二条城がある都道府県にある集会の現在の責任者による推薦文のようなものがつけられるほどでございました。

     宇野さんの活躍地盤が関西だったこともあり、関東への影響は限定的だったのですが、当時の北関東あたりでも、「ダニエル書を学ばない伝道者は、伝道者にあらず」という雰囲気が流れていた、ということは、栃木に近い茨城県西部の教会で長らく責任をとっておられた方からも、直接お聞きしたことがあります。そちらにも時々来ておられるようなので、ご交流があるうちに直接取材されたほうがよいですよ。

     「ユダヤが解ると世界が見えてくる」等を図書館か年配の信者さんからお借りされて読まれるとわかるのですが、かなりシオニスト的ではないか、と思われるような表現がみられますし、キューバ危機の時ほどではありませんが、オイルショック、ニックソンショックがあり、1970年代後半から80年代初頭にかけて、アフガン侵攻や航空機ハイジャック事件などを含め核戦争の恐怖という部分がございました。
     預言理解において、終末の完成のときには、ユダヤ人がナザレのイエスをキリスト(メシア)として認めるという部分があるので、それが実現するためには、ユダヤ人が絶滅されてしまっては困るわけで、どうしてもシオニスト的、あるいは親イスラエル的な発言になったことはやむを得ない、と思います。この理解に弾みがつくと、本来は、ユダヤ≠イスラエルのはずなのですが、どこでどうトチ狂ったか、ユダヤ=イスラエルとの読み換えが行われ、独立国家としてのイスラエルを圧迫するアラブ諸国(とくに当時のイエスらエルに戦争を仕掛けたエジプト)やイスラエル航空機をハイジャックしてエンデベ空港事件を起こしたPLOの関連団体とその過激派の行動は容認できるわけでもなく、そんなものは物理的諸力で排除することが望ましいという政治的コンテキストでの理解になったようです。当時は、テルアビブ空港乱射事件を日本人のテロリストが起こし、アラブ諸国から庇護を受けたこともあり、実に微妙だったのです。

    続きます。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2012.10.24 Wednesday 08:35
    UgoUgo様 続きです。

     その意味で、D主義者の中に親イスラエル(=反アラブ諸国)的な発言が行きすぎた方もおられたように思います。まぁ、オイルショックで、生活がえらい目にあったという意味でも、反アラブ的な思いをもった方もおられたとは思いますが。
     つまり、本来イスラエルという独立国の国民とユダヤ人の混乱が起こり、その混乱がさらに発展して、キリスト者は親イスラエル的でなければならない、親イスラエル的であるためには、イスラエルの独立を守るための戦争容認、イスラエルの独立を脅かすものの説得ではなく、力による排除という立場の方がおられたように思います。本来、イスラエルという独立国家とユダヤ人理解の混乱が問題の起点から発生した問題です。いまだに、北米の『キリスト教右派(≠『福音派』)』では、そのようなご発言をされる方が時々おられます。コーラン(クォラーン)燃やしたりするおじさんいるでしょ。理解のない方はほっておけばよい、という話もあるのですが。

     我が国に話を戻すと、1ドル=360円が長らく続き、海外に出るのは夢のまた夢、外国といえば、ハワイやグアムがせいぜい、といった1960年から70年当時の日本社会の中で、高卒者がかなりのウェイトを占めた我がキリスト者集団の中で、国際情勢や国際政治がわかる人がそう多くいたわけでもなく、どんなに怪しくても、一応『中東問題研究家』ということで売り込みされていた宇野さんの発言が無批判に受け止められ、浸透していき、浸透していく過程の中で尾ひれがついて変容し、さらに福音集会と称する集会や学び集会と称する集会や、信徒大会で、さらに怪しげになった理解が語られていった、ということは、UgoUgo様なら、理解に苦しくないと思います。

     その意味で、(親ユダヤ人 →変質→ 親イスラエル →変質→ 反アラブ →変質→ アラブ)との戦争容認とつながっていった人々がいた、ということだと思いますし、実際にそういう発言した方もおられました。

     古典的なD主義、あるいはナイーブなD主義が「預言成就の為の暴力の容認、平和と解放と自由の無視」を内在するか、といわれると、内在しない、とは思いますが、当時の国際情勢、経済情勢、社会情勢の中で、D主義者の一部に「預言成就の為の暴力の容認、平和と解放と自由の無視」につながる人々がいたことは間違いありません。また、911直後のアメリカのアラブ人圧迫をじかにアメリカ社会の中で見たものとしては、アラブ系住民に対してダボヤと呼ばれる子ブッシュが制定に携わった反テロ法を法的根拠にした「平和と解放と自由の無視」はアメリカ社会の中に内在した、と思います。イギリス系アメリカ人の先生が、小学校の職員室の中で、「『戦争反対』と友人の先生にも言いにくい」と私にぼやくほどでしたから。

     たしかに、

    >D主義の影響というよりは、ただ何も考えていないだけ
    >なんじゃね?という気がしてなりません。

    というよりは、無知がなした結果という部分があるとは思いますが、その出発点というのか、起爆剤の役割を果たしたものとしてのD主義があったことには間違いはない、と思っております。

    >「本来の聖書に全体としての主張の中のコンテキストで
    >読んでいくことを示された」なんてことは、D主義であろ
    >うが、なかろうが、聖書であろうがなかろうが、本を読
    >むときの基本中の基本な気がしてならいないのです

     そうですが、我がキリスト者集団は、いわゆる「神学」を否定しようとするあまり、組織神学等に代表されるこれまで蓄積されてきた神学の上に神学を構築する「近代神学」(とりわけ、自由主義神学、新正統主義神学等の神学的思惟への否定をこめて)を否定しようとするあまり、その基本をあたかも自分たちだけがしている、かのような主張した方々がおられ(あるいは、今もおられ、ですね。今年の関西の新年信徒学び会でのYさんによる神学者に対する哄笑に近い趣旨のご発言をお聞きになられれば、ご理解いただけるか、と存じますが)、「本来の聖書に全体としての主張の中のコンテキストで>読んでいくこと」が自分たちの特徴である、と確固たる根拠なく思いこんでおられる方も多いのでねぇ。UgoUgo様のように他のキリスト者集団とのご交流がある方で、なおかつ批判的に物事をお考えになられる方であれば、いざ知らず、自分たちのキリスト者群の中だけでの交流のみに留まっておられる方で、批判意識があまり明確でない方の場合、「(聞かされたことを)あぁ、そうか。長年学んでこられた責任者の立場にある方が言うのだから、間違いはなかろう。」と素直に受け入れておられる方もかなりおります。これは、大学教育の有無にあまり関係なく、個人の特性に大きく依存するようです
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2012.10.24 Wednesday 08:45
    最後が切れてしまった部分があったので、補足いたしておきます。

    UgoUgo様のように他のキリスト者集団とのご交流がある方で、なおかつ批判的に物事をお考えになられる方であれば、いざ知らず、自分たちのキリスト者群の中だけでの交流のみに留まっておられる方で、批判意識があまり明確でない方の場合、「(聞かされたことを)あぁ、そうか。長年学んでこられた責任者の立場にある方が言うのだから、間違いはなかろう。」と素直に受け入れておられる方もかなりおります。これは、大学教育の有無にあまり関係なく、個人の特性に大きく依存するようです。最近、若い私どものキリスト者集団の信徒さんで某大学の大学院卒の方とのご交流の機会がありましたが、彼なんか、典型的にそういう立場でしたね。大変驚きをもって受け止めましたが。

     NTライトのものをいくつか読んでいて思うのですが、NTライトさんの著述は、私どものキリスト者集団の聖書理解とは、かなり質感の違う異質な全体像へのこだわりがあるような印象を持っています。うまく言語化できているのかどうかわからないのですが、預言理解から、現代の生き方までに至るまでのシームレスな連続性といいますか、預言理解の重層性、多面性に配慮したようなものの見方を提示されています。現在、St.Andrewsで学んでおられる方の表現をお借りすると、Big Pictureということになります。私なりに表現するとすれば、私自身のこれまでの聖書理解が、昔の35mmフィルムの細切れスティール写真でそれを少年マンガ雑誌のような資質の悪いものに印刷したものとして見ている感じだとすると、ライトさんの見せる理解は、最近のCGを多用したSFXを多用した3D映画に近い感じがします。これが、アメリカでNTライトが「新発見」されてしまって、今頃NTライトが騒がれている原因だと思うのですね。

    コメント、ありがとうございました。お答えになっていればうれしいのですが。

    なお、以下でコメントでのタイプミスなどの修正をオリジナルテキストを【】で示して修正いたします。謹んでご訂正いたします。

    修正1 2つ前のコメント

    今年の新年【信念】の関西地区での信徒研修会で、関西のある伝道者の方が語られた内容がまさにそうだったように記憶しております。

    修正2 2つ前のコメント

    普及にScofield聖書を通して、北米で大きな役割を果たしました。

    Scofield聖書を通して、D説の北米での普及に大きな役割を果たしました。

    修正3 2つ前のコメント

    関東の中央線沿線のKキリスト集会の確か医療【い教】関係者の信者さんが『空中携挙』という本を自費出版されて、

    修正4 2つ前のコメント

    独立国家としてのイスラエルを圧迫するアラブ諸国(とくに当時のイスラエル【イエスらエル】に戦争を仕掛けたエジプト)やイスラエル航空機をハイジャックしてエンデベ空港事件を起こしたPLOの関連団体とその過激派の行動は容認できるわけでもなく、

    修正5 2つ前のコメントへの挿入
    日本人のテロリストが起こし、アラブ諸国から(それらのテロリストが を挿入)庇護を受けたこともあり、実に微妙だったのです。


     すみません。長くなりましたが、以上、ご質問へのご回答とコメントの修正です。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2012.10.24 Wednesday 12:31
    お忙しい中、丁寧なコメント、本当に感謝です。

    >高卒者がかなりのウェイトを占めた我がキリスト者集団の中で、・・・宇野さんの発言が無批判に受け止められ、浸透していき、浸透していく過程の中で尾ひれがついて変容し、・・・さらに怪しげになった理解が語られていった、ということは、UgoUgo様なら、理解に苦しくないと思います。

    そうですね。非常によく理解できます。
    私は、いま最も我が集団に必要とされていると思っていることは、「宇野さんの発言を無批判に受け止め、浸透させ、その過程の中で尾ひれをつけて変容させ、さらに怪しげになった理解を語った当時の高卒世代(今の長老世代?)の悔い改めと総括」です。宇野批判やD主義批判より、なぜそのような怪しげなメッセージを例え高卒だろうがなんだろうが、無批判に受け入れたのかということの方が遥かに重要なはずです。なのに「わー怖い(怖かった)」で終わっているのが残念でなりません。



    >親ユダヤ人 →変質→ 親イスラエル →変質→ 反アラブ →変質→ アラブとの戦争容認とつながっていった人々がいた、ということだと思いますし、実際にそういう発言した方もおられました。
    >古典的なD主義、あるいはナイーブなD主義が「預言成就の為の暴力の容認、平和と解放と自由の無視」を内在するか、といわれると、内在しない、とは思います。
    >当時の国際情勢、経済情勢、社会情勢の中で、D主義者の一部に「預言成就の為の暴力の容認、平和と解放と自由の無視」につながる人々がいたことは間違いありません。

    ということは、やはりD主義の問題というよりは、各個人の問題のような気もしますが・・・D主義だろうが、なんだろうが戦争したい人はしたいんだと思います。聖書そのものを使って戦争した人たち(十字軍など)はいたわけですから。以前のコメントに書いたように反D主義の牧師で「暴力の容認、平和と解放と自由の無視」をしている方もいるわけですから・・・
    • ugougo
    • 2012.10.28 Sunday 21:06
    では、3つ目の質問です。

    >ディスペンセイションでは、そもそも聖書理解の体系ともいうべきものであり、7つにぶった切って考えることが問題で、その結果、どうしてもこの世から逃避的になり、神様が来る再臨を待つような信仰になる のではないか、ということお話になっておられました。

    質問とは言えないかもしれませんが、実は、これがもっとも理解しがたいことなんですよねぇ・・・D主義がぶった切っているかとというと私にはとてもそうとは思えない・・・当然、契約ごとに区分しようとすることをぶった切っているとおっしゃっているのでしょうが、本質的でないような気がしてなりません。なんかそんなこと言ってるつもりはないんだけどなぁという感じ。
    どこがどうと言われるとめちゃくちゃ長くなるので、ここでは書きませんが、
    「信仰により恵みにより救われる」という本質的根幹的な所は不変なわけですよねぇ・・・

    まぁ、ぶった切った理解をしたとして、なぜぶった切ったことが逃避的になるのかわかりません。これも結局、宇野氏によるゆがんだD主義理解とそれに基づく聖書理解と歪んだ適用なのではないかなぁと思ったのですが。どうでしょうか?私のこの世を生きる勇気は、再臨信仰によって成り立っておりますが・・・?
    • ugougo
    • 2012.10.28 Sunday 21:20
    UgoUgo様

    >宇野批判やD主義批判より、なぜそのような怪しげなメッセージを例え
    >高卒だろうがなんだろうが、無批判に受け入れたのかということの方
    >が遥かに重要なはずです。なのに「わー怖い(怖かった)」で終わっ
    >ているのが残念でなりません。

     これは、歴史意識の欠如と自己批判力の欠如の結果ではないか、と思います。まぁ、日本では、水に流して、自己を振り返る歴史のない方々がかなりのウェイトを占めるからではないでしょうか。敗戦記念日を終戦記念日といい替え、他国がやっていたから、という理由だけで主権国家を植民地化したり、他国に勝手に口実をつけて土足で踏み込んでおきながら、原爆の被害だけを強調して語ったり、と感情で動く方々が多いからではないか、と個人的には思います。感情が神の座を簒奪している方が多いのではなかろうか、と強く感じます。

    >各個人の問題のような気もしますが・・・D主義だろうが、なんだろうが
    >戦争したい人はしたいんだと思います。聖書そのものを使って戦争した人
    >たち(十字軍など)はいたわけですから。

     それはそうなのですが、個人の問題として問題をとらえてしまうと、結局他国に乗りこんでいって乱暴狼藉を働いたのも、個人の責任となってしまい、個々の個人をつるしあげて終わるのだと思います。そうしたところで、個人的な正義感すら満足させることにならず、自らの立場を批判的に受けとめてみるという意味で、得るところはほとんどないのではないか、と存じます。

     何より、私自身が疑問に思っておりますのは、我がキリスト者集団のかなりの部分では、D主義であれ、他の聖書理解の方法であれ、何かを子細に批判的に検証、検討され、そのうえで、意図的にD主義をとる、意図的にこの解釈法をとる、と理解し、宣言した上でD主義にせよ他の聖書理解の方法にせよ、解釈の体系がなんであるのかを主張しておられる方がほとんどないことでございます。D主義であれ、他の聖書理解の方法であれ、全く無自覚に特定の聖書理解の体系に基づく聖書理解を聖書の絶対の正当な理解とご主張になられることのほうが問題ではないか、と思います。基本的に、私どもが、どのような聖書理解に立つのか、に関する批判的認識を十分にされた上で講壇に立たれる方が、非常に限られることのほうが、個人的には問題だと思います。

     なお、このブログは、我が教派を批判哲学的な意味ではない、ディスるという意味での批判をするブログではなく、広くキリスト者にむけた問題意識提供の場といたしたいので、この問題は、現在休眠中の別ブログを近日中に再稼働させることで対応したいと思いますので、そのことをお許しくださいますように。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2012.10.28 Sunday 22:35

    UgoUgo様
    3つ目の質問にお答えいたします。

     発言者の方はあくまでも直接的にUgoUgo様のお考えになっておられるD主義の批判としてご発言になられたのではないこと、私以外の方が語られたものであり、ミーちゃんはーちゃんは発言者ではないので、ご発言の意図の正確なところをお答えできない、ということはご理解ください。そのうえでのお答え、ということでご理解いただければ、と存じます。

     おそらく、UgoUgo様のおっしゃるD主義は、近年の修正D主義、あるいはプログレッシブD主義の方の理解に近いのだろうと思いますが(UgoUgo様のブログかどこかで、学んでおられる内容をご開示いただけるとありがたいです)、このセミナーで話題になったのは、あくまで、Scofield版聖書に書かれている内容(Scofield版聖書に付随する彼の預言理解の解説はすでにお読みとは存じますが)の影響を受けた広くアメリカ合衆国で広まった古典的D主義の人々の理解への批判であろうと存じます。その意味で、Bassの言う意味でのPastor D主義ですらなく、どちらかというと、Layman D主義と呼んだほうが正確ではないかとぞんじます。その意味で、Scofieldの欄外解説に踊らされている人々のD主義についての批判であったのだろうと存じます。発言者ではないので、正確ではないですが。
     
     その意味で、本来的な意味で言えば、Layman D主義は、Classic D主義から逸脱している可能性があります。ただ、我が教派の一部と北米一般で広がったLayman D主義の場合、旧約聖書の中での律法の位置づけや空中携挙の位置づけがあるため、天の世界と残された地上が分断されるとお考えの方が多いようです。そうなった場合、(核戦争の悲惨から逃れて)天国に行くことが目的となってしまうLaymanの人がかなりいて、ということなのだろうと思います。UgoUgo様がそうでなくても。

     具体的な文献証拠としては、翻訳が読みにくい、翻訳上の事実誤認があるという問題があるとしても、『核戦争を待望する人びと―聖書根本主義派潜入記 』(朝日選書)で、このような分断的な考えをもつ人々の発言が記録されています。私は、半ば吐き気を催しながら読んでおりますが、もし、この種の問題をご発言になられるのであれば、70年代の時代状況を振り返るためにも上の朝日選書の本を読まれることをお勧めします。

     書いておりまして思いますのは、どうも、UgoUgo様の言われるD主義と、この場で議論の中心となったTim Lahey等に見られるD主義の内容がかなり違うのではないか、ということでございます。完全に同じD主義という用語を使いながら、指示してい内容が違うのではないか、と思います。


    >D主義がぶった切っているかとというと私にはとてもそうとは思えない・・・

     ある面、古典的なD主義、ないしLayman D主義はこの地上は終わるので、あとのことはあまり気にせず生きればいいという生き方になるようです。本年度のICUの学園祭のテーマは、「〜地球滅亡するなら、就活しなくていいんじゃね?〜」だったそうですが、1975-1980年代中葉ごろには、将来には、天に移されているので、今、環境汚染を起こしても問題ないのだ、核戦争で世界が滅びるのだ、と言い切っておられた方がおられたことが、『核戦争を待望する人びと―聖書根本主義派潜入記 』(朝日選書)にも採録されております。

     上にお示しいたしましたように、Layman D主義は、将来における地上と天の断絶をもとに、さまざまな理解が述べられた形跡がございます。これが、地上と天との間の空中携挙による断絶がもたらす理解ではないか、とおもいます。

    続きます。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2012.10.28 Sunday 22:48
    UgoUgo様のご発言について

    >本質的でないような気がしてなりません。

    ですが、何が本質的な議論とお考えなのか、ということが分かりかねますし、お答えしたとしても焦点がずれますので、残念ではございますが、何とも申し上げかねます。

    >「信仰により恵みにより救われる」という本質的根幹的な所は不変なわけ

     これも、最近の義認論(Justification)の理解が大西洋の西側と東側で、再検討されるようになってきている、ということだけは申し上げておきましょう。ぜひ、ご自身で批判哲学の意味での批判の上で、お読みになっていただき、ご判断いただければ、と存じます。

     個人的には、NTライトさんの主張がまだ十分正しいとは自信を持って申しあげかねますが、検討すべきものは持っているとは存じます。私はまだ読んでおりませんが、NTライトさん以外にも、いくつか関連文献(英語のみ邦訳なし)が出ているようです。JustificationでAmazon.comで検索すると出てくるのではないか、と思います。

    >なぜぶった切ったことが逃避的になるのかわかりません。

     先にも書きましたように、1970〜1980年代中葉のLayman D主義では、将来核戦争が発生し、その結果地上が完全に滅びてしまう、という形での断絶(ぶった切ったこと)が想定されたことから、キリスト者は、地上から空中携挙され、天に移されるので、その天に移されること(天に逃避する)ことが重要になるわけです。したがって、「〜地球滅亡するなら、就活しなくていいんじゃね?〜」に見られるような現実逃避的な生き方がなされかねなかったのが実情です。やはり、『核戦争を待望する人びと―聖書根本主義派潜入記 』(朝日選書)を読まれることを強くお勧めします。

    >これも結局、宇野氏によるゆがんだD主義理解とそれに基づく聖書理解と
    >歪んだ適用なのではないかなぁと思ったのですが。どうでしょうか?

     ゆがんだD主義解釈は、宇野氏に留まりません。宇野氏は、ハル・リンゼイなどの影響を強く受けていると類推されます。だからといって、問題がなかったと主張しているわけではありませんが。ハル・リンゼイの著作はお読みになられましたでしょうか。彼の複数の著作を読まれるとわかるのですが、多分、宇野さんの根拠は、ハル・リンゼイであり、ハル・リンゼイの理解の根拠はScofield版聖書に付されたScofieldによる解説部分だと推測しております。

     あくまで、このセミナーはD主義の問題をバッシングしたり、ディスったりするためのセミナーではなく、NTライトの一連の著作の対極にあるものとしてその一例として北米で影響を大きく与えたLayman D主義が取り上げられた、ということであることをお含みおきください。

     それと、集団で受け取られていた聖書理解とその立場に立った方個人の混乱は、少し控えられてはいかがか、と愚行いたしておりますことを申し上げます。

     コメント、ありがとうございました。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2012.10.28 Sunday 23:08
    コメントする








     
    Calendar
    1234567
    891011121314
    15161718192021
    22232425262728
    2930     
    << September 2019 >>
    ブクログ
    G
    Selected Entries
    Categories
    Archives
    Recent Comment
    Links
    Profile
    Search this site.
    Others
    Mobile
    qrcode
    Powered by
    30days Album
    無料ブログ作成サービス JUGEM