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2012.10.22 Monday

日本での教会を考えるためのお勧めの一冊 第4回

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      今回も、キリスト新聞社刊 「宣教ってなんだ」から、少し引用しながら思うところを書いてみたい。

     今回も、第2章 「日本においてキリスト教はどのように宣教してきたか」から前回、前々回記載しようと思ってもできなかった部分について、ご紹介しよう。今回は日本人の社会における宣教と社会との関係の部分について、触れておられる部分を取り上げてみよう。

     もちろん、日本がキリスト教国家になることについては、真剣に祈り求める人たちがいたにせよ、実際に実現する可能性はほとんどなかった。そうした状態においては、多くのキリスト教徒が、国家のキリスト教化ではなく、キリスト教が日本社会におけるマジョリティの一角を担う存在として認知されることを願い求めたのは当然だった。それが現実的なマジョリティへの唯一の道だったからだ。そこで、日本の教会は積極的に国家政策に協力し、反国家的とみなされることには妥協を重ね、1912年に仏教および教派神道と並ぶ立場で国家への奉仕を求められた時には、それを政府によって認められた証しとして歓迎し、マジョリティの仲間入りを果たしたとして考えて喜んだのだった。こうした妥協と協力は、国家主義の強化とともにエスカレートし、ついには軍国主義体制を肯定する神学を構築することまでになっていった。(p.22)
     日本社会では、基本的にキリスト者は、社会的に日かげ者や村八分にされた人々のような存在であり、マイノリティであったのである。それがマジョリティであるかのごとくに思いこまされて、国家に協力していったキリスト教が大部分であり、ホーリネスやそのほかの一部のキリスト者集団教団の一部を除き、社会の流れになんとなく違和感を感じつつも、マジョリティと同様にしていたい、国家というコミュニティの一員であり続けたい、という日本人の素朴な感覚に従っていったのだろうと思う。このあたりは、十五年戦争期の天皇制とキリスト教新教出版社)に詳しい。

     上のご指摘の中で、重要なのは、そもそも日本の多くのキリスト教会が「国家のキリスト教化」を目指したわけでないという点である。多くの70年くらい前のキリスト教徒の選択として、日本という国家のキリスト教化を放棄したという点である。これはある面、「国家=教会」であり続けたカトリックの概念(アウグスティヌス君が悪いという説もあるが)への反動として生まれてきたプロテスタント、特に改革派以降の影響を受けた時代のキリスト教ならではの精神性かもしれない。共同体の信仰が、カトリックに比べて相対的に弱いプロテスタント教会固有の現象かもしれない。ドイツにしたって、英国にしたって、まず聖書ができて、それから国語ができていった、という節があるし、キリスト教がはいって、そして国家になっていった国と、もともと存在するところにポンと降ってわいたように飛んできた国では、わけが違うのだと思う。まぁ、盧溝橋事件から始まった15年戦争期に青壮年であった、今から70年前のキリスト教徒にとってみれば、そのまた70年くらい前は、江戸時代であり、キリスト教が禁教であった江戸期の最後の時期であるので、彼らはライブ感覚に近い形で、アンチ・キリスト教が国是であった時代を生きた世代と接した人たちでもあったため、こういう選択となったのもうなずける。

     これに加え、キリスト教の牧師に明治期に政府から冷遇された幕府親藩の下級武士出身者が多かったこともあり、日本社会に貢献することでなんとか日本人のアイデンティティを得ようとした人が多かったのではないか。だからこそ、内村鑑三や新渡戸稲造の発言に見られるようなキリスト者であるとともに、日本人であることや日本への異様なこだわり、地域社会とそれを包摂する日本社会と対立的でないことが重要な価値であったのかもしれない。

     あと、この本の中で、プロテスタント教会の特徴としてあげられた文章があるので、その部分を引用しそこから考えたことを述べながら、この章の紹介を終わりたい。

     日本のプロテスタント教会は、最初から教会を学びの場として理解してきた。最近でこそ、典礼に対する理解が変わりつつあるが、長らく、礼拝は基本的に説教を聞いて教えを学ぶ時間であり続けてきたし、今でもそうした考えは根強く残っていると思う。説教壇は相変わらず「講壇」と呼ばれているし、説教に間に合うことが礼拝に間に合うことだと考えている信徒は多い。キリスト教の礼拝をおこなう場所は「教会」と呼ばれ、多くの会堂のつくりは学校の教室のように見える。礼拝で一緒に座っていても、みんなが個人として神(と牧師)に向き合っていて、共同体として礼拝をささげているという意識は希薄なのが実情ではなかろうか。教会の中で種々の交わりがあっても、それがおもに学びと親睦目的に限定されているのが実情だ。たとえば教会の中で壮年会、婦人会(女性会)、青年会などが組織されていても、主な活動は聖書や神学の学びと、内輪の親睦に限られている。そのために教会の組織に流動性が乏しく、閉鎖的になってしまいがちだ。個々人の知的、信仰的満足はある程度得られても、教会外の人々とのふれあいや交流が生じてこないために、教会自体が閉鎖的な空間になり、外から入りにくい異世界になってしまっている。(p.23)


     これを読みながら、「うわぁ、いいんですか。日本人にとって、教会が閉鎖的な異世界だ、と言い切っておられる。すげぇ。」と思ってしまったのである。そうか、日本人にとって、教会は魑魅魍魎が住む異界なのだなぁ。異人の世界なのかもしれないだ。このブログでも、教会でお話しした内容の要約として、すでに日本人とキリスト教会というタイトルや大衆化とキリスト教で紹介しているが、現代の日本のキリスト教会は、基本的に夏目漱石時代の江戸人にとっての箱根の山の西側(「坊ちゃん」の中に出てくる清というおばあさんの言明)みたいなところに相当するかもしれない。

     これは、現代の教会でも変わらないかもしれない。現代の日本人にとってみれば、ゲームやアニメの中で出てくる教会は、エクソシストなどの悪例払いや吸血鬼に対する十字架攻撃などであり、どうしても、異界のイメージが払しょくされているとは言い難いように思える。ま、ゴシック様式の教会ってのも、ガーゴイルなんかが外向いて並んでいたりして、確かにおどろおどろしいので、こういったイメージと重なるのかもしれないのだが。

     以前の記事で、教会に立てこもっているキリスト者ではないか、と自分自身のことを含めて批判したが、同じことを思っておられる方がいたとは。

     まさしく、アウトリーチという概念が存在せず、毎週日曜日に教会という磁石のようでもあり、真空掃除機のようでもあり、劇場のような教会という劇場というか装置の中に人々を引き込むのが当然と思っているヨーロッパ社会を経て、日本社会の中に伝わってきたキリスト教会では、人は放っておいても吸い寄せられるように来るものであると想定されている可能性があるかもなぁ、と思った。

     となると、教会が自ら、教会という建物というか、その内部の信者を保護するかのような甲殻というのかを捨てること、聖書のお勉強をするのが教会の目的という暗黙の想定というか枠組みを捨て、社会の中に浸透していくように出ていくものに現在はあまりなっていないのではないか、という気もする。

     「はじめてのジョナサン・エドワーズ(下のリンク参照)」というジョナサン・エドワーズに関する本を読んでいて思ったのであるが、17世紀のアメリカの東海岸世界では、教会は社会における唯一のエンターテイメントであり、テレビ朝日のニュースステーションやTBSの朝ズバのようなニュースショー(基本、あれは、事件の解説ではなく、エンターテイメントだと思ったほうがよろしい、と思う)であり、バラエティであり、教養番組であったのだ。つまり、当時の教会は劇場であり、映画館であり、テレビであったのだ。だからこそ磁石に引き寄せられる砂鉄のように、真空掃除機に引き寄せられる様々な物体のように、劇場や映画館に吸い寄せられる観客のように、人々は教会に引き寄せられていったし、ニューイングランドやおそらくヨーロッパのプロテスタント系諸国では、教会は共同体を形成し、共同体を代表する装置であったのであろう。

     ところで、教会が成立したころの日本では、歌舞伎や浄瑠璃の劇場、寄席もあれば、風呂屋や床屋というコミュニティとしての共同装置(なので、床屋政談などという語もあるほどである)があり、住民集会施設や緊急避難施設としてもつかわれる寺(もともとは大きな建物、位の意味)という名の江戸期の仏教関連施設が存在したのであり、そこに突然外からやってきたのが、日本の教会であり、教会は異人さんたちのためのお寺であるという認識でしかなかったのであろう。だからこそ、日本人にとっては異界であったのであろう。

     そういえば、祈りフェスティバルでの鼎談「カミとホトケとときどきオタク」で、岡田氏は、ディズニーランドとの対比でキリスト教会をとらえておられたが、エンターテイメント装置という側面を考えれば、何ゆえ、信者でもない人々への結婚式を下手をすると信者ですらないかもしれないアルバイトの外人の司式で実施する「結婚式キリスト教会」の存在をより深く理解できるかも、と思ったのである。

     普通の日本人にとって、他人の結婚式は、基本的にエンターテイメントであり、結婚式場はエンターテイメント装置である。ホテルも、ある面、エンターテイメント装置なのだ。なぜか、ディズニーランドという遊園地も、来園者のことをゲストと呼び、スタッフのことをホストと呼び、ホスピタリティこそが提供しようとする装置であるのと同様に、ホテルも宿泊客のことをゲストと呼び、スタッフのことをホストあるいはホステスといい、ホスピタリティが求められる装置なのである。つまり、結婚式場は、結婚式を挙げる当人たちにとっても、結婚式に来る人々にとってもエンターテイメント装置なのだろう。

     しかし、現実の教会はどうだろうか。一部、「カラオケハウスか?」と勘違いされるほど、好きな讃美歌だけを大声で楽しく歌い、特定の牧師や神父に対して、グルーピー化した信徒だけからなるディスニーランド化してるんじゃないの?、と思えるような教会がないわけでない、と「カミとホトケとときどきオタク」でサムワイズ伝道師が指摘しておられたが、そういうエンターテイメント装置と化した教会はかなり少数派で、むしろ大半は、「教会を学びの場として理解してきた」と指摘されているように、お勉強する場、というイメージが強いのであるし、たいていの教会の施設配置もそうなっている。

     ミーちゃんはーちゃんは、「教会をエンターテイメント装置化するべきだ(結婚式場教会で結婚式がないオフのときの有効活用法として、リアルな西洋風お化け屋敷をしたら受けるかもしれない、ととんでもない発想が浮かんできたが)」とか、「説教はエンターテイメントであるべきだ」ということを主張しているわけではない。ただ、説教の競合相手は、テレビや映画、演劇やネットというエンターテイメント産業が提供しようとするものとの関係の中で、教会に集う時間も、一人ひとりの個人の時間という資源を巡る競合の中にあるのであり、その中で、価値ある聖書の主張を人々にどう伝えていくのか、ということにもう少し工夫というのか、配慮があってもよいのではないか、と思うのである。

     あー、2章だけで、3回を費やしてしまった。ただ、それだけ、ミーちゃんはーちゃんにとって、含意を含む章であったことは確か。次回は別の章に移ります。



    評価:
    ジェイムズ バード
    教文館
    ¥ 1,890
    (2011-03)
    コメント:アメリカの社会とアメリカの教会、アメリカ人宣教師の宣教地である日本の教会にも間接的に甚大な影響を与えた偉大な牧師の思想と人生についての解説。森本あんり先生による翻訳も読みやすい。

    評価:
    石田 学
    キリスト新聞社
    ¥ 1,680
    (2012-06)
    コメント:宣教論の観点から、日本の教会を見直した論文集であり、論文を書いた人たちによる座談会の記録。日本の教会を見直すためのヒントがいっぱい。信徒を含めた教会人にお勧めの一冊。

    評価:
    ---
    新教出版社
    ¥ 5,985
    (2007-05)
    コメント:高いけれども、15年戦争とキリスト教を考えるための手掛かりをくれる本。

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