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2012.10.03 Wednesday

現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由

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     さて、前回の記事では、日本の若者が、教会に行かない(行ったことのない人が行ってみる気にならない6つの理由)を考えたが、今回の記事では、日本のキリスト者になった若者が教会に行きたくなくなる理由を考えてみたい。

     おそらく、以下に書いたものの半分も当たっていないだろうし、ここまで強烈には今の20代30代は思ってもいないし、分析的にも考えていないだろう。しかし、若者に自覚を促すだけでは、これからの日本の教会を背負っていく若者には説得的ではないだろう。

     大きく外れていることを前提にしたうえで、現在の日本の教会の若者が何とはなく感じているかもしれない問題点を強調して切りだすために、わざとデフォルメして、ひずめて書いてみよう。お付き合いいただけたら、うれしいです。

    I 我々はフラストレーションがたまり、疲れきっているのだ


     現代の若者は、特にロスジェネ世代と呼ばれる30代から20代の皆さんは、企業社会の中では、これまでにないほどの忙しさと厳しさに直面しており、仕事をつづけるので精いっぱいという現状があるのかもしれない。仕事を辞めたところで、この経済環境下、より良い職場が見つかるという保証は一つもない。

     就職する時ですら、経済界の企業業績が低迷している、という本人の理由とはあまり無関係な理由で、自分の希望とは必ずしも一致しない就職先にしか就職できず(この段階でまずフラストレーションがたまる)、就職したら就職したで、バブルのバックファイアー時代で人手不足時代に何も考えずに就職できた先輩からは、あーだこーだ言われ(さらにフラストレーションがたまる)、能天気にあーだこーだ言う退職間際の役職者といっても部下のいない役職者から、さらにわけのわからん提案や指示が飛んでくる。これで、フラストレーションを爆発させないとすれば、相当の人格者と言えよう。

     さらに追い打ちをかけるのは、慢性的に、職場で手足になってくれるかもしれない後輩がなかなか入ってこず、自分で何とかしないといけないことがフラストレーションの強化要因として加わることもあるだろう。あるいは、責任感があまり感じられない派遣社員しか、手足になってくれそうな人としては職場にいないし、派遣労働者には、直接指示ができないため、さらにまたフラストレーションがたまる、ということになりかねない職場環境があるように思われる。となると、残業できるのは、まだ無理がきく正社員の20代から30代の若者となり、しわ寄せが一気にそのあたりの世代の社員さんに行く可能性があり、いやがうえにもフラストレーションがたまってくる。

     その上、近時の経済環境などのため、国内市場が収縮してしまったおかげで、海外に出かける、海外との取引を増やすことが求められ、そのための語学研修(英語や中国語、あるいは現地語)の習得が、商社以外のメーカーさんの社員さんなどにも求められており、従来の勤労環境とは激変している可能性がある。

     勤労環境の変化といえば、自己責任が重視される環境になったものの、経済的低迷の中、それに見合う給料の上昇は見込めず、企業が余裕を失う中で、下手をするとさきの語学研修ですら自己研さん努力にゆだねられるようになってきてしまっている可能性がある。

     とにかく、多忙過ぎて自分自身を見つめる暇もなければ、聖書を読む暇があれば、少しでも寝ていたい、という状況が生まれているのではないだろうか。

    II 我々には教会に仲間がいないのだ。

     現代の若者が減る社会において、社会のどこを見ても若者不足なのであり、教会も事実そうだと思う。若者には、ワイワイと仲間と過ごす時間というのが大事ではないかなぁ、と思う。たとえ、くだらないことを話しているとしても。それが、ストレス解消するためであったり、フラストレーション解消のためであるかどうかは別として、同じ世代の若者と、わいわい言ったり、仕事の愚痴を言ったりしつつも、楽しく過ごす時間が必要だ、と思うのだ。しかし、現代の日本の教会の若者にとって、そういうことを一緒にできる若者の集団が教会にはないのではないだろうか。特に地方部の教会では非常に厳しいであろう。

     同世代の信者さんが一定数いる教会は幸せである。同世代の信者が一定数以上いないとなると、信者の孤立感が強まるのではないだろうか。同じ教会でそれが見いだせないとなれば、それはもう超教派的に活動するか、同世代のいない教会を見捨てて、同世代のいる別のキリスト者のコミュニティ(教会)を求めることになる。

     前回の記事でも少しふれたが、現代の若者は分衆化されており、ひとくくりにして取り扱うのは難しい。みんなが知っていて、みんなが歌える大衆歌謡が存在しない時代の若者なのであり、趣味や音楽などの好み、服装の好みや、思考性向がかなり細分化されている時代の人々であり、相当数の人数がないと、共通項を持つ友人を普通の社会であっても見出すのが難しいのだと思われる。

     キリスト者は、神につながっているというものの、人間としては弱いのである。だからこそ、教会に集まる意味があるのであり、教会を形成する意味があるのであり、信者が教会というコミュニティに支えられるという経験が必要不可欠なのではなかろうか。その中で、趣味や考え方の合う信者の友人が教会内にいれば、その人は幸せであるが、そうでない場合、えもいえぬ孤立感を覚えることになる。この孤独感は、説教では満たされないものだと思われる。

     なぜか、説教は、人数がどの程度であるかは別として、信者の集団としての教会に対してのものであり、そこには、信者集団を構成する一部の特定の人だけに向けての説教というのはあり得ないからである。信徒一人、牧師一人という教会はいざ知らず。

     前々回の記事で指摘があったように、教会が大なり小なり、コミュニティであることを考えるならば、分衆化された若者には、分衆化された共通項で形成されるコミュニティが必要なのである。信徒が、KGK活動などの自分の教会以外のキリスト者との共同体に参加した経験があり、そこでのネットワークがあれば、孤立感というのはある程度解消するかもしれないが、ある特定の教会しか信徒のネットワークが存在しない信徒の場合、その孤立感は非常に深いものになる可能性がある。

     その上、教会内に仲良くしているお年寄りのコミュニティがあり、楽しそうにしているように見えると、これはつらい。正直、長期間かけて教会内で熟成された人間関係を持つ年長者の皆さんが楽しそうにしているのは良いのだが、その楽しそうな姿と比べ、自分が一人が教会で同世代の話し相手すらなく、ぽっかりと浮いている姿が対比的に浮き彫りにされるのでは、たまらない。

     つまり、教会論的にはおひとり様クリスチャンではないが、教会内に友人がいないため、疑似おひとり様クリスチャンになっている可能性があるかもしれないのだ。

    III 我々は、教会の負担が重いのだ。


     高齢化社会が進んでいるのは、日本の地域社会だけではなく、企業社会でもそうであり、教会に至っては、その高齢化の進展度合いは、日本の一般社会以上に進んでいるのである。となれば、教会活動を支える活動の負担は勢い、そこにいる若者が負担せざるを得ない、ということは自明のこととなる。

     年金、社会保障、日本社会の負担が重いという終わった感に加えて、教会を支えるための負担がどっとかかってくるという逃げ場のない閉そく感がどうしても日本の青年層キリスト者に漂ってしまうのはいたしかたないかもしれない。

     従来の社会は右肩上がりの社会であり、社会にしても教会にしても、人口の増加とそれに伴う新規来会者の増加が期待されたのであるが、今は、それが期待できない時代を迎えていると思われる。キリストに対する信仰があっても、その中で、教会を支える重い負担に耐える、ということは献身者とは別の意味での重大な決断を信徒に強いることになるのではないだろうか。

     沈没する船からネズミが姿を消すように、人は負担が重たいことが予想される環境の中で、その集団から逃げ出すことを誰が責めることができよう。

     特に、キリストへの信仰は持っているが、所属する集団への忠誠と、それとは別、個人とキリストとの関係が極めて重要、と青年層が考えるならば、負担をしなければならない可能性のある教会という共同体を離れ、自分自身のみでの信仰生活(それはそれで偏ったものになる、と思うが)を過ごすことに何も問題がないことになり、若い世代の信者を教会に引きとめておくことは、事実上無理、ということになるだろう。それこそ、おひとり様クリスチャンということが生まれかねない。

     確かに、キリストは我々が神から離れた問題を解決するための負担をした。しかし、あなたの重荷を軽くする(0にするため、ではないが)ためにも来た、とも言っているのをどう理解したらいいのかが、よくわからないし、戸惑いを覚えている青年層の信者は少なくないのかもしれない。

    IV 我々は、義理や人情では縛られたくないのだ。


     教会の人は、たいてい親切すぎるくらい親切であり、そして、いろいろ世話を焼いてくれることが多い。これはこれで、若者にとってもありがたいのだ。特に困っているときは。しかし、困っていると言っていないときにも、しゃしゃり出てこられて親切にされるのは、義理や人情の世界に巻き込まれるようで、つらいのかもしれない。

     しかし、若者は自主独立することを中学、高校、大学などでの教育の中で示されるとともに、ある面そのことが求められていることを知っている。そして、自分は、鼻水たらした子供ではない、と思いたいし、自己能力を試してみたい存在なのではないかと思う。その状況の中で、お節介に近い形で世話を焼いてもらって、義理や人情という精神的な負債を抱え込みたくないのではないだろうか。

     お節介は、世話をしてもらえるという以上に、親切な行為とそれに伴う精神的な負債の押し売り行為にちかいものを、若者は感じ取っているのではないだろうか。

     就職の世話、結婚相手の世話、してもらえるのはありがたいかもしれないが、その分、世話してもらった相手に精神的な負債を負い、義理や人情で縛られてしまう、と若い世代は考えるかもしれない。相手に精神的に縛られる状況には、だれも直面したくないのではないだろうか。そして、後年になって、世話をしてもらったことを忘れたころになって、あの時世話をしてあげたに…、という声をだれが聞きたいだろうか。そんな声は、ブラックメイリング(脅し)に聞こえるのかもしれない…。 

    V 我々は、牧師先生、教会の役員、信徒さんの何げない一言や視線がつらい時があるのだ。

     最初教会に行き始めたころは、すべてが新鮮で、また状況がよく飲み込めないこともあり、細かなことや小さな自分自身の聖書理解との考えのずれ、教会の人たちとの不一致などの小さな不具合などには、あまり気づかないことが多い。

     しかし、教会に行き始めてしばらくすると、それぞれの教会員の癖や気になるところが、より近くに見る分だけ、過大に見えてくるようになり、牧師先生や、教会の役員さん、信徒さんの何げない一言や視線がつらく感じられる時がある。発言した本人は、何も考えずにポッと言ったことであったとしても、受け取る側では、必要以上に重く受け止めてしまい、つらいこともあるようだ。

     こういう一言や何げない行動、視線が引っ掛かりとなり、教会に行くのが嫌になり、生活を過ごしているうちに、結局教会から離れてしまう、ということはあるのではないか、と思われる。特に、その信者が最初に行った教会でずっと継続して生き続けている場合や特定の教会内にしか信者間の人的ネットワークがない場合、別の意見として聞きたいなぁ、と思っても、聴ける人がいなかったり、「こんなことを聞いたら、○○と思われてしまう」とかいう意識が先に立ち、相談の持って行き場所が事実上なくなる場合だってあるのではないか、と思われる。こうなったときに、小さな疑問についての安全な解決手段が教会内にない結果、キリスト者であることを続けることが困難になる場合もあるのである。チャーチホッパー(教会放浪するキリスト者)は困りものだが、セカンドオピニオンを聴く機会のない若いキリスト者、というのもかわいそうな気がする。

     都会地のキリスト者の場合、別の教会を訪ねてみる(それはそれで勇気のいることだが)ことは可能だろう。あるいは、KGK活動のような活動を通して得た仲間との気軽な会話が大きな助けになるかもしれない。しかし、地方部では、町に一つしか教会がなかったりすると、もうそれで相談できる場や、ただただ若いキリスト者の素朴な疑問や意見を聞いてくれる場がないのではないだろうか。(今はネットの社会があり、そこでセカンドオピニオンがある程度見つかるようになっているが、ネットは玉石混交なので、とんでもないのに当たると、それはそれでえらい目にあうことになる。)

     そもそも日本の社会において、教会はマイノリティであり、アクティブなキリスト者は圧倒的マイノリティである。狭い社会なのだ。どこかで誰かが必ずつながっているかなり濃密な人間ネットワークが形成されているのがキリスト教界なのだ。そんな中で、教会についての相談事が漏れたとき、ということを考えると、相談した本人としては自分自身には非常に快適ではない影響が降りかかることをも覚悟しないといけなくなる。双方向型でセカンドオピニオンを聴く場、というのが実は日本のキリスト者にとっては少ないように思うし、それをする人も少ないと思う。

     アメリカ西海岸で思ったのは、あそこでは、人口の流動速度がかなり早いこともあり(大体同じ家に住む期間は、7―10年程度とされる)、人間同士が交差する瞬間瞬間の関係を結ぶことが重要であり、その関係性は非常にあっさりしたもので、非常に短い時間の中で関係性の構築がなされることが多い。非常に柔軟であっさりした(悪くいえば、何でもありかつ希薄な)社会構造になっているように感じた。

     これに比べ、日本では、かなり長期間同じ地域にすむという選択がなされることが多く、とりわけ持ち家では、その期間は長期化しやすい傾向があるだろう。となれば、人間関係も濃密になりやすいし、非常に長いスパンでの人間関係が模索されることになる。となると、教会での人間関係影響は非常に長期的なものになりかねないと思う。となれば、この長期の濃密な関係性から逃れるためには、そこを脱出することしかないことになる。別の教会に行ければそれはそれでよいと、ミーちゃんはーちゃんは思うのであるが、別の教会に軟着陸できなければ、どこの教会にも属さない放浪のローンレンジャーのようなクリスチャンや、おひとり様クリスチャンが生まれることになる。

     教会がそもそも共同体の性質を強く持つ組織であることを考えると、おひとり様クリスチャンやローンレンジャーのようなキリスト者というのは、聖書理解や信仰の点でも偏りが生まれることは避けがたいのではないか、と思われる。しかし、若いキリスト者が自分の所属教会外の人々に素朴な疑問やセカンドオピニオンを聴くなどの相談事をある程度信頼できる人に気軽に持っていくことができないとき、逃げ場のないところからの唯一の脱出手段として、教会に行かなくなるということはあるのではないだろうか。これも日本が永遠の宣教地であり、日本に一体としての教派を超えたキリスト者社会が存在していない結果の悲劇かもしれない。
     

    VI 我々は、既存の教会文化に同化せずに生きたいのだ。


     教会の構成人口が高齢化しているので仕方のない側面があるが、教会の人口分布の厚いところに『配慮』したプログラムになりがちなものである。また、人口分布が厚い世代の支配的な文化が教会で支配的になることが多いだろう。

     教会での人口分布が厚い世代は、60代以上の世代であり、大量生産大量消費、みんながジャンプやサンデーだけを読み、岩波文庫や岩波新書だけを読んで(あるいは読んだふりをして)幸せであったように、みんなが同じにすることが幸せであると信じて疑わない人々が多い世代である。この部分を中心に据えると、ある程度同じことを同じようにしているだけで、この60歳以上の世代はかなり幸せになれてしまう人たちのように見える。

     となると、岩波新書もあり、日経新書もあり、○○新書もあって、ありとあらゆるテーマに分断されて情報が提供される社会を当たり前として生きてきた中で、分衆化され、セグメント化され、興味でも関心分野でも分断化され、個人の趣味を重視する傾向のある20代・30代の生き方とかなりのずれが生じる。分断化された人々にとって、長いものに巻かれる生き方、同化するような生き方は、うれしくないのである。それが聖書理解や信仰生活・教会生活であっても。それなのに、教会がコミュニティ原理で動く社会だから、という理由だけで、同化を求められるのは、非常につらいのではなかろうか。

     また、若者は、目新しい技術や社会的存在に良くも悪くも飛び込み、それをかっこいいと思い、お金をつぎ込む習慣があるように思われる。これは、昔も今も変わらないのではないだろうか。だからこそ、20代30歳代の若者を会社は、お金を払ってくれるポケットをもっている存在として、企業の皆さんは、これらの世代をターゲットにして広告するのである(テレビ業界が典型的)。若い女性が使うようなシャンプーの広告には、まかり間違っても中高年の星、きみまろ君や船越栄一郎君は登場させてもらえないのである。

     60歳代以上の人たちが青年や中年であった時代の技術標準とは違う技術標準で生きている、と思いこみたいのだ。実態はそう違わないかもしれないけれども。現在の技術基準を前提にして、その世代の人に合わせた方法論で語りたい、と思っても、それができない高齢者への配慮のために手足が縛られるのは、かなわないなぁ、と思っているのではないだろうか。現代の文化にどっぷりつかっている人々に向かって、その人たちにわかる言葉で語ろうとすることが、高齢者に理解できないために控えるようにさせられるのは、かなわないと思っているのではないだろうか。

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     もちろん、若者が教会にとって、すべてではない。しかし、少なくとも、同世代の人に伝統を引き継いでも、それはその世代の地上からの消滅(それがどのようなものであれ)とともに、消え去っていくものであり、本来、それが価値があるものであると我々が思うのであれば、より若年の世代に本当に価値あるものをどう残していくのか、ということを考えてみることは、大事なのだと思う。それこそ、ジジイになりかけた、ミーちゃんはーちゃんにとってのチャレンジであり、責務だと思っている。

     教会は日本社会でマイノリティであるが、そのマイノリティの中でのマイノリティが教会の中の若者かもしれない。

     若者が、自立した信仰者になる努力をすることも大事だし、そのことを求めていくことも当然だろう。それとともに、若者が自立した信仰者になるための手助けと、受容、適当な距離の取り方と関係性を確立することが大事ではないか、と思うのだ。

     アメリカでのイマージェントと呼ばれるグループの人たちと同様に、日本でも、相対的に若い世代の社会において分節化されたキリスト者とどう教会が関係をもっていくのか、ということを考えることが求められてくる日もそんなに先の将来のことにはならないのではないか、とミーちゃんはーちゃんは思っている。 

     上記の議論は、確かに乱暴な議論である。それはミーちゃんはーちゃんも認める。話の10%も当たっていないであろうが、しかし、少しは現実とかすっていることもないわけではない、と思うのだ。

     完全に中高年入りし始めたミーちゃんはーちゃんを含めて、そもそも日本社会の中で、マイノリティであるキリスト者が集まる教会の中で、さらにマイノリティとなり、その上、サイレントマイノリティになりかねない青年層のキリスト者の声なき声をどう聞いていくのか、そして、その人たちに説教壇からどう語りかけるべきなのか、ということを教会の未来を考える上で、考えないといけないのでは、とミーちゃんはーちゃんは個人的に考えている。

     先日、ミーちゃんはーちゃんよりかなり年長の教会外の方と少し世間話をしたが、その中で、その年長の方が中国の反日デモを見ながら思ったこととして、「今から50年位前の若者、1940年ごろから1950年ごろ生まれの世代の人々は、国会や米国大使館の前にデモで押し掛け、ゲバ棒・火炎瓶を手にし、異議申し立てをした勢いのある人々であったが、今はそういうむちゃくちゃだけれども意味不明なほどエネルギーだけはある、ってタイプの若者って、見つけるのが難しくなったよねぇ」と感慨深げにお話ししておられた。確かに、テレビのニュース映像で見る限り、昔ゲバ棒を持って国会前を蛇行行進した60代の人が中心になって、オスプレー配備反対と官邸や国会の前でプラカードの掲示を中心としたデモしておられるような気がするは、たぶん気のせいであろう。さらに言えば、ゲバ棒やらヘルメットなんかは、ほとんど見なくなったよね。それとも、放送コードで規制されているのかな。

     そんなことを考えていると、社会の中でも教会の中でも、今の20代や30代の方々は、人口がそもそも少ない上に、草食系男子(装飾系男子という説もある)という言葉にも表れるように、おしゃれにはうるさいが、社会と関連することになるとエネルギーレベルも低いため、社会や教会の中で発言することもまれなマイノリティ集団の中でのサイレントマイノリティになっているかもしれない、とふっと思ってしまった。
     
     今後、日本の社会で若者は、マイノリティとなっていく(だって、ミーちゃんはーちゃんを含めた現在の中高年の年齢層の方が人口としても大きい。だからこそジジィ(G.G.:Grand Generation)という絶妙なネーミングのブランドを、商売っ気があり、何とか売り上げを確保したいと思っておられるAEONさんは立ち上げておられるのだ。ミーちゃんはーちゃんは最初にこのブランドのCFを見たとき、「イオンさん、本気だ」と素直に思った)。そういう社会となる日本の教会では、教会という社会的マイノリティの中のサイレントマイノリティとなりかねないキリスト者の若者とどう向き合っていくのか、そして、教会を離れていった青年層のキリスト者への回復の道をどのように備えていくのか、ということが問われているのかもしれない。

     「聖書やキリストは好きだが、教会は嫌い」といいかねないような青年期の「おひとり様クリスチャン」やローンレンジャーのように、教会からふらりと消えていってしまった、どこの教会にも属さず、世間様を放浪する青年期や壮年期のキリスト者(あるいは、元Church Goersや元Sometime Church Goers)の人々への対応、これは現代の日本のキリスト教会がその視野の中に入れつつ、少しだけ頭をひねってみてもよい課題の一つかもしれない。

     なお、以下に紹介する書籍というかDVDは、共同体としての教会を考える補助線を与える書物であるといえるので、ここでご紹介。


    評価:
    アリスター E.マクグラス
    キリスト新聞社
    ¥ 3,150
    (2010-03)
    コメント:マクグラス先生の東京での聖餐式に関する講演の動画記録DVD付きの講演内容を本にした本。講演本文自体よりも、動画記録のほうが重要だと思うし、質疑応答の記録のほうが意義深いと思う。

    コメント
    >年長の教会外の方と少し世間話をしたが、その中で、その年長の方が中国の反日デモを見ながら思ったこととして、「今から50年位前の若者、1940年ごろから1950年ごろ生まれの世代の人々は、国会や米国大使館の前にデモで押し掛け、ゲバ棒・火炎瓶を手にし、異議申し立てをした勢いのある人々であったが、今はそういうむちゃくちゃだけれども意味不明なほどエネルギーだけはある、ってタイプの若者って、見つけるのが難しくなったよねぇ」と感慨深げにお話ししておられた。

    あの反日デモをみながら、その程度のことしか考えられない人たちであり、その程度の運動であり、運動論だったということであり、みなさんその後ほとんどは企業に就職する程度であり、まったく本気でなかったということを見透かされていることに気付いていない人たちなんだよね。
    そら、疲弊するわ。
    • ugougo
    • 2012.10.05 Friday 22:04
    ま、その方は、ノンポリの代表で、就職関係者の方なのでね。他愛のないことしか話せないところもあるんで。

    まぁ、当時の人たちの運動論、というのは、今でもそうだけど、超近視眼的な完成に乗った運動論みたいなところがあるので、コメント王子がフラストレーションたまるのも、なんとなく想像がつくような気が。でも、それは今、AKBやアイドル、個人の趣味なんかに替わっただけで、社会の大半の人は、流されて生きている、というのが日本の現実じゃないかしら。

     とはいっても、中には、当時革新自治体と呼ばれた某自治体の水道局や環境局や日本○産党にいながら、活動されたごく少数の熱心な方もおられたようですけど、やはり少数者は少数者。

     大衆運動なんてのは、そもそもあんまり期待できないのかも・・・。

     私?期待していません。冷めた目で見ています。ブームはそんなもんだ、と思っています。熱しやすく冷めやすい。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2012.10.06 Saturday 07:19
    はじめまして。教会の中にも、趣味が合わない人いますよね。鉄道マニアでまわりが車の話ばかりしてるとついてゆけず、この状況にどんなみことばで対処すればいいのか。。。
    でも趣味の合う人を見つけたら見つけたで今度は信仰そっちのけで教会内でも趣味に没頭、ということになりかねないので教会は趣味の合わない人とみことばで付き合うところ、それが信仰の訓練、と考えていました。一人っ子的感覚かもしれません。
    • ぴーちゃんけーちゃん
    • 2013.08.04 Sunday 15:13
    ピーちゃんけーちゃん さま こんばんは。

    コメントありがとうございました。ようこそお越しを。

    それは、人間ですから、趣味の合うあわないはあると思います。特に若い時は特に。方向性が違うという人と一緒にいたり、あわせたりするのはつらいのではないかと存じます。

    いや、みことばで対処する必要はないと思いますよ。もっとオープンエンドな結論の出ないことについての会話でもよいのではないですが。時代を共有している部分というのは、趣味以外でもあるはずだと思います。まぁ、そういう同好の人々ともネットさえあれば、気楽につながれるのが、今のいい時代だと思いますし。教会の人とだけつながらなきゃいけない、付き合わなきゃいけない、ってこともないはずだと思います。

    また、教会内の趣味の合わない人と無理やり付き合わないといけないということもないと思います。

    また、相手に調子を合わせて自分自身を失うこともないと思いますよ。自分自身の周りにいる人たちに無理やり合わせると、自分自身に知らず知らずに無理が来ますから。

    もうちょっとのんびり構えて、少しひいてお考えになられたらいかがでしょうか。素朴にそう思います。

    ひーちゃんけーちゃんさんの上に、平安がございますように。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2013.08.04 Sunday 20:50
    管理者の承認待ちコメントです。
    • -
    • 2014.01.05 Sunday 11:07
    管理者の承認待ちコメントです。
    • -
    • 2014.03.11 Tuesday 19:38
    >II 我々には教会に仲間がいないのだ

    のところ完全同意します。
    神とのつながり、神父の説教だけでは満たされない。
    信仰を同じくする同世代と分かち合い行動し、共有したいという想い。
    上世代が閉鎖的、
    +20代〜40代を引き付ける活動
    魅力にかけるのがカトリックだと思います。

    自ら衰退を選んでいるようだ。

    >教会は日本社会でマイノリティであるが、そのマイノリティの中でのマイノリティが教会の中の若者かもしれない

    教会というマイノリティの中に飛び込む若者はマイノリティー。その中でも多数派老人高年の中少数派若者〜中年仲間少ないというマイノリティーを味わう。
    これなんという拷問?


    上の世代になんとかしようという意識がない。

    というのは私が2,3教会にいってみて感じたところです。
    ちなみに洗礼考え中の未信者です。



    • サリー
    • 2014.08.07 Thursday 22:30
    サリー様

    コメントありがとうございました。

    人間て、弱いので、神様とのつながりだけでは、何とも信仰の朋、同行者がほしいのは、その通りですよね。

    若者少ないの、同世代の人見出しにくいの、カトリックだけではないですよ。日本キリスト教団も、福音派も激減状態。

    この前、あるカトリック司祭様の送別会(壮年会有志)によるの写真を見せていただいてびっくりしたんですが、壮年会というよりは、君麿世代ばかりだったので、これが壮年会、って…と正直感想を持ちました。

    この前ツイッターで、結婚してないからってだけで、30代まで青年会にまとめないでほしいって、つぶやいてらっしゃいましたけど、いずこも似たような状況かもしれませんねぇ。

    「高齢者がすべて仕切って、若者は前に倣え」は、帝国陸軍形式なので、もういい加減やめてほしいと思ってても、彼らの社会経験が帝国陸軍形式(というよりは、朱子学様式)で決まっているので、それ以外の考えをご高齢の方々に期待するのはどうか、とも思いますけど。

    http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=600
    http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=602

    高齢者の方々は、現代の変化に否定的なのは洋の東西を問いませんが、どの時代であっても、時代変化を認識しておられないのでねぇ、それはいずこも同じ光景ではないかと。

    私は、プロテスタントの信者ですが、わけあって、カトリックの方々から学ぶところは大だなぁ、それを無視しては行かんなぁ、と思っております。

    コメントありがとうございました。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2014.08.09 Saturday 12:55
    聖書の解釈を聞きたい 賛美したい 祈りたい だけど 礼拝のあとの コミュニケーションが苦手 姉妹 兄弟と言っててもそもそも 他人なのだからか 結局 疎外感を感じて その場から 逃げてしまう そんな人も多いと思います
    • ぼっちクリスチャン
    • 2015.07.01 Wednesday 12:43
    ぼっちクリスチャン さま

    コメント、ありがとうございました。そうですね。

    聖書の解釈を聞くだけなら、今はインターネット説教もあります。問題は、聖餐式と、共同体において働く霊性の問題ですね。だけど、人と付き合ううっとおしさは付きまといます。

    はじめて行ったり、たまに行ったりすると、事情聴取するかのような教会もあるので。その辺、悩ましいですね。

    カトリックか聖公会とかだと、その辺は軽いかもですねぇ。


    ぼっちクリスチャン様の上に神の平和がございますように。良き主日をお迎えください。

    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2015.07.04 Saturday 20:29
    こんばんは。
    どこの教会も似たような問題を抱えているような気がします。
    引っ越しを数回していまして、その度に新しい教会を探していますが、若者が来ない来ないと、どの教会でも言っています。そもそも新しい人が来ないんです。
    初めての教会へ行くと、まず名前、住所、電話番号、勤め先、などあらゆることを取り囲まれて聞かれるので、それがとても嫌です。今も新しい地で探している最中ですが、また色々聞かれたり、大勢の前で紹介されたりするのかと思うと、行きたくないな~と思ってしまいます。
    2回くらいしか行ってない教会で、奉仕させられそうになり、慌てて逃げるように帰ってきたこともあり、教会探しは慎重になっているところです。
    探し続けて良いものか悩みます…

    • にゃんたま
    • 2015.11.27 Friday 21:22
    にゃんたまさま コメントありがとうございました。気づくのが遅れました。申し訳ないです。

    そうですね。割とプロテスタント派の戦後15年くらいまでに生まれたところは、若い人がかなり少ない印象がありますね。

    そもそも、新しい人が来たら、宇宙人みたいとは言いませんが、アフリカからの御客人かのような扱いがあるかもしれません。

    警察官の職務質問かのようなお取り調べ、ってどうなんでしょうね。それは思いますよね。自分の事は一切いわないで。

    カトリック教会では、こういうのはなかったですね。プロテスタントでは、名前は残しますが、紹介は固くご遠慮、というか、自己紹介をと言われた時には、ご遠慮申し上げたく思います、と申し上げて居ります。まぁ、それで終わったら、速攻で帰るようにしております。

    事情聴取用紙には、ご紹介は御遠慮しています、と書けば、まぁ、普通のところでは、スルーしてもらえることが多いですが、一度は、紹介されてしまいました。

    人手不足なんで、どこでもクリスチャンだ、といえば、奉仕者は欲しがりますよね。

    探し続けたらいいと思います。恐れないで。きっとあると思いますよ。

    良き主日をお過ごしください。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2015.11.29 Sunday 08:43
    管理者の承認待ちコメントです。
    • -
    • 2017.04.19 Wednesday 21:51
    孤立しているのは、若者だけではないと思う、私は60歳の男性だが教会の雰囲気や選民意識を持つ教会員とは、交われない、教会は,そう、言うなれば「清く」「正しく」「美しく」あらねばならないと言った考えを持つ意識が蔓延していて生活感が感じられない、言い換えれば、日々の中で、信仰を守っているはずなのに、サンデークリスチャンになっていて、弱い人、困った人には無関心な姿勢がある、だから「愛」「十字架」といっても教会の中だけの信仰にしかかんじられない。
    • Takasi Mushu
    • 2017.05.15 Monday 06:02
    Takashi Mushu 様

    4月19日付でコメントいただいておりました。反応が遅れまして、本当に申し訳ございませんでした。

    丁度そのあたりは、新学期と福音主義神学会などでの応答が重なり、お返事が大変遅くなりました。メールアドレスが記載されておりましたので、迷惑メールを防ぐためにも、代理で上げることにいたしました。対応が遅れ、申し訳ございませんでした。

    結局、 今の高齢者の方は、ある面2回断絶を経験されておられるでしょうね。第1の断絶(孤立)は就職ないし進学の時、そして、会社をおやめになられるとき、という2回なんでしょうね。

    >言うなれば「清く」「正しく」「美しく」あらねばならないと言った考えを持つ意識が蔓延していて生活感が感じられない

    これは、隅谷三喜男さんがすでに、日本信徒の神学でご指摘の部分か、と思います。ある面で、本来の伝統教派が持っていた神の民として生きる、ということがどこかで失われていたことが一番の原因かと思いますし、その傾向が、いわゆる万博闘争を中心とした教会派VS社会派論争で一気に強化されたように思います。

    まあ、伝統教派の中には、このあたりの実践が残ってはおりますので・・・

    本当にお返事遅くなり、申し訳ございませんでした。心よりお詫び申し上げます。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2017.05.15 Monday 06:12
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