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2012.09.28 Friday

日本で非キリスト者の若者が教会に行かない6つの理由

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     最初に先ずお断りしておきます。できるだけ、短くしようと思いましたが、短くなりませんでした。申し訳ないが、お付き合いしたい人だけ、お付き合いしてください。

     前回の記事を書きながら、日本で、キリスト者でない若者が教会にいかない理由は、何だろうと考えた。日本の若者は、教会風のホテルなどの結婚式場(信者もいなければ、聖なる儀式としてのバプテスマもしなければ、聖餐式はおろか、礼拝すらない、それらの聖なる儀式もなく、神の宣教(Missio Dei)とは全く無関係な建物であり、何にもまして信者でない人の結婚式が最優先で行われる教会もどきの建物)で結婚するのが好きである。

     ところで、建物もパチモンなら、そこで司式する人もパチモンである可能性がある。つまり、神学校の卒業証書すら持っていないかもしれないパチモンの牧師もどきで、日本語がかろうじて理解できるくらいの下手さで下手であることが望ましく、さらにコーカシア系人種に見える人が望ましいとされる人物の司式(外国籍の人であっても、アジア系、インドネシア人や、アフリカ系の人々、ラテンアメリカのインディオ系の人々やカリブ海諸島系の人々、インド系の人々やマオリ系やアボリジニ系の人々であってはならないのが、一応暗黙のルール)で、ウェディングドレスを着ながら結婚式をするのが大好きな人々なのだ。ちなみに、ミーちゃんはーちゃんはこれらの人々、アジア系、インドネシア人や、アフリカ系の人々、ラテンアメリカのインディオ系の人々やカリブ海諸島系の人々、インド系の人々やマオリ系やアボリジニ系の人々に対する偏見はあまりない。

     その症状が進行した人になると、ハワイまで行って、旅行会社と提携しているホンマもんの教会で、その教会(その教団や関連教派に属する教会)の信者でもないのに、にわかに信者になったふりをして結婚式を挙げるのが好きな人々なのだ。

     しかし、こんなに結婚式を教会風の建物や、本物の教会であげることにこだわるのに、なぜ、普段は教会に行かないのか、それを信仰的な立場とは相いれない立場かもしれないが、外部者の観点に立ち、冷酷に見つめるマーケティング的な観点から、考えてみた。さすがに7つはなかったので、6つに絞ったけれども。あまりあたってないことを期待しているが、ある程度は当たっている部分の一つや二つはあるのではないか、と思うのである。

    I 日曜日の朝早くに行事が行われており、土曜日深夜枠のテレビのバラエティよりも面白くもなければ、若者にとって価値がある、と思えるものを提供しない場所、という印象がある


     若者だって、かっこいいもの、価値あるものにはひかれ、金や時間やエネルギーを費やすのだ。似合うかどうかは別として、グッチやフェラガモ、エルメスなどのブランドは、価値があるとされるから、彼らはほしがっているのだ。話題性だけでもあれば、ウン十万もするケリーバッグだって、他人に買わせて貢がせるか、自分へのご褒美として買うかは別として、お金を出すのだ。くだらないと思えても、話題性があるからこそ、深夜枠のテレビのバラエティ放送をみんな見るのだ。週刊誌や月刊誌が売れるのだ。だれが、AKBのじゃんけん大会でセンターをとるのか、は若者にとって重要な情報なのだ。友人と話をするきっかけとして。自民党の総裁、民主党の代表がだれか、よりははるかに重要かもしれない。ためしに若い人に聞いてみたら、この感覚がわかるかもしれない。自民党の二代前の総裁はだれか、AKB48の2代前のセンターはだれか。後者は素早い反応が返ってくるが、大半の若ものは、前者はだれだっけ、と考え込んでしまうことが普通だろう。

     価値は、個人や年齢層によって異なる、ということを、モノ不足だった時代に近代の大量生産大量消費時代を通過した今の60歳以上の大半の人には理解しにくいかもしれないが、現実には価値は、個人や年齢層によって、かなり違うように思う。そのことをマーケティング業界の人たちやテレビ業界の人たちはかなり意識していると思う。

     さらに言えば、先日のニュースで結婚詐欺での訴訟案件をやっていたが、結婚してくれる、と思えばこそ、そこに希望があればこそ、異性からお金を請求されてお金を貢ぐ人もいるのだ。そういえば、数億円を病気を騙ったホステスの女性に貢いだ会社員がいたよなぁ。

     ということは、日本人の一般の若い人にとって、教会というのが選択肢の一つであるとすれば、何らか社会的に若者の生活にとって価値あると思わせるものを教会が提供しているかどうか、ということが重要なのではないだろうか。あるいは、教会が提供しようとしているものの価値をわかりやすく提示することが必要なのではないだろうか。

     ミーちゃんはーちゃんは、聖書には価値があると思っている。現在、その価値が若者に認められるよう提示されていない、プレゼンテーションされていない点が問題だ、と思うのが、それは言い過ぎかもしれない。

     ただ、教会での提示の仕方として、これまでの伝統があるがために、本来価値があるイエスの主張、福音を、あまりにも聞き手を退屈させるような提示のされ方しかされていないのではないか、とは思う。それは、イエスが伝えようとした「福音」の価値を考えるとき、少し残念なアプローチかもしれない。

    II 教会への自然に足を向けるためのアプローチがない


     これは、そうだと思う。まずもって、キリスト者自身、私自身を含め、教会堂にたてこもっている内弁慶キリスト者なのではないか、と思ってしまうのである。「相手に来てもらって当たり前」が続くと、確かにこうなりかねないのは分かる。アウトリーチはしていないわけではない。教会は確かに一般に広く門戸を開いている、伝道文書を配っている、というのはあるだろうが、若者をターゲットにした直接的コンタクトというのは、意外としていないかもしれない。

     このアウトリーチの分野で、キリスト教の周辺組織で一番熱心なのは、モルモン教やポストに印刷物を入れてくださる『ものみの塔』の皆さんだろう。個人的に、彼らをキリスト教の範疇に入れることには、ものすごく抵抗があるが。モルモン教の人についていえば、日本のどこに行っても、ユタ州から来られた男性信徒の方が、二人ずれで自転車に乗って、自分自身を移動する広告塔にしておられる。この前、稲穂が輝く水田が連続する地域で、このような二人ずれを見た。

     まぁ、自然なアプローチかどうかは別として、すくなくともアプローチをしようとしていることは確かである。ものみの塔の皆さんも、その印刷物に示されている絵画が自然と感じるかとか、好感度や完成度が高いとかんじるかどうかは別として、人々に必死でアプローチしているのは間違いない。

     ところで、アプローチといえば、キャンパスでの強引な勧誘は、キリスト教風のカルトがあっちこっちの大学で問題起こしているし。こんな強引な方法での勧誘をする組織って、どこか自然じゃないよね。どう見ても、異質でしかない。強引な方法での勧誘って、人が引くのは当たり前、その勧誘でその組織につながろうとする人が特殊な人になるのは当たり前かもしれない。

     ところで、地方を自動車で走れば、黒くべた塗りした看板に、白字や黄色で、『神の裁きがある 聖書』とか『悔い改めよ 聖書』と大書した看板が掛けられていることがあるが、これも角をつけたおじさんが公園で「悔い改めよ!滅びが来ますぞ!」と叫ぶのと一種センスが似ているだろう。これも、パブリック・リレーションという観点からの広告としてのセンスとしては、かなり疑問。

     ところで、前回の記事を変換しながら、ミーちゃんはーちゃんが、大学時代に教会に行き続けるインセンティブになった一つの理由を思い出した。ミーちゃんはーちゃんがお世話になった教会では、毎週日曜日にお昼を出してくれていたのである。そして、お昼御飯のお残りをただでもらって帰って晩飯にしていたのである。安い寮の食堂が閉まっている日曜日に、これは実にありがたかった。今、娘が現在行っている教会でもそうしてもらっているらしく、彼女には、これがありがたいらしい。意外と、こういうことって大事かもしれない。

     いくら情報が豊かで、スマートフォンで情報が提供されたとしても、スマートフォンで流れるサイトの情報では空いたおなかは満たせない、という厳然とした事実を少しでも考えてみることは重要かもしれない。

    III 教会は具体的な悩みに「祈れ」としか言ってもらえない場所、という印象がある

     教会自身は、具体的な悩める人へのかなり親密なサポートをしていることも多いのだが、その実情は意外と知られていない。一般の人の印象としては、一般の人々がよく理解していないし、一般の人々にとって理解不能と思われる「『神』に祈りましょう。問題が解決されるように。」といわれる場所と思われていたり、「キリストに懺悔しましょう」といわれるためにある場所だと思われているようである。これでは、占いと大して変わらないし、お払いしてくれたり、何かというと、お経を読まされたり、祈祷代として賽銭を請求されるお寺と大して変わらない、という印象が続いているように思われる。

     教会は、あなたに代わって借金は払ってくれないかもしれないが、借金問題について、聞いてくれたり、当たっているかどうかは別として、何らかの方向性を一緒に相談してくれたりする牧師さんがいる教会もいるのである。スカイプで相談に乗ってくれ、といわれて、朝4時でも対応してくれる牧師見習いさん(そんな奇特な牧師見習いの方に会いたい人は、いのフェスに行こう。)もいる教会もあったりするのである。

     問題は、教会が社会の若者に提供していることがあまり知られていない、ということなのかもしれない。

    IV 教会は、社会の周辺にいる人々が集まっているところ、という認識が一般に広がっている

     一番一般社会で有名なキリスト者はだれだろうと考えてみると、社会福祉関係の人が多い。典型的には、マザーテレサかな。個人的には、マザーテレサとその思想・考え方は好きだが、いかんせん、一般には、社会の周辺にいる人々に奉仕した人という印象が強すぎる。ごく普通の人ではないのだ。

     逆に、元アイドルや芸能人など、一般に成功者と思われる社会の着目度の高い人々を取り込もう、と必死になっている教会は、T一○会をはじめとして、かなり怪しいところが多い。なお、統○教○はミーちゃんはーちゃんは、そもそもキリスト教ではない、と思っている。

     だいたい「繁栄の神学」にかなり批判的な意識をもっているミーちゃんはーちゃんとしては、何かといえば成功者を担ぎ出す教会や、信徒数の多い牧師を成功者のように紹介する教会、あなたも成功者に神の力でなれると主張する教会には、ちょっと距離を置くような視線を向けている。あくまで、教会は普通の人たちからなるものであり、普通の人たちのものであってほしい、と思っている。教会は人を社会的な評価が高い成功者にするための組織ではない、と思うのだ。社会的な成功者になりたければ、会社でバリバリ働くとか、自分でベンチャーとして起業して、社長になればよいのであって、成功者に人をすることを教会に求めることはおかしいと思うのは、ミーちゃんはーちゃんだけだろうか。失敗者だらけの旧約聖書を、繁栄の神学では、どう理解するのだろうか。素朴な疑問がある。経済的に成功した場面だけを旧約から取り出すのかもしれない。それでは、聖書全体を読んだことにならないだろう。

     確かに、教会にはまじめな人が多いので、そこそこ、社会で成功した、といわれる人たちも少なくないが、そればかりでは、偏っている、と思うのはミーちゃんはーちゃんのひがみあるいは歪かもしれない。

    V 我々は好き好んでマイノリティになりたくないのだ。


     ヨーロッパ社会、アメリカ社会において、キリスト教は社会的なマジョリティであったし、現代のアメリカにおいては、その当否は別として、政治家の言動や政治構造にまで影響を与えるほど、マジョリティなのである(個人的には、自己の政治的な理想状態の実現の方法として、キリスト者が政治を利用するのは、悪影響が少なくない、と思う)。

     しかし、IVとも関連するが、日本社会では、キリスト者は人数的には徹底的にマイノリティなのだ。日本社会では、戦国時代の一時期、それも、特定の地域ではマジョリティであった時代があったが、江戸時代以来、社会的、政治的マイノリティであったのである。確かに明治のご一新では制度的には、日本に高圧的に臨んできた欧米列強を黙らかすために、布教活動や表立っての圧迫はしなくなったというものの、マジョリティとはならなかった。その意味で、社会的なマイノリティであり続けた。

     ところで、明治のご一新のころ、薩長土肥の下級武士であれば、政府に就職の口があったが、幕府と仲良しだった佐幕側の藩の下級武士の場合、当時の社会のマジョリティとの人間ネットワークもなく、社会に影響を与えるとすれば、軍隊に入って特別の武功をあげるか、出自がとらわれない分野、あるいは社会の周辺におかれていた芸能や文化や学問分野での評価を受けるしかなかったのである。学問にしても、文化にしても、芸能分野にしても、社会に与える影響力は大きいとはいえ、基本は才能のある一握りのマイノリティの人しか活躍できない。

     ところで、キリスト教の初期の説教者のかなりの部分は、当時社会で肩身の狭かった佐幕側の藩の下級武士の出身者がかなり多く、そもそもマイノリティであったのである。

     そして、15年戦争期前後に宗教団体法が成立するなか、キリスト教が宗教団体という枠組みの中で、法的に、そして、半ば公的に位置付けられただけで、当時のキリスト教会は、欣喜雀躍、とまではいかなかっただろうが、少なからぬキリスト者の人々が、これでようやく日かげ者の立場から出られる、位に思ったのではないか、と思われるほど、マイノリティであったのだ。だからこそ、なんだかなぁ、とは感じながらも、国家総動員体制の波に乗っていく教会が少なくはなかった。

     米軍が日本に進駐し、マッカーサー元帥が伝道者を日本国中に進駐軍の力を使ってばらまいて初めて、進駐軍のご意向のもとマジョリティになれるか、と思いきや、マッカーサー元帥が更迭され、進駐軍の皆さんが次第に撤退して間もなく、日本のキリスト教ブームとやらはいずこかに消えてしまったのである。

     1960年以降は、皆さんご存じのとおりのコースをたどった。プロテスタント、カトリックを合わせても、どうやったところで人口の1%を超えることのできないマイノリティであったのである。

     他に、より大きな社会集団があるにもかかわらず、何もよりにもよって、家族の反対を押し切ったり、周囲が寄せる奇異の目にさらされるマイノリティの道に自ら足を突っ込む意味は、普通の現代日本に生きる若者にはあまりないのかもしれない。

    VI 我々は忙しいのである

     若者にとって、テレビやインターネット、映画やファッション雑誌、マンガやお化粧品やファッションが重要なのである。それは、キャ○キャ○やメン○ クラブ等の雑誌を見ればよくわかる。あの手の雑誌は、特定の若者層に買ってもらわないといけないので、特定の層の若者を対象に、徹底的にマーケティングリサーチしている、と思う。詳しくは、月刊記録のOL関連記事を分析したこちらを見れば、この種の雑誌の企画がどう動いていったのか、そのためにかなり丹念なマーケティングリサーチしているんだろうなぁ、ということを知ることができる。教会はキャ○キャ○やメン○ クラブなどを読む読者層の一部でもとりこむような努力をしたかどうか、ということは考えてみてもよいかもしれない。

     教会のアウトリーチも、情報によるしかないのである。前回の記事で指摘されていると同様に、現在は押し付け情報過多の時代なのである。情報過多の人々に無理やり情報を押し付けたとしても、選択的に処理されるのは仕方がないだろう、とは思う。

     ところで、現代を生きる若者には、にわかに信じがたいかもしれないが、昔は、印刷物は高価であった。読みたくても、読むものを買うお金がない時代があったのである。ただでくれるギデオンの聖書が飛ぶように消えた時代があったのである。ところが、今は、読みたいものは携帯の端末料金と通信費だけ負担すれば、ただでいっくらでも手に入れられる時代なのである。

     最近では、ギデオンの日英対訳聖書を中学校の前で無料で配れば、その日の中学校のゴミ箱はギデオンの対訳聖書であふれかえる時代なのだ。今の中学生諸君は、配布している皆さんへの親切心から受け取ってあげている、らしいのだが、受け取った上で必要がないとすれば、彼らはいとも簡単に捨ててしまうのだ。このことは、実際に我が子の学校で起きたことである。ちなみに我が子は、聖書と聖書関係の書物があふれているので、置き場に困ると思ったのか、もらわなかったそうである。

     若者にとって、情報を選択的に入手できる時代であり、若者がそのことを実際にしている時代になっていることを教会は十分認識していないかもしれない。

    -------------------------------------------------------------

     ここまで冗談半分、冷やかし半分に書いてみて、先日参加した某地方自治体での会議を思い出した。それは、某地方自治体の政策について。市民の人々の意見をどう拾っていけばいいのか、ということに関する会議であったが(踊る大捜査線の青島刑事からは、「事件は会議室で起きているのではない!」と叱られそうだが)、その会議の中で、一番議論になったのは、「これからのその自治体で活動するだろう若者にどう自治体にアプローチしてもらうか」という部分であった。お年寄りで、市役所にものを言いたい人たちは勝手に言ってくれるのである程度放置しておいても、先方から言ってくれるのでいいらしいのであるが、若い人はそもそも市役所の存在などをあまり意識してくれないので、どうすれば自分たちに振り向いてもらえるのか、ということを少し集中的に他の会議の参加者と少し議論した。

     つまり、自治体も教会同様、忙しく、関心が分断化され分衆化してしまった若者たちにどう自分たちに振り向いてもらうのか、頭を悩ませているのだ。

     企業でもそうである。関心が多様化した若者に話題にしてもらいたくて、ちょっと気色悪く描いたハイジやクララに「低燃ピッピッピー」と叫ばせたり、ジャン・レノにドラえもんの格好をさせたりして、どこでもドアと同じ機能を自動車が果たすことを印象付けながら、自動車を売らないといけなくなっているのだ。このあたりのCMを見ていると、日産やトヨタの必死さが伝わるような気がする。

     昔は、若者も金がなく、時間や暇だけは大量にあったので、ブランド力のある人(たとえば、元野球選手や評論家)を講演会やイベントに呼んでくれば、そこそこ人は集まったのだ。今では、アイドルでも呼んでこない限り、動員は難しい。たとえ、アイドルを呼んで、そのアイドルを人寄せパンダにしたとしても、そのアイドルのファンという特定のグループのみが参加することになりかねず、広く一般に知らしめたことにならない、という問題を抱えることになる。

     スポーツだって、そうである。野球を見る人はサッカーをあまり見ないだろうし、サッカーを見る人は、ほぼ野球は見ないだろう。この前、朝の番組を見ていたら、関西では比較的人気がある川籐という元野球選手が、「野球界が長期低迷している」という現状認識に立って巨人阪神の元選手による野球のイベントを宣伝していたが、野球が長期低迷しているという、その指摘は、おそらく正しい。スポーツ観戦や娯楽というマーケットが細分化されてしまった以上、長期低迷せざるを得ないのである。現在では、野球放送があるからといって、銭湯がガラガラになる時代ではないのである。そもそも銭湯が少なくなっているが。(名古屋はよく知らないけれども。中日ドラゴンズの試合があるとき、中日ファンは、神聖なるドラゴンズの試合中は、お風呂には入らないのだろうか。)おそらく、全国民が野球中継にかじりつく、あるいは天覧試合(おぉぉ。なんという時代錯誤的な言葉であろうか。若い人のために書いておくと、天皇陛下が臨席される野球の試合や相撲の興行などである。テロリストが跳梁跋扈する現在では、警備上の理由から、これは最近やりにくいのかもね)が行われて、野球の試合に人が集まる、という時代はもう二度と来ないだろう。どう頑張っても。

     ご当地ゆるキャラ(有名どころは、彦根市のひこにゃんとか熊本県のくまもん)の場合にしても、ヤングアダルト対象でも、来場者は、子供を抱えるグループと、一部のフリークのグループに限られるだろう。

     映画でもそうである。洋画といえば、ハンフリー・ボガートや、チャールトン・ヘストン、ハンフリー・ボガートといったみんなが知っていた俳優は人気を集めた。彼らのブロマイドは大変売れた。しかし、現在では洋画の俳優だってファン層が細分化されているように思う。日本映画でも、昔は高倉健主演の東映任侠もの、菅原文太主演の東映トラック野郎ものといえば、おおむね画像が目に浮かんだものであるが、今ではそうでもなさそうである。上映される映画が多く、さらにシネコンの普及で、映画の観客という市場が細分化されてしまっているのである。

     では、お笑い芸人やタレントの場合どうだろうか。お笑い芸人やタレントであれば、ある程度、広い層を相手にできるというものの、しかし、現代ではお笑い自体がセグメント化(ファンの細分化)が進んでいるので、かなり広い範囲というわけにはいかない。松鶴家 千とせ、中高年の星 綾小路きみまろ、アグネス・チャンや森昌子は、50-60歳代の人は呼べても、若者にとって、「だれ、それ?」となりかねないのである。

     企業は、対象とする消費者、特に購買力の強い若者に買ってもらえなければ困るので、ずいぶん前から若者へのアプローチに膨大な金とエネルギーと資源を使いながら、頭をひねっているとおもうのだなぁ。これが。

     なんでも、企業をまねをすべきだ、とは単純に思はないが、教会も、自治体同様、遅ればせながらも、セグメント化された社会に生きる人々に広く自分の伝えたい内容をどう伝えるのか、とくに、キリスト教的終末論を十分知らないにもかかわらず、人生や社会に対して終わった感にあふれる若者に、どう自分たちが伝えたいことを伝えるのか、に関して、もう少し頭をひねったほうがよいのかもしれない、とこの記事を書きながら、思ってしまった。


     次回は、なぜ、日本の若者は、キリスト教会からいなくなるのか、という視点から書いてみたい。

    コメント
    いやー、大変力作。読ませますねー。
    本当今の教会は「考えなくっちゃ」時代にいるのに「引きこもり」のような感じです。
    現状を分析し対策を立てるにははなはだ遠い感じです。(我が身を省みながらの感想です。)
    次回の記事も期待しています。
    • 小嶋崇
    • 2012.09.29 Saturday 16:45
    小嶋先生

    コメントありがとうございます。そうなんですよね。

     考えなくっちゃなんだけれども、従来の方法論や伝統が邪魔をして、従来の枠組みの中にエントラップメントというか、自らインプリズメントしている感じを私自身持っております。残念ですが。学校という枠から出たことがあまりない社会的入院患者でもある私がいうのも変な話ですが。

     まず、自分たちの持っているコンセプトというか何よりの資源である聖書と信仰ということを素朴に見直し、そのうえで世間の人と無駄話する中で、ヒントを見つけていくこと、そしてヒントを訥々とでいいので、伝えていくしかないのかなぁ、と思っています。

     私の場合、幸いにして、卒業生と雑談したり学生さんと雑談したりする時間がある程度あるので、そこからヒントを得ていることが多いのですが。

     次回はもっと深刻な問題を教会の皆さん方に突きつけることになりそうですが、個人的には大事な話かなぁ、と思ってはおります。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2012.09.29 Saturday 19:58
    管理者の承認待ちコメントです。
    • -
    • 2012.10.01 Monday 06:08
    ひかる様、コメントでのビデオ画像のご紹介、ありがとうございました。

    最初のほうは、結構アメリカでは、Law and OrderやCriminal Mindなどでも取り上げられるテーマですね。宗教のルールと社会のルールとの対立、ということですね。ユダヤ教も、北米では、そのような問題を生むことがあるようです。

    2番目のほうは、まぁ、いい方の問題だけかなぁ、と思いました。必ずしも、現在語られているクリスマス物語が問題があるよね、というメインの主張にそんな違和感は感じませんでしたけど。あのビデオのような理解もあるかなぁ、と思いました。私は、もともと国教会の分離派に属しているんで、以下で紹介する元ダラム司教で、今はSt Andrews大学の先生をしているNTライトさんのほうが、新約歴史学の分野では、親和性が高うございます。

    http://vimeo.com/36490748

    一番笑えるのは、このビデオの7分10秒ぐらいから、ヨハネ3章16節って何を言っているのか、と聞かれたときのライト司教(当時)の答え方でした。ビデオの大半は非常に重要なご指摘をしておられると思います。

    イエスが生まれた時期の歴史的背景に関しては、

    http://vimeo.com/32210791

    の映画パーフェクトストームのメタファーに乗せた歴史の描写がものすごくおもしろく思いました。

    お暇なときにどうぞ。ぜひ。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2012.10.01 Monday 18:43
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