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2012.04.28 Saturday

自称『牧師』と自称『教会』について

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     水谷先生のブログで、ここのところ、自称『牧師』の問題が取り上げられているが、よく考えてみれば、自称『牧師』や自称『教会』もあるのでは、と思った。

     司馬遼太郎さんという方の本に空海の伝記小説でもあり、空海を生んだ風景を描いた風土記ともいうべき「空海の風景」という小説があるが、基本小説なので、史実ではない、と怒られてしまいそうだが、奈良朝末期というか空海が生まれたころには、結構私度僧というのがいたらしい。ようするに、現代で言う脱税目的の宗教法人の利用、みたいなものかなぁ、とも思う。

     基本、宗教者は課税措置から免れている特例を受けていることが多いのだが、奈良時代末期には、国家課税から逃れるために私度僧になった事例が、空海の風景に紹介されていたような記憶があったように思う。さてさて、そういう意味では、荘園制度も、国家からの徴税を逃れるために、寺社に寄付したというような説明を高校の頃(30年近く前)に高校の日本史の先生から聞いた記憶がある。ちなみに、昔は、工学部を目指していたので、日本史は、まともに聞いていなかったし、日本史は、中世にはいるところ(つまり平安朝まで)で知識が断絶している。

     こう考えてみると、もともと、仏教にしても、単にブッダについて行った人たちが勝手に始めた社会集団から生まれた新興宗教だった時代があるし、キリスト教だって、イエスにくっついて行った弟子たちが12使徒とか呼ばれ、えらいさんにさせられて始まって行った新興宗教だった時代がある。パウロだって、ギリシア社会にあるシナゴーグに入り込み、そこの信徒を横取りするようなことをしている。すっかり、そんなことをしたことは忘れられたパウロが語られていることが多いが。事実としては、そんなところだろう。

     何が言いたいか、というと、クリスチャンということや、キリスト者ということは、基本人間の目から見れば、自称でしかない。また、教会も、自称でしかない。自称でいくらでも教会ができる。だからこそ、正統論争がおこなわれたし、その過程で教理が作られてきたし、信条が作られてきて、一応、これで納得できるかどうかが一種の判断基準となってきた。つまり、信条にせよ、教理にせよ、自分たちの共通の土台とは何か、を定める作業であり、相互参照可能かどうかの判断基準だったのだろう。

     今、読書会で読んでいる本では、この信条が問題になっている部分を読んでいる。そもそも、共通部分であるかどうかの一種の判断基準というか共通の土台とは何かを考えた結果が、時間の経緯とともにそれ以外の役割というか価値をもってきた(具体的には、信仰の本質や自分たち自身のナザレのイエスがその時代に対して持っていたそもそもの意味や、意義、その社会の人々にもたれていたイメージとは違いものとなってしまった)問題を取り上げ、この信条が優先するがあまり、福音書自体が参照されなかった問題を取り上げている。

     余談に行ってしまったので、本論にもどしたいと思う。そもそも、キリスト者にしても、教会にしても、社会の前においては、所詮自称なのである。まぁ、宗教法人格であれ、他の法人格であれ、法人格をとった瞬間に公的な認証を受けるが、それは、正統なものであることにはならないのであるが、存在していることは公的な認証(存在することの証明 あるいは 確認)を受けたことになる。それを悪用したのが、昔のオウム真理教であったように思う。革命を起こそうとする組織が、革命を起こす対象から認証を受けるのは、どっかおかしいけど。

     またもや、ずれ始めたので、本論にもどすが、そもそも、包括組織(業界用語で、教団といいます)がある教会群にしても、単立の教会にしても、現代の社会では、しょせん自称でしかないのではないか、と思う。それよりも問題なのは、その自称教会が、神との関係、聖書の主張とどのような関係にあるか、である。

     残念ながら、はじめてキリスト教に触れる人、特に、キリスト教の背景のない日本の社会のような社会で過ごした人で始めてキリスト教に触れる人にとっては、神との関係、聖書の主張との関係がどのようなものについて、どのようであれば『標準的』であるのかがわからないところが問題なのだと思う。このような『標準的』な理解がない社会で育った人にとっては、最初に出会った教会とか教会の包括組織(教団)の主張が『標準的』と刷り込まれやすい。まるで親鳥とひな鳥の関係であるが。その主張が大幅に『標準的』なものからかい離しているものである、としても。

     実は、キリスト教会やキリスト教徒は、多様であるにもかかわらず、「キリスト教」や「カトリック」や「プロテスタント」というラベルを張って、それを張り出す教会も、それを見る一般の方がもそうであるが、それを見て安心しているところに一番問題があるのかもしれない。

     あと、セカンドオピニオンを聞くための場所と機会が限られることもあるかな。

     となってくると、基本教会や牧師は、根源的には、「自称」である、ということを理解したうえで、ご本人がその集団が主張することは、どこかおかしくないか、ということを考えながら、付き合っていくしかないのだろう、と思う。

     基本、キリスト者もそうだし、牧師もそうだし、教会もそうだし、時代という特定の歴史的なコンテキストの中で生きないといけないので、限界がある存在なのだと思う。だからこそ、信仰者は常にその生き方を、教会や牧師にお任せで、タクシーの乗客のようになるのではなく、聖書の主張を自分自身に照らし合わせて考えていく必要があるんじゃないかなぁ。

     そんなのめんどくさい、って。そりゃそうですが…。でも、あなたの人生のハンドルを握っているのは、あなたでもあるということをお忘れなく…。
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