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2012.04.21 Saturday

教会用語の共通理解の程度について

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     教会で多用される用語で聖書理解や対話の根幹にかかわる語が、いくつかあるけれども、それの信者間での共通理解がされているかどうか、怪しい用語がいくつかある(というよりはいくつもある)。

     代表的には「信仰」・「罪」・「赦し」・「愛」・「希望」・「喜び」・「試練」・「試み」・・・・・ときりがない。

     ミーちゃんはーちゃんが所属している団体は、キリスト教ゲリラ部隊とも言うべき存在なので、正規のキリスト教に関する理解の体系に関する教育だの訓練を受けたことのない人々が恐れ多くも講壇から語ることが多い(その講壇の位置は、信者席と同じであり、プラットフォームが置かていないとはいえ)ので、聖書から「うーん、どうなんでしょうねぇ」、と思われる理解が話されることや、「あれ、どうなんだろう」と思われる理解に基づいて、聖書を読み込んでいった結果の話が語られ、「ん?あれれ」という印象を抱くことが非常に発生しやすいように思うのは、私の信仰と聖書理解が圧倒的に不足しているせいなのでしょう。

     なお、水谷さんという方のブログの最近の記事(某国ミサイル問題と共通項としての牧師説教問題)を拝見する限りこの種の問題は、正規の聖書に関する教育機関で教育を受けた牧師、伝道者、伝道師、教益者、教職、教職者の方々でも同じ場合が皆無ではないようであるが、ミーちゃんはーちゃんが所属している、あるいは他者から「この団体だよね〜」と分類されるキリスト者集団では、この問題が予想以上に深刻かもしれない、と反省している。自分自身を含めての話だが。

     高校生や、大学生が「あー、どうなんかなぁー」という内容を語っているのであれば、害は軽い。ほほえましくさえある。相手の能力に限界があるのはなんとなくわかる。ある程度年齢もいった社会的に信用されそうな人たちが、あるいは、教会の中で信望を集めそうな方々や、集めているかもしれない方々が理解の可能性であるという前提条件をつけずに「これが聖書の主張です」といった雰囲気でお話しになられるのは、非常に「難儀なことよのぉ〜」や「おじゃほ〜」と、坂ノ上おじゃる丸君のように思ってしまうのである。

     わがキリスト者集団では、「聖書から語る」ことになっているので、聖書から語る逸脱ということはないかもしれないけれども、「聖書のテキストについて誤った解釈をして誤った内容を語る」ことや、人々を聖書に関心を持ってもらうようにするために、という理由はあるのだろうけれども、非常に聖書本文と薄い関係の対象と「聖書の表面的文言を半ば強制的に結び付けて」語ることは、犯罪を構成するということは言わないまでも、非常に悲惨な結末を生み出すように思うし、まぁ、ある程度聞く気のある人たちの関心を失せさせてしまうのではないか?と思う。

     結構、自分自身を振り返ってみてもそうだが、普段教会で使う用語に振り回され、その振り回された理解で聖書を読み込んだり、聖書の表面的な文言にとらわれていることが多い。

     聖書の表面のその奥を考えながら読むこと、そして、そのことばの周辺背景に目を配りながら読むことの必要性、その具体的な事例の積み重ねをしたプロセスを含め考えていくこと、そのための具体的な理解の積み重ねの必要を強く感じておりますです。はい。
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