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2012.02.08 Wednesday

今月読んだ本

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     今月読んだ本は、いくつかあるが、特筆すべき本として、ダラス・ウィラードの「心の刷新を求めて」という本がある。これは、このブログへのコメントをよせてくださるはちこさんが翻訳された本で、推薦された本でもある。最初出たころに注文して入手していたのだが、ある方に差し上げてしまい、その後何を考えたか1冊つづ別々に注文して、積ん読になっていた本の一つである。3冊も買って、うち2冊も我が家にある。ネット注文の怖さであるが、あまり発注管理しないので、時々、こういうことが起きる。まぁ、いいか。

     この本、霊性に関する整体のような本である。歪んだところを強制的にマッサージされることで、硬くなった霊性の筋肉をほぐすというのか、緩めるというのか、まともな機能を回復させるような本である。ヘンリー・ナウエンやトゥルニエ、晴佐久神父の本が体の基礎体温を上げて、機能をじんわりと回復させる温泉というのか湯治というのかスパのような感じであるが、ウィラードの本は整体というのか、スポーツジムで、筋肉を鍛えるような感じがする。

     特に、この本の後半がよかった。特に、キリスト者のリーダーのひずみの問題を取り扱った部分「正しくて意地悪なキリスト者」のセクションで、彼はこう書いている。(P431)

     この問い(「なぜ、キリスト者はそんなに意地悪なのか」という問い)には、実は答えがあります。私たちがこの答えに向き合い、うまく対応しなければ、サタンは地域教会での霊的形成を、自らの足の下に置き続けるでしょう。正しくあること(お気に入りの「器」、つまり自分が慣れ親しんだ「伝統」)はキリストに似たものとなるよりも重要であると、キリスト者は行動とことばを通して日々教え込まれています。実際、正しくあるためなら、意地悪な言動も容認され、場合によっては当然とさえみなされるようです。もちろん、正当な意地悪だと本人たちは思っているのです。間違っている人々には厳しくすべきで、相手がリーダーの地位にあればなおさら、きつく当たってしかるべきだというのでしょう。これについては、私は別の著作で、「断罪の工学」として言及しています。 

     うーん、自分自身、「断罪の工学」に汚染されている部分はあるよなぁ、と思う。 断罪の工学の背景には、「自らYHWHと重ねる心理学」「自らYHWHとする聖書理解の方法論」があるのだと思う。これがこれまで多くの聖書理解の混乱と、教会内の対立と、キリスト教会内諸派の乱立を生んできたと思う。そして、自派が正しく、他派が間違いとする(ならいいが、汚れたものと教えてきた)聖書によらない、あるいは聖書の誤用による他者批判の体系があった場合もあったことも少なくないものと思う。

     正しくあること、すなわち、お気に入りの「器」、つまり自分が慣れ親しんだ「伝統」という指摘は大事だと思う。

     伝統となってしまった段階で、妙な「正統性」が出てしまうことで本来見なければならない価値あるものの座を、それほど価値のないものが価値あるものの座を占めてしまう問題だと思う。そして、伝統になったり、正当性が出てくることで、そのことに疑問を抱くことが無くなっており、その器に会わないだけで、正しくないと思うことにもなりかねない。

     信仰から派生した、形式論に関する「器」の継承にかんしては、大和郷の教会のブログ「信仰の継承」の記事でも触れられている。

    しかし宗教団体の中に生きている者達には単に「自分たちの教団の価値観、組織の行動様式」が伝承されて行く事だけが問題なのではなく、そもそも自分たちが 伝承された「信仰」を批判的に捉えた上での「信仰の継承」でなければそれは単なる伝統主義に過ぎなくなってしまい、次世代の「信仰の継承」も単なる宗教的サブカルチャーの通過儀礼に過ぎなくなってしまうのではないか、との問題意識を筆者は感じている。
     まさしく、「教団の価値観、組織の行動様式」は、それぞれの教団の信仰内容から派生されたものであるかもしれないけれども、その信仰対象である本来の価値の根源(たとえば、神とか仏とか、教祖とか)の価値を超えて、「教団の価値観、組織の行動様式」がその根源を超えた過剰な価値をもたされてしまうのであり、「信仰」を批判的に捉えた上での「信仰の継承」ができていないかもしれないという問題について触れておられる。

     問題は、「信仰」という内容そのものとそれに付随して生じた考え方を批判的にとらえる、というのは、非常に難しいし、どうも、それができる人は非常に少ない、ということがあるようである。そもそも、「信仰」である以上、そのことを受け入れている以上、批判的であるのが難しい。そもそも、「信仰」に疑念を抱くことは、「信仰」に対して、牙をむけることにもなりかねないと思う。しかし、それを超えて存在するのも、「信仰」なのだと思う。「信仰」はどこかで「理性」と対立とは言わないまでも、併立するものでもあるように思う。このあたりが、科学と信仰との間を対立的にとらえるのか、併存的にとらえるのか、のあたりの違いになると思うし、概して、科学的理解のない方は、信仰と科学を必要以上にどちらかが正で、どちらかが誤っていると、対立的にとらえがちだと思う。とはいえ、科学の側でも、信仰の立場を無意味として認めない方もいないわけではないので、なんともいえないか。

     自己を批判的にとらえる、というのは、アゴラというサイトのちきりんさんという方の記事で取り上げられていた「今、必要な「壊す人」と「考える人」の組み合わせ」という記事にあった「考える人」というのか、「創り出す人」なのである。壊すことは、勇気と根性がいる。しかし、創り出すのは、既存のマインドセット(考え方)を放棄したり、壊したりする勇気と根性がいると同時に、考えるという結構疲れ、さらにその考えた結果を批判したり、壊す人たちへの対策も同時に考える必要があり、結構面倒な作業が待っているのである。また、それに耐える根性がいる。なかなか、このような作業に取り組める人、というのは限られる。そうなると、人はめんどくさいので、どうしても、前例踏襲主義となってしまい、器の一層の強化に向かってしまい、器自体のおかしさにたいして、疑問を持たれることが無くなってしまうように思う。となると、いかに「器」を見直すか、という作業が大事になると思うのである。

    先ほど紹介した、大和郷の教会のブログ「信仰の継承」の記事の中に、

    「なるほど『信仰の継承』とは新興宗教団体の課題なのだ」と言うこと

    が記載されていたが、考えてみれば、当たり前かもしれない。新興宗教であればある程、「信仰の継承」というよりは、「信仰にまつわる生活様式及び行動様式あるいは価値観」というかが安定的でないため、それを安定化するため、あるいは、「器」として強化し、伝統化し、確立していく力学が働くため、新興宗教団体としての重要な課題になるのだろうと思う。だからこそ、信仰が身についていないため、あるいは社会全体の文化にしみ込んだ普遍的存在となっていないために、継承が求められるのであろう。とはいえ、いわゆる伝統宗教と呼ばれる宗教集団(仏教でも、キリスト教)でも、常に批判とそれに基づく信仰の再検証、信仰の見直しが起きていることを考えると、批判というものは、必ず必要だし、常に起き続けるのであり、それに用いられるメディアが違い、その見直しの検証の速度と影響を与える範囲の規模が違ってきているだけではないか、と思う。

    あー、ウィラードの本とそのほかの本を紹介する予定だったのに。 これは、また次回にしよう。



     
    評価:
    ダラス・ウィラード
    あめんどう
    ¥ 2,520
    (2010-03-30)
    コメント:キリスト者にとって、熱心になりすぎたり、逆に熱心さを失ったり、特定のことに異様な関心を示したり、と、ときどき霊的なひずみがどこか出てくる場合があるのであるが、この霊性の問題に関して意識啓発をしてくれる本。信仰歴がある程度ある信仰者に推薦したい。

    コメント
    この様なコメントを残すから、この人は一体何が言いたいのかが判らなくなるんですが・・・

    >自派が正しく、他派が間違いとする

     十事の非法しかり、古儀真言宗に対する新義真言宗、高野山派に対する大谷派、一寸毛色が変りますけど表千家と裏千家。当然プロテスタントも同類なんですが・・・
     一部に理のある反対意見というか、見解を出して批判(区別)し始めると、どうでも良い(無意味)ことや敢えて変ったことをしたがるのが人の常みたいで・・・・
     マア教派を維持するといいますか、俗界を完全に離れて人は生きていけない場合があるといいますか、教会にも政治は必要といいますか・・・
     その中に驕り昂ぶりが生ずるのが人の常といいますか・・・些末で重箱の隅をつつくようなことを始めてしまうようです。よ〜〜〜くご意見を聞いて見直すと、おい、ちょっと待って下さいな、そりゃ、ただの我が儘でしょ、ってなことを紛れ込ましたりするんです。

     確かに、聖職者も、牧師さんだって、当然信者さんも含めて所詮人間なんです。下手に宗論など学ぶとね。無知ほど強くて傲慢なことはないんです。だって怖い物などないんですから。


    >科学と信仰との間を対立的

     此も基本的なところで問題があると思います。
     有名どころでは、進化論の話し。日本では平気で学校で教えていますけど(其れも科学と称して大嘘を平気で教えています)あんな物を科学と称するから日本人は科学的な思考が出来なくなるんです。アレは単なる学説。白人優越主義を弁解するために考え出された詭弁でしかないことを理解していないから平気で教えられるんです。
     この世界は10分前に神が今あるが如く作ったと言っても同じ事なんです。誰にも証明不可能。そんな物科学とは言えないんです。思考実験としては面白い話題なんですが・・・
    • ひかる
    • 2012.02.10 Friday 03:17
    ひかるさま コメントありがとうございます。

    >一部に理のある反対意見というか、見解を出して批判
    >(区別)し始めると、どうでも良い(無意味)ことや
    >敢えて変ったことをしたがるのが人の常みたいで・・・・

    いえてますねぇ〜。どうにも他人と違わないといけないという思い込みがあるというのか。それで、他人よりちょっぴり偉くなった気持ちになりたいのか。いい加減にしてくれ、と思います。本当にかないません。

    うちの教派は、終末論と聖書に対する立ち位置の取り方で、その考えに納得しない人たちを悪魔の手先のようにいう、という精神構造をもっているのでねぇ。やめてくれ、と言いたくなりますが、聞いてもらえないんでねぇ。そういう立場の方が、「私が教えてあげます」とか言いながら、偉そうに話すのを聞いて、またそれに心酔される信者さんもおられるのでねぇ、絶望的になりながらも、ほんとにそれでいいんですか、と言い続けていますが…。

    >よ〜〜〜くご意見を聞いて見直すと、おい、ちょっと待
    >って下さいな、そりゃ、ただの我が儘でしょ、ってなこ
    >とを紛れ込ましたりするんです。

    わがままなら、まだ「かわいいねぇ」といって済むところがありますが、確信犯で自分が正しいと思い込んでいる人は「かわいくない」ですから。批判すると、大声でご主張を述べ、恫喝する方もおられますし。


    >無知ほど強くて傲慢なことはないんです。だって怖い
    >物などないんですから。

    いえてますねぇ〜。うちのキリスト者集団には、無知であることを売り物にする人が、いるんですよ。ペテロが無知だったから、我々も無知でいいんだ、無知だからこそいいんだ、って言って自信持って講壇に立つ人もいるのでねぇ。私の知り合い、呼べないです。

    そうそう、ご指摘の通り、そもそも、創造論は、科学でないと思います。あれを科学と主張するのが、なんだかなぁ、と思います。大体、検証可能性、間主観的認識可能性がありませんから。大学時代に、生物学出身の同じ研究室の先輩が「創造論は、信仰だかんねぇ、あれ、あんた、そういえばキリスト組?あーいうんじゃなかった」と言われた時に、「言われてみれば、そうだよなぁ。」と思ってます。なので、目の色変えて、創造論を攻撃する人見てるとねぇ。そんな、血圧あげて、攻撃せんだって、と思うんですがねぇ。日本のキリスト組に、科学の基本的なコンセプトをわからずに批判される方が多いんでねぇ。

    コメント、ありがとうございました。また、お越しくださいませ。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2012.02.10 Friday 23:03
    調子に乗って筆が滑ります。

     私の知人の電気屋さん曰く「波動方程式も理解できなくて、電気の話しなどスルンジャネェ」
     アンタ!! σ゜ロ゜)σそこまでいうの!!!
     うちの愚息など、学校でみっちり基礎をたたき込まれましたので、一日話しても尽きないぐらいの知識はありますけど・・・それでも相当アヤフヤといいますか、今ひとつといいますか、マア日本の電気屋さんの99%は仕事が出来なくなります。

     天動説、地動説も同様で(流石に地球が平面だというには無理がありますが)天動説が科学的には正しくないことが証明されているのに(将来は判りませんが)便宜的に科学的な考え方(科学でなく科学的なという部分が味噌で、この点を正しく教えないところが日本科学教育の大きな欠点です)で数式を簡素化していることを、敢えて触れないようにしているわけです。

     一工学者の立場とすれば、この様なフレームの設け方は大賛成なのですが、フレーム(適用範囲)があることを教えておかないとすぐとんでもない部分に話が飛んで、正解不正解の話しになってしまうのがこの國に科学が根付かない要因と考えています。工学は基本的な部分で100%の正解とか不正解は求めていられないといいますか、実用上問題が発生しないといいますか、別の言葉で言えばレアケースは論議の対象にしないところがあることが(無言の)前提なはずなんです。

     幾何の話しにしても、ユークリッド一辺倒。実際我々の住んでいるコの地球では楕円幾何の方が有意義なのにです。確かに小学校の算数当たりでは、ユークリッドで教えたほうが楽でしょうが・・・今時GPSですら精度を出すために相対論を利用している時代なのにと思うのです。大体二点間を結ぶ最短距離が直線だナンテ、ただの想像の産物でしかないと考えることが出来ないみたいなんです。
     尤も今の最先端理論では十次元というのが粗定説になっているんですが、流石にそこまでいわれると四次元で躓いたいた私としては(〃⌒∇⌒)ゞヘヘッ♪と笑っているしかないんですがね。
    • ひかる
    • 2012.02.11 Saturday 02:40
     ひかるさま またまた、速攻のコメントありがとうございます。はやっ。

    >便宜的に科学的な考え方(科学でなく科学的なとい
    >う部分が味噌で、この点を正しく教えないところが
    >日本科学教育の大きな欠点です)で数式を簡素化し
    >ていること

     確かに、これ、ご指摘の通りですよねぇ。大枠で大前提置いているのに、その大前提は問題解くうえでは無視してイケイケドンドンやっているんですけど。その意味では、純粋の科学ではない。誤差項を全く無視した世界ですね。

    >フレーム(適用範囲)があることを教えておかない
    >とすぐとんでもない部分に話が飛んで、正解不正解
    >の話しになってしまうのがこの國に科学が根付かな
    >い要因

     日の昇るところの国の方の傾向だけでもないようにも思うのですがねぇ。正解・不正解の2項対立の世界でしかとらえないのは、ラピュタ人的な空想の世界に住む人の傾向かもしれませんねぇ。

     ひかる様がご指摘になられたように、工学は、実用上不都合がなければ、結果オーライで、とにかく現実と渡り合いをつけて行かないと仕方のない部分があるので、そこそこ不具合がなく動けば結果オーライですしね。だから、粗悪なコードを書くプログラマも生きていけるわけで。

     まぁ、わたくしのお仕事の範囲は、地図作りとも関係するのですが、この業界、実用上回転楕円体がどうのとかジオイドがどうのは、昔の測定技術では面倒なので、平面直交座標系というユークリッド空間を想定した地図作製法が一応許容範囲として生きているのですが、地図作りの経験やその実態をあまりご存じない方とお話(ご説明)していると、距離は、ユークリッド距離のはずだ、と思い込んでおられて、地図が重ならない、地図が重ならない、地図がずれるから何とかしてくれならまだしも、お前のが間違っているから何とかしろ、とか言われて、解説と説得が面倒なので、その方のお使いの別の地図に合わせて、図形をずらす、という手法を使ったことも…。ま、お客様が苦情を言われなければ、いいというのもありますし。面倒ですしね。

     海図としてのメルカトル図法が便利だったこともあり、本来想定していない方々にも使われるようになって、あらぬところでも普及したんで、地図はユークリッド距離がすべてと思っている方が多くて困ります。

     回転楕円体での最短距離が直線とならない説明をする際、えーい、面倒だ、というので地球儀わざわざ持参して、その上にひも張らせてほら、ユークリッド的な直線にならないでしょ、と見せないとわかってもらえないんでねぇ。

     あと、行政(市町村)の人達と話すとき、絶望するのは、彼らが普段使っている地図を基準に、彼らが使っている地図の縦長の方が南北だと思う感覚なんですよ。地図屋が地図を作る際に余白を少なくするために、わざとその行政界の最長を出す部分を縦長にし、方位をずらすんです。だけど、どこかで地図が縦方向が南北だ、って教え込まれているからか、この縦長が南北だと漠然と思っていて、ミーちゃんはーちゃんが計算機で地図を出力して、かなり精度のある南北の地図をだすと、ミーちゃんはーちゃんの地図の南北はおかしい、なんでこんな偏ったのを出すんだ、って言われて、仕方がない、彼らの感覚に合う方位をずらした地図を作ることもよくあります。地図屋の文化には、意図的にずらして表現するのことも含まれますので。

     地図作りは、このあたりの面白い話題が満載でね。Mark Monmonier というオジサンが面白い本を出しています。日本語訳もあったような。

     今回も筆が滑って余談に行きましたが、コメント、ありがとうございました。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2012.02.11 Saturday 08:49
    お銚子ついでに・・・

    >平面直交座標系というユークリッド空間を想定した地図作製法が一応許容範囲

     平板測量などはそうでしょうが・・・アレは微分の世界の話しだと思うのですが・・・確か多面体から横メルカトルに移行したのは随分前ではないかと・・・


    >地図が縦方向が南北

     此は北半球では、太陽を背にして便利だとか、磁石の指す方角を上にしたとか・・・。ただ案内図などでは方向を合わせていただいたほうが、逆に置かれると一瞬戸惑う場合も多くて。


    閑話休題

     実は最近公私共々急激な変化がありまして、それに伴うのでしょうか、あるブログを読んでhttp://www.jhc.or.jp/kensyou.html
    此処を再度読み直したときに、自身にとっても大変重要な事項を読み落としていることに気づきました。
     人はヤハリ自分の興味のある部分しか気がつかないというか、目の前にあっても見えないというのか・・・
     此処に続けるより、次回に付けたほうがないように相応しとは思いますが、ご勘弁の程。
     認識のバイアスというべきなんでしょうが、如何に人は自分に都合良く解釈するかしみじみと思わされました。

     又今回のお話しで気がついたのですが、共通言語というべき部分がある程度重なっていないと会話は成立しない物だなと改めて思いました。お話ししている内容は全く別の世界なんですが、そこで使われている言葉がおそらく三分の一ぐらい共通している、いわゆるしゃば世界の言語というか、概念というか、専門用語というか。。。その為に知的な遊戯も、真摯な非共通部分の共感も出来るのかなと思います。

     今後も宜しくお相手をお願いいたします。

     以後2012.02.11 Saturdayへ続けます。
    • ひかる
    • 2012.02.12 Sunday 05:12
    ひかるさま コメント、ありがとうございました。

    あ、平板測量、ご指摘の通り、微分の話ですが、日本を19分割しておりまして、原則、一つの県内を作るくらいなら、OKということにしてあります。数学的返還で何とかなる程度の誤差範囲でもございますので。あくまで、自治体さんが地図作る、といった範囲での出来事ですけれども。最近は、測定機器の高度化(レーザー測定機)が進んだり、GPS関係の危機精度が向上したり、準天頂衛星も、打ち上げが続く(あとのやつも早く上げないと、無駄になっちゃうんですが)はずなん(一個だけあげて使えると思っている理解のない政治家の方もおられるようなのですが・・・)で、データ取得は格段に楽になりました。

    地図の方向に関しても、おっしゃる通りなんです。方向が共通化されてないんで、上や下と地図を基準にした言い方されても、コンピュータ画面と合わないので、電話でやり取りする時、困るんですよね。航空関係者のように、現在地点から、318度、距離3000mとか言われても、困りますが。

    >如何に人は自分に都合良く解釈するかしみじみと
    >思わされました。

    ご指摘の通りです。聖書でもそれ、やるんでねぇ。歪んだメガネに合わせて、聖書を読む。難しい課題ですが、それに対する冒険をした方がいいかなぁ、と思います。

    > 真摯な非共通部分の共感

    これ、大きいんです。ひかるさまの斜に構えたご表現(違ってたら、ごめんなさい)の後ろにある真摯な部分があることを確信できることも、このブログを続けてよかったなぁ、と思うことの一つです。

    今回も、うれしいコメント、ありがとうございました。今後とも、お相手よろしくお願いします。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2012.02.12 Sunday 06:45
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