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2012.02.04 Saturday

教会という建物について考えた

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     教会という建物について、この前、教会とその敷地の開放性というのか、オープンネス、そして霊的な、精神的な開放性と社会に対する開放性というものについて考えたが、今回は建物自体について、考えてみたい。

     教会堂を建てるときとかであれば別だけれども、普段は、あまり意識しないかもしれないし、内部そこで過ごしていると、外側はあまり気にならないものかもしれない。昔読んでいた少女漫画の一こまにその漫画家の友人が事故を起こし、修理していないのを見た漫画家が、何で直さないのか聞いたところ「私には見えないから関係ない」と言っていた友人がいるとかいないとかいったシーンがあったが、それと似ている構造が教会の建物と使用者である信者の間にあるのではないかと思う。内部に慣れすぎて、内部を覆うシェルである教会堂の建物が持つ意味ということがあまり意識されないのではないか、と思った。

     私の住む街には、いくつかの有名な教会建築がある。典型的には、神戸栄光教会であるし、兵庫県庁近辺には、非常に印象的な教会がいくつかある。栄光教会は面白い。フランス様式の旧兵庫県庁と並列して、ジョージアン風様式の栄光教会が並んでいる。昔の、神戸地方裁判所は、和洋折衷式で面白かったが、さすがに、老朽化が進んでおり、イタチが廊下を走り回ったり、ネット対応が難しかったりなどなど、近年の執務に差しさわりがあるので、外側の外壁だけ残して、中身は近代ビルにしてしまった。神戸税関も建て替え中らしい。これらは、おしい公共建築物であった。このあたりで一番最高なのは、教会を模した本願寺神戸別院(モダン寺)である。震災後立て直した建物も面白いが、昔の建物はもっとおしゃれであった。



    教会と、仏教寺院と、チベット仏教寺院を足して3で割ったら、こんな感じか、というような非常に特徴的な建物であった。これらの建物を使っている人が内部にいるとき、外側のことをどこまで意識するのだろう、と思った。

     建築は、メッセージでもある。建物の外見は機能を伝えるメッセージを来る人に伝えているのである。それを一番よく示すのが、看板建築である。内面は日本家屋であるが、道路に面したファサードを看板状に変え表現することで、どんな建物であるのか、何屋であるのかを示そうとした昭和30年代までによく見られた建築様式である。

     看板建築でなくとも、昭和期までに建てられた警察署の建物は、おっかない雰囲気をしていた。国会議事堂が典型である。銀行も、重厚さを示す建物で、信頼と尊厳と信用を示していた。東大の建物(赤門と安田講堂だけが有名だが)は完全に雰囲気を出し切るのに成功しているとは言えないが、もともとは僧院だった大学の雰囲気を出している建物もある。農学部の一部など、味わいのある建物が多い。近代の効率化の中、コルビジェのモダニズム全盛期をへて、近代という時代がすすむにつれて、画一化されたビル、ガラスとスティールでできた建築物全盛の時代が続いたのである。ちょうど、911でテロリストが突っ込んだWorld Trade Centerが典型であり、悲惨な事件によりあの建築が狙われたのは、近代というモダニズム時代の終焉を告げるものであったかもしれない。

     教会の内部に入ってしまえば、その機能をどうするかは教会員が決めるしかない。むかし、NHKでやっていた大草原の小さな家、というテレビドラマシリーズで、教会は、町民集会所であり、学校であり、教会であり、議会の議場でもあった。教会がみんなのものであった、つまり、公共の場であった時代を切り取っていたように思う。ま、所詮、お話はお話であるけれども。そのお話(ものがたり)に託された理解の反映を読み取るとそういうことかもしれない。

     ヨーロッパでは、教会がコミュニティであり、自治体であり、そこに住む住民にとって社会であっり、旅行者にとっては数少ないホテル代わりに使えた時代がかなり長く続いたし(その当否は別として)、アメリカ中西部でも、教会とコミュニティと自治会というのか自治体が一体であった時代があったことをあのドラマは示しているのかもしれない。

     しかし、近代都市においては、信者の信仰理解(露骨にいえば教派)、民族、世代、仕事の内容、居住地域という中でのコミュニティの中のコミュニティ(サブ・コミュニティ)が出てきて、地域という空間的要素でくくっていたコミュニティ自体が、それ以外の要素で分裂させられる、あるいは自発的に分裂するコミュニティの分裂が生じてきており、それがそのまま教会と教会の乱立にも持ち込まれていったのだと思います。そもそも、団地というところでは、自発的コミュニティの存在がなかなか40年たってもできないところも少なくない。

     さらにプロテスタントが装飾性を嫌ったこともあり、イコン(聖人像やキリスト像)はおろか極端な場合は十字架(私のいるキリスト者集団は、近年まで十字架を一切置かず、表示しないことにこだわりがあるところが多かった)まで取り去る形の儀式性を排除していった。実際に、イギリスでは、これらのイコン(キリスト像を含めた聖人像)破壊が行われている教会があるはずである。その中で、教会自身が装飾性をあえて避けてきた部分も少なくない。その伝統にのっとり、装飾性が排除された教会も少なくない。
     
     さて、建築にもう少し戻せば、近代の建築が近代であるため、抽象性を追求し、近代の抽象絵画のように線と面で構築されることとなり、建物自体の抽象度を上げていき、それに追随する建築家たちも、それに従っていった。そして、建物の目的という固有性をもたない教会建築を構築していったのであり、教会なのか、学校なのか、区別のつかない建物が量産されていった。

     抽象化でいえば、行きついた一つの抽象化の先が、機能が全く想像できない抽象度のむちゃくちゃ高い建築物などがある。大阪の湾岸部に突如登場するこの建物は、外形から、これが汚水処理場やごみ処理場であることを知ることはもはや不可能であろう。

     教会建築に話を戻せば、個人としてイコンを置くべきだとか、十字架を置くべきだとかは思わないし、十字架を置いていようが置いていまいが、それはその教会の判断であると思うが、教会が普通の建物ではないと理解される仕掛けというかデザインは意外と大事だと思うのである。というのは、教会が、教会として認識される建物であることで、ここに神の国を語る場所がある、ナザレのイエスという人物がいたということを今なお通りがかる人に語りかけようとする場所がある、ということを、建築というわかりやすいデザインで示すことができるからである。つまり、デザインを通じた伝道という意識をもう少し考えた方がよいのではないか、と思うのである。

     以前、東南アジアから来た伝道者を日本で案内した時に、パチンコ屋のケバケバしいネオンを見ながら、「日本には、キリスト者が少ないと聞くが、何で日本にこんな教会が多いんだ。それもでっかい駐車場つきの」と真顔で聞かれて、あれはパチンコというギャンブルをする所で教会ではない、といくら言ってもわからなかったので、仕方がないパチンコ屋に連れて行ったことがある。煙もうもうで目を血走らせたおじさんたちを見、チーンじゃらじゃら、チーンを聞いて、さすがに悟ってもらったけれども。

     最も身近な公共空間に対してのメッセージは、建物そのものであり、また、看板である。看板より、建物の形の方が、そもそもメッセージ性が強いが。だからこそ、ディズニーランドでは、シンデレラ城は、丸ビルのような形はしていないし、カリブの海賊は、映画館の格好をしていないのではなかろうか。それが張りぼてであることを知っていても、そのうえで、人々は、そのデザインを楽しんでいるのではないだろうか。そして、その劇場での演劇に参加する役者の一人になっているのであろう。それが、信条の問題や教会暦を守ることと、関係していそうな気がする。

     福音と世界の最新号だったかなぁ、平田オリザが劇場と教会と公共圏の話を少ししていたが、そのあたりをもう少し探ってみる必要があるのかもしれない。都市が、劇場だと考えるとき、その劇場の中での教会の位置とその建物そのものが発するメッセージと建物が発信するメッセージ性の使い方を考えてみる方が必要かもしれない。教会の問題として。







    評価:
    中川 理
    彰国社
    ¥ 2,447
    (1996-02)
    コメント:日本の近年の建築物の位置づけと、日本の公共建築物の衣装と、それが公共空間に対して発しているメッセージを語る書籍。建築のことを知らなくても、身近に偽装した建築物の意味を考えることで、日本社会が抱える問題を示す本。

    評価:
    五十嵐 太郎
    春秋社
    ¥ 1,995
    (2007-08)
    コメント:日本における信者も牧師も全くいない教会という論理矛盾を幾重にも重ねた、わけわからない建築物に関する調査と論考をした書籍。この成立から建築様式にまで及んで、非常に面白い視点を与えてくれる書物。

    評価:
    藤森 照信
    岩波書店
    ---
    (2004-11-16)
    コメント:藤森 照信氏の博士論文であるが、読みにくくはなく、日本の近代建築と、東京がどのように作られてきたのかについて一番わかりやすく、まとまっている本。明治の東京計画(とりわけ、コンドルの帝都計画)の意図が解説されており、建築がメッセージを発することが分かる。

    コメント
    管理者の承認待ちコメントです。
    • -
    • 2014.06.11 Wednesday 00:19
    高木康行様

    あなた様がキリスト教がお嫌いで、それに肩入れするNHKがお嫌いなのは、よくわかりました。ご自身の主張をブログで開陳されるのも、言論の自由が保障されている我が国において、適切かと思います。

     しかし、言論の自由が保障されているからと言って、同一内容の本文とほぼ関係のないコメントを残されることは本ブログの運営趣旨に反しますので、以後ご容赦いただきますように平にお願いいたします。

    ご理解賜り度存知候也。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2014.06.11 Wednesday 08:38
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