<< 日本という国と信仰について考えた | main | 教会という建物について考えた >>
2012.02.01 Wednesday

教会とオープンネス ー現代社会における教会

0
     先日、東京で所要があったこともあり、以前からお伺いしたいお伺いしたいと思っていたK先生のところにお伺いしました。2時間ばかりでありましたが、なんと時間が早く過ぎ去って言ったことか。あめんどうのOさんとお話したときも、水谷先生とお話したときも、もちろん、Ministryのイケメンかつイクメン編集長のまっちゃんさんも・・・・UgoUgo王子も、Hattori先生も、言い出したらきりがないので、このあたりで。

     建築家崩れ(ある程度理解力があるのだけれども、それを図面に落とす能力や、それを作り上げるプロセスの能力がないため、建築家よりたちが悪い存在。ちょうど、アマデウスにおけるサリエリ君みたいな存在)であるミーちゃんはーちゃんは、Y郷の教会のポストモダン様式のおしゃれな教会堂に驚いた。コンクリ打ちっぱなし(たぶん、透明塗装加工済み)の吹き抜けの大空間。ピラーレス構造をうまく作り出しているホール。これまたポストモダン様式の照明。そして、天窓。設計士が教会堂の設計を任されて、うれしくて、うれしくてしょうがなくて設計したことがわかるホールであった(つまり、それなりにメンテとそのコストが大変)。建築家にとって、教会堂(たいてい教会は、会堂を長期間使うので、住宅や、ビル、店舗の設計はごろごろしているが、教会の設計めったに設計できない案件。教会設計の案件に当たるとうれしいらしい。)の設計は、西洋建築のオリジンに触れる設計ができるのは、建築家冥利に尽きず、楽しくてしょうがないのであるのは分かる。建築家崩れとして。特に、西洋建築の華とも言うべき教会堂の設計は、日本ではあまりないからだと思う。

     まぁ、パチモン(にせもの)の冠婚葬祭業者の教会風の結婚式場の設計案件も少ないながら回ってくることはあっても、会員がいて、牧師がいて、毎週使ってくれるほんまもん(本物)の教会の設計案件なんてのは、めったにないんですよ。そりゃ気分が高揚して冒険もしたくなるよね。

     さてさて、その教会の隣に隣接するK先生の昭和風でありながら、カリフォルニア様式の大きな窓を取り込んだショップ(工房)の脇室でお茶をいただきながら、いろいろご教示をいただいていたが、何より、ショップにあった古道具の平かんな類のコレクション。思わず、うらやましいと思ってしまった。自分では、鉋をかけることもめったにないくせに。あーいう骨董、機能美の美しさがあるんでねぇ。

     余談はさておき、いくつも思ったことがあるのであるけれども、今回は、現代における日本の教会が公共空間となっているか、ということである。K先生と話していて思ったことの一つに、日本のプロテスタント派の教会とその敷地というのは、公共空間としての機能を果たしていないのではないか、教会員にとってのクラブハウス(ゴルフ場にあるらしいやつと同じ、そのメンバーとお連れの方しか使えませんということになっているやつ。ミーちゃんはーちゃんはゴルフをまったくしないので、わからないけれども)でしかないのではないか、という問題意識を取り上げたい。

     カトリックは、一応、誰が行っても、ドアが開いていれば、入らしてくれるらしい。ディズニーアニメ(ハンチバック・オブ・ノートルダム 子供と一緒に繰り返し見たので、台詞はほぼ暗記した)で描かれていたことしか知らないが、世情の権力が介入しようと思っても入らせないだけの根性がある組織であるカトリック教会は、人々を受け入れる隠れ家として機能していることが描かれていた。そういえば、あぁ無情でも、ジャン・バルジャンは、教会に行くのであった。そういえば、家内の大好きな「フランダースの犬」のアニメ化作品でも、ネロ少年とパトラッシュは、アントワープの教会堂で最後死んでいる。ルーベンスの絵は、お金を払わないと(献金しないと)見せてもらえなかったらしいが。フランダースの犬の原作本とアニメには、乖離があることはなんとなく知っているが、原作はまだ読んでいない。
     
     ということは、カトリック教会とその敷地は私的空間でありながらも、公共に向かって開いている、という意味で、公共空間なのかもしれない。私の行っている教会の近所にあるカトリック教会の司祭様が、あまりに外部の見学者の方が教会堂でうるさくするので、教会に来るなといったとか言わないとか言う話が、以前ネット上で流れていた気がする。真偽のほどは知らない。その司祭様のお姿は道路を通りがかるとき、何度か拝見したが。

     一応、神社の境内はキリスト者でも通行できるし、お賽銭入れないやつは入れてやらない、ということにはなっていない。事実、私の前の職場に行くとき、近道なので、ほぼ毎日、境内を北から南に突っ切る近道として利用させてもらっていた。プロテスタント系キリスト教界のある方とお話したとき、「神社には悪い霊がいるから、そういうところに近づかないほうがよい、といわれた」ということをお話してくださった方もいたっけ。思わず、「そんなことはありません。大丈夫です。」と突っ込みを入れましたが。

     ところで、お寺の敷地を突っ切るということはできる寺社の方が主流だと、思う。京都や奈良などにある有名な仏教系寺院(寺とはもともと大きな建物、というくらいの意味らしい)や神社には、庭や建築を見るんだから、参拝料をよこせ、という神社、寺や塔頭は、あるけれども、国宝や重要文化財といった文化遺産の少ないような寺では、境内に入ったり、墓地に潜入したりするには、制限がないところが多い。実際に行ったことのある四国の石手寺だとか、善通寺は、実に風通しのよい寺であった。

     一応、昔の国立大学(今は国立大学法人といいます)も、『用件のない方は立ち入らないように』とは書いてあるが、理念上は、『国民のもの』なので、結構自由に進入しても基本怒られない、はずである。その意味で、かなり、アクセシビリティがいいのである。普通の人は、あまり入ろうと思わないかもしれないが。ただ、自衛隊の基地は、同じ国民のものだけれども、勝手に入れなくしてある。入り口にはおっかない車止めと、怖そうなお兄さんたちが立っているのだね。アメリカの空軍基地(ヴァンデンバーグ空軍基地)は、入り口には、ゲートがあった記憶がない。敷地内道路がほとんど迷路なので、そもそも案内されないと初めての場合、基地にたどり着けない。でも、基地祭のときには、外人のミーちゃんはーちゃんでも入れてくれた。パスポートを見せろとかは、いわれなかった。一応持っていった。ICBMの試験場なのに・・・。B2が超低速の超低空飛行するアクロバット飛行(あんな重たいものをちんたら地上10mで飛ばすのは結構大変なはず)を見せてくれたり、現役のAWACSに立ち入らせてくれた・・・。将軍様のところのスパイかもしれないのに・・・・。こういうおおらかさが911の後でもあるのは、いいよなぁ、と思った。まぁ、多民族国家なので、見た目で『将軍様のスパイか?』と市民権を持つ人に軍関係者が詰問したら、裁判沙汰になるからかもしれないが。

     ただ、AWACSのタラップから降りようとしたら、上空から、足元のところに米国旗をつけたパラトゥルーパーが上空から降りてきて、みんな静止していて、あれ、変だと思った。それと同時に、うちの子供が『国歌だからプレッジ・プレッジ』と小声でいったので、とっさに立ち止まって一応胸のところに手を当てるふりだけはした。まるで、ホーマー・シンプソン。

     ところで、アクセシビリティといえば、小嶋先生も以前書いておられたが、先生のところの教会にも、時々、ひょっこりと、祈らせてほしい、という人が来られるらしい。割と日本人は、心を落ち着かせるために、これまで、このような宗教施設をテキトーにうまく活用してきたのだろう。主に仏教寺院の散策であったり、子供と一緒に入り込んでかくれんぼしたり、神社の境内の散策であったりしたのであろう。

     静謐な環境の中で、時にお百度石を踏んでいく(無目的に同じ作業を繰り返すので、気分が落ち着く)作業であったりすることで、心落ち着かせている場面というのはあると思う。キリスト者2世のミーちゃんはーちゃんは、神社でお百度を踏んだ経験はない。自慢するほどのことではないが。

     ナウエンだったかなぁ、晴佐久さんだったかなぁ(両者のミーちゃんはーちゃんの中でのミックスが起きたのかもしれないが)、都市における現代人は、常に音のある喧騒世界の中で生きていながらも、孤独の中でいきている、という指摘があり、時に心落ち着けるときも場所もない、ということが書かれていたように思う。普段家にいる人、あるいは教会や大学図書館などのオフィスにいる特殊な人(はい、ミーちゃんはーちゃんは特殊です)は、比較的静謐な時間と空間を得ているが、普通の人は、職場では電話がなり、隣では打ち合わせをしており、ラインプリンターはガンガン音を立てている世界でお仕事をしておられる。電車に乗れば、これでもかこれでもかと騒音にまぎれるように駅の案内放送が入り、若者は大音量でビートを音漏れさせ、(関東ではめったにお目にかからないが)おばさんが近所の悪口を言ったり、親類の悪口を声高らかにお話されていることがある(一度、新神戸から東京まで乗っためったにのらないグリーン車(これは、エクスプレス予約で乗車して経験値がたまったので、ただでアップグレードしてもらった)にのったとき、新神戸から名古屋間、前の座席のおばさま方の親類の大悪口大会を傾聴する羽目になったので、車掌さんに頼んで、別席に替えてもらったことがある)。かと思えば、阪神電車では商談を終えたらしい二人組のサラリーマン(これも日本ならでは)が、直前の商談について大声で会話している。

     スーパーに行ってもバックグラウンドミュージックならまだしも、購買意欲を誘うような勢いのあるノリノリのポップスや、「さかな・さかな・さかな 魚をたべーると、あたま・あたま・あたま、あたまがよくなる」という頭によくするとは思えない音楽が無限ループかメビウスの輪のように流れている。電気店に行っても、頭が痛くなるような、電気店チェーンの名前を連呼するような音楽が流れていることが多い。さすがに書店は静かなところが多いが。

     散歩で街に出ても、バイクや自動車は音を立てて走るし、自転車にひかれそうなことも少なくない。喫茶店に行っても、もう、クラッシック喫茶や、ジャズ喫茶は、ほとんど絶滅危惧種に指定してもよいほど少なくなっている。スターバックスなどのコーヒーチェーンに間違った時刻にいこうものなら、おばさんたちや女子高生のおしゃべりなどに巻き込まれ、落ち着くことすらままならない。特に、関西のスターバックスは、にぎやかである。都内だと、スターバックスでうるさかった経験は少ないが、一度都内のマクドナルドで、辟易したことがあるけれども。

     都会の中で、喧騒から離れ、静謐を保ち、心落ち着ける場所として神社、お寺、教会のキャンパス(敷地)は、案外その静謐を与える場所であるのかもしれない。個人的に一押しは、海っぺた。ボーっと波を見ているだけで、幸せな気持ちに慣れる。俗世を離れた中に長時間いると(ラピュタ人と呼ばれても仕方がない。ガリバー旅行記参照)、そんなことは気が付かないが、時々、おこもりを決め込んでいる洞窟からときどき世間に出てみると、実は、都会のビジネスパーソンや普通に仕事をしている人々にとって、このような静謐な空間のありがたさが少しわかる。

     ところが、プロテスタント派の教会は、入りたくても入れないところ、キャンパスと呼ばれる敷地すら、ゲートや結構おっかないコンクリートや金属製の柵(といっても、陸上自衛隊や機動隊の本部よりはおっかなくはない。そもそも、牧師館が併設されてないところも結構あるし、普段、プロテスタント系の教会には人がいない。私の属するところもそうで、普段は、電話をかけても留守電がさびしく応答してお出迎えしてくれるだけである。ちょっこし反省。

     何でプロテスタント派の教会は、教会堂だけでなく、外部に対して何故閉鎖的か(過去、非国民として意地悪されたことがあるとかないとか、というような)、という原因追求の話はさておいて、これ、おかしいのではないか、と思う。他の神社さんやお寺さん、カトリック教会さんは、非常にあけっぴろげというか、地域に溶け込んでおられる。

     そのような寺社仏閣やカトリック教会と比べてプロテスタントは全体に閉鎖的な気がする。ジャン・バルジャンの時代のように、教会堂には銀の食器がある(うちの道具は銀色だが、ステンレスか錫)とか、教会内に現金が唸っているとか言うわけではないのに、何ゆえ、外部に対して閉鎖的で信者の未利用可能なクラブハウス的存在という空間なのであろう、ということを、K先生とお話しながら、考えた。もうちょっこし、開放的でいいのではないか、と思った。

     開放すれば、「事故が起きたときの訴訟が・・・」とか、「開放に伴う人手がいる・・・」とか、現実の壁はいくつかあるけれども、まぁ、一般家庭でも、子供の犯罪被害の避難所として解放する(芦屋には、ウルトラマンも守ってくれる、という看板があるお店や家がいくつもあります。)ところがあるご時世ということを考えると、どうなんでしょう、と思います。まぁ、賀川豊彦は、最初の配偶者を紹介するときに、「これは皆さんの女中です」と紹介したという話があるようですけれども(「著名人クリスチャンの結婚生活」 中村敏 ファミリーフォーラムジャパン)、そこまでとは言わないから、もうちょっとそれぞれの教会でできることを考えて、やってみる、ということをしてもいいかなぁ、と思ってみたりしたのですね。Ministryで紹介されていたような、おばぁちゃんがいてお菓子食べさせてくれて、中高生が帰り道に寄れるような教会があったような・・・。

     まぁ、これまで敷居が高くて利用の要望がなかったというのもあるかもしれないが、ボランティア団体とかママさん子育ての会とか、名目的な使用料だけいただいて、勉強机を提供するような形で、解放するだけで、結構利用申し込みはあったりして・・・、と思うのは、ミーちゃんはーちゃんだけかもしれません。

     こういったご時勢に、「教会は教会員のものですから、すいませんねぇ、こういうサービスはしないんで・・・」というのも、ちょっと残念かもしれません。「うちの牧師が聖書からお話しするのは、日曜日と、これこれの日です。この日は、開放しています、どうぞお越しください」という言い逃れがあるかもしれませんが、それも、教会側(世間様からすれば、あっちの人たち[教会の人たち])の都合にこっち(行ってみたいかなぁ、と思っている人たち)のほうが合わせてくれ、といわれているという印象を与えるに近い、ということは思います。まぁ、居座られても困る、というのもあるのでしょうけれども。

     以前、関西の市役所の職員さんたちとの研究会で、市役所のCRM(シティズン・リレーションシップ・マネジメント ← もともとは、企業の顧客関係の改善:カスタマー・リレーションシップ・マネジメントの援用)の研究会に参加させてもらっていたときに、市役所というのは、一応、市民にサービスをご提供するということに地方自治法上はなっているものの、いまだに上から目線のところが多くって、市民にしてやっている(市役所用語では、施策(施す方法)ですよ、施策 この語は、いまだに現役で活動中。役所用語で最も引っかかるものの一つで、現在も某市役所でまったりと議論中)という雰囲気がちょっこしあって、「それが変わらんとねぇ」ということをアーでもないコーでもないと議論したけれども、時間切れであまりうまくまとまらなかった。要は、市民にとっての市役所への精神的なアクセシビリティ(近づきやすさ、サービスの提供の受けやすさ)をどう改善するのか、という問題だと思います。

     たぶん、それと似たようなことが教会でもあるのではないかなぁ、と感じたのです。いえば、教会のCRM(Christian Relationship ManagementのCRMは当然されていることとして、Outreach Relationship Management(社会の人々とよりよい関係を作り出していく方法:他にいい用語があったらコメント欄で、大募集中!)を少し考えたほうがいいのかもしれないなぁ、と小嶋先生と話しながら思ったのでした。

     実は、これには伏線があって、この前、このブログでご紹介したANR Cafeに来られた三木市の元地方議員さん(女性の方)が、「何で、教会がこの少子化時代、子育て支援が大事だといわれている時代に、両親とも働きに行っている世帯に学校帰りの子供の一時保育サービス、週に一回でもいいからしないんでしょうか?すればいいのに。日曜学校が無理でも、託児所をかねた教会学校はできるはずなのに。それすれば、地域と交流の窓口ができるのに。教会への敷居も下がるのに。(なお、おおむねの発言趣旨)」と問題提起されたのでした。そこにいる人たちからは、「人がいない」・「事故が怖い」というよくある話が出たのですが、ただ、新しいことをすることに対する抵抗であったり、漠然とした不安感であったり、だとはおもいました。

     そこにおられた方は、そんなことはないと思いましたが、他の教会員の方々の中に、ひょっとして、ではあるが、教会をどこかで自分たちだけのメンバーズクラブハウス(基本、一見さんお断り)にしたいのかなぁ、と思う。確かにクラブハウスにしている方が、管理も楽だし、安心だから。

     自分たちでするのが無理なら、地域の有志の方に(無償/実質経費のみの有償で)自分たちの使わない時間帯は、場所貸しだけでもいいのではないかなぁ、と思ったりもする。

     でも、本気で地域に出て行く、とか、地域との連携を図って伝道する、というのは、案外、教会のメンバーズクラブ的なキャンパス利用を少しはずしてみるといった、あたりにヒントがあるのかもしれない、と思うのである。

     そもそも、日曜学校や教会学校運動は、工場労働者や炭鉱労働者の家庭の子供たちが放置されていることを見るに見かねて、1760年代ごろから、救貧対策(文字が読めないゆえに貧しさから脱出できない問題の回避と聖書を自分で読めるようにすることをかねた教育)の一環として、教会が地域の住民の子弟向けに始めたものであり、過去これまで、相当にそのことに教会は資源を割いていたはずである。その意味で、キリスト教会側の論理、貧しい人とともにあるという論理で始まっているものの、一種社会の需要にこたえていたのが、日曜学校運動なのではないだろうか。教会からの押し売りではなく、求められるものを提供してきた歴史があったのではないだろうか、とも思ったんですね。
     
     とはいえ、今の小学生は、日曜日、土曜日は忙しいのである。たまの土曜日ぐらい、サラリーマンのお父さんと同じように眠っていたいし、テレビだって見ていたい(おやじ化する小中学生が急増中)。サッカークラブがある、リトルリーグがある。下手をすると朝から塾があったり、土日特別講習だの、早朝講習だの、受験直前講習があるのである。教会員の家庭だって、「お受験より、お受洗」と叫けばなければならないところまで来ている。だとしたら、日曜日は神様の日だから、日曜学校にどうぞ、というのは、提供側の論理を振り回しているだけではないか、と思う部分もある。

     社会に、塾だの、リトルリーグだの、少年サッカークラブだの、このようなサービスがなかった時代は、これでよかったのかもしれない。しかし、現実の子供たちはサラリーマン並み(いや、以上かもしれない。お父さんにはゴルフという楽しむことができなくはない、れっきとした仕事があるかもしれないけれども)に忙しいのである。その中で、日曜学校に来てもらっているだけ、ありがたい方々だとミーちゃんはーちゃんには思えるし、そのサービスを提供しておられる方々の熱心さが、日曜学校に忙しい子供が来ていることの背景にあるのではないか。

     ところで、K先生とのお話の中で、マーケティングという言葉が出てきた。まさか、教会関係者からマーケティングという言葉が出てくるとは思わなかったけれども、もうちょっと、これを考えた方がいいのではないか、というご示唆をいただいたように思った。その通りだと思う。Purpose driven Churchはその色があまりに強すぎるが・・・。

     これまで頭が高かった役所ですら、市民にどう自分たち(市役所)という資源を提供し、市民が持つ資源とどう協力しあって、市民の生活の質の向上を図るのか、を考える時代になった(市役所が全部抱えるだけの財政的余裕(地方交付税を含め)を失った、という側面も大きい)。仏教寺院や神道の境内が、いざというときの避難所になったり、一部の被災地での教会が一時的とはいえ救護所や避難所になったように、教会は地域にとって、資源ともなりうるし資源であってほしい。もし、教会が地域や社会に霊的な資源を提供する場(本来そうだと思うが)であるのであれば、もうちょっとマーケティングというのか人々の需要を意識をして、教会員のニーズにもこたえた上で、木曜学校でもいいし、水曜学校でもいいから、地域の非教界関係者のニーズにこたえる教会のあり方を、そろりそろりでいいので始めたほうがいいかなぁ、と思うのであるけれども。そんなことを考えるミーちゃんはーちゃんは、まぁ、教会あるいは教界という風車に向かって突撃するドン・キホーテなのかもしれない。

     突撃して、自爆だけは、しないようにしよう、と思うけれども。

     あー、今日も長くなりましたね。読んで下さった皆さん、ありがとうございました。すみません。できの悪い蕎麦屋の出前みたいで。(そのこころは、長くのびきっている・・・)



    評価:
    Rick Warren
    Zondervan
    ¥ 1,566
    (1995-11-27)
    コメント:Rick Warrenの読みやすい本。マーケティングオリエンティッドだという意見もありましょうが、教会からの上から目線でかかれていない、ということでは、評価できるんではないでしょうか。日本語訳では、訳出されてない部分が多々あったように思います。

    コメント
    片岡町のおさるさま

    コメント、ありがとうございました。拝承しました。機微に触れる部分がありますので、後ほど、削除しておきますので、ご理解ください。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2012.02.08 Wednesday 11:35
    コメントする








     
    Calendar
    1234567
    891011121314
    15161718192021
    22232425262728
    2930     
    << September 2019 >>
    ブクログ
    G
    Selected Entries
    Categories
    Archives
    Recent Comment
    Links
    Profile
    Search this site.
    Others
    Mobile
    qrcode
    Powered by
    30days Album
    無料ブログ作成サービス JUGEM