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2012.01.28 Saturday

日本という国と信仰について考えた

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    このところ、いつもインスパイアリングなコメントを下さる「 ひかる 」様という方がおられて、先日の『「わかりやすさ」がもたらすもの』という記事について、非常に印象深いコメントを下さいった。

    しかしそのような点も考慮して思うのは、私が漠然と捉えていたキリスト教の匂いは、キリスト教の本質ではなく、日本という國に存在する自覚しない宗教観ではないかと考え始めています。

    誤解を招くかも知れませんが、端的に言えば、日本教キリスト派、日本教真宗派、日本教日蓮宗派・・・・
    と表現した場合の日本教に属する部分、日本に生まれ無自覚のうちに自分の中に存在する思考の基盤となっている部分と考えると親近感があって当然ではないのかなと・・・
    キリスト教のベースと考えているこの部分を自身で自覚して、明確に分離することは困難かも知れませんが、今後の重要な課題かと思います。
     この問題、どうもいろんなところでその破れ口を見せていて、非常に気持ち悪い存在が日本社会の中にあるように思う。その実態は、よくわからないのであるけれども、日本における意識というのか、思考というのか、ものの見方というのか、社会にしみついているしている空気というのか、距離感というのか、そんな感じのものだと思う。

     このわけのわからない非常に気持ち悪い存在が、帝国陸軍というフィールドで登場したのが、員数主義であったり、キリスト教の世界に出現すると、二階建ての日本型キリスト教であったり、ハスの上で半跏思惟の姿のイエスであったり、鬼がいたり、針の山があると思っている日本人キリスト者の地獄観だったりする。

     安岡章太郎という面白いおじさんの随想にあったが、若い時の『クラッシックファン』が中高年以降とたんに『演歌ファン』になっていく世界とよく似ているのではないか、と思うのである。

     この変換というのか変化(へんげ)って、なんだろう、と思ってしまう。本来的には、文字に書かれた聖書よりも、別の論理が幅を利かせてしまう世界が突然広がる。中空の論理というのか、論理を換骨奪胎する『ぬえ』的な結構気色悪い存在というのか、それがいつの間にか確固たる論理の中にいつの間にかでーん、と居座っている気色の悪い存在である。それが、「ひかる」様のおっしゃる言い方で言えば、「日本という國に存在する自覚しない宗教観」というか、思考法なのか、精神性ではないか、と思うのである。こういうことを漠然と思っていても、イエスを神であり、メサイアというかキリストと信じている場合もあると思う。こういう習合してしまった状況をどう考えるのか、ということに現在確固たる回答をもっているわけではなく、今後、考えねばならない問題であるが。

     ところで、この気色悪い存在は、山本七平氏の言い方を借りれば、「員数主義」であったり、「外面的な変化で自らを欺くこと」であったり、長屋の花見的な方法論でごまかす(ショートカットする)ことではなく、透徹な視線で見つめることが必要なのではないか、と思う。この透徹した思考作業は、かなりしんどい作業なのであり、これに耐えられる人は案外少ないのだろうと思う。

     「員数主義」であったり、「外面的な変化で自らを欺くこと」は、隅谷三喜男氏の日本の信徒の「神学」における表現を借りれば、生活と信仰が分離してしまった二階建ての信仰であり、トゥルニエのことばを借りれば、「道徳主義」に支配されたキリスト教なのであり、ヤンキー牧師のことばを借りれば、「キレイごとの福音」なのかもしれない。そして、野村先生の表現によれば、「自分を蚕の繭の中に閉じ込めて自己満足をしている」ということなのだろうと思う。あるいは、型にはまったことで安心してしまったキリスト者の姿であるのかもしれない。

     透徹した視点を持たない福音、自己を批判的に見る視点という透徹した視点を持たないキリスト教は、日本だけの問題ではない。形におぼれ、形にはまり、自己のしていることの正当性を客観しできないのは、どうも日本だけではなさそうである。

     透徹した視点を持つこと、あるいは自己を批判的に捉えることは、自分自身を傷つけかねないしんどい霊的・思索的作業(作業というよりは地図のない無謀な冒険に近いように思う)であり、時に発狂しそうになりながらも取り組まないとならないからである。これに耐えられる人が少ないのかもしれない、と家内と話しながら思った。自己の存立してきた基盤そのものを疑い、そして、必要に応じて破壊し(ここまではできる)、その上で再統合(これが難しいのである)する作業が必要になるからである。その結果、全否定という形でなくても、自己自身の一部を否定しなければならないのである。これは、非常につらい作業になる。

     家を選んだり、家を建てる作業と似ているかもしれない。

     一番気軽なのは、今ある目に見える家を選ぶことである。この方法は、そもそも候補が限られるので、その中で、一番まともそうに見えるやつ(自分の好みに合うもの)を選べばよい。これは非常に楽なのである。まぁ、年齢とともに、家族構成、生活スタイルの変化とともに、使い勝手が悪くなったりはするが、雨風をしのぐための屋根がある、という基本機能は、享受できる。都市の郊外や、地方部に住むアメリカ人は、3年から5年くらいで家を次々買い替え、土地ころがしのようなことをわりとよくするけれども、彼らがそうするのは、そうすることで資産形成がこれまでできた(リーマンショック以前の話)からでもあり、それが生活上の面倒を回避する方策だからかもしれない。また、彼らが、基本的に放牧民(カウボーイというかノマド)の子孫であるからかもしれない。

     次に面倒なのは、今あるものをリフォームしながら、使い続けることである。不具合がある場合、それを大規模・小規模の別はあるけれども、修正を加え、基本的な骨格を生かしたままそれをうまく利用しようとする考え方である。ただ、基本骨格はそのままだし、構造的な不都合は回避されない。ある面で、弥縫策であり、本質的な解決にいたらないという側面があるものの、雨風をしのぐことができないということにはならない。

     面倒さのレベルがかなり大きく異なるが、かなり面倒さが増すのが、新築の住宅を建てることである。これは、現在の居住パターン、現在の同居家族の構成、将来の居住家族の構成を考え、未知の世界を想定しなければならないだけに、かなり面倒である。ある特定の人生の時期に合わせて設計してしまうと、後の変化に対応できなくなる。また、自由度が高いだけに、決めなければならないことが多く、自分がある状況でよいと思って設計してみても、それが後にとんでもないカウンターパンチ[趣味が強すぎて、売れない。借り手が付かない、動線(人々が移動する経路)が交錯して家の中でしょっちゅうぶつかるなど]をもたらすことも少なくない。昔、大学時代に建築の実習の中で、家屋設計をしたことがあるが、非常に使いづらい設計をして、講義担当の先生からぼろかすに言われて、建築関係にすすむことを断念したが、今では、その先生に感謝している。ハウスメーカーやゼネコンに勤めていたら、どうなったことだか、げに考えるだけで恐ろしい。

     最後に一番めんどくさいのは、既存敷地での建て替えである。これをするためには、いったん居住場所を捨てるという決断をせねばならない。慣れ親しんだものを捨て、愛着を捨て、そこにまつわりつく一切のものを捨て、雨風をしのげる場所を一時的にであるとはいえ、放棄し、守るもののない、脆弱な状態にならなければならない、という恐怖と戦わなければならないのである。これは、結構えげつない体験である。その上で、上述の新築と同じ作業をしなければならないのである。

     と、ここまで書いていて、昨日お昼ごはんを一緒にしたUgoUgo王子の話してくれたことを思い出した。彼の所も、教会堂の建て替えをして、あっちの自 治会館、こっちの公民館、別のところのホールと、建て替えの間教会ジプシーをしていたら、その間にこれまで蓄積した礼拝スタイルというか形式へのこだわり がもろくも崩壊した、という話をしてくれた。なるほど、そういう副次的効用があるのか、と会堂建て替えについて思った次第。建て替え、という行為によるま つわりつくものの放棄、ね。

     ところで、子供たちが通っている歴史ある高校(といっても高々70年ほどだが)が来年から立替になるらしい。運動場を一時的につぶして、仮設校舎を建てながら、校舎を建設していくようである。PERTというORの手法があるが、きっちりとした進捗管理をしないと、工期がずるずると遅れていくし、ずるずる遅れれば、工事費用がどんどん膨らむ。そういうことも考えながら計画していかないといけないので、結構面倒な一大事業なのである。

     自分たちのなじんだ思考(「創造論は問題危険です」さんの言い方を借りれば特定の「教理主義」)から離れる、ということは、この作業と非常によく似ている。きちんとした目標を設定しながらも、時代の変化に合わせて、作ったものを破壊し、再建していくためのノウハウとそれをオーケストレーションしていき、一定の形あるものに再構築していく作業なのである。破壊するだけなら、ゴジラでも、キングコングでも、キングギドラや、ガメラ、バルタン星人、あるいはブルドーザーでも、ユンボでも破壊するものがあればよい。それさえ面倒であれば、かつての石原軍団のように爆弾でボン、でもよい(ご近所に迷惑にならなければねぇ)。

     問題は、そのあとなのである。破壊するのは簡単で、問題があると批判するのは簡単だと思うのですね。そのあと、どのようなものを作り上げていくのか、というグランドデザイン(大局観というのか、将来どんなふうになりたいのか、将来どうやってそれを継続するのか、ということ)とそれを実施していくための計画というのか、具体的な手段を含めて用意して配しておくことが大事だし、実は、すごく大変なのである。

     従来の形(「創造論は問題危険です」さんの言い方では、「教理主義」ということになるのだとおもうが、私に確信はない)を踏襲し、維持することは、きわめて易しいし、一番楽だと思う。批判することは従来の形を継承するよりは、難しいが、それでもまた、簡単である。特に破壊が伴わなければ。また、破壊することも面倒といえば面倒であるが、それでも、再建し、新しい構造を作り出すよりは、格段にやさしいのではないか、と思う。

     このグランドデザインを設計するためには、胃をキリキリさせるような準備、対策と実際にことを始めたあとあとからあとから、噴出する想定外の事態にも臨機応変に対応するための能力が要求されるのであるが、それを持つ人は、非常に少ないかもしれない。全体の人口の20%もいればいいほうだと思う。ものすごくえげつない負担を人々、あるいは人に強いる作業なのである。

     と、ここまで書いて、あれ、どこかで見た風景だなぁ、と思った。これこそ、現実的な到着地を明白に設定せずに、勢いだけで突っ走った、連合赤軍の人々を思い出した。また、アジア諸国に進駐していきながら、具体的にどのような連合体を形成するのか、それをどのようにして統合し、一つの国家として再統合していくのか、どのような政体を構成するのか(八紘一宇という曖昧模糊とした概念はあったにせよ)、をまったく欠いたまま15年戦争に突入していった帝国陸海軍部とそれに支えられた当時の日本国政府の姿なのである。

     帝国陸海軍部とういか大本営は、たしかにアジアの植民地支配をぶっ壊すことには成功した。しかし、それをどう再統合するか、というグランドデザインは持っていなかったのではなかろうか。小泉純一郎氏は自民党的体質をぶっ壊すことには成功したが、彼なりのグランドデザインがあったかどうかは知らないけれども、そのグランドデザインに従った自民党を作ることは、諸般の事情があり、できなかった。鳩山由紀夫は自民党政権をぶっ壊したけれども、その先どこに行くかの明白なデザインは持っていなかったように見える。彼なりには持っていたのだろうけれども。

     こう考えると、日本という國に存在する自覚しない宗教観というか思索の特性というのが繰り返されているだけのように思えるのは、私だけなのだろう。

     こう考えてみると、キリスト教界(個別のキリスト教会の文化や自分自身の信仰のスタイルやその考え方の方が、もっとそのことを考える必要があるのだと思うけれども)の見直しにしても、単にぶっ壊すだけではなくて、どこに行こうとするのか、というグランドデザインを考えながら、考える必要があるのではないか、と思っている。

     そして、ミーちゃんはーちゃんは、自分自身の信仰のスタイルやその考え方、自分自身のものの見方を少しづつぶっ壊しながら、どこに行こうとするのかを、どこに行きたいのか、それをどう形作ればよいのか、相変わらず、ぼーっと、考えている。答えは、まだない。
    コメント
    ようやく、私の問題意識の基礎の所を話てくれる人がいたという感じ。(上から目線ですみません。)大学時代、信仰を持ってからずっとキリスト教界にもっていた問題意識です。

    >中空の論理というのか、論理を換骨奪胎する『ぬえ』的な結構気色悪い存在というのか、それがいつの間にか確固たる論理の中にいつの間にかでーん、と居座っている気色の悪い存在である。それが、「ひかる」様のおっしゃる言い方で言えば、「日本という國に存在する自覚しない宗教観」というか、思考法なのか、精神性

    これは、丸山真男が「古層」と呼んでいたものではないでしょうか。
    http://www.ne.jp/asahi/nd4m-asi/jiwen/maruyama/first/index.html

    私は大学時代この先生にならったので、日本のキリスト教会が実はこの「古層」の上に建てられているのではないかと気がついていました。
    ただあまりにも話すと長く深くなりすぎ、自分の浅学と理解不足もあり、「古層」の存在に気がつきつつも、言語化や問題意識化、伝達ができなかったのです。戦前戦中の教会の歴史や文書を読むと非常によくわかります。

    もっとゆっくり話したいですねぇ。
    • ugougo
    • 2012.01.29 Sunday 21:08
    ugougoさま

    コメントありがとうございました。

    山本七平氏はそれを員数主義と呼び、丸山真男が古層と呼び、隅谷三喜男氏が二階建ての信仰と呼んだものと一致していると思います。観測される場所(人それぞれに現場が違うので)が異なるために、それの呼び方が異なる、ということなのだろうと思います。

    このことを真面目にやろうと思うと、記紀などの研究や、日本史の知識、民俗学の研究などが必要になり、網野氏の一風変わった日本史学と民俗学のハイブリッドになったような研究成果などを参照することが必要になるかもしれません。

    戦前より、戦中のあえて自らひずんだような、あるいは半ば強制的にひずめられて言ったような表現、とりわけ本来的には、日本の古層と併存し、対決しないまでも、相互に相いれない部分がかなりあるはずの教会文書の表現にそれはよく出現していますね。

    そうですね。このあたりのことも、ゆったりと時間をとってお話したいですね。特にugougoさんが、現在の教会のどのあたりでこのようなことを感じておられるのか、というあたりを含めて。

    また、三人で、先週末の昼食会のような楽しい会をしたいですね。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2012.01.30 Monday 07:51
    (「創造論は危険です」でも結構です。)

    「透徹した視点を持たない福音、自己を批判的に見る視点という透徹した視点を持たないキリスト教は、日本だけの問題ではない。形におぼれ、形にはまり、自己のしていることの正当性を客観視できないのは、どうも日本だけではなさそうである。」

    「ミーちゃんハーちゃん」様の言われるように、現実のキリスト教は、その地の文化に受容されてはじめて一般化・大衆化して来たのではないかと思います。

    ところが、日本の教会は、西洋流の解釈による「西欧教キリスト派」を無理やり受容しようとして過剰適応になって苦しんでいるように思います。

    西欧流の解釈をされた「西欧教キリスト派」を無反省に受容し、体に合わない服に無理に合わせるように必死で努力することはなく、堂々と「日本に土着したキリスト教」を考えても良いと思います。

    そのためには第一に、西欧の「法律的思惟」で一面的に解釈されたところの「教理主義」を相対化する必要があると思います。

    最近、氷のように冷たいプロテスタントには決定的に欠けているアッシジのフランシスコの豊かさを思うのですが、アッシジのフランシスコの「太陽の賛歌」、「小鳥への説教」などは、かなり「異教的」で「土着化したキリスト教」ではないかと思います。

    アウグスティヌスやカルヴァンに代表されるようなキリスト教の「西欧流解釈」が、唯一絶対に正しい「福音」の本義であるということはできないと思うのです。

    「福音」は活きているものなので、固定化したドグマに限定され閉じ込められれば窒息してしまいます。

    あえて「日本教キリスト派」という表現を逆手に取って、「西欧教キリスト派」に対応する、「それぞれの固有の文化的な文脈の中で開花する福音」の可能性を考えても良いのではないかと思いました。


    • 創造論は問題です
    • 2012.02.01 Wednesday 12:36
    「創造論は問題です」さま

    ハンドルネームの件では、大変失礼しました。

    コメントありがとうございました。個人的には、文化に受容されたかどうかは別として、文化との共通性を利用してきた部分はあると思います。パウロのアレオパゴスでの伝道でもそうですが。

    > ところが、日本の教会は、西洋流の解釈による
    > 「西欧教キリスト派」を無理やり受容しようと
    > して過剰適応になって苦しんでいるように思い
    > ます。

    必ずしもそうだとは言えないと思うのですが。過剰適応している教会もあれば、そうでもない教会もあると思いますよ。全体をまとめての議論って、どうなんでしょうか。

    過剰適応で苦しむのは、教会に限らないと思います。人間関係や組織と人間の関係でも苦しみむようです。このあたり、どの程度で境界線を引くのか、ということが大事かもしれません。共依存関係というのですかねぇ。(はちこさんの翻訳された、クラウドとタウンゼントの境界線(バウンダリーズ)にそのような指摘があったように思います。あれはいい本でした。)

    鎌野先生のこのあたりの意識と似ているのかもしれませんね。

    http://d.hatena.ne.jp/ct2010jccj/20101024/1287987125

    http://d.hatena.ne.jp/ct2010jccj/20101115

    >氷のように冷たいプロテスタント

    がすべてに当てはまるかどうかは別として、たぶん、霊性という意味では、確かにカトリックや東方教会に学ぶことが大事かもしれませんねぇ。その意味で、現代では、ナウエンとか、ジャンバニエ、ウィラード、なんかが近いかもしれませんねぇ。

    > アウグスティヌスやカルヴァンに代表されるよう
    > なキリスト教の「西欧流解釈」が、唯一絶対に正
    > しい「福音」

    はその通りですね。最近、トゥルニエの「生の冒険」を読んでいるのですが、その本でも指摘されているとおり、結局どんな運動も、固定化の危険性をもつと思いますし、だからこそ、これまで冒険者が改革者が出てきては、また、固定化し、さらに冒険者や改革者が出てくるするということを繰り返しているように思います。

    > 「それぞれの固有の文化的な文脈の中で開花する
    > 福音」の可能性を考えても良い

    たぶん、文化と時代の中で開花する福音、ということではないかと思います。文化とて、一定ではありませんし、社会が変容するように時代の中で、破壊も文化も変容するのではないかなぁ、と思います。福音が、人々に語られる以上、19世紀人には19世紀人の、20世紀時代人には、20世紀時代の、2000年代人には、2000年代人、2010年代人には2010年代人に適したイエスの紹介の仕方がある、ということではないか、と思います。メソッドとコンテンツの混乱が生じる方々がおられるので、困るんですけれどもね。これ、理解されない方もおられるので。

    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2012.02.01 Wednesday 20:26
    コメントありがとうございました。

    ご紹介いただきました鎌野氏のリンクを読みましたが、逆に驚き、落胆しました。
    鎌野氏は言葉の上ではあたかもヨーロッパ絶対主義とアジア絶対主義を対置させて「相対化」しているように見えますが、普遍的な福音の真理といいつつも、結局のところ西欧型の福音解釈のドグマを「絶対的な判断基準」としておられるように思いました。
    結局のところ、「度量衡原器」は、あくまでも西欧型のキリスト教のドグマなのではないかと。
    鎌野氏の言葉の上では一見、ヨーロッパもアジアも平等に相対化しているように見えますが、実はキリスト教解釈における「ヨーロッパ絶対主義」は無反省のままなのです。

    残念ながら、このように西欧型のキリスト教解釈を無自覚かつ無条件に前提としていることこそが、まさに「西洋流教理主義の限界」ではないかと思いました。

    「しおんややりべらるっぽい掲示板」にも書きましたが、マザー・テレサが施設で亡くなった人を、ヒンズー教徒はヒンズー教の葬式で、イスラム教徒はイスラム教の葬式で送り出したことについて、ヨーロッパ人として宣教地アジアでこのように振る舞ったことは驚異的であると思うのです。
    そこには、死んだ教理主義の影も形もありません。

    「それぞれの固有の文化的な文脈」は、ご指摘のように、もちろん伝統を背負った現在、「今ここ」のことだと思います。

    キリスト教の名の下に、「今ここ」に対して「普遍的・絶対的な価値」(と一方的に規定しているもの)を暴力的に持ち込み、対話しようともしないことが(世界におけるアメリカ合州国と同様に)日本の教会においても、もはや限界に来ているのではないかと思います。




    • 創造論は問題です
    • 2012.02.01 Wednesday 22:20
    早速のコメント、ありがとうございました。

    > 普遍的な福音の真理といいつつも、結局のところ西欧型の
    > 福音解釈のドグマを「絶対的な判断基準」としておられる
    > ように思いました。

    そうかなぁ。そうはおもえなかったんだけど?まぁ、私の感性が鈍いだけかもしれませんねぇ。あまり、そういう匂いがしないんだけど。ただ、「福音」をどう定義するか、かもしれませんね。実は、「福音」って、実はまともに定義されずに語られるから、混乱するんですけどね。

    「創造論は問題です」さんは、私以上に神出鬼没なんですけど、どこかにまとまった思惟をお書きになってないんですかねぇ。全部追っかけるのは、大変なんで、一度お考えの全体像が分かるサイトをお持ちでしたら、ご教示いただけると嬉しいなぁ、と思います。

    「創造論は問題です」さんの問題意識は、
    http://www.geocities.jp/tillich37/
    の方との関連性が深いのかなぁ。

    葬儀は、基本的に死者のものでなく、生者のものだとすると、ある面、マザーテレサの考え方は、ある面当たり前のような気がします。それを教理主義と関連付けるのはどうかなぁ、と思います。

    丁寧に探せば、対話しようとする人はおられると思いますよ。すでに、ポストモダン時代にあることを認識しておられる方々もおられますので。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2012.02.01 Wednesday 23:32
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