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2008.04.28 Monday

自然体としてのクリスチャンライフ

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    コアラさんのブログや、Takachanさんのブログを読みながら、昨日、教会でした聖書研究会の話を思い出していました。


     


    コアラさんのブログの中で、与え続けなければいけないという思いにとらわれ(思い込まされ)、他人に求めることが許されない、という悲惨な指導者像を刷り込まれたことや、Takachanさんのブログで主にあって愛さなければいけないのかな、という話が出ていました。


     


    そのなかで、ピリピ1章の中で言われていることの背景にも、無理して神の福音のために働くことや犠牲的精神でさまざまな取り組みをすることをパウロは主張しているのではなく、自分の与えられた範囲の中で、神との関係を保つことの中で、当たり前のことを当たり前にしていくことをパウロが主張しているのではないか、ということをお話しました。


     


    ピリピ1章5節の新改訳は「あなたがたが、最初の日から今日まで、福音を広めることにあずかって来たことを感謝しています。」となっていますが、ギリシア語の原本を見たところ、これは誤解を招きかねない表現となっているようです。原文には「広める」に当たることばは見当たらないので、口語訳や新共同訳のほうがまだ近いけれども、「最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。」では意味が分からないだろうし。聖餐式に参加するように、福音の一部を共有してきた、とか、福音にあるものの一部として存在し続けた、という方が意味なんだろうと思うと、無理して頑張って、与え続けたり、愛したりするのではなく、自然と神様がそういう方向を示されたときに、そのようにこうどうするという、自然体で十分なのかなぁ、と思います。


     


     


    コメント
    アダムは裸であることを知っただけであってそもそも裸でした。 知ったことによって理由は解りませんが不幸になりました。 なので、解決策は自分自身を良しとして受け入れることしかないと考えます。 自分自身を良しとして受け入れるとは神様が今の自分を良しとしてくれていることを知ることなので、信仰でしか捉えることがでないとも考えます。 この信仰が福音の奥義だとすれば、「最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。」の意味が通じないでしょうか。 私はそう言う意味で自然体であることに大いにこだわります。
    コメント、どうもありがとうございました。 知ることは、時に人を不幸にします。箴言がいうように、「人は自分の道はみな正しいと思う。」のだけれども、その道が正しくないことを神との関係で示されるからでしょう。正しいと信じてきたことが、正しくない、おかしいといわれることは不安にし、混乱が生じるようです。 神が人それぞれのあり方のままで受け入れてもらえる、という驚くべき事実は本当に重要ですよね。福音に預かっている、という表現は確かに信者にはなんとなくはわかっても、ただ、福音に預かる、という表現はキリストの体の一部となっているという理解を前提とするので、そこが分かっていれば、まだ、分かる表現だと思います。新改訳はちょっと読み込みすぎかな、と思いますが。なんか、広めること、という行為が強調されている感じがするので。 自然体で良いのだと思いますよ。休むときは休む。自然体でいるうちに、成長させる神の力が働くのだと、個人的には思っているので、無理はしないようにしています。しもべ、のところで書いておられるように。 あずかる、という形で訳されている言葉の中に、体の中の一部となっている(つまり受け入れられている状態にとどまっている)という雰囲気もある語なので、
    • 芦屋めぐみ
    • 2008.04.29 Tuesday 00:05
     ピリピ1章5節の、ギリシャ語本文の「コイノニア」はどう訳されるか、ですかね。今週の主日礼拝が、ちょうどその箇所についての宣教だったので。    ・・・新改訳聖書の訳については、私の集っている教会の聖書の学び会の中でも、ときどき問題にされます。  いえ、芦屋さんの別ブログ「ブラザレンについての諸断章」の、石濱義則さんの思い出の中で、石濱さんが「新改訳聖書を読んでいて、明らかに聖書の本文を超えて訳がされている、あるいは翻訳上の問題がある」と言われ、納得ができないものに関しては、意見を翻訳委員会に送られたようで、を読んで、また興味深く思ったので。  あ、だいぶ休ませてもらったので、中途半端ながら、ちょっと書く気になれましたよ ^^
    • Focea
    • 2008.05.13 Tuesday 22:30
    いらっしゃいませ。 コイノニアは、キリストの体の一部であり続けたこと、とでも訳すのが良いとは思うのですが、やや説明的な訳になりすぎですね。あずかってきた、というのも今の日本語の語感からすると、ちょっと違うかなぁ、と思います。 石浜さんは、思い込んだらどこまでも、の方でしたから結構強烈な物言いだったような記憶があります。あなたの聖書は間違っている、って平気で言っていましたから。ちょっとビックリしますよね。普通の神経なら。 また来てくださいね。
    • 芦屋めぐみ
    • 2008.05.14 Wednesday 22:50
     また参りましたよ。    嗚呼、石濱さん。だけどそれは、ブラザレンの中でだったんですよね。いきなり他の福音派教会の信徒に向かってまで、それはなかったでしょうね、まさか(笑)  かなり学んでいる者ならともかく、それこそ不安になって混乱するか、争いになりかねませんよ〜 ^^  -----
    • Focea
    • 2008.05.15 Thursday 13:04
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