<< Nixonをみた | main | 出掛けに見たワイドショーのニュースから >>
2011.12.14 Wednesday

「救い」に関する誤解を考えるためのユニークな本

0
    評価:
    Scot McKnight
    Zondervan
    ¥ 1,364
    (2011-09-13)
    コメント:自分たちが考えている救いとは何か、福音とは何かの再考を迫る本。イエスが何を語ろうとしたのかを聖書から再現しようとする刺激的な本だと思う。

      大和郷にある教会で紹介されていたThe King Jesus Gospelを読了。面白かった。おそらく、タイトルは、昔からよく利用されていて、なんとなく他の翻訳より一段高く評価している人たちも多い、The King James Bibleのパロディになっている。やるなぁ、McKnightさん。

     この本のポイントは、大和郷にある教会というブログ教会暦と信条という記事で、小嶋先生は以下のように要約しておられる。

    福音が「救いの計画(あるいは救いの順序)」とそれを「説得する」こととほぼ混同、還元されている現状に対して、パウロが簡潔な形で伝承された『福音』 (汽灰螢鵐15章)、四福音書、使徒の働きに収録されているペテロとパウロの伝道説教に照らし合わせて「使徒的福音」の輪郭を提示し、それを通して矮小化された現在の福音理解を比較分析している。
     この小嶋先生の要約に、ミーちゃんはーちゃんも大賛成です。ただ、こう書いてしまうと、この本の面白さが伝わりにくいかなぁ、と思います。また、これまでに書いた「いただいたコメントから、キリスト者2世問題をまたまた再考してみた」でも、読み終わったら、面白さを書きますね、とお約束しましたので、そこで、もうちょっとミーちゃんはーちゃんが面白い、と思った部分を紹介しながら、書いてみたいと思います。

      まず、この本の書き方が、また、アメリカ的なのも、アメリカ人にとっては、魅力的。まず、第一章では、この本を流れる視線をThe Big Questionということで、導入している。その第1章の中で、What is the gospel?という質問がこの本のテーマであることを明らかにしているんですね。そして、その問いが、最も現代のキリスト者にとって重要な問いであり、現在の一般的な回答の聖書的な根拠が実は弱い、ということを指摘しています。その表現の仕方が、これまたアメリカ的。

     Exhibit A, Exhibit B, Exhibit C.とはアメリカの裁判で、検察や弁護側が証拠(Evidence)を提出するときのやり方。ややこしい案件では、数字になりますが。

      Exhibit A(証拠A)としては、具体的な著者に寄せられた電子メール、Exhibit B(証拠B)としては、John Piperの所説、Exhibit C(証拠C)としては、他の牧師の意見等、実際に著者がであった、福音が矮小化されている事例をコンパクトに示しています。

     さらに、第1 章, 第2章Gospel culture or salvation culture?, 第3章 From story to salvation,第4章 The apostolic gospel of Paulに出てくる学生のコメントの一部などで、本人の主張を実証している。そのコメントのいくつかを紹介してみようかなぁ、と。

    A short recap of the gospel I received: Basic four spiritual law premise, justification by faith alone, plus some guilt if you did not do the "optional" work in addition to the faith part, and a bonus of "you probably have not that gospel" if you don't believe in a six-day creation...  Whereas the gospel I grew up with was basically "sin management," the gospel Paul is describing [in 1 Colinthians 15] is a solution to "sin" in order to "defeat" the bigger problem or enemy: "death."  "Gray" -- a student

    私 が聞いた福音の要約は、豊かな人生のための4つの法則(キャンパス・クルセード刊だそうで。はちこさんご教示感謝)にかかれたもの
    基本的な4つの霊的な約束であり、信仰にのみによる義認、信仰に付随するおまけの仕事(奉仕とか、教会出席など)をしなかった時に感じる罪悪感、もし6日間で天地が創造されなかったと思うときには、ボーナスのように突然降って湧いてくる「あなたは、おそらく福音を 持っていない」という大きな罪悪感である。私が育ってきた中での福音とは、パウロが(第1コリント15章で)述べている福音であり(下のはちこさんのコメントをご参照ください。どうなんでしょう。)、即ち『罪の上手な過ごし方 (sin management)』であり、それは、罪とは、より大きな問題、あるいはボスキャラのような死を突破するための解決法なのである。 
            グレイ − 一学 生


    とか、

    As its heart, I have to say that I was raised by the gospel of fear....  Growing up as a child I was given basic ideas:
       You're a sinner.
       We need to be with Jesus.
       And He saves us from hell...
       We always talk about how we are sinners and are drifting away from God and need to come to Him before He "has" to send us to Hell.
    "Craig" -- a student

    コアとして信じていたこととして、私は恐怖の福音によって育てられた。育っていく中で、私は以下のような概念のもとで育てられた。
     ■あなたは罪人にすぎない。
     ■イエスと共に我々はいないといけない
     ■イエスは我々を地獄から守ってくれる
     ■私たちがいかに罪人であるかを常に語らねばならず、以下に神から離れたものであるかを語らねばならず、我々は、神が地獄に送らなければならなくなる前にイエスの許に行かなければならない。
      クレイグ 一学生

    なんか、面白かった。そうそう、Caledoniaさん、あなたは一人ではありません。あなたと同じように、クレイグさんも、恐怖の福音に閉じ込められていたのです。他にも、恐怖に囲われているデニースさんという方の証言が記載されています。

    I would go to a camp every summer that would have what they called "Cross Night." They would
    show a very graphic video of the death of Christ and when emotions were high would tell everyone that if they wanted to accept Christ there were people around the room that would help them to do so. The video stopped after Jesus died and the resurrection wasn't even spoken of.... I was taught that I was saved because of Christ's death; the resurrection was almost a bonus and the second coming was something everyone should be scared of.  Denise--a student

    毎年夏に、キャンプに行くことになっていて、そこでは、「十字架の夜」という時間があるのでした。そこで示されるビデオはイエスの十字架の死を非常にビジュアルに示すビデオが上映され、感情が最も高ぶったころに、そこにいる全員にキリストを受け入れるのかということが示されるのでした。そして、部屋の周りには、その部屋にいる人たちがそうできるように仕向ける人々がいるのでした。イエスが死んだところで、ビデオが止まり、復活のことは一切言及されないのでし た。私は、私はキリストが死んだゆえに救われたのであるといわれました。復活に至っては、おまけの特典みたいなものであり、イエスの再臨は、多くの人にとって、恐れなければならないもの、という感じでした。
       デニース 一学生
    Caledonia様、ほらまたお仲間のようですね。なお、これらは、いずれも北米の大学の学生がおそらくマクナイトが担当している授業のときに書いたものの引用のようです。

     他の面白い表現としては、同書のP74のEvangelicalism's Experiential Focusでは、次のように書かれています。

    So let's push a bit into what happened after the Reformation and examine the evangelical movement.  To be a true blue evangelical in our heritage or to be accepted into the membership of a church in the evangelical tradition, one has to give witness to one's personal experience of salvation.  The Puritans sometimes called this personal statement of faith a "relation"; but whatever one may want to call it, the experience of personal salvation is the threshhold-crossing event, and the ability to give witness to that event is required for full acceptance.  John Wesley expresses in pristine words the evangelical experience.

    In the evening I went very unwillingly to a society in Aldersgate Street, where one was reading Luther's Preface to the Epistle to the Romans.  About a quarter before nine, while he was describing the change which God works in the heart through faith in Christ, I felt my heart strangely warmed.  I felt I did trust in Christ, Christ alone for salvation, and an assurance was given me that he had taken away my sins, even mine, and save me from the law of sin and death.

    To this day in most evangelical churches, both where they baptize infants and where adult baptism is practiced, a potential member is asked to meet with deacons or elders or the pastor to witness to one's experience of salvation.  Though it need not sound like Wesley's or other archetypal conversion stories, the story will be examined to see it is real and personal.

    こんな感じでしょうかねぇ。
    次に宗教改革以降起こったことについて触れ、それが福音主義(変換者注:福音主義というこの用語、用語としての見直しが必要かも。伝道主義のほうがいいかもしれない。)運動にどう影響したかを考えてみたい。これまでの伝統の中での真の純血種の福音主義者となり、福音主義の伝統の中における教会の構成員となるためには、人は、救いに関する個人的な証(変換者注:証拠となるような事象についての個人的見解の表明)を することが求められる。ピューリタンはこの個人的な信仰の言明を『関係』と呼んだ。しかし、それがいかに呼ばれようと、個人の救いに関する経験は、急展開する ような事象でなければならず、そのことを証(口述)することができることが、完全に受け入れられるための条件として求められているのである。ジョン・ウェスレイは、この福音主義者としての純粋な表現として、個人的な経験を以下のように語っている。
    ある夜わたしは、あまり気乗りがしなかったが、Aldersgate 街にある会場に行った。そこでは、ある方が、ルターの「ローマ書注解」の前文を読んでいた。8時45分に彼がキリストにある信仰を通して、心の中で神が働かれることによって神が心を変えてくださることを説明していたとき、私は、心が妙に温かくなったような感じがし、私はキリストを信じ、キリストのみが救いであること、キリストが私の罪を取り去ることを私に保証し、私を罪と死の法則から救ったことを感じた。


    今日に至るまで、福音主義的な教会では、それが幼児洗礼をしていようが、大人の洗礼をしていようが、これからメンバーになる候補者は、執事や、長老、あるいは牧師のところに行き、個人が救われたという経験を報告する(証する)ことを求められる。それがウェスレイのようなものである必要性や、典型的な改心の お話である必要はないが、そのことが実際のことで、個人的なものであることが求められる。
     この個人的経験の証というか公の場での表現というのが曲者で、信仰以前の状態が悲惨であれば悲惨であるほど、その人が信仰者として立派に見える、という構造を持っているんですね。そんな悲惨な経験をしたことがないクリスチャン2世が多いのですよ。ヤンキー牧師の表現を借りれば、"信仰生活への推薦入学者"というよりは、より正確には、”信仰生活への裏口入学”あるいは”信仰生活への縁故採用”的存在に2世は見えるんでしょうねぇ。確かに、キリスト者1世から見れば、『ずる〜〜〜〜』あるいは、超卑怯なやり方で、キリスト教への糸口があった人々であるキリスト者2世もいるのです。とはいえ、そんな2世は、”信仰生活への縁故採用人事”と見られているのではないか、とひそかにおびえていたりするのです。だから、キリスト者2世は、こういう悲惨な生活からの劇的な転換といった「ごっつかっこええ」証を聴くたびに、自分はなんて情けないキリスト者なのだ、と自己嫌悪に陥る傾向があるように思います。

     ミーちゃんはーちゃんなどは、「ずるかろうがなんだろうが、キリストが一方的に宣言してんだから、いいじゃん」とかあっさり思ってしまうのですけどね。まぁ、1世のお気持ちも、理解できないわけではありません。仕事に就くことや、教育を受ける機会が門地・性別等による差別をしない(ことに一応なっているが、現実にほんとかどうかは少し疑問)にもかかわらず、それより普遍的であるはずの、キリストに対する信仰、あるいは聖書へのアクセシビリティが、結果として、門地による差別があるなんて絶対にユ・ル・セ・ナ・イ!この恨みハラサでおか!(そんな「魔太郎が来る」という恐怖漫画が昔ありましたね。キリスト教会における不良少年のミーちゃんはーちゃんは親の目を隠れて、ときどき読んでいたのでありました。ははは・・・。)いうお気持ちもよくわかります。

     そうそう、Evangelical movementの訳語は、通常は『福音主義』運動と翻訳されますが、実態的には、伝道熱心、改心させることに熱心な方々が多いということをかんがえると、『伝道主義』運動とか『改心主義』運動のほうが実態を示すわかりやすいラベルとしては、そのほうがわかりやすいかも知れませんねぇ。まぁ、『福音主義』が定着しているのでねぇ。変えにくいですけど。しかし、いつごろからこの訳語が定着したのだろうか。誰が最初に言い始めたんだろうか。ちょっと気になりますね。

     ところで証(キリストと出会って変えられた経験について広く一般向けに口述すること)について、思い出したことがあります。沖縄で活動中のグループに関したルポルタージュ的な研究書である、池上 良正(1991)[「悪霊と聖霊の舞台―沖縄の民衆キリスト教に見る救済世界」どうぶつ社)」で取り上げられたキリスト者集団(これがまた、わがキリスト者集団からのスピンオフ集団なんでねぇ。とほほ)では、この個人の信仰体験に関する表現(業界用語で証と呼ぶ)の内容に行き過ぎた内容を語る方々が現れるようになり、また、それがテープに録音され、一部分とはいえ、個人のプライバシーにかかわる重要な部分が流出・流通して言ったというとんでもないことがおきたようです。このグループとかかわったことがある方と
    コアラさんの主催する会で、お知り合いなり、その方からお聞きした限り。ある面で、このグループなどは、まさしく、『救い』の文化が行き過ぎた結果の聖書理解の超変形(ハイパートランスフォーメーション)がおきたのではないか、と思います。このグループについて、詳しくは、池上(1991)を参照してください。

     さらに、Willardさんの超面白い表現を引用しながら、McKnightさんはこのように表現しています(p75)。
    From the enhancement of a gospel culture with a profound emphasis on salvation we have now arrived at the ability for a person to be able to say he or she has had the right experience.  And that experience far too often is nothing more than "I'm a sinner; Jesus, take my place."  A gospel culture will have none of it, nor will a proper sense of salvation. I leave the last words here for Willard:

    What must be emphasized in all of this is the difference between trusting Christ, the real person Jesus, with all that that naturally involves, versus trusting some arrangement for sin-remission set up through him - trusting only his role as gilt remover.


    救いに関する非常な強調をおく福音的文化の強化
    (変換者注:福音的文化の変容のほうがいいかなぁ、と思います)によって、ある人が、正しい経験を持っているかどうかをいえる能力を持つところにまでいたったのである。その経験も、圧倒的にほとんどの場合、『私は罪人です。イエス様、私の身代わりになってください』というだけのことに過ぎない。福音の文化はまったくそのようなものではないし、正しい救いの感覚というのもそういうものではないはずだ。(はちこさん コメントと適切な役、ありがとうございました。)そしてこの経験は、私は罪人で、イエスよ私の中にいてください、という以上のものである。福音的文化は、その一つを持つかもしれないけれども、正しい救いの感覚を持ちえなくなる。最後に、ウィラードの言葉で締めくくろう。

    ここで、強調しなければならないのは、実際の人としてのキリストとそれに当然まつわることを信頼することと、キリストによって、罪赦されたということの仕組みについての取り決めがあることを信じる、すなわち、キリストを罪悪感の除去装置として信じることである。


    やるぅ、ウィラードさん。むちゃくちゃ面白い!東電福島第一原発のアルド社製放射性物質除去装置ならぬ罪悪感除去装置としてのキリスト!
     
    Wow!Wow!!Wow!!! 

     そういえば、意外と、罪悪感除去装置としてのキリスト、というお証をよく聞かせていただくことが多いような気がします。
     罪悪感除去装置を某通信販売番組のCM風にするとこんな感じかなぁ?

    タレントA「Kさん、これ、すごいんですってねぇ。」

    Kさん「そうなんですよ。以前の律法版に比べて、その能力はなんと10倍以上になっているんですね。それこそ、どんな罪でも取り除けるんです。ほらね。」

    タレントB「K社長、でも、お高いんでしょう。」

    Kさん「当社としても、メーカーのYHWH様と特別に特別にですよぉ、交渉させていただきましてー、・・・・19,800えーん、19,800円でご提供したいとおもいます。」

     会場「
    おぉー(どよめき声)」

    Kさん「それだけでなく、今回は、皆さんのために、特別にどんな悪にも立ち向かうための名コーチであるパウロさん人形も
    今回限り、ということで特別に2体!お付けしたい、と思います。ぜひ、この機会にお買い求めいただければ、と思います。」

    アナウンス「
    セーショドーオリジナル 罪悪感除去装置特別版 ナザレのイエス パウロ人形2体つきで、セーショドー特別価格、 19,800円、19,800円での特別提供でございます。お買い求めは」

    CM音楽「フリーダイアル1-800-555-YHWH!」
    うーん、一部に大うけしそうだが、大半のきまじめなKGK関係者などや年配の信者さんからは、顔をしかめられるだけでなく、石が飛んできそうだ。退散、退散。

    しかし、このギャグを書きながら、サンタバーバラで買った面白グッズを思い出した。浴用石鹸(罪を洗い流そうボディソープ)なのだが、しゃれが効いている。なんせ、大司教様、公認だそうだから。ははは・・・・。

    http://www.blueq.com/wash-away-your-sins/

    サンタ・バーバラにいたときの信者たちの、牧師へのプレゼントがこれであった。牧師もげらげら笑いながら、ちゃんとした聖書講解の中でこの石鹸を取り上げ話していた。プレゼントした信者は、信者で、牧師の話の中でその石鹸が出てきたので、大笑いしていた。こういうおおらかな感性って、ミーちゃんはーちゃんの好みだったりするんですね。日本の信者さんは、あまりにまじめでねぇ。

    ま、悪趣味な冗談はさておき、McKnightの本に戻ろう。p117にはこのような表現がある。

    From Peter's world-transforming sermon in Acts 2 to Paul's sermon on the Areopagus in Acts 17, it was the Story of Israel that shaped how they gospeled. If we want to get "gospel" right, we will need to remember that in the heart of that apostolic gospel tradition in 1 Corinthians 15 is "according to the Scriptures." As we will discuss in this chapter, the sermons in the book of Acts put muscle and fat on that very "according to the Scriptures" bone in the apostolic gospel tradition.

    使途の働き2章に示されている、ペテロによる世界を形作ったに近い説教から、使途の働き17章に示されているアレオパゴスのパウロの説教まで、使途たちが福音化しよう方法を形作っているのは、まさにイスラエルの物語(イスラエルに約束されたことの実現の物語)であった。『福音(本来的な聖書の言う福音)』を正しく受け取るためには、第1コリント15章の『(旧約)聖書が示すとおりに』という表現に見られる使徒的福音の根幹を覚える必要がある。この章の後半で議論するように、使徒の働きの中の説教は、筋肉と脂肪(すくいのことかな?)を
    まさに『(旧約)聖書が示すとおりに』という骨格の上においた使徒的福音の伝統のうちにあるのである。


     最近、クリスマス関連の説教と救いについて、イエスの関係者(マリアとか、ザカリアとか、マリアのところに来た天使君(何回か来ている)、羊飼いに現れた天使君)の発言を基に考えた聖書講解の準備をしていて思ったのだが、そもそも、マリアとか、ザカリアとか、何回か出てくる天使君たちの発言の中に、そもそも『(旧約)聖書が示すとおりに』という表現が繰り返し出てくるのであるから、そこを起点にしてもいいのかもしれない、と単純に思った。もちろん、パウロこそが、ある面で言うと後世のわれわれが誤解しかねない表現をした、という側面はまーったくないわけではないが、この本の後半でMcKnightは、「パウロの手紙は、そもそも、当時の人々に向けられて語られていることなので、そこをよく考える必要があるのではないか」という、ちーとリベラル風の考え(Piper先生をそれこそ大・激・怒させそうであるが)とも受け取られかねないことを書いている。こういった表現に見られるように、歴史的文脈をまーったく無視した聖書理解が、大きな誤解を生み出した、というのがどうもMcKnightの主張のようである(特に9章)。だからこそ、その間違い、ボタンの賭け違いの出発点になっているパウロが書いた第1コリント15章の中のテキストを出発点にすることで、「『(旧約)聖書が示すとおりに』という観点からもパウロがいってんじゃん。そこを読み飛ばしてないか?」ということをMcKnightは主張しているのだと思う。なるほどねぇ、とは思うけど、この本で言う、「救い」の文化圏の人々は、ある特定の『救い』というコンセプトというかマインドセットにロックインされてるんでねぇ。どうなんでしょうねぇ、まともに受け止めてもらえるんかなぁ、と思います。

    それからp135には、次のような表現があります。

    The book of Acts does not have an atonement theory shaping the fundamental gospeling events of Peter or Paul. Some will be offended by this - in fact I have my self been offended at times by their approach, but I ask us all to reread the New Testament.  These facts are in your Bible as much as they are in mine.  I want to explain what is there and not use what is not there to explain what is there. 

    使徒の働きは、ペテロとパウロによる基本的な福音化するためのイベントを形作っている贖罪の理論を含んでいない。ある人々は、これを聞いて怒るかもしれない。私自身、時々、このようなアプローチに腹が立つが、私自身は、すべての方に聖書を読み直してほしいとお願いしたい。これらの事実は私の聖書にあるのと同じように、あなたの聖書にもあるのだ。私は、聖書の中に何があって、聖書に何があるかを説明するために、聖書の中にないものを用いたくないのだ。

    おっしゃる通り!ご説ごもっとも!

     確かに、贖罪の理論が使徒の働きの中にないというのは、確かにびっくりするかもしれませんが、でも、確かに贖罪の理屈そのものとしては、言及されていないような気がします。いちばん、McKnightが言いたいことは、勝手に作られた枠組み(たぶん『聖書的』という枠組み)にそって聖書を読むんじゃなくて、それぞれがきちんともともとの聖書に戻れば何とかなんじゃないか、私の聖書の中にあるものとあなたの聖書の中にあるものとが違うはずがないので、聖書をこれまでの枠組みを捨てて読むこと、それを基礎とすべきだ、というきわめてまっとーな聖書主義的な解釈だろうと思います。

     続いてp136では、Jonathan Edward の人々を怒らせた説教との関連で、McKnightは次のように書いています。


    Edward's theology is not mine and his imagery of God holding humans in the hands of providential fate and doing with them according to his arbitrary will not easy to digest, but one can not dismiss the presence of a final judgment in the gospeling of the apostles.  Therefore, all extravagances aside, one cannot dismiss those who have able to put before humans the reality of final judgment. Perhaps we need more of Edwards today, not less.

    ジョナサンエドワードの神学は私の神学ではないし、彼の神が人間を神の定めた運命というものの手におさめているという理解や、人間を神の勝手な糸によって扱われるということは理解しがたいとはいうものの、使徒の福音に最後の裁きの存在があることを見逃すことはできない。すべての理解しがたいことはさておいて、人は、最後の裁きの存在という現実に直面しなければならない、ということから逃れることはできない。おそらく、現代においてエドワーズ的な存在が、不必要なのではなく、もっと必要なのだろう。

    また、神の王国の回復として、p141でMcKnightは、次のように書いています。

    I have but one more point to make here, and it takes the messianic and kingly assignment that Jesus alone accomplished perfectly and amazingly assigns it back to us - the people of God, this time seen in Revelation 5:9-10 and 20:6

    And they sang a new song, saying:
    "You are worthy to take the scroll
     and to open its seals,
    because you were slain,
    and with your blood you purchased for God
    persons from every tribes and language and people
    and nation.
    You have made them to be a kingdom and priests to serve our God,
    and they will reign on the earth"
     
    Blessed and holy are those who share in the first resurrection.  The second death has no power over them, but they will be priests of God and of Christ and will reign with him for a thousand years.

    ここで、もう一つだけ、追加で明らかにしたいことがある。それは、イエスが、完全に、そして驚くべき方法で実現した王としての立場とメシアとしての立場を、われわれ、すなわち神の民にその役割を与えてくださったのである。黙示録の5:9-10 と 20:6を見てみよう。

    そして、彼らは新しい歌を歌っている。
    あなたは巻物を受け取るにふさわしい方であり、
    その封印を解くにふさわしい方である。

    なぜならあなたは殺され、
    すべての民族、言語、国民、国家から神に属する人々をあなたの血で神のためにあがなった。そしてそれらの人々を神の王国とし、神に仕える祭司とし、彼らは地上を支配する

    第1の復活に預かる人は祝福され、聖なる人々である。第2の死は、これらの聖なる人々に影響を与えることができず、変わって、彼らは神の祭司、キリストの祭司となり、千年の間、支配する。

    このあたりは、Piperさんも納得でしょう。これが、Love WinsのRob Bellとの違いかもしれません。このあたり、BellのLove Winsでは、千年王国がどうたらこうたら、ということに対してもBellは疑念を持っているので、その面で、Love Winsはスキャンダラスで、こちらのほうは、そこまで奇矯でないので、ぎりぎりOKなのではないか、と思います。

    最後の部分で、聖餐式などの重要性をMcKnightは言及しているが、一昨年のMcGrathの日本での聖餐式の講演とも共通するものがあったと思う。

     ところで、大和郷にある教会の小嶋先生は、
    最近(ここ10〜20年位の傾向か?)福音主義のクリスチャンがカトリックや正教に改宗すると言う現象が目に付く。

    一つは聖書の個人解釈権の原理に立つことによる果てしない論争、権威の脆弱性や崩壊に幻滅して、と言う面があるだろう。
    さらに「信心(の継続)に関し、プロテスタント個人主義の不安定性に対し、カトリックや正教が提供する「教会的伝統」の安定性が評価されていることがあるであろう。
    書いておられますが、ミーちゃんはーちゃんは、ちーと違うのではないか、と思うのです。たしかに、「プロテスタント個人主義の不安定性」というか、救いの文化における個人的経験を異様に重視するが故の経験主義的な側面、個人主義的な側面の不安定性というか、客観性のなさ、というのもあるでしょうが、「敵の敵は友」のように、宗教改革で否定したものを否定したら、もともとのものに戻ってしまったということがあるのではないか、と思うのです。つまり、「カトリックは駄目、といった、プロテスタントを駄目といったら、残るキリストと関連する信仰集団としてよってたつべきものとしては、新興のキリスト者集団に行くか、カトリック的伝統やギリシア正教的伝統とならざるを得ない」ということだと思います。「新興のキリスト者集団」はどうも時に胡散臭いので、となると、消極的選択肢として残っているのが、カトリック的伝統やギリシア正教的伝統、とならざるを得ないのだと思います。

     さて、全体の感想ですが、この本、「あー、面白かった。」という本でした。この本を読み始める前から、今いる教会で、最初は3回シリーズで、「救い」について、聖書講解をするつもりではじめたのですが、いろいろあって、現在、すでに3回目。それもイエスとイエスの関係者で言った「救い」の概念ところでとまっている。あと、4回くらいかかるかなぁ。使徒における「救い」とはがあって、パウロの手紙における「救い」があって(2回)、黙示録における「救い」とは、出終わればいいけれども、もう一回全体のレビューが入りそう。あと、5回か。ちーとやりすぎかも。最悪、使徒時代における「救い」の検証、2回くらいは話してみたい。

     しかし、ところで、このMcKnightの本、日本語版をどこかで出さないだろうか。いのちのことば社はきびしいだろうなぁ。本当は、いのちのことば社の書籍をたくさんお読みの読者の方々には、刺激として一度、読んでみていただけると、面白いのだけれども、無理かもねぇ。

    コメント
    いやー、僕の「淡白な要約」では確かに「これからこの本を読みたいかも」、と考えている読者の心を動かすことは難しいと思っております。
    さすがに映画をよく見る方の「本の紹介」はダイナミックでいいですね。サービス精神旺盛さに脱帽です。
    この本を面白く読めた、と言うことはマクナイトの問題意識を共有しているからだと思います。そうでなければ戸惑いやムカッと来ることの方が多いのではないかと想像します。
    とにかくこの本でマクナイトが提示している視点は大切です。彼の場合やはり普段大学生を相手にしているので彼らの次元での問題提示ができているところが素晴らしいのだと思います。N.T.ライトも基本的には同じ問題提示をしていますが、マクナイトほど単純化しません。その分読者の方に消化不良の感じを抱かせるのではないかと思います。
    フォロー(と言っては失礼ですが)ありがとうございました。
    • 小嶋崇
    • 2011.12.18 Sunday 19:19
    小嶋崇先生

    わざわざのコメントありがとうございました。先生のお書きになられたもので、読みたいかもと思われる方がいないということはないと思います。ただ、McKnight自体の面白さ、というよりかはノリの良さ、見たいなものがどうもまじめに書かれてしまうと、どうなんでしょう、と思ってしまったのと、この問題、Caledoniaさんという傷んだ葦のような方が抱える問題意識と非常に深く結び付いていることを直感的に理解しておりましたので、Caledoniaさんだけがお悩みなのではない、ということをご理解いただくためにも、ちょっとやりすぎくらいにご紹介してしまいました。

    実は、ライトも読み始めているのですが、さすがに大部、通勤電車の中で読むのがつらい、重たい、辞書がいる、老眼が始まった目に優しくない、ので、つい、この手の薄い本を持ち歩いてしまっている自分がいるので、どんなものだろう、と思っております。

    先生のお書きになられたものや「のらくら者の日記」でのご紹介を見る限り、大家であるライトさん自体は、非常に楽しい方のようですし、入門向けの注解では楽しく書かれているようですが、私が入手したパウロ研究などの書籍は、やはり本格的なので、うーん、荷が重たい、消化不良を起こしそう、と思ってしまいますし、ミーちゃんはーちゃんには、Paulとかは、正直食傷気味ですねぇ。所属教会のクリスマスコンサートをめぐるドタバタも終わりましたし(もう少し残っていますが)、2世問題のAccidental Pseude-Theologianとしても一定の役割が終わったので、これから、少し落ち着いて読んでいきたいと思います。

    何でもこなすワンマンバンドをライトさんに求めるよりは、それぞれの役割分担があって、マクナイトさんには、マクナイトさんの役割があるのかなぁ、と思います。その役割がうまく用いられているのが、The King Jesus Gospelなんだろうと思います。

    本業の業務・教会関連業務と体調次第と、というところはありますが、次回の読書会くらいからは、参加させていただけたら、と思っております。

    わざわざのコメント、感謝感激でございます。ありがとうございました。心から感謝しつつ。

    善きクリスマスをお迎えください。主の豊かな恵みが、小嶋先生と大和郷の教会の皆様にありますように。

    栄光在主
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2011.12.19 Monday 10:58
    上記コメントに間違いがあります。申し訳ございません。食傷を起こしていたのは、Paulではなく

    The New Testament and the People of God Volume 1

    のほうでした。途中で挫折しております。

    謹んで、訂正してお詫び申し上げます。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2011.12.19 Monday 14:31
    おお、The King Jesus Gospel、話題になっていますね! ただ、タイトルは、著者が心を込めてそう思っているものであり、The King James Bibleのパロディではないと思いますが…
    来月、スコット先生はうちの教会に来て、ヤコブ書の集中講義をしてくださることになっています。日本でも話題になっていますと伝えておきますね。


    あと、重箱の隅をつつくようで申し訳ない&かわむかいさんの記事を熟読してすべてを確認したわけでなく、最初のほうの一部とウィラードの引用があるあたりを拾い読みしただけなのですが、翻訳が、あちこち不正確のような…

    Basic four spiritual law premise というのは、キャンパスクルセードの「豊かな人生のための4つの法則」って、あるじゃないですか、あれを指しているんですよね。本来ならもっとずっと豊かな福音が、たった4つの箇条書きに還元されてしまった、ということ。

    そして、

    Whereas the gospel I grew up with was basically "sin management," the gospel Paul is describing [in 1 Colinthians 15] is a solution to "sin" in order to…
    の文章は、「私が育ってきた中での福音とは、基本的に『罪への対処法』であったのに対し、パウロが(第一コリント15章で)述べている福音とは…」と、両者を対比させているのだと思います。

    ちなみに、Sin managementというのは、ダラス・ウィラードが使っている表現で、福音や信仰生活を、単に「罪を犯さないように生きる」とか、「罪を犯してしまったときにはどうするか」といったレベルでしか考えないことを指します。

    また、And that experience far too often is nothing more than "I'm a sinner; Jesus, take my place." A gospel culture will have one of it, nor will a proper sense of salvation.
    の部分、one of it じゃなくて、原文はnone of itですね。

    訳も、「その経験も、圧倒的にほとんどの場合、『私は罪人です。イエス様、私の身代わりになってください』というだけのことに過ぎない。福音の文化はまったくそのようなものではないし、正しい救いの感覚というのもそういうものではないはずだ。」という感じでしょうか?

    ともあれ、この本、日本でも翻訳出版されたらいいと思いますか? 私も、日本の出版社さんをあたって、この本をプロモートしたいなぁと考えているのですが… どなたか、名乗りをあげてくださる出版社さん、いないかしら。
    はちこさん。

    す、鋭い突っ込み。どうもどうもどうも。

    いやぁ、素人が手出しするといけませんねぇ。さすが、プロフェッショナル。ご指摘、ありがとうございました。しかし、none of を one of と打ち間違い、それをもとにながらで無理からに日本語に変換しているので、いやぁ、お恥ずかしい。

    ご指摘、本当にありがとうございます。感謝でございます。

    ご指摘の通り、誤訳は散見されると思います。お恥ずかしい限りです。一応、そのこともあるので、機械翻訳より多少まし、ということで、日本語変換、といっていたり、変換者と自信を読んだりしています。

    > キャンパスクルセードの「豊かな人生のため
    > の4つの法則」って、あるじゃないですか、
    > あれを指しているんですよね。

    あー、そうなんですか。知りませんでした。無知のなせることとはいえ、とほほ…。高校までいた教会の指導方針(超教派運動参加絶対禁止)の関係で、実は大学時代、聖書研究会にも、KGKにも顔を全く出さず(というよりはひたすら無視し続けた)、ローンリエストローンレンジャーのような荒野をひとり旅するような信仰生活を送っていましたので、この辺りの資料、ほとんどないんです。そうか、そんなに有名な資料だったのですか。ご教示、ありがとうございました。

    この本、素晴らしいので、是非に日本語訳がほしいと思います。はちこさん(下訳くらいならお手伝いできるかとは思いますが、いかんせん、誤訳名人、誤変換名人なのでねぇ)がご協力してくださるのなら、どうでしょう。どこかのキリスト新聞社に企画、持ち込みませんか。Ministryのまっちゃんさんなら、関心を持っていただけると思います。本当は、いのちのことば社が関心を持ってくれるといいのですが、たぶん、この本の原稿を持っていったら、腰が引けると思います。

    あめんどうが出すタイプの本ではないので、あめんどうは難しいし、教文館でしょうかねぇ。こちらは、コネクションが全くないので。

    コメント、ありがとうございました。

    良いクリスマスをお迎えください。

    ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2011.12.22 Thursday 14:58
    こんにちは、話題になっていますね。

    あめどう社の社主です。うちで出すことに問題ないですよ。決断するには、さらに詳細を検討する必要はありますが。。

    霊性神学の出版、信徒向けの霊的成長のための出版は大きな柱ですが、それ以外のものも許容範囲であるなら出せないことはありません。
    ローザンヌ会議で出された福音理解の範囲内であれば、さらにいいです。

    それから、本書が提供する福音理解について出版社に質問が寄せられた場合、それに対処する時間、能力はないです。

    また、これまでの読者の期待を裏切らないか、どんな波紋を生み出し、それに会社が耐えられるかというのがあります。
    もっと地力のある、ふさわしい出版社があれが、それがいいと思いますが。

    また、本書を出すことで、経営的になりたつか、むしろ経営が傾いてしまわないか、というリスクがあります。
    売れ残り在庫を抱えるのは出版社ですから。

    そこで数人で出版委員会を作り、経済的リスクをすべて負ってくださるなら、可能性は大きくなります。紙の本がますます売れない時代になっていますから。

    でも、そうなると、皆さんが「リスクを負いたくない、それは出版社の役目だ」となるかもしれません。

    (以上は、約束ではなく可能性について述べてみました。)
    • クレオパ
    • 2011.12.29 Thursday 18:31
    クレオパ様

    ご岳父様の逝去、心よりご同情申し上げます。遠い神戸から祈っておりました。

    昨年夏、娘とお邪魔した際には、大変楽しいお話をありがとうございました。娘そっちのけで盛り上がってしまい、あれか再度行きたい、行きたい、行ってもっとお話をお伺いしたい、と思いつつも機会を逸しております。

    まず、私が危惧するのは、クレオパ様からご指摘いただいたこの点であります。

    >それから、本書が提供する福音理解について出版
    >社に質問が寄せられた場合、それに対処する時間、
    >能力はないです。

    昨年の夏、オフィスをお伺いしたときにあまりにこじんまりしておられるので、正直うわぁ、と思ったことがございまして、これでこの本のややこしさに耐えられるだろうか、と真剣に懸念しております。

    それよりも危惧するのは、優れた霊性に関する書籍を出してきたこれまでの読者層を壊滅的に破壊する大陸間弾道弾のような威力をこの本がもっていることと、それだけに魅力的であるからなんですね。

    >また、これまでの読者の期待を裏切らないか、ど
    >んな波紋を生み出し、それに会社が耐えられるか
    >というのがあります。

    経済的リスクを個人的に負担する気はあるのですが、しかし、この本は、これまで幸せにそれが信仰であると思ってきていた人たちの信徒の方々の自身の信仰に疑いを抱かせ、自分たちが単純に信じてきたことは何だったのか、ということを揺り動かす(本当はそれが必要な作業だと思うのですが)ことになりかねない危うさをもつからです。また、これまで苦労して構築してこられたあめんどうの経営基盤と存続、評価を危うくしかねないものをもっているだけに、躊躇していますし、躊躇しました。関心分野では、Ministryを出しているあの最古参組の出版社が近いので、そこにオファーをしようかとブログ記事上でおねだりをしています。最悪、一時的な出版組合のようなものを作って出す、という手も考えました。とはいえ、その法的なめんどくささ、という問題と、流通の問題はさておき、ではありますが。

    こうやって、ブログ記事を書けば書くほど、紙媒体の雑誌や紙媒体の本が売れなくなるのは承知でも、声を上げたい、という気持ちが抑えられなくなるこの状況、自分でも正直持て余しています。

    しかし、可能性とはいえ、ご示唆、ありがとうございました。

    そうそう、いまでは、児童作家というよりは、平和活動の方が有名になった石浜みかるさんから、賀川の大陸での活動関連の面白い冊子(複製版)をいただきましたので、それをご送付いたします(既にお持ちかもしれませんが)。それから、この夏に自費出版したものも、会社宛にご送付しておきます。お暇なときにでも、お目通しください。ないとは思いますけれども。

    それでは、また。コメントありがとうございました。今後ともよろしくお願いします。また、クレオパ様とクレオパ様のご家族の方々のために祈っております。来年がよい1年になりますように。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2011.12.30 Friday 07:39
    管理者の承認待ちコメントです。
    • -
    • 2011.12.30 Friday 13:06
    コメントする








     
    Calendar
    1234567
    891011121314
    15161718192021
    22232425262728
    2930     
    << September 2019 >>
    ブクログ
    G
    Selected Entries
    Categories
    Archives
    Recent Comment
    Links
    Profile
    Search this site.
    Others
    Mobile
    qrcode
    Powered by
    30days Album
    無料ブログ作成サービス JUGEM