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2011.12.07 Wednesday

いただいたコメントから、キリスト者2世問題をまたまた再考してみた

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    HK様とCaledoniaさまから、またまた書く気になるようなコメントをいただいたので、コメントに応答してみようと思います。(悪乗り、という説があるので、ぼちぼちここらで留めないといけないのだが…。)

    HK様は、クリスチャン2世の親を持つものの悩みを正直に書いてくださっています。これは、本当にどう理解してよいのか、何が原因なのか、と悩みと苦しみ、焦燥を与えるつらさがあるものと存じます。


    > 喜んで教会に通っていた私の末子が、この
    > 1カ月ほど深い信仰のスランプに陥り、
    > 教会に向う足がすくんで日曜日になると自
    > 閉しています。親として、まずは何故なの
    > だという疑念が浮かび、次にこの事態は試
    > 練なのか、失敗の証明なのか、通るべき摂
    > 理なのか、時による解決を待つのか、祈り
    > のうちに神に問い、ある時は信仰の話をふ
    > ると口数が減ってしまう本人を交えて、ま
    > た別の時には夫婦の過去の歩みが生ぬるか
    > ったのだと反省モードに入ってしまう妻と
    > 二人で、ああでもないこうでもないと話し
    > 合い、牧師に相談すると自分も同じ経験を
    > しましたと慰めの言葉、また教会の別の人
    > に打ち明けると純粋過ぎるとも言われ、現
    > 在はまだ五里霧中ですが、ふと示されたの
    > は今の混迷状況は、まさにローマ書のパウ
    > ロそのものではないかとのインスピレーシ
    > ョンです。

    これは、つらいと思います。ここに書かれたことは、正直なHK様と奥様の思いだと思います。コメントとしていただいた文字の裏側には、深い親としての悩み、信仰者としての懊悩ともいうべきものが示されていると思います。ご同情申し上げることしかできないのですが。ただ、ご子様の現状は、失敗の証明でもなく、信仰の歩みが生ぬるいからでもないと思います。私たちは結論を急ぐ社会に生きていると思います。結論と原因を直結するコンセプトが満ち溢れている社会です。そして、自分たちが見ていることだけがすべてだと思いこみ、自分たちの見ていることだけで判断しがちなのではないでしょうか。私が関わることも多い、システム開発の現場では、確かに設計者の突きつめた思索の不足、プログラマの書いたできの悪いコード、整理されていないシステムリソースと、システムリソースの不適切な使い方といったよくある原因で具合のよろしからぬことが起きることも事実ですが、人間の場合、単純な【原因】→【結果】といった思考法で考えることは非常にまずいと思うのです。祈りつつ、静かに待つということが大切ではないか、と思うのです。神の介在とご子様のご発言を。神は、どこにでも、いつでもおられる方であることを確信します。しかし、ご両親さまにとっては、非常におつらい状況ではないかと、推察いたします。その悲しみの深さは、私などには知る由はございませんが、その悲しみを共に悲しむことをお許しいただければ、と存じます。

     こどもが、教会に拒否反応を示すことは、親をかくも苦しめるものであることなんですねぇ。だからと言って、その悲しみゆえに無理をする子供となることも、個人的には、どうかなぁ、と思います。


    > 要は現代のキリスト者(とりわけプロテス
    > タント信者)が、パウロが(先んじてイエ
    > スご自身も)身を持って間違いをただそう
    > とした律法主義、それと同じような「穴」
    > 知にらぬ間に落ちているのではないかとの
    > 省察です。
    > 自らが拠って立つ教理が磐石であると信じ
    > るあまり、それに安んじてしまい、神その
    > ものではなく、神に救われた自分が誇りと
    > なってしまった。自己義認とも言えましょ
    > う。これはまさに現代の律法主義、パリサ
    > イ派です。もし私たちの信じる福音がこの
    > 程度の「閉じた体系」でしかないとするな
    > らば、所詮は世に対してインパクトを持ち
    > 得ず、独善だと見捨てられてしまうのが落
    > ちです。

    HK様。ご自身のことをあまりお責めになりませんように。ただ、私自身思ってみても、自己を批判的にとらえるのではなく、あまりに安易に自分自身を神の側においてしまうことがあるようです。What would Jesus do?ということを考えることは、確かに重要なのですが、その過程で、どうしても私自身がJesus即ちYHWHになってしまっていたことが時にあります。いえ、今も私は自らを神とすることが時にある、といってよいと思います。ご指摘の通り、信仰義認が、いつの間にか自己義認、それどころか、神そのものになってしまっているように思います。神を恐れているつもりが、神になっているこの皮肉。何なんでしょうねぇ。

     他の教派の方から、生ける現代のパリサイ人(シーラカンスじゃないんですけど…)と過去の(いや、現代も、という説もあるけれども…)わが教派の人々の言動の結果、ご批判やご高説をたまわることのある教派のはしくれで生きておりますが、どこかで、人間信仰が非根曲がってしまい、と絡めて、人と人との関係における正義(justice)ではなく絶対的正義(righteousness)の判定ができなくなってしまっているがゆえに発生しているを追求することの問題かもしれません。私がこころから尊敬いたしております「のらくら者の日記」のH様は、これまでも、また現在も、この人と人との関係における正義(justice)と絶対的正義(rightousness)に関する関係するキリスト者の方々が混乱しておられることのあおりを激しく受けておられるようでございます。衷心から、ご同情申し上げるとともに、お隣の地域の関西からも、祈っております。ものいわぬクワガタ君たちを見ながら、穏やかな心になられますように。

     少し、カトリックの聖書理解の強くでているお話がときにありますが、晴佐久神父の説教集は、私自身、励まされますし、慰められたことがあります。プロテスタント派があまり根拠もなく敵視していることが多いカトリック教会で神のために奉仕しておられる晴佐久神父の説教を通じ、ミーちゃんはーちゃんは、時に励まされ、慰められたこともまた、確かです。裁かず、忍耐をもって人を受け止め、受け入れていくということの大切さを教えられました。私自身は、よいものは良い、と言いたいと思います。ある本に書かれているからといって、全てのものを受け入れる必要はなく、学べるところは、学び、足らざるところは習うということを個人的には、今後もしてまいりたいと思います。ここのところを理解されない方も時におられ、カトリックだから全部駄目、カトリックだから遠藤周作は禁書という狭いお考えの方もおられるようですので。


    > 無菌培養されあと、世の中を知り、その上で
    > 教会に集う現代の二世たちも、あるいは暗雲
    > のような疑念(救いとは、一世たちに現され
    > ているこの程度のものでしかないのか、神は
    > 私を世の中で用いることがおできになるのだ
    > ろうか)の中にあるのではないかと思わされ
    > ます。

     ミーちゃんはーちゃんは、個人的には、無菌培養というのはいいのだろうか、と思います。我が家では、日曜日だけは全員で参加しておりましたが、それ以外は、好き勝手にさせておりました。普段は、いろいろな考え方の人々ともに過ごさせてきましたし、また、子供もそれを喜んでおりましたので。特に、子供が小学校の高学年までは、社宅というところに住んでおりましたので、ほとんど、我が家はこどもサロン状態といいますが、託児所状態でございました。そのせいか、子供同士の中でいろいろと楽しいことや、びっくりするようなことも時には起きたようです。家内はそれを楽しんでくれたのは良かったかなぁ、と思います。

     私は、キリスト者一世ではないので、何とも言い難いですが、ともすれば、ウェスレーの影響を直接的、あるいは間接的に受けたキリスト者グループでは、メソジスト的な厳しさといいますか、狭い平均台の上を足を踏み外さずに歩むような信仰スタイル[右にもまがら離れーず、左にもそれーず、ただまっすぐに進むのだ、進むーのーだー(『雄々しくあれ、強くあれ』のコーラス部分)のような信仰スタイル]をよしとする信仰者の方々が時におられるようです。そのようにしないと、救いが保たれないのでは、という思いがおありからなのかはよくわかりませんが、そのような信仰の姿をよし、としておられる方々のお姿です。懸命にしようとしておられるその信仰のお姿はある面ストイックであり、ある面お美しいとは思うのですが、鼻くそほじりながらでも、鼻水たらしながらでも、キリスト者だと思っているミーちゃんはーちゃんのような存在は、そのようなお姿の方からは、キリスト者世界の風上にも置けないような存在かもしれないけれども、どっこいそれでもキリスト者のはしくれ、という姿もありかなぁ、と私なぞは思います。まぁ、ミーちゃんはーちゃんは、そんなハイパー・スーパードゥーパーにいい加減な信仰者なので、年配の方からは時に間接的にミーちゃんはーちゃんへのは、お小言をたまわりますが、最近はあまり気にかけなくなりましたねぇ。「小言を言うなら直接言っとくれ」と思ってしまいます。まぁ、ミーちゃんはーちゃんも、いたずらに、あるいは徒然に馬齢を重ね、面の皮が厚くなったのだと思っております。

     また、いつものように、あらぬところに行ってしまいましたが、HK様、そして奥様、クリスチャン2世である私には確信があります。ヘブル書13章5節にあることばです。「神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。」YHWHなる方は、きっと子さんの手をそっと包んでおられると思います。ミーちゃんはーちゃんは、そう強く確信します。

     以上、キリスト者2世を持つキリスト者1世としての親の悲しみについてのお手紙いただいた、HK様のお手紙をご紹介いたしました。

     では、ここで、讃美歌を。Be though my visonです。どうぞお聞きください。(いつの間にか、オールナイトニッポン(今もやっているのだろうか)風になってしまった。)

    さて、次は、Caledoniaさんとおっしゃる方からのお手紙をご紹介します。

    > こんばんは。
    > コメント読んでいただいただけでなく、記事に
    > してくださってありがとうございます。

    いやぁ、Caledoniaさん、コメントのお手紙ありがとうございました。記事にしたい、と思わせるものがお手紙の中に本当にあったのです。家内も一緒に読みましたが、本当にこの人は苦しまれたのだなぁ、と申しておりました。

     Caledoniaさんは、頭がよくって、そしてまじめな方に違いない、と家内も私も思っております。

    > 自分のキリスト教に対する素直な気持ちを責
    > めずに受け入れてもらえた事が無かったので
    > 涙が出るほど嬉しかったです。
    > 記事に書いてくださった全てに対してコメン
    > トを書きたいくらいです。

     またまた、書く気にさせるコメントありがとうございます。人はだれも責めることはできません。それは、お父様やお母様、また、そのご友人の方々も私には、責めることはできません。イエスもおっしゃったではないですか。「あなた方のうちで、罪のないものから(姦淫の現場でとらえられた女に)石を投げよ。」と。あの話は、重要だと思うのですね。「あなた方は、YHWHと等しいものか?何故、あなた方は自分の判断をYHWHのものとするのだ。それは、YHWHを騙ることではないのか?」とおっしゃっておられるのではないか、と最近は思うのです。珍説・奇説に属する解釈かもしれませんが。

     また、コメントもおいおいでよろしいので、聞かせていただけると嬉しいです。お時間のあるときで、結構ですから。ミーちゃんはーちゃんは、結構ロングテールで、対話しておりますので。この話の発端となった、mさんのコメントも、投稿から約4カ月後のコメントですから。

    > 神が看守の様な神に思える事や、神が他の人に
    > すり替わってしまう様に思えてしまうのは私だ
    > けではなかったんですね。

     はい。そうです。家内は、そんなところは割と薄いようですが、私にはありました。いまだに残っています。いい子にしていないと、クリスマスのプレゼントがもらえないということのみならず、天国から置き去りにされると脅されるのは、本当にかなわないなぁ、と思います。

    > ただ、全て奴隷の様に文句を言わず従ったとい
    > うよりは思春期には猛反発したりもしました。

     そうですねぇ。熱心な方は、「あなた方は義の奴隷」だから、YHWHではなく、「聖書的な」理解をしっている私(親とか指導者)のいうことに従うべきだ、という感じになりますものねぇ。そうなると、カルト化した教会ではなく、カルト化した家庭に近いのかもしれません。これに反論するのは、大変です。特に相手が言論封殺の手に出たり、親や年長者に口答えするなと言ったりする場合。論理的な説得ですら、口答えになってしまう。もう、打つ手なしです。となれば、「逃げるしかないか?」となりますもの。


    > しかし、両親の様なタイプの人には反発は
    > 逆効果だったのか余計に怒られ、最後は従
    > わざるを得ませんでした。
    > (クリスチャンの友人と「私がどんなにダ
    > メな人間か」についての公開裁判&祈り会
    > が開かれる)

    これも、超・わ・か・る!という感じです。反発するだけ野暮ですね。それこそ、反発しようものなら、公開裁判ではなく、それこそ魔女裁判の世界でしょう。それどころか、異端審問裁判ではないか、とおもいます。それこそ、聖書のことばで「聖書的に」(といいつつものちに詳述するSalvation Cultureで)裁かれる、といったような異端審問裁判ではないか、と思います。祈り会というよりは、祈りという名の呪いのことばをかけられているような感じになるのではないか、と思います。「祈り」といわれていても、責められ、非難されているとしたら、呪いの言葉に聞こえる場合もあるのではないか、と思います。

     今から40年ほど前、今では長髪とさえいえないほどの髪の毛の長さにしていた、大学生の信者さんがアメリカ人宣教師の方から、「兄弟、祈りましょう。」と言われて、暗に髪の毛を切るように仕向けられた、ということをお話ししてくださったあと、「あれ、なんだったんだろうねぇ」と30年ほど前にお話ししてくださいましたから。なるほど、「必殺、祈り攻撃」は結構伝統と格式を誇る手段なのかもしれません。

     しかし、中核派・革マル派・連合赤軍の「総括」(人民裁判(集団で責められる話し合い)にかけられて、自己批判を徹底的に言わされ、人民裁判の裁判官というか、自己批判する以外の参加者が納得するまで(これがまた判断基準が微妙)、自己批判すること=総括)のキリスト教版みたいですね。あさま山荘事件の前後にこの総括ということが実際に起きたようです。「必殺、祈り攻撃」は、この総括と構造的には似てますよねぇ。全く神の名を使った「総括」なのかもしれません。総括に類似した最近起きた事例で有名なもので言えば、ドイツのナチズム、マッカーシズムの吹き荒れた1950年代アメリカ社会での反共公聴会(こないだ、The Simpsonsを見ていたら、そのシーンをアニメで再現していて、ホーマー・シンプソンのおじいさんが若いころという設定で、共産党員の名前を言うというシーンが再現されていた。共産党員の名前の中に、Joseph Stalinがありましたが…。)この手法は、集団ヒステリーを生みやすい手法であり、問題が大きいと思います。この種の問題を扱った映画に、クルーシブル(北米植民地での魔女裁判)・マジェスティック(マッカーシズムのアメリカ・ジム・キャリー出演のもの)・エス(ドイツ映画。スタンフォード監獄実験がテーマ)なんかがあります。
     現実の社会の中で、集団ヒステリーが怖いのは、人間の同調意識がうまく利用され、拒否することができないし、その体制に吸収されていってしまうこと、さらに、外部から少し批判的に眺めるということができなくなる、ということ、その社会におかれたほぼ全員が、加害者であるとともに、被害者となってしまうというところにあるように思います。

     あー、少し重い雰囲気になってしまいましたが、少しお休みをして、気分を変えましょう。それでは、初音ミクさんで、「あめなるよころび」を聞いていただきましょう。

    では、引き続きお手紙から。

    > 「救いの文化」と「救い」はそれぞれどんな
    > もので、どんな違いがあるのですか?

     McKnightの所説によれば、「救いの文化」とは、福音から出ているものではあるけれども、福音ではないもの、ということのようです。私の理解でいえば、「信仰義認説(信仰によって義とされる)」にたち、イエスが神であるということ、・・・・が言えればそれでよい、とするようなものです。いくつかの事例をMcKnightは取り上げていますが、救いの文化でいう福音とは、「福音ということばは、ほとんど全部が個人の救いに関するもので、もはや福音にはイエスがイスラエルに約束されたメシア(油注がれた者)という概念を含まず、福音と、イエスがメシア(油注がれた者)であることとがまったく関係ないという理解」であったり、「福音という語は、信仰による義認を意味し、イエスは信仰の義認ということばを使わなかったので、イエスは福音そのものを語らなかった。」というような理解です。まぁ、このあたりの面白い表現は、来週くらいに読み終わったら、拾っていきます。

     つまり、「救いの文化」における「救い」とは、本来のユダヤの歴史環境下の中で見たときのイエス(史的イエス)が何を言ったか、から考える「救い」ではありません。その意味で、「救いの文化」とは、聖書の拡大解釈から導かれた概念によって構成されているキリスト教的理解といってよいでしょう。

     「救い」とは、McKnightの表現によれば、「イスラエル人に対して神が約束されたことの実現」、ということになろうかと思います。ミーちゃんはーちゃんが表現するとすれば、「油注がれた(メッシーア)祭司(レビ記4章3・5節)である神の子であるナザレのイエスを、神と人とをつなぐ存在である仲保者あるいは媒介者、すなわち、油注がれた祭司として受け入れた、その人のうちに実現する神の王国そのもの」ということではないか、と思うのです。つまり、「神が人と共に生きている、ということの実現」といってよいと思います。「どう感じるか」あるいは、「過去にどう感じたか」ではなく、「今どう感じている」といえることではなく、その人の状態がどうであれ、神を見ているか、神を見ようとしているか、荒野であげられた蛇、すなわち、十字架にかかった呪われたイエスに目を向けているかどうか、だけではないか、と思うのです。人が、「生き生きとした『いのち』を与えようとする神を見たいと思うこと、あるいは見ていること」ではないか、と思います。こういう経験をしたから改心した。というのではなく。

    > 救われたとよく聞く体験談はどれも劇的で
    > 感動的なものばかりですし、どんなに苦し
    > いことがあっても自分の願いや計画などは
    > すべて捨てて、神に従う強い決心が本気で
    > つかない限り神には愛されないだから頑張
    > って聖書を読んでみても、いろんな角度か
    > ら祈ってみても、一向に何も分からない自
    > 分は神に相手にされていないように感じる
    > んです。(救われない)のではないかとい
    > う不安があります。

     これ、2世を苦しめるんですよねぇ。わかります。私も苦しみました。

     1世は劇的な体験、つまり、これまでの生き方を程度は別として放棄して、新しい神とともに過ごす人生をその生き方とする、という体験、すなわち生き方を変える、という経験をするのですが、2世は、そもそも、神と共に生きることを強制させられて、それ以外の生き方すら選択することもできないことが多いので、そもそも、人生の生き方を変える必要がないわけですから、感動的な体験談や、経験談があろうはずがない。しかし、1世は自分の信仰体験が非常に強烈であるので、「信仰をもったのなら、同じ体験をするはずだ。それが救いの証拠のはずだ。」という呪縛から離れられないようです。その意味で、自分の体験談というか、神話にロックインされているし、神話にロックインされざるを得ないほどの強烈な体験談をお持ちの方もおられるようです。私自身、キャンプのなどの時に、いわゆる2世でないその過程家庭ではじめて救われた方が、「自分は両親の反対にあっても、キリスト者になった。その時責められたけれども、神が守ってくださるのを感じた。」などというのを聞くと、「ごっつかっこええやん」と思っていたのですが、冷静に考えてみれば、我々2世は、親からキリストが存在すると語り聞かされ、キリストを身近に感じ続け(あるいはそのフリをさせられ)、聖書をよむことを推奨されることはあっても、反対されることもなく、まぁ、1世は、聖書の言う愛を前提とするところの家庭を形成していることになっている(必ずしもそうだともいえない場合もあるかもしれませんが)家庭で過ごすわけだから、そもそも家庭内暴力や横暴な親から守られた、とかいった感動的な話があろうはずもなく、自然に過ごしていて、イエスという人物を何となくいつも感じている、ときどきイエスに意図的に目を向けているのですがしかし、このような生活そのものが救いなのか、もっと劇的な経験があるといいのに、と思われるのだと思います。しかし、実は、この何となく、いつもイエスを感じていて、ときどきイエスを知ら見する感覚は、1世にとってみて、経験したくても経験できない、実は結構うらやましい経験だったりするようです。

     強い決心をしているかどうかは別として、イエスを見ているかどうかだけが、救いと直結している重要な姿勢だと聖書は主張しているのではないか、とミーちゃんはーちゃんは思います。


    すべてーをすーててー、したがーいまーつらーん!
     わがすーべてぇーにまーす おおなる主イェースにー


    というノリの方が1世には多いようです。2世のミーちゃんはーちゃんからしてみると、暑苦しいというのか、もっと自然体でいけばいいのに、と思うことが多いです。ハイ。これが・・・

     「強い決心がない限り(神に)愛されない」という誤解、これこそが「救いの文化」が生み出した大きな誤解だと思います。そもそも、聖書の出発点は、神が、我々を無条件で愛している、というところから出発しているはずです。イエスはすべての人を愛するがゆえにその一人子を与えたもうた、というのが有名ヨハネ3章16節の最初の主張で、一番強い主張です。「それは、御子を信じる者が一人として、滅びることなく、永遠のいのちをもつためである。」は、神の愛に付随する結果を示すもの、と理解できるのではないでしょうか。つまり、神の愛が先にあるのであって、人の選択や決心といった、有限のもの、有界(行為や思惟が定義される範囲が、ごくわずかな範囲であること)な行為によるものではないと思うのですが。人間の過去の行為やその時の状態とは関係なく、神は愛しておられると思うのですがねぇ。この一方的なウルトラスーパー壮絶な神から人への片思いに気づくかどうかが、救いなのだ、とミーちゃんはーちゃんは思います。晴佐久さんは、「宣言(言いっぱなし)」という言葉で福音(聖書の主張)を解説しておられますが、人間がどう反応しようと、神が愛しているという一方的な主張、つまり片思いしている、ということを伝えようとしているのが、聖書だ、というのは、なるほど一理あるかもねぇ、と思いました。カトリックの神父のお書きになられたものを読んでいたりすると、それだけで、「悪魔の手に落ちた」扱いを受けないといけないので、要注意かもしれませんが。そのくせ、マザー・テレサだけは特例でOKだったりするんですけどねぇ。おかしいなぁ、と思います。「有名だったらいいんかい?」「自分たちが分家として、割ってでてきた本家筋が気に入らない」からといって全体像もわからないのに、NGですというのはねぇ。ちなみに、ミーちゃんはーちゃんは上智大学の雨宮神父のファンでもあります。お話があるときに、キャンドルライトを持って、後ろで静かにウェーブを送りたい、と思うほどではありませんが。

     おそらく、Caledonia様だけでなく、だれも恐怖の大王さまのような神は、遠ざけておきたいと思いますよね。私もそうでした。そうですね。40歳くらいのころまで、私にとって、神やイエスは、ガリラヤ湖の遠いほうの対岸に立っていて、それを恐る恐る眺めるような存在でした。その当時行っていたSanta BarbaraのShoreline Community Churchに行っている時に、その教会でするから、といってRick WallenのPurpose Driven Life(日本語訳書は、「人生を導く5つの目的」)とそれに関連するスモールグループに関連した、あるワークブックを読んだときに、私と同じように感じていた人の話が記載されておりました。その本について、その教会のアメリカ人とディスカッションしているときだったとおもいますが、神ご自身が私たちに近づこうとしておられる、恐怖の大王としてではなく、私たちを抱きしめ、温め、守ろうとしている存在として、ということがなんとなくわかったような気がしました。まぁ、ナウエンの本とこの時期に出会った、というのも大きかったですが。


    > 神を忘れる事が出来たらどんなに良いかとい
    > う反面、「救われた」という感覚を味わって
    > みたいような思いと、今までの苦しみをただ
    > の苦い過去で終わらせたくないという気持ち
    > もあります。

     1世、あるいは、「救いの文化」にどっぷりつかっている人々がおっしゃる「救われた」という感覚、というのは、ミーちゃんはーちゃんのようなウルトラいい加減な2世には、無理かも知れませんねぇ。ところで、2世は、そもそも人生において、主体的にキリストを選択するという権利すら、奪われている、に近い状態がありますから。1世の人のような方針の大転換(改心 :Revolution)は経験できません。北北西に進んでいた舟が、せいぜい、真北に進路変更するくらいの違いですから。

     「今までの苦しみをただの苦い過去で終わらせたくないという気持ち」というお考えも、そうそう、と思います。私の苦しみはなんだったんだろうか。意味があるのだろうか、という思いをお持ちと思います。

     しかし、Caledonia様の苦しみは、Caledonia様の中だけで終わっているわけではないのですよ。Caledonia様の苦しみをコメントに残していただいたことは、将来の3世のため、他の2世のためのものだろう、と思います。こうやって、勇気を持って発言されたことで、どれだけの2世や3世がいかに慰められていることか。どれだけ、癒されていることか。

     お時間があれば、Caledonia様には、ナウエンの「傷ついた癒し人」もぜひお読みになられるよう、お勧めしたいと思います。

    > そして、救われてるのはいいのですが、選民
    > 意識のようなものを持ってしまっている一部
    > のクリスチャンのように自分もなってしまう
    > のなら、神の救いなどほしくはないと思う部
    > 分もあり葛藤している状態です。

     私もこれはまったく同感です。選民意識のようなものを持ってしまっておられる一部のクリスチャン、あるいは、本来的な意味である神とともに生きるよろこびというイエスが伝えようとした「救い」を「天国に入るための道具のようなもの」にしているクリスチャンの方々、端っこさんの言い方を借りれば、「聖書読んで救われたぐらいで、自分が一段上の人間になったとまあ大概は勘違い」しておられるクリスチャンの方々のご発言に「またかぁ」と思うと同時に、もっと聖書を主体的にお読みになられたらよいのに、と心から思いつつも、「天国に入るための道具的概念の救い」のような薄っぺらな「救いのようなもの」と「救いの文化」はこちらからは願い下げいたしたいものでございます。

     聖書を読む、といっても、主体的に神と語り合うように読む、というのは言うのは簡単ですが、実際にやってみると、なかなか骨が折れるものでございます。というのは、聖書は学習参考書(かの有名な「解法のテクニック」・「チャート式」)のような形で書いていないので、膨大な聖書の文言に関するデータベースを比較参照しながら、群盲象をなでるがごとき状態で理解を進めていかなければならないので、このデータベースが頭の中にないと、聖書を読んだところで、???となってしまいます。今は、J-バイブルとか、インターリニアーバイブルとか、Strong's Index Numbers付きのコンコーダンスとか、いろいろありますので、この検索作業がずいぶん楽にできますが、日本語に変換された聖書の引用つきだけでは、確かに厳しいところがございます。となると、勢い、どっかで聞いてきた聖書理解にあわせて、それにあうように、自分自身で聖書の主張を自分の聖書理解に合うような形に読み替えてしまうようです。ちょうど、無理やり合わないジグゾーパズルのピースを押し込んでしまうみたいに。このようなジグゾーパズルの押し込みの結果、もともとのパズルの状況が変わってしまい、絵自体がひずんでしまうようです。そして、このような過程の結果、おそらくSalvation Culture、すなわち救いの文化が生まれたのだと思います。

     これから抜け出すには、一部の聖書の場所でよいので、お好きな聖書の場所でよいので、じっくり時間をかけて、繰り返し読みながら、味わうように読まれるのがよろしいのではないかと思います。(レクティオ・ディビーナと呼ばれる手法でございます。)

     ところで、個人的には、McKnightの所説にすべて賛成するものではありませんが(たとえば、福音を考えるための出発点が第1コリント15章であるかどうかなどの議論はさておいて)、救いとは、神とともにいることという視点という立場に立ち返り、見直していくことの必要を多くの方にもお願いしたい、と思います。

    >>こどもが教会に行かなくなった親、
    >>というのはそれはそれで、教会の人から
    >>冷たい目で見られたり、クリスチャンホ
    >>ームの失敗者だと言われたりするわけです。

    > これはきっとある事なんだろうなと思いました。
    > 我が家がクリスチャンホームだと言うと他のク
    > リスチャンの方は「ご両親の信仰がしっかり受
    > け継がれている、祝福されている」とよく言っ
    > ていたので、両親はそれを誇りにしていただろ
    > うし、「間違いなく、しっかりしたクリスチャ
    > ンに育てなければ」という強い気持ちがあった
    > ように感じます。

     そうなんですよね。ここでも、祝福が、信仰の継承とのみ結び付けられていて、本来の神の豊かな祝福が非常に安易に読みかえられている、と思います。本来的に、祝福は神とともにいることであり、神の国を自分のものとしていること、そのもののような気がします。

     Caledoniaさんのご両親様に突っかかるわけではありませんが、「まちがいなく」という表現が気になります。教会から離れた信仰者は不良品や、Bクラス品のような扱いですものねぇ。何か正しい信仰者の育て方があるかのような概念ですね。子供の正しい育て方、というのが本当にあるのでしょうかねぇ。少し疑問です。でも、そういうプレッシャーにさらされているご両親さまも可哀そうですよね。よく考えてみると。

    > 子供のころは良く教会で親の考えとは違うこと
    > を言ったりすると、家に帰ってから怒られたり、
    > 両親以外の大人と話すとき、母が私が何を言う
    > か見張っていたりしたのはそういうところのプ
    > レッシャーがあったのかもしれません。

     しかし、KGBかFBIも真っ青、ですね。監視体制という意味では。
     私も同じようなことを経験しました。親の考えというよりは、教会の大人と違うことを言おうしたら、後で、いろいろありましたし。いまだに、ミーちゃんはーちゃんもご高説を承らせていただくという経験をすることがありますけれども。責任者の考えだけが、教会の考えではないと思います。それで一色に塗られるのもつらいなぁ、と思います。

    > 具体的にお勧めの本なども紹介してくださって
    > ありがとうございました。
    > 『いま、ここに生きる』是非読んでみたいと思
    > います。

     はい。ぜひ。気持ちがスーッと楽になるとおもいます。あれ、私は、何で、キリスト教が嫌いだったんだろう。何で、いままで、聖書が嫌いだったんだろう、と思われるのでは、と想像します。

     本当は、お嫌いだったのは、キリスト教の顔をした、救いの文化ではないか、と思います。

    > あと、記事を読んでいてミーちゃんはーちゃん
    > さんは英語の本などについても知識を持ってお
    > られるようなのでお聞きしますが、こういった
    > 2世の問題はキリスト教の文化が根付いている
    > 欧米でもよくあることなのですか?そういう人
    > 達はどうしているのですか?

     知識があるかどうかは、かなり怪しいですが、ワシントン州(シアトルマリナーズの本拠地)に9カ月、カリフォルニア州に1年間、その期間は一つの教会(一つは自派の教会、一つは他派の教会Community Church)に居続けた経験からでしかありません。その限られた経験と観察結果からであり、普遍化できないと思いますけれども、少し書いてみようと思います。とりわけ、カリフォルニア州の経験は面白かったと思います。
     カリフォルニア州は、ご存じとは思いますが、スペイン領だった時代がありまして、San Diegoから次第にカトリックの教会が順次作られ、駅伝の中継地点のように教会がおかれ、San Franciscoで止まった、教会システム(El Camino Real)があります。我が家のこどもの友達にこのメキシコ系の子供たちが多く、いくつかのメキシコ系の方々のご家庭とも仲良くさせていただきました。基本的に、カトリック教会にごくまれに行かれているようでしたが、「先祖がカトリックだから、我々世代もカトリックだ」とおっしゃっておられるご家庭が多かったように思います。また、そのころ通っていたCommunity ChurchのElders(長老)の方々は、大変熱心な方々が多かったのですが、こどもたちが来たがらないから、ということで、高校生や、高校卒業してすぐ位のこどもたちと親は、別々の教会に通っていて、割と平気にしておられました。カリフォルニアでは、高校生でも自動車を運転できますから。また、Junior Pastorには、自動車で1時間ほどの所から通っておられる方は、高校生のお子さんは、ご自宅のお近くの教会に行っておられ、奥様とJunior Pastorだけできておられました。理由は、ご近所の教会には、お子さんの友達がいるから、ということのようでした。ある面で、こどもたちの友人で構成される子供たちのための信仰のコミュニティでの成長をある程度重視しておられたようです。その教会には、もう一人、Junior Pastorがおられたのですが、その方の娘さんが私がお邪魔していたころに、離婚なさるということになったことがございまして、その時、Junior Pastorの方は何もおっしゃっておられなかったのですが、奥様の方がねぇ、「クリスチャン家庭の子供なのに、恥ずかしい」とおっしゃっておられましたから、この継承の難しさ、というのは北米でも、日本と同様にあるようです。

    > 英語が分からない私でも知ることが出来る文献、
    > サイトなどはありますか?
    > もし、ご存知でしたら教えていただきたいです。
    > それでは。

    うーん、これ、どうでしょうか。私自身、キリスト者2世問題評論家ではないので(The Accidental Theoristという強烈な皮肉を込めたP.Krugmanの本がありましたけれども、それと同じで、私がお話しすることは、The Accidental quasi-Theologianになることになりそうで、どうかなぁ、と思うのですが)、この種の子供側から見たキリスト者家庭のお話しという分野自体、米国でも、さらに日本国内ではなおさら、あまり相手にされていないと思うのです。若者は、基本、カウンターカルチャー扱いですから。その結果、参考資料はあまりないと思いますけれども、ごくわずかでも関係しそうなもので日本語で読めるものをいくつかあげておきます。この分野、本来的には、キリスト教史とか、キリスト教文化に関連する分野のはずなのですが、我が国のキリスト教界には、カトリシズムがないということを、のらくら者の日記をかいておられる方が記事でご指摘になっておられます。この結果、キリスト教史というのは、日本では、主要なキリスト教研究や神学研究のメインストリームとはなっていないようで、我が国独自のキリスト教史、特にプロテスタント系のキリスト教史、参考になるその関連書籍に、参考になるものは非常に限られるように思います。

     どう育てるのか、やこどもをどう躾けるか、のHow toとその聖書的基礎に関しては、ドブソン博士の本を中心にかなり、たくさん本があるのですけれども、How toではなく、歴史的事実として客観的に眺めようとした本というのはあまりありません。日本国内で、教会史をやっても、だれからも評価されないところにも日本社会におけるキリスト教の層の浅さを見るようですけれども。その中で、中村敏後藤敏さんというのは、変わった存在だと思います。マニアックな研究をコツコツとしておられます。

    書籍では、
     ■森本あんり 「アメリカ・キリスト教史」 新教出版社
       (特にニューイングランドでのキリスト教を中心としたコミュニティの問題を取り扱った、第2章 ニューイングランドの建設 と、第3章 ピューリタンの信仰と生活 あたりが参考になると思います。)

     ■マーク・R・マリンズ 「メイド・イン・ジャパンのキリスト教」  高崎恵 訳 トランスビュー
       (ただし、もともとが、マリンズ氏の博士論文なので、ちょっと学術的)
     
     ■後藤敏夫 「終末を生きる神の民」 いのちのことば社 の最後の章  (前のブログ記事参照)

     ■A.E.マクグラス 「聖餐」その歴史と実践  キリスト新聞社 (特に伝統に関する言及)

     ■中村敏後藤敏 「著名人クリスチャンの結婚生活」  ファミリーフォーラムジャパン

     ■並木浩一 「旧約聖書における文化と人間」 教文館

    雑誌では、
     ■Ministryの2011年冬号 http://www.ministry.co.jp/contents008.html
     ■Ministryの2010年春号 http://www.ministry.co.jp/contents005.html
     ■Ministryの2009年夏号 http://www.ministry.co.jp/contents002.html


    ブログでは、
     ■ミルトスの木かげで(http://d.hatena.ne.jp/mmesachi/  旧はちことぼぼるの日記)
       現役で、クリスチャン2世の子育てをしておられる素敵なお二人(というよりは、奥様の思い)の率直な思いが覗けるサイトです。今年は、一時期はちこさんの悲しみが強く伝わることもあったので、サイトをあけるのが怖いような時期も少しありましたが。今は少し回復しておられるようです。
      特に フランシス・シェーファー親子をめぐることに関しては、
        http://d.hatena.ne.jp/mmesachi/20081113
        http://d.hatena.ne.jp/mmesachi/20090219
    あたりが参考になるかなぁ、とおもいます。

     ■大和郷の教会(http://sugamo-seisen.blogspot.com 特に神学関連の投稿の中のエマージェント関連の記事)
     ■のらくら者の日記 大半の記事はCaledonia様のご関心からはあまり関係ないと思われますが、私に考える素材をいただけるブログの一つでございます。なお、ミーちゃんはーちゃんは、あまりにミーハーなので、このブログの著者の方の教会にまで家族全員で押しかけたことがございます。  

    シェーファー親子に関しては、以下をご覧ください。

    http://seikouudoku-no-hibi.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_f4af.html

    http://seikouudoku-no-hibi.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/f_db9a.html

    すいません。今回も非常に長い記事になりました。お付き合いいただいた皆さん。ありがとうございました。 貴重なコメントいただいたHK様、Caledonia様、ありがとうございました。

    こころから、感謝いたしております。

    追記 どういう関係か、中村敏さんのお名前を、後藤敏と記載しておりました。謹んでお詫び申し上げるとともに、ここに訂正いたします。ご関係者にはご迷惑をおかけしました。
    コメント
    ミーちゃんさま
    コメントへの返答をありがとうございました。
    Caledoniaさんのコメント(1回目)をハードコピーして、末子(娘です)に見せたところ「まさに今の私の心境だ」と申しました。
    親子での話し合いだと煮詰まってしまうと考え、日常はそのこと(信仰)に触れていません。
    最近、本人が一人で牧師夫人のところに行って、よいアドバイスを貰えたようです。

    ミーちゃんさまからのご返答には大いに心を慰められ、これまでより広く深い視野が与えられたような思いです。
    今回のご回答は、私個人や同じ悩みの中にある方々への励ましであると同時に、ミーちゃんさまの真実な信仰告白を聴かせていただいたようで、同信の者として心を熱くされました。主に在って感謝いたします。
    追伸 
    1)よい賛美もご紹介いただきありがとうございました。歌詞の中にある「be thou my best thought〜」は今の私にとって、特に慰めに満ちた言葉でした。
    2)娘の話によると、彼女の旧友の一人「仏教系某巨大宗門」の2世も「継承の難しさ」が教団レベルでの問題なっていると洩らしたそうです。(いずこも・・)
    • HK
    • 2011.12.08 Thursday 19:15
    HK様

    コメントありがとうございました。娘さんでいらっしゃいましたか。それは失礼いたしました。つい自分のところの末子が息子なもので…。

    ご令嬢様の成長の過程、信仰の自立の過程でのことと存じます。本日、当教会の祈祷会でもHK様とお子様のこと、祈りました。回復があるようにと。息がつけるようにと。

    >ミーちゃんさまの真実な信仰告白
    >を聴かせていただいたようで、同
    >信の者として心を熱くされました。

    励ましの言葉、ありがとうございました。こちらこそ、正直なお気持ちのコメントに励まされております。こころより御礼申し上げます。

    Be though my vision(君はわれのまぼろし)は、曲がきれいなのと、歌詞がいいので、個人的には大好きな讃美歌です。英語歌詞の方が、より好きですが。

    寺門継承の問題は、「寺門興隆」という仏教界の専門誌でも話題になっているようです。とりわけ、地方の末寺の維持が困難、地方の末寺の法主のなり手不足と、建築物の維持等が問題になっており、様々なアウトリーチの取り組みがなされているようです。確かに、地方教会の牧師が都会の牧師をうらやましがる構造と相似形かもしれません。

    参考になるコメント、ありがとうございました。

    肩の力をお抜きになって、自然体での生活をお送りになることができるよう、お隣の県で祈っています。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2011.12.08 Thursday 22:27
    またまた記事にしてくださってありがとうございます。
    「あなたの苦しみはあなたの中だけで終わっているわけではない」と言っていただけて私の気持ちが癒されました。救われました。もうコメント書きながら号泣です…鼻水ズルッズルです(笑)はじめて自分の価値を認めてもらえたような思いがします。

    > 祈り会というよりは、祈りという名の呪いのことばをかけられているような感じになるのではないか、と思います。

    これは本当にそう思いました。私を叱る時に母はよく祈っていましたが、わざと私に当てつけるように(神にチクるように)祈っていたのですごく怖かった記憶があります。
    そして、この「必殺、祈り攻撃」(笑)は親の願いどおりに事が進んでほしい時(○○に参加してほしい、○○では働いてほしくない等)にも使われたので、祈ることによって両親と神の間で全て決められコントロールされているような感覚でした。

    1世と救いの感じ方が2世には理解しづらいことはよく考えれば当然と思えますが、この違いが「自分が神に愛される資格が無い決定的な差」に思えていました。
    そして自分を傷つけた両親や周りの熱心な人は救われた喜びを満喫しているのにどうして私は放って置かれるのか、神は我らの避け所と言っているのにどうして守ってくれなかったのかという神に対する怒りもあります。
    そしてこの嫉妬というか、劣等感の裏返しか被害者意識がどうしても出てしまう部分が私にはあり、小さい子供のようにいつまでもこの怒りに執着している面があることを否めない自分自信に疲れます。

    「救いの文化」にこだわる必要はなく、本当はもっとシンプルなものであるなら、他の誰かと比べたりせずに自分と神との関係を築く事が出来るかもと思えました。そういう意味でも聖書をいろんな面から学ぶ必要があるんですね。

    ただ、神からも、両親からも「言う通りにしないと愛されない」という思いを強く感じてきた私にとって、神を信頼する・愛するということは『DV男の過去を全て忘れて結婚し新たな家庭を作っていく』という状態にかなり近いものがあり、「この一方的なウルトラスーパー壮絶な神から人への片思い」という神からの想いがあったとして、それを頭では理解できても、怖くて心では受け止めきれそうもありません。(熱心な1世の方達に「だから信仰が薄いんだ」と言われそうですが)

    サイトや文献なども細かく教えてくださってありがとうございました。じっくり時間をかけて読んでみたいと思います。(シェーファー親子の話も壮絶そうですね…。)
    私の悩みに優しく付き合ってくださって本当にありがとうございました。
    • Caledonia
    • 2011.12.16 Friday 21:46
    Caledoniaさん こんにちは。

    またまたコメントありがとうございました。すみません、この週末、所属教会のクリスマスで、文字通り東奔西走しておりまして、コメントに気づいていたのですが、まとまって書く時間がございませんでしたので、大変失礼いたしました。

    > またまた記事にしてくださってありがとうございます。

    いえ、何のなんの。それだけ悩みが深いということですし、同じように感じている多くの2世がやたらといるのを知っているだけに放置しておけなかったというか、私と同じように感じていて、傷んでいるにもかかわらず、1世とのコミュニケーションがうまくいかないということからどんなに必死に訴えても、最後まで1世の方には受け止めてもらえなかった30年前の自分がいるからです。私の場合は、それが怒りになり、神学校に行かずに、手当たり次第神学書を読みあさるという暴挙に出、神学の自主研究に進んでいったのですけれども。結果としては、大変遠回りをしたと思っております。


    > 「あなたの苦しみはあなたの中だけで終わっているわけではない」と
    > 言っていただけて私の気持ちが癒されました。救われました。もうコ
    > メント書きながら号泣です…鼻水ズルッズルです(笑)はじめて自分の
    > 価値を認めてもらえたような思いがします。

    いえいえ、Caledoniaさんに神様からの豊かな慰めといやし、憐れみを感じることができますように。


    >> 祈り会というよりは、祈りという名の呪いのことばをかけられてい
    >> るような感じになるのではないか、と思います。

    実は、これは私自身も強く感じていたからなんです。祈っている方は、良かれと思って祈っておられたのだとは、と思いますが、ほとんど悪質な当てこすりにしか聞こえない、という経験を私自身したからでございます。そして、そういう祈りをすることがあたかも信仰深いかのようにほめそやすほかの信者さんもおられましたので・・・。

    ほとんど、護摩を焚いたら、ほとんど呪詛ですもんねぇ。「怨敵退散、怨敵退散、怨敵退散、キェー」という雰囲気もおありの方もいるので。

    > これは本当にそう思いました。私を叱る時に母はよく祈っていまし
    > たが、わざと私に当てつけるように(神にチクるように)祈ってい
    > たのですごく怖かった記憶があります。

    しかし、人に聞かせるための祈りというのはねぇ。イエスが最も批判したパリサイ派の人々みたいですね。神の力をご存じないのか、そのように祈ることが神の領域を侵すという疑念も全くなく、祈っておられるのがねぇ。待つしかないのかなぁ、と思います。

    > そして、この「必殺、祈り攻撃」(笑)は親の願いどおりに事が進ん
    > でほしい時(○○に参加してほしい、○○では働いてほしくない等)
    > にも使われたので、祈ることによって両親と神の間で全て決められ
    > コントロールされているような感覚でした。

    しかし、これされるとつらいですよね。神の名においてさばかれている、という感覚になっちゃいますものね。Caledoniaさんは、Manipulate(操作)されようとしていたのだ、と思います。


    > 1世と救いの感じ方が2世には理解しづらいことはよく考えれば当然
    > と思えますが、この違いが「自分が神に愛される資格が無い決定的
    > な差」に思えていました。

    もう、Caledoniaさんは、霊的な回復の入り口を少し入ったところにおられるとおもいます。神から愛される存在としての資格審査などは、どの人間にもないし、すべての人間が神から愛されるべき存在なのだ、ということがおぼろげながらもご理解いただけたのは、なによりでございました。

    > そして自分を傷つけた両親や周りの熱心な人は救われた喜びを満喫
    > しているのにどうして私は放って置かれるのか、神は我らの避け所
    > と言っているのにどうして守ってくれなかったのかという神に対す
    > る怒りもあります。

    なぜ、両親や熱心な人は救われた喜びを満喫している、と見せかけている場合もあるのではないか、と思います。必ずしもそうだ、と主張するつもりはありませんが。私の知り合いの一世は、「いつも喜んでいなければならない」ということから、顔をゆがめながら、「喜ばなければ、喜ばなければ」とおっしゃっておられました。そのお姿を拝見しながら、ちょっと違うんじゃないかなぁ、と思ってはおりましたが、ご本人のお考えなので、特に何も申し上げないままに終わりましたが。


    神は我らの避け所と言っているのにどうして守ってくれなかったのかという神に対する怒り、とのことですが、この怒りはごもっともな怒りだと思いま
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2011.12.19 Monday 10:25
    あれ、切れてますね。続きのコメントです。

    神は我らの避け所と言っているのにどうして守ってくれなかったのかという神に対する怒り、とのことですが、この怒りはごもっともな怒りだと思います。この問題は、神概念と密接に結びつくだけになぜ、神は悪をお許しになるのか、なぜ、私に悪が起きるのか、なぜ、私が悪を引き受けなければならないのか、ということは永遠の問いでございます。旧約聖書に出てくるヨブ記に出てくるヨブというオジサンは、神の目から見ても正しい人であったのですが、結局は、でき物はできるは、家族はどんどん死んでいくは、友人からもあーだ、こーだ言われるという、非常に悲惨な時期を過ごします。聖書は、悪魔からのチャレンジを受けた結果という表現をしていますが、その実態はよくわからない、というのもこれまた事実でございます。ただ、ある面で、イエスが弱く、悲惨な目に逢っている人々とともになるために来てくださった(ルカ6章の山上の説教:幸いなるかな、貧しきもの・幸いなるかな、悲しんでいるもの・・・・)、ということをより深く理解するためなのかもしれないとは思いますけれども。

    特に、この問題は北米のキリスト者世界の中で、キリスト者がRape Victim(レイプ被害者)やChild Abuse(児童虐待)、Domestic Violence(家庭内暴力)の被害者となったとき、この問題は深刻な問題をもたらすようです。このような、メンタル面での支援と霊的な面でのキリスト者のレイプ被害者支援をしておられるグループが北米でおられるようです。ただ、手法的な問題というよりも、この問題を乗り越えるためには、被害そのもの、加害者とも直面しなければならず、それが非常につらい思いを生むこともあるようです。


    > そしてこの嫉妬というか、劣等感の裏返しか被害者意識がどうして
    > も出てしまう部分が私にはあり、小さい子供のようにいつまでもこ
    > の怒りに執着している面があることを否めない自分自信に疲れます。

    本当は、信頼できるクリスチャンカウンセラーからの支援などを受けながら、自分自身を見直していくという専門家からの支援をお受けになられるほうがいいのかもしれません。ただ、キリスト者カウンセラーが非常に少ないと、心理カウンセラーは、国家資格といった感じの公的資格ではまだないので、信頼できるカウンセラーの方と出会えますように、と祈るしかありません。キリスト者心理カウンセラーを名乗りながら、カルト的な活動をされておられる方もおられますので、鳩のように素直だけでなく、蛇のように賢くなられるようお勧めします。

    ご推薦できるキリスト者カウンセラーを存じ上げておりませんので、何とも申し上げられませんのでねぇ。

    > 「救いの文化」にこだわる必要はなく、本当はもっとシンプルなも
    > のであるなら、他の誰かと比べたりせずに自分と神との関係を築く
    > 事が出来るかもと思えました。そういう意味でも聖書をいろんな面
    > から学ぶ必要があるんですね。

    そうなんです。自分の教派の中にいるだけでは、どうしても、聖書理解の幅が限られます。私自身の経験でもそうでした。どうしても、自分だけが正しいと思い込みやすい、あるいは自分を基準とせざるを得ないというのは、人間の基本的性質のようでございます。
    そんな形で、気軽にいろんな考えがある、ということを、現代の私たちは、直接ある教会に行かなくても知ることができるようになった、というのは、非常に大きなことと思います。このような聖書理解の幅の広さをネット接続料金だけで、知ることができるようになったことは、非常に画期的な意義を持っていると思います。私は、主に自派の信者さん向けに、このサイトを始めましたが、しかし、コーパスクリスティ(キリストのからだ)ということを考えますときに、それだけではもったいないので、このサイトの記事に関係することであれば、コメントをお受けするように致しております。

    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2011.12.19 Monday 10:29
    コメントの続きです。

    > ただ、神からも、両親からも「言う通りにしないと愛されない」と
    > いう思いを強く感じてきた私にとって、神を信頼する・愛するとい
    > うことは『DV男の過去を全て忘れて結婚し新たな家庭を作ってい
    > く』という状態にかなり近いものがあり、「この一方的なウルトラ
    > スーパー壮絶な神から人への片思い」という神からの想いがあった
    > として、それを頭では理解できても、怖くて心では受け止めきれそ
    > うもありません。(熱心な1世の方達に「だから信仰が薄いんだ」
    > と言われそうですが)

    まさしく、今は、レイプ被害者の被害直後、というよりはDVの被害、あるいはストーカー被害直後の状態です。だから、急がないでくださいね。あわてないでくださ

    いね。まず、霊的に落ち着くことが一番大事だと存じます。自分自身を霊的に取り戻される、という回復が何より大事ではないか、と存じております。
    カルト被害でも、同様の事例は見られるのですが、その回復のためには、時間をかけて、カルトとのつながりを切り離していく必要があるのと、フラッシュバック(「言う通りにしないと愛されない」ということの恐怖やその言葉を聞いてパニックを起こすこと)からの回復が一番大事です。

    コアラさんは、複数のカルト被害と非常に深い家族からの霊的な被害からの、回復の途上にあります。
    Caledonia様のお書きになっておられることを拝見しておりますと、コアラさんのサイトに書かれていることが、参考になるかもしれません。

    コアラさんのサイトは、次のアドレスです。

    http://rihabirikoara.jugem.jp/

    ご参考までに。

    誤解しないでくださいね。私は、Caledoniaさんがおられる教会が、カルトだとか、ご両親様やそのご友人様がカルト的キリスト教だ、と主張するつもりはありません。ただ、ご両親様や、ご両親のご友人の皆様の熱心さゆえのことだと理解しておりますから。できるだけ、今おられるところにおとどまりになられるよう、お勧めいたします。

    それから、最初は、頭で受け止めるだけでいいと思います。あせらないで、あわてないで、ゆっくりと進んでください。頭で受け止められてから、順次回復していっていただいて、神の愛をお受けになられるよう、お勧めいたします。

    だって、12年間婦人病に悩んでいた女性も、いきなりイエスのもとに行って抱きつくのではなく、その着物のふさに触りましたよね。それでいいのだ、と思います。

    ちょっと離れて、そっと。

    > サイトや文献なども細かく教えてくださってありがとうございまし
    > た。じっくり時間をかけて読んでみたいと思います。(シェーファ
    > ー親子の話も壮絶そうですね…。)

    はい、フランシス・シェーファーは、私も20年ほど前にはよく読んでいたのですが(あまり深くも考えずに、著作順も考えずに)、結構問題があったようです。

    なお、海外では、Preacher's ChildrenまたはPaster's Children(PC)という言葉も定着していますが、親の信仰のスタイルと子供の信仰のスタイルのずれの問題としてある程度認識されていますが、それとても、まともに取り組まれたことはあまりないのではないか、と思います。

    > 私の悩みに優しく付き合ってくださって本当にありがとうございました。

    いえ、私以上にCaledoniaさんの悩みにつき合っている人がいます。打ち捨てられたものとなり、家を建てるものが捨てた石、とご自身を呼ばれたナザレのイエスです。監視するのではなく、あなたを見るのではなく、そばにではなく、少し離れた所から、やさしくあなたをときどきストーカーのようではなく、そっと柱の陰からやわからな視線をときどきちらっと送っておられるナザレのイエスです。それが、片思いのスタイルではないか、とおもいます。

    打ち捨てられるものとなり、闇の世界にくだり、闇とともに生ける者の友となってくださった、ナザレのイエスの生誕日ではないけれどもその生誕を覚えるクリスマス、Caledonia様にとって今年は豊かなものとなりますよう、関西から祈念いたしております。

    また、お越しください。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2011.12.19 Monday 10:34
    拙ブログをご紹介くださっていて、ありがとうございます。

    信仰継承問題については、私も、そりゃーもう、たくさん思うところがあります。現役ですし。(笑)

    長女が、大学2年めがこれから始まるという夏の終わりになって、突然、「信仰を離れる」宣言をしました。「あなたの決断だから、あなたがそうしようと思うなら、お父さんとお母さんは、何もいわないよ.We love you.」と抱きしめて、大学2年目に送り出しました。二年目が終わって帰ってきた夏、自分から、「私がどんなに神様に抵抗しても、こんな私は神様に愛されてないんじゃないかとどんなに思っても、神様の私への愛は否定できないことがわかった。今では素直に神様の愛を受け入れ、ほかの人とは比べないで、私らしさをもって神様を愛していきたいと思ってる」と言ってくれました。

    次女は次女で、長女とは違いますが、やはりいろいろ興味深いところを通っています。

    語り出したらきりがないので、ここまでにしますが、
    かわむかいさんはお住まいはどちらですか? 次に私が帰国したら、ぜひお会いして、語りあいたいですね〜! そのときはよろしくお願いします!

    あと、現在の私の子育てにおける心境を、「聖書に学ぶ子育てコーチング」(あめんどう)の訳者あとがきに記しました。長くなって恐縮なのですが、一部転載させてください。

    =====
    私には四人の子どもがおり、十年前、長女が十歳のときに本書と出会いました。著者は、親自身が境界線を身につけていないのなら、まず親が先に学ばなければならないと言っていますが、私の場合もまさにそのとおりでした。新約聖書ローマ書7章のパウロのように、なすべきことはできず、すべきでないことをしてしまう未熟な自分と格闘しつつ、こんな私に子どもを預けてくださった神の太っ腹さ(?)に何度もおののき、ただ神の助けと憐れみを乞いながら歩んできました。その中で境界線について学んだことは、大きな恵みでした。

    現代社会には成果主義が蔓延しています。子育てにおいても、親も周囲も、短いスパンで目に見える成果を出すことを期待しているようです。確かに、親には神から委ねられた責任があります。親としてなすべきことを見きわめ、賢明に判断し、忠実に、熱心に、愛をもってそれを行なうべきでしょう。しかしながら、本書の助言に従ったとしても、現実には親のコントロールの及ばないことがたくさん起こります。ときには、主の善い御手が子どもや状況を取り扱ってくださるのを、へりくだって待つしかないときもあります。結局のところ、神が親に求めているのは、私たちがいかに模範的な子どもを育て上げるかではなく、与えられた機会や資源を十分に生かしつつ、主への信頼をもって、どれだけ忠実に、なし得る限りを尽くしているか、なのではないでしょうか。

    人がどのような人格的・霊的成長を遂げるかは、究極的には、神と本人の間の問題だと思います。子どもが立派に育ったからといって親の手柄ではありませんし、子どもが人生のある時期荒れたとしても、子育てに失敗したというものではないでしょう。親の目にはつらい状況であっても、神はそこから美しいものを生み出すことのできるお方です。親も最善を尽くしますが、子どもを成長させてくださるのは神であることを、私自身痛感してきました。
    ====
    はちこさん

    コメントありがとうございます。感謝感激雨あられ。「ひでき〜かんげき〜」のノリでございます。

    そうですか。子育ての現役。うちもそうです。高三の娘と高一の息子がおります。娘は受験勉強まっしぐら、息子は、ギターと昼寝にまっしぐらの毎日です。

    はちこさんとぼぼるさんのようにおおらかに構えられる信者さんが少なくって、信仰を捨てる、なんて言われると、それこそ、怨敵退散、怨敵退散とやりたくなっちゃいますものね。

    娘さんの素直な信仰もいいですね。ご成長が楽しみだと思います。もう事故の後遺症はでておられませんか?例のむちゃくちゃびっくりされた事件でしたけれども。

    ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい は関西の神戸という町の西のはずれのほうに住んでおります。関空くらいまでなら、すぐにお伺いできます。神戸方面に来られることがあれば、ぜひ。

    はちこさんのところの食客になりかけていたHase君とも、今度、水谷先生を招いてのANRの会兵庫を1月にする予定です。

    ほー、まだ、買っていなかったです。AmazonかRakuten booksへGo!します。

    最近、T.N.Wrightを読み始めたので、本がどんどんたまる一方で、困っています。大学院時代のように本を読んでいます。

    一時期、ずいぶんまいっていらっしゃったようなので、神戸の地からひそかに祈っておりました。ご快復が一層進みますように。

    それではまた、ご訪問、コメント、お待ちしております。それでは。お元気で。シャローム。

    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2011.12.22 Thursday 14:31
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