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2011.11.30 Wednesday

あるクリスチャン2世のコメントからたらたらと考えた。

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    先日の記事である「続 罪の問題と非キリスト者ホームの信者とキリスト者ホームの子供として育った信者とのギャップ」に対して、Caledoniaさんという方から非常にまたまた素敵で印象的なコメントをいただいたので、紹介しつつ、応答していきたい、と思います。ここで紹介するのは、Caledoniaさんさんからいただいたコメントが、mさんからいただいたコメントと同様、コメント欄で収まらない内容と広がりを含んでいるからです。同じ思いを持つ人を見つけた、という思いがあるからなんですね。

    Caledoniaさんには、この場を借りて、深く御礼を申し上げます。貴重なコメントありがとうございました。   
    私は20代のクリスチャン2世です。
    クリスチャンホームでの成長過程で苦しんできました。
    こちらのブログでクリスチャンホームの問題について書かれている所があったのでコメントさせていただきました。

    この問題、結構苦しまれている方は多いようです。子供が苦しむだけでなく、親を苦しめている事例を複数例を存じ上げていますが、それについては最後に詳述します。

    クリスチャンの2世には

    ・教会で無菌培養され、理詰めで現実が伴わない熱心な人

    ・教会で無菌培養され、現実とのギャップに苦しんで病んでしまう人


    ざっくり分けるとこの2種類に当てはまる人がとても多いと思います。

    病むと言っても、程度の大きさは病名がつく人〜苦労話程度の人まで様々だと思いますが。

    確かに、教会で無菌培養されてしまっていて、現実感と苦労する人々がいることは確かです。大学生のころまでの私は、こちらかなぁ、と思います。私自身、最初の新入生歓迎会で、先輩(高校の先輩でもあった方)から飲酒を勧められ、断固断ってその場から立ち去ったのでした。まぁ、とんでもない「現実が伴わない熱心な人」だったわけです。車幅感覚ならぬ、社会感覚がなかったのでしょう。愚かしいことをしたものだ、と今では私は思います。(下らん親父ギャグ・・・・)

    私の両親はクリスチャンで特に熱心なのは母親の方でした。
    日本の文化を始めとするキリスト教以外の文化はもちろん、キリスト教であってもリベラルの様な考え方は罪であり危険だと教えられました。

    両親やその友人たちの考えに反することをすると、聖書の教えを用いて私がどれだけ罪深いか教え込まれました。

    そして「私が見ていない所でもいつも神が見ているから全て隠しておくことは出来ない」

    「私の教えに従えないのなら独りで生きていけ、外の世界では神も助けてはくれない」と言われ続けてきました。

    「聖書の教え」とか「聖書的」という語は、ほとんど脅迫語ですねぇ。本当は聖書が主張していない、この2000年の間に、誰かが聖書の単語やごくわずかな表現を手がかりに作り出した概念に過ぎないものが、聖書と同等の価値を持つ、ということによる問題ではないか、と思います。

     多くのクリスチャンにとっては、本来的な聖書の主張でなくても、「聖書の教え」とか「聖書的」といわれると、水戸黄門の印籠を出されたときの悪代官みたいに「ははぁ、恐れ入ってございます」って言わなければならない雰囲気ってのが確かにありますもの。

     これに少しでも口答えしようものなら、それは「リベラルの考え方だ」とか「聖書的ではない」といわれてしまいます。それに対抗するためには、かなり懇切丁寧に聖書から反証しなければなりませんが、そのためには聖書から縦横無尽に相手を納得させるための引用をした上で、「どう思う?」と相手の方に示さなければなりません。戦闘モード全開といった雰囲気にあまりならずに。
     しかし、ただ、根拠なく「聖書的」というようなことを言う方は、そもそも議論を聞く気がなく、どうだといったところで、耳を傾けてもらえないことが多いのも悲しいかな事実です。その人の考え方が、「聖書的」でとどまっているならまだしも、その人の考え方が「聖書そのもの」というか「聖書に等しい権威」に化けているにもかかわらず、本人が、自分自身を一種の聖書(あるいはYHWH)に等しい権威としているという暴挙!出ているかもしれない、ということをまったく意識していない場合がかなりの高い確率でみられるのが、この話の怖いところです。だれかから、語り聞かされたものをまったく自ら吟味もせずに受け止めてしまうというウルトラスーパードゥーパーに安易な方法で、権威化するという…。

    そうですかぁ。そうとう残念な状況におかれておられたのですね。こころから、ご同情申し上げます。 
    そして「私が見ていない所でもいつも神が見ているから全て隠しておくことは出来ない」
    「私の教えに従えないのなら独りで生きていけ、外の世界では神も助けてはくれない」と言われ続けてきました。
    そのため、私にとって神はストーカーの様に四六時中自分を見張っている存在で、御言葉は恐怖でしかありません。


    この感覚、わ・か・る!という雰囲気です。そうですよね。いつも見ている、というよりは監視されている感じなんですよね。高校生の娘と少し前まで、Hanna Montanaというディズニーチャンネルの番組を見ていたのですが、そこに出てくるHannaのお父さんが時々する、My eyes on YOU!という感じですよね。前のコメントでもふれた、O be careful little eyes what you seeの日本語歌詞は、すごいですものね。

     あの歌詞を見ると、確かに、ストーカーのように感じるのは、致し方がないかもしれません。福音を語ったイエスではなく、Big Brother(ジョージ・オーウェルの1984という小説に出てきます)のように監視する看守のような神という感じ、非常によくわかります。私もそう感じていました。

    そうそう、ストーカー行為は、立派なSex Crimeなのでねぇ。Detective Olivia Bensonに、"You are under arrest.  You have a right to remain silent. ...."とでも言ってください、お願いしたくなっちゃいますね。ここまでくると、Law and Order SVUの見すぎですね。

     ところで、恐怖といえば、私の場合、さらに条件が悪かったのは、私が小学校の高学年だったころ、学研という、小学生向けの学習雑誌や科学雑誌(というよりは付録つきの雑誌)を出していた会社が、ムーというオカルト雑誌(このムーと麻原彰晃こと松本智津夫被告とのつながりがあったことが、別冊宝島に書かれていたように記憶している)を出すは、いまではトンデモ本扱いされている「ノストラダムスの大予言」という本が出るは、オイルショックで、主婦はトイレットペーパーを目を血走らせ買いあさっているは、究極の口先介入で、ニクソン政権は国際通貨危機となりかねない事態を発生させるは、まぁ、世の中が不安定なうえに、当時イスラエルは今よりももっともっとド派手にイスラエル周辺で周辺諸国相手にドンパチしているは、それこそ世の中不安が巻き散っている状態だったのですね。その中で、私どもの教派からはいまほぼ関係が切れているU野(伏字になっていない・・・)さんや山Mさんなんかが、ユダヤ関係の本を出すわ、という時代だったのですね。それこそ、恐怖の大王がまもなくやってくる、ということが言われた時代であったわけです。たしか山Mさんは、「恐怖の大王は、再臨のイエスキリスト」とその著書の中で書いておられた記憶が・・・。ははは・・・。こうなったら笑うしかないなぁ。恐怖で支配する、というのは、まさしく性犯罪や児童虐待と同じ構造・・・。

    私にとって神は主イエス・キリストだけではなく、両親とその友人たちもまた神でした。
    まさに、この感覚、ワ・カ・ル!という感じです。家族や親しい知人が「それは聖書的ではない」とか「聖書はそんなことを言ってない」とどこかで聞いてきたことをもとに、おっしゃって、「」のような存在になってしまっておられるその状態。ただでさえ、BIG Brotherのような神に監視されているような気がするのに、神とは言わないまでも、神に限りなく近いような大天使のような「昔いまし、今いまし、いつもそこにおられる方」のような存在に囲まれて、わぁわぁ言われる。たまったものじゃ、ありません。高校生のころになって、どうも教会の大人が言っている聖書理解と合わない、と思った時にそれに聖書から反論したら、教会の大人から、有名な何とかという伝道者が××といっているとか、有名な宣教師が△△といっているとか、長く生きている人の特権を使って検証不能な言説を振り回すことで納得させようとされたことがございました。
     しかし、監視する神のような存在の両親というのは、つらいですね。息が家庭でも抜けない、ということですから。恐怖が家庭を支配するのは、DV家庭と同じですよね。神とは言わないまでも、大天使のような方々によって、常に監視されている感覚がいつになっても離れない場合、「昔いまし、今いまし、今そこに見える恐怖の大王さま(両親の方とかその周辺の方)」がどこにいても見える、というのはつらいですよね。こんなパロディをするミーちゃんはーちゃんは、聖書の言葉を軽んじる、リベラルな悪魔の手先のような人間と評価され、ご両親様やそのご友人の方からは、金持ちの家の前でできものをなめられるラザロのような存在、あるいは、弟子たちから、この人が目が見えないのは、この人が罪を犯したからですか?それとも両親が罪を犯したからですか?という弟子たちの無神経な発言を聞きながら、額の所に黒い筋を何本もたらしながら愛想笑いするしかない盲人のような存在なのでしょう。

     それから
    そのため、両親の言うことに振り回されてしまい、何が自分の本当の気持ちなのか、それは正しい感情なのかが分からなくなります。
    についてですが、親が子供を振り回すときに、脈絡なく出てくることばとして、「あなたの父と母を敬え」という聖書の表現がよく用いられるようですが、敬えという言葉も、旧約時代のヘブル語からすれば、日本語でいう絶対服従、という概念ではなかったように思うのですがねぇ。敬う、ということと絶対服従が混乱してしまう事例が、結構見られるように思うのですけれどもねぇ。

    「重荷を負っている人は私の所へ来なさい、私が休ませてあげます」とよく聞きますが、
    私にとってはキリスト教自体が重荷で、神を忘れる事が出来たらどんなに楽だろうと思います。

    相当厳しい環境に置かれておられたのですね。「こころからのご同情を申し上げます。」とミーちゃんはーちゃんは申し上げることしかできません。それこそ、今読んでいる本のにThe King Jesus Gospel: The Original Good News Revisitedと いう本がありますが、この中で触れられている『救い』の文化の関係者に巻き込まれ、本来的な聖書の主張でない、『救い』の文化(Salvation Culture)の被害者になられた、ということのように思います。McKnightの主張によれば、本来、聖書から出発している教会が形成されていく中で、本来の聖書の主張とは異なる独自の文化(『救い』の文化(Salvation Culture))を作り上げられる中で、本来福音とはいえないものが「福音」として語られ、理解が広がっていくなかで、「福音」そのものが、どこかでひね曲げられてしまい、「本来の福音とはいえないもの」に変質して しまっている、ということの被害者になられたのではないか、と推察いたします。
     ミーちゃんはーちゃんも、実は、ヘンリーナウエンという人の、ナウエンと読む福音書いま、ここに生きるに出会うまでは、20年ほどの信仰歴がございましたが、「重荷を負っている人は私の所へ来なさい、私が休ませてあげます」の意味がピンとこなかったこともまた事実です。しかし、ナウエンの本と出会って、このことの意味が、おぼろげながら、少しわかってきたところでございます。そんな関係もあり、この種の問題を抱えておられる皆さんには、いま、ここに生きるを強くお勧めしたい次第。あめんどうのまわし者と呼びたければお呼びなさい。誰になんと言われようと、ミーちゃんはーちゃんは、あめんどうを応援します。
    「救われた」「ありのままで愛されている」という感覚がどういうことかもさっぱり分かりません。
    「信じれば救われる」「求めれば与えられる」という言葉も「本気で求めない自分が悪い、だから理解できないのだ」と言われている様です。
    というのは、Caledoniaさんが悪いのではなくて、『救い』の文化のいう『救われた』ということがCaledoniaさんには、わかりにくいだけなのだと思います。その意味で、聖書がどう言っているのか、ということをもう一度再検討してみる必要を、最近強く感じています。McKnightの本にも、『救われた』ことは、ウェスレーのようにこころの中に熱い思いがこみ上げてくることでもなく、もっと普通のこととかかれておりましたが、私も救われたというのは、もっと普通のことのような気がするのですけれどもねぇ。

     というのは、出エジプトの荒野で蛇にかまれたとき、イスラエル人がしたことは、青銅でできた蛇を見たことだけでしたし、イエスとともに十字架にかかっていた強盗の一人は、殺される前に「イエスとともにいたい」ということを思い、それを口にしただけなのです。神とともにいたいか?ということが救いなのではないかなぁ、と最近は思ったりしています。

    「信じれば救われる」「求めれば与えられる」という言葉も「本気で求めない自分が悪い、だから理解できないのだ」と言われている様です。

    相当おつらい思いをされたことと思います。こころからご同情申し上げますとしか、ミーちゃんはーちゃんには申し上げられませんが、Caledonia様は要するに『救い』の文化(Salvation Culture)の人が言っている意味での『救い』とイエスとの関係が分からないだけ、共通理解が構築できないだけであり、それゆえに不幸な状態に陥っておられるのでは、と存じます。

    私がキリスト教と関わって得たものは「救い」ではなく「劣等感と自己否定」です。
    本当にご同情申し上げます。ただ、くりかえし、くどくなりますが、ここCaledonia様がおっしゃっておられるキリスト教はMcKnightのいうGospel Cultureの意味でのキリスト教というのか、聖書の主張そのものではなく、『救い』の文化(Salvation Culture)が化けているキリスト教のようなもの、ということなのかもしれません。本来の聖書の主張は、人を生き生きとさせるもの、であると思うのですけれどもねぇ。神は、人の鼻に息を吹き込まれ、いのちを与える存在としていのちを与えた(その具体的手法がどうか、という議論は少しさておいて)、ということが聖書の主張だと、私は思うのです。
    そして追い打ちをかけるように『教会で無菌培養され、理詰めで現実が伴わない熱心な人』にはその気持ちが分からないのか、
    ちょっとキリスト教を批判したり疑問を持つと
    「あなたは本当のクリスチャンではない、信仰が薄い」と裁かれるわけです。
    (↑この熱心さは自分が救われた喜びで舞い上がってしまい、周りが見えていない1世の方にも言えることです)
    疑問を持つことに関しては、重要だと思うのです。それが神学の出発点であり、聖書理解の出発点だと思うのです。でなければ、だれかが勝手に語った『聖書理解』と呼ばれるものをただただ墨守するロボットのような存在に人間はなってしまいます。

     私も、実は、疑うことはよろしくない、と思っておったことがありまして、このあたり、イライラを抱えていた高校生から大学生の時期があります。大学2年生の時に履修した、オリエント史の授業で、池田裕先生が授業の終わり際にさらっと、イザヤ書1章18節の「さあ、来たれ。論じ合おう」とは仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」を引用され、YHWH)は、人々と語り合う存在であり、そのための聖書なのではないか、とお話しになった時から、そうか、聖書解釈にちがいがあるのは、当然かぁ、と思ったときから、気持の整理がついた記憶があります。また、疑いに関しては、McGrathという人が

    Doubting: Growing Through the Uncertainties of Faith

    という本をお書きになっておられます。個人的には、疑うこと、ということは大事だと思うのですが、鳩のように素直でもありますが、蛇の様に賢くあること(疑うこと)も神は求められているように思うのですけれども。

    「あなたは本当のクリスチャンではない、信仰が薄い」と裁かれるわけです。
    (↑この熱心さは自分が救われた喜びで舞い上がってしまい、周りが見えていない1世の方にも言えることです)


    しかし、このような熱心さを持った方は、パウロのような方なので、その方々の神への熱心さが狂わせているのでしょうねぇ。「あなたは本当のクリスチャンではない、信仰が薄い」と自信を持っておっしゃる以上、神のみが知る個人の救いに関する確信をお持ちであるということは、そのこと自体、そうおっしゃる方自身がYHWH)と自らを等しくしておられることにお気づきないのでしょうね。私はこのようなことをお聞きした時に「しぃーらないっと。モーセじーさんが大激怒するぞ。そして石の板を割ってしまうからな。気をつけた方がいいぞぉ。金の子牛でそうなら、自らを神とひとしくし、その上勝手に裁きをするなぞ、『私のほかに神があってはらなない』に違反してんじゃん。」と思ってしまうんですねぇ。
    ただ、今までの人生の傷を全てキリスト教のせいにするつもりはありません。
    大人になってみて両親の育った人生にも問題があったことを知り、今彼らを憎む気持ちはあまりありません。
    傷は癒えず、今もなお苦しんでいますが、両親にその怒りをぶつけてもしょうがないなという感じです。
    私は、Caledonia様の対応というのが、いいなぁ、と思います。憎しみ、怒り、嘆きからは不幸は生まれますけれども、あまりよいものが生まれないように思います。
    しかし、先ほど言った2種類の2世の様な人間はどちらにしてもバランスが悪く極端な人間に育ってしまいがちです。
    そのため、やはり小さい頃から沢山の選択肢に触れさせ、自分で選択できるような環境を与える事は本当に大切だと思います。
    子供が沢山の選択肢のなかでクリスチャンとして歩むこと出来ればそれはそれでいいことです。
    子を持つ親にとっては心配でしょうが、こうしない限りキリスト教が数世代にわたって広がることはないと思っています。
    一つのマインドセットにとらわれ、その中でしか考えられないこと、というのは、非常に不幸な結果を生み出します。ただ、多様性がある、選択肢があることの大切さをなかなか分かっていただけない方々もおられます。それは仕方がないことなのかもしれません。

     15年戦争(一般には太平洋戦争と呼ばれる)を小国民としてライブで体験された方は、マインドセットが国体の維持(国民総体として維持するの意味ではなく、陛下を中心とした万世一系の天皇制を維持する、にいつの間にかすり替わってしまったことが問題)が中心的課題であり、小国民の夢は、陸軍士官学校か、海軍兵学校に行くこと、または、兵隊さんのお嫁さんになって、兵士の予備軍を再生産することという夢しか持てず、農林一号という量的な生産性が非常に高いサツマイモ(ある程度味は良いらしい)が食べられればましな方で、そのツルを食べなければならなかった時代を通過した人からすれば、選択など、贅沢であり、贅沢は国民の敵であり、非国民のすることであった時代が刷り込まれているようです。

     どうも、人間は選択していくことで自分を形成していく、という部分があるように思いますし、信仰は、個人の信条の選択の問題であり、その意味で個人の主権の最も重要な部分であると思うのです。その意味で、日本国憲法の信教の自由の保障というのは、人権を考える上で、極めて重要な要素を持っていると思います。信仰の選択を脅し、脅迫、恐怖を道具にしてするようでは、某国際勝○連合と同じではないか、と思うのです。「ご先祖様の悪い霊があなたの上に働いています。この聖書を読むことで悪い霊の影響から透明バリアの様にあなたは保護されます」的な言説や「信仰は良いものだから、絶対に受け取ってもらいたい。何が何でも受け取るべきだ」という押し売りまがいの言説、あるいは最近のうるさい賃貸用マンションの販売業者のような言説が、時にあるのではないか、と思うのですね。聖書のいう救いとは、そういうものではない、と思うのです。

    最後になりますが、親の観点から、こどもの教会生活と親の苦しみ、ということを触れておきたいと思います。具体例から導かれた抽象化したお話として。こどもが教会に行かなくなった親、というのはそれはそれで、教会の人から冷たい目で見られたり、クリスチャンホームの失敗者だと言われたりするわけです。それが、未信者と結婚したりしようものなら、陪餐停止、ひどい場合は追放されることともないとは限りません。それこそ、霊的な、そして精神的な石打ちの刑状態となるのです。それこそ、「悪魔の手に落ち」、だとか「信仰の破船にあった」とか、神ならぬ人間であるにもかかわらず、神であるかのごときご発言をされる方々の言説や陰口を聞かなければならない親の立場は親の立場で非常につらいものなんですけれども。

     役員なんかしていた日には、役員の子供なのに教会に来ないなんて、と批判を浴びることになるでしょうし、役員の親が子供の成長のためとはいえ、他の教会に出した日には、状況が分からない信者さんからは、「自分の教会がつまらないからだした」というようなお小言ならまだしも、破壊的な陰口を頂戴するかもしれません。

     となると、もう、それは親の覚悟と根性が問われる世界となります。誰かに何か言われても、気にしないだけの根性と覚悟が必要なのですが、それに耐えられるだけの人は少ないと思います。ということを考えると、なかなかこのことに踏み切れないだろうなぁ、と思います。

     最後に、キリスト者の親子関係の確執について、ジム・ウォリスという私どもの集団から飛び出して、ソジャーナーズという独自の動きを始めた方の親子関係の葛藤について終末を生きる神の民というタイトルの本の最終章で、後藤敏夫さんが書いておられますが、世代を取り巻く文化の違いをどう考えるのか、という際には、この最後の章の記述なんかも参考になるかもしれない、と思います。

    あー、まただらだら書いてしまった。貴重なコメントをくださったCaledonia様にお礼を申し上げるとともに、ここまで辛抱強く駄文にお付き合いいただいた、皆さまに感謝いたします。ありがとうございました。
    コメント
    HKです。ご無沙汰しています。ミーちゃんさんの休筆が結構長かったので案じておりましたところ、復帰早々のテーマ(罪の問題・・)がツボにはまるクリーンヒットになりました。ミーちゃんさんの記事とお二人のコメントからは、この件に対する深く真面目な問題意識が伝わってきました。ヤンキー先生、小嶋先生の記事ともあわせ、得がたい示唆をいただいて感謝しています。

    というのは私事になりますが、昨年の今頃洗礼を受け、以来喜んで教会に通っていた私の末子が、この1カ月ほど深い信仰のスランプに陥り、教会に向う足がすくんで日曜日になると自閉しています。親として、まずは何故なのだという疑念が浮かび、次にこの事態は試練なのか、失敗の証明なのか、通るべき摂理なのか、時による解決を待つのか、祈りのうちに神に問い、ある時は信仰の話をふると口数が減ってしまう本人を交えて、また別の時には夫婦の過去の歩みが生ぬるかったのだと反省モードに入ってしまう妻と二人で、ああでもないこうでもないと話し合い、牧師に相談すると自分も同じ経験をしましたと慰めの言葉、また教会の別の人に打ち明けると純粋過ぎるとも言われ、現在はまだ五里霧中ですが、ふと示されたのは今の混迷状況は、まさにローマ書のパウロそのものではないかとのインスピレーションです。

    要は現代のキリスト者(とりわけプロテスタント信者)が、パウロが(先んじてイエスご自身も)身を持って間違いをただそうとした律法主義、それと同じような「穴」に知らぬ間に落ちているのではないかとの省察です。自らが拠って立つ教理が磐石であると信じるあまり、それに安んじてしまい、神そのものではなく、神に救われた自分が誇りとなってしまった。自己義認とも言えましょう。これはまさに現代の律法主義、パリサイ派です。もし私たちの信じる福音がこの程度の「閉じた体系」でしかないとするならば、所詮は世に対してインパクトを持ち得ず、独善だと見捨てられてしまうのが落ちです。
    パウロはユダヤ人でありながら、彼らが生きていく規範であった「律法」を止揚する(廃棄ではなく)という、苦しみに満ちた役割を神から担わされました。しかしキリスト・イエスに在るとき、彼にとってこの務めは天的な喜びでもありました。

    無菌培養されあと、世の中を知り、その上で教会に集う現代の二世たちも、あるいは暗雲のような疑念(救いとは、一世たちに現されているこの程度のものでしかないのか、神は私を世の中で用いることがおできになるのだろうか)の中にあるのではないかと思わされます。今回も長くなってすみません。
    • HK
    • 2011.12.02 Friday 12:40
    HK様 こちらこそ、ご無沙汰しておりました。コメントありがとうございました。実は、夏から体調が非常に安定せず、しばらく休養しておりました。あんまり、小弟のようなものが書きなぐるものに惑わされませんように。

    お子様のこと、本当におつらいと思います。でも、本人様のお子様が一番おつらい思いをしておられるのだと思います。

    親としては、ドーンと構えて気分が向いたらでいいよ、といってやりたいところですねぇ。どこの教会でもいいから、って、言ってあげられるといいのかもしれませんねぇ。成長の過程でのことだと思いますよ。


    > 自らが拠って立つ教理が磐石である
    > と信じるあまり、それに安んじてし
    > まい、神そのものではなく、神に救
    > われた自分が誇りとなってしまっ
    > た。自己義認とも言えましょう。

    そうなんですよねぇ。人間の弱さと申しましょうか。最初は自分が誇りとは思っていないにしても、自分が信じたことは正しい、と思う。正しいことなのだから、全て人がするべきだ。となっていく過程の中で、神がすべての人を愛し、尊重している問うことが抜け落ちがちなのでしょうね。

    > これはまさに現代の律法主義、パリ
    > サイ派です。もし私たちの信じる福
    > 音がこの程度の「閉じた体系」でし
    > かないとするならば、所詮は世に対
    > してインパクトを持ち得ず、独善だ
    > と見捨てられてしまうのが落ちです。

    残念ですが、福音の本当の意味がどっかでずれているんでしょうね。Scot McKnightの本には、イエスを旧約聖書的なコンテキストから理解せずに、それ以降に出たパウロの理解がなぜそうなっているのかを理解せずに、表面的な理解で考えるから、こうなるのだ、と書かれていました。もちろん、全面的には賛成できない部分もありますが、Rob Bellにしても、McKnightにしても、今の「救いの文化」がおかしいということでは一致しています。どうも、Rob Bellが一番言いたかったのは、HK様が指摘されておられる通り、自己閉塞していて、外部にアウトリーチする力を失っている福音の問題を取り上げているようです。
    はちこさん情報によれば、Bellはテレビドラマの制作を通して福音をつたえようとしているようです。

    現代の2世の問題は、どちらかというと、親の信仰スタイルと自分の信仰スタイルのギャップ、親が聖書だと思っていることに合わせるために、違うんだけどなぁ、と思いつつも自分を少し偽っているところにあるのかもしれません。ミーちゃんはーちゃんは、昔から、むちゃくちゃで、違うと思ったことは、宣教師であろうが、親であろうが、無視して、自分の理解を突き通してしまうところがあるので、確信犯で自分の聖書理解が違っていてもよい、自分はこう思う、といっていろんなことをしてきました。同じ教会の方でも、こんなブログを書いていることをよく思っていない方もおられます。でも、自分自身を教会のルールという根拠のないものに押し込めたいとは思いません。

    長いのは、気にしておりません。本当にコメント、ありがとうございました。またまた、各ネタが広がりました。ありがとうございました。皆さんのコメントのおかげで、私自身が学んでおります。

    お子さんがのびのびと神とともにいることを喜べる時が早く来るといいですね。その時は絶対に来ると思います。

    だって、ナザレのイエスは、インマヌエル(主はわれらと共におられる)という称号を持つ方ですから。そのことを確信いたしております。

    また、コメントくださいね。こちらこそ、コメントが長くなりました。

    それでは。



    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2011.12.02 Friday 22:50
    こんばんは。
    コメント読んでいただいただけでなく、記事にしてくださってありがとうございます。
    自分のキリスト教に対する素直な気持ちを責めずに受け入れてもらえた事が無かったので涙が出るほど嬉しかったです。
    記事に書いてくださった全てに対してコメントを書きたいくらいです。

    神が看守の様な神に思える事や、神が他の人にすり替わってしまう様に思えてしまうのは私だけではなかったんですね。

    >神とは言わないまでも、大天使のような方々によって、
    >常に監視されている感覚がいつになっても離れない場合、
    >「昔いまし、今いまし、今そこに見える恐怖の大王さま
    >(両親の方とかその周辺の方)」がどこにいても見える、

    まさにこのような感じです!
    ただ、全て奴隷の様に文句を言わず従ったというよりは思春期には猛反発したりもしました。
    しかし、両親の様なタイプの人には反発は逆効果だったのか余計に怒られ、最後は従わざるを得ませんでした。
    (クリスチャンの友人と「私がどんなにダメな人間か」についての公開裁判&祈り会が開かれる)

    >The King Jesus Gospel: The Original Good News Revisited
    >という本がありますが、この中で触れられている『救い』の
    >文化の関係者に巻き込まれ、本来的な聖書の主張でない、
    >『救い』の文化(Salvation Culture)の被害者になられた、
    >ということのように思います。

    「救いの文化」と「救い」はそれぞれどんなもので、どんな違いがあるのですか?
    救われたとよく聞く体験談はどれも劇的で感動的なものばかりですし、どんなに苦しいことがあっても自分の願いや計画などはすべて捨てて、神に従う強い決心が本気でつかない限り神には愛されない(救われない)のではないかという不安があります。
    だから頑張って聖書を読んでみても、いろんな角度から祈ってみても、一向に何も分からない自分は神に相手にされていないように感じるんです。

    神を忘れる事が出来たらどんなに良いかという反面、「救われた」という感覚を味わってみたいような思いと、今までの苦しみをただの苦い過去で終わらせたくないという気持ちもあります。
    そして、救われてるのはいいのですが、選民意識のようなものを持ってしまっている一部のクリスチャンのように自分もなってしまうのなら、神の救いなどほしくはないと思う部分もあり葛藤している状態です。

    >こどもが教会に行かなくなった親、
    >というのはそれはそれで、教会の人から冷たい目で見られたり、
    >クリスチャンホームの失敗者だと言われたりするわけです。

    これはきっとある事なんだろうなと思いました。
    我が家がクリスチャンホームだと言うと他のクリスチャンの方は「ご両親の信仰がしっかり受け継がれている、祝福されている」とよく言っていたので、両親はそれを誇りにしていただろうし、「間違いなく、しっかりしたクリスチャンに育てなければ」という強い気持ちがあったように感じます。
    子供のころは良く教会で親の考えとは違うことを言ったりすると、家に帰ってから怒られたり、両親以外の大人と話すとき、母が私が何を言うか見張っていたりしたのはそういうところのプレッシャーがあったのかもしれません。

    具体的にお勧めの本なども紹介してくださってありがとうございました。
    『いま、ここに生きる』是非読んでみたいと思います。
    あと、記事を読んでいてミーちゃんはーちゃんさんは英語の本などについても知識を持っておられるようなのでお聞きしますが、
    こういった2世の問題はキリスト教の文化が根付いている欧米でもよくあることなのですか?そういう人達はどうしているのですか?
    英語が分からない私でも知ることが出来る文献、サイトなどはありますか?
    もし、ご存知でしたら教えていただきたいです。それでは。
    • Caledonia
    • 2011.12.05 Monday 19:14
    Caledonia様

    またまた、書く気にさせるコメント、ありがとうございました。コメント欄では収まりきらない内容を持っているので、明日中には、私からの応答を記事にしてアップしたいと思います。今しばらくお待ちくださいますように。

    本当に、正直なお気持ちのコメント、ありがとうございました。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2011.12.06 Tuesday 08:40
    初めてお訪ねします。(小さないのちを守る会のブログからこちらを知りました)
    私は20代で受洗し、現在40歳、二歳半の子どもを育てております。まだ毎晩3〜5回は起きないといけないので体力的にしんどくて、日中も子どもの前でパソコンの前にはなかなか向かえないので(子どもがいたずらしたくなるので)、書ける時間も限られており、走り書きのようになってしまうかもしれませんが、どうしてもお伝えしてみたく、今書いています。
    信仰の継承について、私も躾の仕方などで悩んだりしていましたが、今、Phil Downerさんの著書、A Father's Reward という本(Eternal Impact Publishing  副題はraising your children to walk in the truth)と出会って、具体的に子どもにどんな場面でどんなふうにどんな感じで、イエス様と共に歩むよろこびを紹介するかとかが、手に取るようにわかり、読むと本当にうれしく楽しく希望がわいてくるので、ぜひぜひ一度お読み頂けたらと思いました。英語も大変読みやすいので、あっという間に読み進めてしまいます。
    Discipline without a relationship develops rebellion.
    このことの意味が、本当にわかりやすく書かれており、雲間から太陽が出てくるようなすがすがしい思いになりました。
    • pen子
    • 2011.12.08 Thursday 16:03
    Pen子様

    コメントありがとうございました。子育て、というのは、神様から遣わされた来客者をどう迎え、共にどう過ごすか、ということが本当に問われますねぇ。このような本が、日本でも必要になってきた、ということは、それだけ2世が増えつつある、あるいは2世となっていただく方とともに、どう共に成長していくのか、ということに関心を持つ方々が増えているのかもしれません。
    Amazonで中古本を見つけたので発注しておきました。おそらく年明けに到着ということのようですので、読み終わりましたら、感想などを記事にすることでお返しできれば、と思います。

    ご教示、ありがとうございました。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2011.12.08 Thursday 16:12
    日本のクリスチャンはものを知らない。信仰は日々キリストの十字架に自分を包括させる事(契約成立)によって、自分は死に、キリストの霊が一方的に自分を介抱し、再生し、用いる。契約後、自分は地上の歩みは止めて、霊が天上を主となって歩む。自分を十字架に付ける度に天が開かれ、主の御声を聞くようになる。
    • riverwave
    • 2012.04.03 Tuesday 13:15
    riverwaveさま

    コメントありがとうございました。

    > 日本のクリスチャンはものを知らない。

     ご批判は甘んじて受けたいと存じます。

     では、海外のクリスチャンはものを知っているか、というと、それがどうもそうでもない、というのが、ミーちゃんはーちゃんの正直な感想です。少なくとも、アメリカのクリスチャンにもものを知らない方が少なくないかなぁ、というのが正直な感想です。アメリカ在住時には、「自分はアメリカ人なので、キリスト者だ」と上から目線でミーちゃんはーちゃんにお話しいただいた方と何人かお会いしましたから。

     「どのような話題にせよ、一般化は、危険では、ございませんでしょうか?」と思います。

    お書きになられたことが少ないので、「死」・「契約」・「介抱」・「再生」・「自分を十字架に付ける度に」などの用語が、定義がミーちゃんはーちゃんと異なるために、かなり理解できていない部分が多くございますので、もし、まとまってお書きになられたサイト等がございましたら、後学のためにご教示いただけると嬉しく存じます。

    コメントありがとうございました。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2012.04.04 Wednesday 09:56
    とても大事なはなしをされてると思いました。
    特に子供の頃から親の教えを受けて、世の中での生きづらさを感じたら方には救いになると思いました。

    その一方で本質的にはキリスト教が問題なのではなく親の躾の問題や本人の特性に合わない育て方をさせられて来たのが問題だと思いました。
    キリスト教が趣味の親が躾の本質や見失って子育てをするのなら、それは生きづらさを生むと思います。
    また、そもそもそのような親であるのならキリスト教徒ではなかったとしても子どもは生きづらさを感じることになったのではないでしょうか。

    私が思うことはそういう気づきがあるのなら、あなたも含めてクダを巻いているのではなく、積極的に社会に働きかけることが大事だと思います。
    キリスト者とは言え同じ社会で暮らす人たちと仲違いしてはならないと思います。
    それはパウロ書簡に書かれている通りです。
    社会に働きかけることで自分たちの実像が浮かびます。実像は苦しいかも知れません。しかしそれこそがイエス様が望まれることかと思います。
    また社会に働きかけないことにはフィードバックが得られないので、考える機会も失います。

    この気づきを得たことに感謝するとともに、幸多き日々を二世の皆さんが送ることを祈ります。
    • 通りすがり
    • 2017.05.18 Thursday 01:00
    通りすがり様

    御清覧、コメント、ありがとうございました。

    >本質的にはキリスト教が問題なのではなく親の躾の問題や本人の特性に合わない育て方をさせられて来たのが問題だと思いました

    そうなんです。キリスト教が問題ではなく、聖書の名が不当に語られる、用いられることが問題なのだと思うのです。

    >キリスト教が趣味の親
    大爆笑してしまいました。
    本当にそうですよね。どちらかと言うと、”キリスト教と呼ばれるもの”あるいは”ある人々にとってキリスト教だと思っているもの”が趣味の方々ですよね。

    >積極的に社会に働きかけ
    というよりは、社会に生きることで、私の中に臨済しておられる神が読まれ、神の言葉が読まれることか、と思いました。

    >あなたも含めてクダを巻いている
    お言葉を返すようですが、まぁ、その意味で、社会人として普通に生きておりますので、管ばかり巻いているわけではないのですよ。最近の投稿をお読みいただけるとお分かりいただけるか、と思いますし。

    そもそも上記のテキスト本文の中で触れておりますThe King Jesus Gospel: The Original Good News Revisitedと いう本の邦訳を全額自費で出版し、大赤字を抱えておりますし。w
    まぁ、民主党政権の公立高校無償化で支払いが要らなくなった資金がそのまま出版の赤字を多少は埋めてくれてはいますが。w

    いずれにしましても、御清覧、コメントありがとうございました。

    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2017.05.18 Thursday 05:23
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