2011.11.05 Saturday
続 罪の問題と非キリスト者ホームの信者とキリスト者ホームの子供として育った信者とのギャップ
mさんとおっしゃる方から、「罪の問題と非キリスト者ホームの信者とキリスト者ホームの子供として育った信者とのギャップ」の記事に対して、貴重なコメントをいただいた。ご紹介しながら、それに対するミーちゃんはーちゃんの答えを書いていきたい、と思います。
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mさんのコメントを読みながら、同一の教会・同一の集団にのみ属している場合の、特にクリスチャン2世の聖書理解の浅さや、他者との関係性の問題、とりわけ、自己正当化の傾向を指摘しておられる。自己正当化と、自尊心の高さ、あるいはセルフエスティームの高さとの関連は、確かにあるとは思うのですが、それだけとは思えないんですね。もっと、聖書理解に根差す根本的な問題があるのではないか、と思うんですね。
それを少し深めたのが、11月2日の記事だったりはします。要点だけ言うと、「聖書は正しい」→「聖書から導かれた理解はおそらく正しいと思う」→「その結果、自分の考え方はおそらく正しいことに依拠しているので、おそらく正しいと思う」という論理構成のはずなのに、「聖書は正しい」→「聖書から導かれた理解は絶対に正しい」→「その結果、自分の考え方は絶対に正しい」という形にどこかで転換転嫁していることの危険性を指摘しようとしたんですね。「おそらく *****はず」が「絶対に****である」と変容してしまう危険性です。
たぶん、キリスト教会(集会)以外の概念に触れさせてもらえない、自分は聖書を小さい時から聞いていて、それ以外のことが分からない、といったことが、「罪人」意識の薄さ、にもつながっているのだと思います。ある程度のクリスチャン2世が、深く「罪」の問題を考えることがないのは、彼らが聞かされている『罪』ということの理解が十分でないこと、私自身などが語っている「罪」がかなり皮相的あるいは表面的なものにとどまるから、ということはあるように思います。ただ、彼らが神との断絶の問題が分からないというのは、断絶した経験がないから、ということなのかもしれません。その意味で、イスラエルの繰り返しの反逆や神に聞き従わないことと、キリスト者2世の問題は関係しているように思います。思ってみれば、マタイ19章の青年の話は、類似した状況を示しているのかもしれませんね。
私自身の経験でもそう思うし、自分の子供を見ていても、そう思います。最近、ほかのクリスチャン2世のバプテスマに関与したのですが、バプテスマのその際にお願いしている、彼らが「なぜバプテスマを受けるのか、受けたいのか」ということについて、最初に書いてきたものは、「罪」の問題の言及が全くないものだったので、「わかるけどねぇ」ということで、少しコーチしながら、書き直してもらいました。
ちなみに、私は、ここで言われているブラザレンと呼ばれるキリスト者集団に属していますが、この問題は、もちろん、ご指摘の通り、ブラザレン派以外でも発生していると思います。だからこそ、このようなより普遍的なテーマに関する記事は、もう少し幅広いキリスト者世界を対象にしたより一般的なフレームワークで考えたことを書くブログで書いております。
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ここで挙げられている例が非常に示唆に富んでいると思います。これは、クリスチャン2世に限ったことでなく、クリスチャン1世の方でも、「聖書の中に、いつも喜んでいなさいと書かれているから、いつも喜んでいないといけないのだ」というご発言を公式の場でされた方がおられましたので。「とほほ・・・」と思いながら聞いておりましたが。文字通りの解釈 → 文字通りの行動、という非常に短絡的な発想に、半ば唖然としながらも、お聞きしていました。このような行動はアメリカのシチュエーション・コメディでもたびたび取り上げられており(例えばカラー版の奥さまは魔女(Be Witched)という番組で、取り上げられていた記憶がある)、どこか常識がずれているように思います。まぁ、映画アマデウスの中でのサリエリ君の行動も、そのような精神性としてカリカルチュア化されていたように思います。
感情の強制より、むしろ深刻なのは、関係者の期待に沿うということの価値が重要になっているために、生き方の自由度がない、あるいはある特定の教会以外の考え方で生きられない、という側面だと思います。他人(同じ教会の他の信者)の期待に添うために、職業選択の自由や、就学機会の自由が奪われる(その教会でバプテスマを受けたので、その教会を離れないで済むような職業選択や学校の選択をする)ことの方が、個人的にはむしろ問題かなぁ、と思います。つまり、本来「神」でない「教会」が論理構造の中で、「神」にすり替わっていることに気がつかない、ということの問題だと思います。期待する側(親や指導者)も期待される側(子供や若年信徒)の両方で生まれる問題だと思います。
その意味で、クリスチャン2世とAC(たぶん、本文を読む限りアダルトチルドレンだと思われる)との関連性の考察は大変重要で、面白い視点を含んでいると思います。まさしく、カルト問題を扱ったいのちのことば社刊のブックレットに、「信仰という名の虐待」という本がありますが、実際の身体的、肉体的虐待でなくても、霊的虐待という可能性はあると思います。本人たちは、あまり意識せずに第3者(他人)のこととして語っている内容に、「悪魔の手に落ちた」・「信仰の破船」・「悪霊が働いている」「あの人は裁かれた」といったようなカルトで見られることとような表現が、アダルトチルドレンのようなキリスト者2世を生み出すのかもしれません。意外に、気軽に「悪魔の手に落ちた」といったような内容が、教会やキリスト者家庭で語られることが多いように思うのですね。虐待とは、あまり意識されないことが多いとは思いますが、一種の霊的な虐待となりかねない環境が、キリスト者家庭の中でときに生まれているできているのではないか、と思うのですね。
まぁ、「怒鳴られるから、喜んでいなければいけない」ということは、私は思ったことはあまりありませんが、個人的には、「教会で静かにしていないと、あとで親からいろいろ言われるから」ということで、ちょっと気持ちを殺して、親の指示通りしていた、という個人的経験があります。そのため、私自身は、子供が教会で騒ぐことに私自身はかなり寛容だったりするのですね。とはいえ、うちの今、高校生の長女が小学生中学年のころに、「教会とはからだを固くしていないといけないところ」と言われた時には、ショックを受けましたねぇ。「それでは、いかん。どこかがおかしい。」と思った出発点だったわけです。それまでは、あまり自分たち自身の考え方を自ら自己反省的に考えることはなかったように思います。
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確かに、交流の選択肢が限られている場合が出てくる、というのはありますよね。特に、子供のころであっても、いろんな家庭の子供たちと付き合う、ということを認めてもらえないということもあるようです。親の思いとして、「教会の子供とだけ遊ばせたい」というご発言されたご家庭もあるとお聞きしたことがありますが、その話を聞いた時、「それもどうかなぁ」と思った割と最近の記憶があります。子供であっても、遊ぶ友達を用意され、選択の権利がそもそも親によって奪われてしまう、というのもなんだろうなぁ、と思ってしまいます。
似たような例で、私の義兄が「ある文学者を研究している」とある教会でそのことを言ったときに、「その人(研究対象としている文学者)はクリスチャンですよねぇ」と言われたことがあって、「・・・」となったということを聞いたことがありました。こういう精神性は、教会で少なくないように思います。思わず、看護婦さんは、キリスト者しかケアしてはいけなくなる、なんてことになりそうですしね。
あとは、言いたい人には言わせておいて、わが道を行く、というカウボーイのようなスタイル表法です。まぁ、この方法だと、ローンレンジャーみたいに次第に教会内で孤立していってしまうかもしれませんけれども。そんな関係から、結局もともとのキリスト者集団に居づらくなったりするんですね。
全く交流のない集会や組織(たぶん、KGKとか)に参加することで、信仰に関する理解の変容が起きることや、骨太の信仰者に変わる場合がある、ということはある程度確認されている事実だと思います。しかし、そんなことをすると、陰で「悪魔の手に落ちたらいけませんし」、「悪霊の影響を受けないといいのですが」とか言われたり、祈ってもらえたりするのですね。そんな声が耳に入ったときには、とっても残念な気持ちになることが私にとっては多かったことは事実です。
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そうですか。今からでも遅くはないと思いますよ。ただ、そういうこといろいろな人と幅広くお付き合いをしていると、教会の純粋まっすぐ君のような信者さんから、いろんなこと言われたり、「○○mさんは変わった」と言われたり、「○○mさんが正しい信仰をもちますように」と祈られたり、とすることになりかねないのでねぇ。ただ、「神がすべての人を愛している」ということなのだとすると、すべての人と接することは悪いことではないはずなのですけれどもですね。
あ、本文に関係するコメントであれば長かろうが、短かろうが、関係なく歓迎しております。どなたでも、Open Minded(開放的)な対話ができる方であれば、歓迎しております。
m様、大変示唆に富むコメント、ありがとうございました。一度お会いして、お話ししたい方のお一人です。
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横から失礼します。(コメントへのレスへの、さらにコメントですが…)
>もっと幅広い信仰者として野武士のように、生きるための基礎を何とか与えてやれないか
というお気持ちもよくわかります。ただ、「与える」というより、「引き出す」ほうが、今後を考えるとより大切なように感じております。(これは、ただのこちらの一意見です。)
というのも、母教会・母集団(同じような群れ)にのみいる場合、アパシー、AC様、もしくは不感症というべき状態になっていると感じられるクリスチャンホームのお子さんたちも少なからずいらっしゃいます。
端的には、とても真面目で、きちんと聖書(の表面?)を読んでいて、それなりに礼儀も正しくて、一見素直なのですが、他者(これは、他の価値観や背景を持つ人々の意)の痛みが理解できない、「自分を正しい」としていて自尊心が高い、という特徴があります。
「自分を罪人」と言いつつ、実際には、そうは思っておらず(むろん、本人たちにそう言ったら、否定されますが)、ただ「そう教えられているから、そう考えている」としか、見えない言動をしているものの、そもそも自分たちがどう感じているかさえも素直に感じたり、認めてきていないために、そういう現象も起こりうるのでは、と考えているところです。これは、ブレザレンと呼ばれている群れだけではなく、いわゆる福音派でも他の所でも同様に存在すると考えられます。
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mさんのコメントを読みながら、同一の教会・同一の集団にのみ属している場合の、特にクリスチャン2世の聖書理解の浅さや、他者との関係性の問題、とりわけ、自己正当化の傾向を指摘しておられる。自己正当化と、自尊心の高さ、あるいはセルフエスティームの高さとの関連は、確かにあるとは思うのですが、それだけとは思えないんですね。もっと、聖書理解に根差す根本的な問題があるのではないか、と思うんですね。
それを少し深めたのが、11月2日の記事だったりはします。要点だけ言うと、「聖書は正しい」→「聖書から導かれた理解はおそらく正しいと思う」→「その結果、自分の考え方はおそらく正しいことに依拠しているので、おそらく正しいと思う」という論理構成のはずなのに、「聖書は正しい」→「聖書から導かれた理解は絶対に正しい」→「その結果、自分の考え方は絶対に正しい」という形にどこかで転換転嫁していることの危険性を指摘しようとしたんですね。「おそらく *****はず」が「絶対に****である」と変容してしまう危険性です。
たぶん、キリスト教会(集会)以外の概念に触れさせてもらえない、自分は聖書を小さい時から聞いていて、それ以外のことが分からない、といったことが、「罪人」意識の薄さ、にもつながっているのだと思います。ある程度のクリスチャン2世が、深く「罪」の問題を考えることがないのは、彼らが聞かされている『罪』ということの理解が十分でないこと、私自身などが語っている「罪」がかなり皮相的あるいは表面的なものにとどまるから、ということはあるように思います。ただ、彼らが神との断絶の問題が分からないというのは、断絶した経験がないから、ということなのかもしれません。その意味で、イスラエルの繰り返しの反逆や神に聞き従わないことと、キリスト者2世の問題は関係しているように思います。思ってみれば、マタイ19章の青年の話は、類似した状況を示しているのかもしれませんね。
私自身の経験でもそう思うし、自分の子供を見ていても、そう思います。最近、ほかのクリスチャン2世のバプテスマに関与したのですが、バプテスマのその際にお願いしている、彼らが「なぜバプテスマを受けるのか、受けたいのか」ということについて、最初に書いてきたものは、「罪」の問題の言及が全くないものだったので、「わかるけどねぇ」ということで、少しコーチしながら、書き直してもらいました。
ちなみに、私は、ここで言われているブラザレンと呼ばれるキリスト者集団に属していますが、この問題は、もちろん、ご指摘の通り、ブラザレン派以外でも発生していると思います。だからこそ、このようなより普遍的なテーマに関する記事は、もう少し幅広いキリスト者世界を対象にしたより一般的なフレームワークで考えたことを書くブログで書いております。
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「例)「喜ばなければならない」-----------------------------------------------------------
・・・いやいやいや、もし「知ったら」、どんなに素晴らしいものなのか、みことばを知る楽しさを「知ったら」、喜ぶでしょう、と思う。
だが、彼らはすでに「知っている」(と思っている)のだ。確かに、知識量がある人もいる。
だからこそ、「すでに自分は知っている」という高慢さと飽和にさらされ、聖書や神様に対する関心も薄れている状況で、ただただ、「喜びなさい」と書いてあるから「喜ばなければならない」と感情を強制していたら、・・・不感症にならざるをえない。
これは、ACに通じる。
ACの子どもらは、いやな物を目の前にされても「これを喜ばないと、またお母さん(orお父さん)から、怒鳴られ続けるから、喜ばなければならない」となる。うそでも、相手を喜ばすために、喜んだふりをする。自分の感情を殺して、相手に合わせて取り繕う。そうしなければ、生きていけないからだ。
これは、聖書が、ではなく、周りの大人たちが、子どもが子どもであっていいのだ、素直に感じたことを表現しても、だれもどなったり、殴ったり、いじめたり冷たくしたりしないのだ、という安心感を持たせずに、育ててきてしまったからなのかもしれない。大人のレベルを、小さな幼子に押し付けてはいなかっただろうか、と、ふと感じることがある。」
ここで挙げられている例が非常に示唆に富んでいると思います。これは、クリスチャン2世に限ったことでなく、クリスチャン1世の方でも、「聖書の中に、いつも喜んでいなさいと書かれているから、いつも喜んでいないといけないのだ」というご発言を公式の場でされた方がおられましたので。「とほほ・・・」と思いながら聞いておりましたが。文字通りの解釈 → 文字通りの行動、という非常に短絡的な発想に、半ば唖然としながらも、お聞きしていました。このような行動はアメリカのシチュエーション・コメディでもたびたび取り上げられており(例えばカラー版の奥さまは魔女(Be Witched)という番組で、取り上げられていた記憶がある)、どこか常識がずれているように思います。まぁ、映画アマデウスの中でのサリエリ君の行動も、そのような精神性としてカリカルチュア化されていたように思います。
感情の強制より、むしろ深刻なのは、関係者の期待に沿うということの価値が重要になっているために、生き方の自由度がない、あるいはある特定の教会以外の考え方で生きられない、という側面だと思います。他人(同じ教会の他の信者)の期待に添うために、職業選択の自由や、就学機会の自由が奪われる(その教会でバプテスマを受けたので、その教会を離れないで済むような職業選択や学校の選択をする)ことの方が、個人的にはむしろ問題かなぁ、と思います。つまり、本来「神」でない「教会」が論理構造の中で、「神」にすり替わっていることに気がつかない、ということの問題だと思います。期待する側(親や指導者)も期待される側(子供や若年信徒)の両方で生まれる問題だと思います。
その意味で、クリスチャン2世とAC(たぶん、本文を読む限りアダルトチルドレンだと思われる)との関連性の考察は大変重要で、面白い視点を含んでいると思います。まさしく、カルト問題を扱ったいのちのことば社刊のブックレットに、「信仰という名の虐待」という本がありますが、実際の身体的、肉体的虐待でなくても、霊的虐待という可能性はあると思います。本人たちは、あまり意識せずに第3者(他人)のこととして語っている内容に、「悪魔の手に落ちた」・「信仰の破船」・「悪霊が働いている」「あの人は裁かれた」といったようなカルトで見られることとような表現が、アダルトチルドレンのようなキリスト者2世を生み出すのかもしれません。意外に、気軽に「悪魔の手に落ちた」といったような内容が、教会やキリスト者家庭で語られることが多いように思うのですね。虐待とは、あまり意識されないことが多いとは思いますが、一種の霊的な虐待となりかねない環境が、キリスト者家庭の中でときに生まれているできているのではないか、と思うのですね。
まぁ、「怒鳴られるから、喜んでいなければいけない」ということは、私は思ったことはあまりありませんが、個人的には、「教会で静かにしていないと、あとで親からいろいろ言われるから」ということで、ちょっと気持ちを殺して、親の指示通りしていた、という個人的経験があります。そのため、私自身は、子供が教会で騒ぐことに私自身はかなり寛容だったりするのですね。とはいえ、うちの今、高校生の長女が小学生中学年のころに、「教会とはからだを固くしていないといけないところ」と言われた時には、ショックを受けましたねぇ。「それでは、いかん。どこかがおかしい。」と思った出発点だったわけです。それまでは、あまり自分たち自身の考え方を自ら自己反省的に考えることはなかったように思います。
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「ある意味、親もクリスチャン、親戚もクリスチャンばかり、自分も受け入れたら信じてバプテスマを受けましょう・・・という環境は、不幸にもなりうる。それ以外、選択肢が用意されていない。自分たち以外の人々との交流をすることが、ない。エネルギーや賜物がある人々ほど、その状況に甘んじることは自分を無感覚にするか、少々離れるしか・・・方法がない。確かに、そこここに、ゆがみが生じているように感じる。
せめて、彼らが学生の頃に、まったく交流のない集会やら何やらにどぼんと入れさせて、しかもそれに数年耐えらせていたら、面白いことになったろうなぁ・・・と考える。実際、それが、刺激となる。国内の他集会がいやなら、外国にでも。だが、そういう度胸のある兄弟姉妹はそう多くはない。
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確かに、交流の選択肢が限られている場合が出てくる、というのはありますよね。特に、子供のころであっても、いろんな家庭の子供たちと付き合う、ということを認めてもらえないということもあるようです。親の思いとして、「教会の子供とだけ遊ばせたい」というご発言されたご家庭もあるとお聞きしたことがありますが、その話を聞いた時、「それもどうかなぁ」と思った割と最近の記憶があります。子供であっても、遊ぶ友達を用意され、選択の権利がそもそも親によって奪われてしまう、というのもなんだろうなぁ、と思ってしまいます。
似たような例で、私の義兄が「ある文学者を研究している」とある教会でそのことを言ったときに、「その人(研究対象としている文学者)はクリスチャンですよねぇ」と言われたことがあって、「・・・」となったということを聞いたことがありました。こういう精神性は、教会で少なくないように思います。思わず、看護婦さんは、キリスト者しかケアしてはいけなくなる、なんてことになりそうですしね。
その状況に甘んじることは自分を無感覚にするか、少々離れるしか・・・方法がない。
あとは、言いたい人には言わせておいて、わが道を行く、というカウボーイのようなスタイル表法です。まぁ、この方法だと、ローンレンジャーみたいに次第に教会内で孤立していってしまうかもしれませんけれども。そんな関係から、結局もともとのキリスト者集団に居づらくなったりするんですね。
全く交流のない集会や組織(たぶん、KGKとか)に参加することで、信仰に関する理解の変容が起きることや、骨太の信仰者に変わる場合がある、ということはある程度確認されている事実だと思います。しかし、そんなことをすると、陰で「悪魔の手に落ちたらいけませんし」、「悪霊の影響を受けないといいのですが」とか言われたり、祈ってもらえたりするのですね。そんな声が耳に入ったときには、とっても残念な気持ちになることが私にとっては多かったことは事実です。
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いやいや、学校時代に、ムスリムやら無神論者やら仏教徒やらいろんな人々と、接する機会があったら、また違ったのだろう。」とも、ある時(あ、ちょうど川向さんのこの記事と同じ頃ですね)、考えておりましたので…。
長文失礼しました。
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そうですか。今からでも遅くはないと思いますよ。ただ、そういうこといろいろな人と幅広くお付き合いをしていると、教会の純粋まっすぐ君のような信者さんから、いろんなこと言われたり、「○○mさんは変わった」と言われたり、「○○mさんが正しい信仰をもちますように」と祈られたり、とすることになりかねないのでねぇ。ただ、「神がすべての人を愛している」ということなのだとすると、すべての人と接することは悪いことではないはずなのですけれどもですね。
あ、本文に関係するコメントであれば長かろうが、短かろうが、関係なく歓迎しております。どなたでも、Open Minded(開放的)な対話ができる方であれば、歓迎しております。
m様、大変示唆に富むコメント、ありがとうございました。一度お会いして、お話ししたい方のお一人です。
- コメント
- わざわざ、記事に取り上げてくださって恐縮です。
ちなみに、最後の
>そうですか。今からでも遅くはないと思いますよ。ただ、そういうことをしていると、・・・
に関してですが、どうやら、上記の箇所を私「m」のこととして、誤解されているようです。こちらも、昔の自分の記事の一部を抜粋したとはいえ、上記の流れから、また、「(かっこ)」がくぎれていないことからも、主語が「彼ら」であるということとご理解いただけると思い、省略しておりました。
誤解を与えるような表現をいたしまして、申し訳ありません。 -
- m
- 2011.11.06 Sunday 20:52
- ダニング・クルーガー効果(Dunning-Kruger effect)で証明(説明)されていることですが、実は単に知識がないだけなんです。
宗教の話しをする場合、確かに信仰に立脚していない話は空論で空虚ですが、知識のない話しはそれ以上に危険でセクト主義的になるしかないようです。
キャソリックでは一部を除いて殆ど旧約を読みませんし、新派と称する方々も牵强附会な読み方をする場合が結構あります。
本来宗教は、日々の生活に根ざして、行動基準を律し、穏やかな生活を送るための規範を定めるはずの基準なはずです。ですが、宗論を学べば学ぶほど、有る意味において素朴な信仰から外れていく部分があります。今になって想うことは、良き信者であることと、精緻に宗論を組み立てることは相反する部分が有るように想います。無知で素朴な良き信者でいたほうがどれだけ軽やかであったろうかと想うこともあります。しかし一度付いた知恵はもう外すことは出来ないのです。
少々本文からずれたコメントになりますが、私の今の思いです。
でも一生枠の中に住んでいることは粗無理な世の中になってしまったことも事実です。共有し伝達可能なのは知識だけで、精神は伝えることも受け取る事も殆ど不可能であることも理由の一つだと想います。 -
- ひかる
- 2011.11.07 Monday 04:17
- m様 コメントありがとうございました。
文脈を読み違えておりました。ご指摘ありがとうございます。まぁ、意図はみなさんわかるかと思いますので、このままにしておこうかと思います。
本当に若い方々には、いろいろな人々と出会いながら、自分自身の信仰のスタイルをOpen Mindedた態度で批判的に検討する、ということをすすめていっていただきたいと思います。
コメントありがとうございました。 -
- ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
- 2011.11.07 Monday 21:06
- ひかる様
コメントありがとうございました。
>確かに信仰に立脚していない話は空論で空虚ですが、知識のない話しはそれ以上に危険でセクト主義的になるしかないようです。
これはそうですね。きちんとした知識と思索なしに語られることばは、空虚である以上に、人を惑わす可能性があるように思います。アジ演説などは、その典型かもしれません。
> 無知で素朴な良き信者でいたほうがどれだけ軽やかであったろうかと想うこともあります。
軽やかかもしれませんが、それに耐えられるタイプの方と耐えられないタイプの方がおられると思います。ひかる様は、思索を伴わない軽やかさ(ある面での能天気さ)に耐えられない方だと存じます。ただ、これをあまりにつきつめますと、どうしても貴族制というのか、共和制的な方向となりかねない部分があり、少し気をつけないといけないと思います。
最近思うのですが、批判的思考(クリティカル・シンキング)ができるかどうかは、学歴や教養によらないように思います。ただ、学歴の比較的高い方や、教養にあふれる方には、オープンマインドな批判的思考ができるように思うのですが。中には、学歴が高くても、教養があっても、批判的思考に基づく対話がおできにならない方がおられることも確かですが。
コメントありがとうございました。 -
- ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
- 2011.11.07 Monday 21:17
- 川向様、返信ありがとうございます。
ご理解いただき、ありがとうございます。ただ、率直に申し上げますと、「誤読と知りましたが、訂正しない」とのこと、少々残念です。
もちろん、そうしたほうが婉曲に表現できる…とお考えなのかもしれませんが、川向様が、「間違っていると指摘されても、訂正しないクリスチャンである」という認識もありえますので…。
老婆心ながら、もう一言失礼いたしました。 -
- m
- 2011.11.07 Monday 22:20
- m様
残念だ、という感想をお持ちでしたので、一応、本文は修正しておきました。文脈に大きな差がないので、修正しなくても、大丈夫かなぁ、ということで、どうしようかと、最後まで迷ったのですが、ご指摘がございましたので、オープンな対話を重視する、という基本原則に沿って、修正しておきました。間違っていても、訂正しない、という姿勢ではないつもりなんですけれども。
まぁ、これまでの議論の経過を、昔の議論を振り返って、全体を見てくれ、というのもなんですしね。 -
- ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
- 2011.11.08 Tuesday 20:46
- 管理者の承認待ちコメントです。
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- 2011.11.13 Sunday 01:03
- 管理者の承認待ちコメントです。
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- 2011.11.14 Monday 19:57
- こんにちは。はじめまして。
私は20代のクリスチャン2世です。
クリスチャンホームでの成長過程で苦しんできました。
こちらのブログでクリスチャンホームの問題について書かれている所があったのでコメントさせていただきました。
クリスチャンの2世には
・教会で無菌培養され、理詰めで現実が伴わない熱心な人
・教会で無菌培養され、現実とのギャップに苦しんで病んでしまう人
ざっくり分けるとこの2種類に当てはまる人がとても多いと思います。
病むと言っても、程度の大きさは病名がつく人〜苦労話程度の人まで様々だと思いますが。
私は間違いなく後者の方です。
私の両親はクリスチャンで特に熱心なのは母親の方でした。
日本の文化を始めとするキリスト教以外の文化はもちろん、キリスト教であってもリベラルの様な考え方は罪であり危険だと教えられました。
両親やその友人たちの考えに反することをすると、聖書の教えを用いて私がどれだけ罪深いか教え込まれました。
そして「私が見ていない所でもいつも神が見ているから全て隠しておくことは出来ない」
「私の教えに従えないのなら独りで生きていけ、外の世界では神も助けてはくれない」と言われ続けてきました。
そのため、私にとって神はストーカーの様に四六時中自分を見張っている存在で、御言葉は恐怖でしかありません。
私にとって神は主イエス・キリストだけではなく、両親とその友人たちもまた神でした。
そのため、両親の言うことに振り回されてしまい、何が自分の本当の気持ちなのか、それは正しい感情なのかが分からなくなります。
「重荷を負っている人は私の所へ来なさい、私が休ませてあげます」とよく聞きますが、
私にとってはキリスト教自体が重荷で、神を忘れる事が出来たらどんなに楽だろうと思います。
「救われた」「ありのままで愛されている」という感覚がどういうことかもさっぱり分かりません。
「信じれば救われる」「求めれば与えられる」という言葉も「本気で求めない自分が悪い、だから理解できないのだ」と言われている様です。
私がキリスト教と関わって得たものは「救い」ではなく「劣等感と自己否定」です。
そして追い打ちをかけるように『教会で無菌培養され、理詰めで現実が伴わない熱心な人』にはその気持ちが分からないのか、
ちょっとキリスト教を批判したり疑問を持つと
「あなたは本当のクリスチャンではない、信仰が薄い」と裁かれるわけです。
(↑この熱心さは自分が救われた喜びで舞い上がってしまい、周りが見えていない1世の方にも言えることです)
ただ、今までの人生の傷を全てキリスト教のせいにするつもりはありません。
大人になってみて両親の育った人生にも問題があったことを知り、今彼らを憎む気持ちはあまりありません。
傷は癒えず、今もなお苦しんでいますが、両親にその怒りをぶつけてもしょうがないなという感じです。
しかし、先ほど言った2種類の2世の様な人間はどちらにしてもバランスが悪く極端な人間に育ってしまいがちです。
そのため、やはり小さい頃から沢山の選択肢に触れさせ、自分で選択できるような環境を与える事は本当に大切だと思います。
子供が沢山の選択肢のなかでクリスチャンとして歩むこと出来ればそれはそれでいいことです。
子を持つ親にとっては心配でしょうが、こうしない限りキリスト教が数世代にわたって広がることはないと思っています。
-
- Caledonia
- 2011.11.28 Monday 15:15
- Caledonia様 こんばんは。
またまた、書く気にするコメント、ありがとうございました。
詳細は、また記事の方でお返ししたいと思いますが、激しく同意する部分について、取り急ぎのお返事をしたいと思います。
>日本の文化を始めとするキリスト教
>以外の文化はもちろん、キリスト教
>であってもリベラルの様な考え方は
>罪であり危険だと教えられました。
>両親やその友人たちの考えに反する
>ことをすると、聖書の教えを用いて
>私がどれだけ罪深いか教え込まれま
>した。
この感覚、よくわかります!自分たちだけの考えが正しい、と思いこみ、他者を否定していく非常にストライクゾーンの狭いものの見方かなぁ、と思います。リベラルな考え方(とりわけ本文批評の考え方)は、不幸な歴史経過の中で、聖書の否定に通じかねない部分も含まれたので、それに対する抵抗、という部分もあると思います。これに関しては、『原理主義から世界の動きが見える (PHP新書)』をお読みになられるとこのあたりの背景をうかがい知ることができるかと思います。
>私にとって神はストーカーの様に四
>六時中自分を見張っている存在
これ、わかるー!です。こどものころに歌った、『こどもよ、なにを見てる?こどもよ、何を見てる』(曲は、しあわせなら手を叩こうのメロディ)なんか、まさしく、ストーカーソングといっていいほどですもの。
オリジナルの原歌詞はこれかな?
O be careful little eyes what you see
O be careful little eyes what you see
There's a Father up above
And He's looking down in love
So, be careful little eyes what you see
O be careful little ears what you hear
O be careful little ears what you hear
There's a Father up above
And He's looking down in love
So, be careful little ears what you hear
O be careful little hands what you do
O be careful little hands what you do
There's a Father up above
And He's looking down in love
So, be careful little hands what you do
O be careful little feet where you go
O be careful little feet where you go
There's a Father up above
And He's looking down in love
So, be careful little feet where you go
O be careful little mouth what you say
O be careful little mouth what you say
There's a Father up above
And He's looking down in love
So, be careful little mouth what you say
Caledonia様にお勧めしたい本があります。Henri Nouwen という人の『いま、ここに生きる 生活の中の霊性』です。
http://www.amen-do.com/imakoko.html
この本で、私自身、ずいぶん慰められました。一度、図書館で探して見られることをお勧めいたします。私にとって、凝り固まったキリスト教概念を変える温泉のような本でした。
他にも書きたいことがありますので、別途記事でお返しします。今しばらく、ご猶予くださいますように。
コメントありがとうございました。 -
- ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
- 2011.11.28 Monday 19:50
- クリスチャン2世の悩み。私だけではなかったのですね、、。インターネット普及のお蔭でしょうか、50才を過ぎてようやく「私だけではなかったんだ」と、孤独が少し軽くなった気がしました。
もっと早く知りたかった!という気持ちが本音です。
AC自助グループにも参加してみた過去もあります。
クリスチャン2世3世が集まり、言いっぱなし聞きっぱなしスタイルで悩みを共有できたらいいなぁ、とも思いました。Caledonia様の『得たものは「救い」ではなく「劣等感と自己否定」です。』という叫びに、共感いたします。
私の場合、さらに加えて制御できない怒りが自分と他人を攻撃し続けました。
2年ほど前から、ようやく神様に立ち返ろうという気持ちになりました。
しかし、潜在意識の奥底に「教会不信・恐怖」があるのか?「教会希求」があるのか?両方あるのか?苦しんでいます。
またこちらのブログに、立ち寄らせていただきますね! -
- maririn
- 2014.03.12 Wednesday 17:28
- maririn様
お返事遅れて大変失礼いたしました。
コメントありがとうございました。少しでも、孤独感が解消したとのこと、何よりでございます。
>もっと早く知りたかった・・・
こころよりご同情申し上げます。実は私もそうなんです。2世や3世が建前抜きで自由に語れる場がほしいですね。このブログがそんな形でお役に立てているのなら何よりです。
教会不信と教会希求、実は裏腹の関係かもしれません。人間の集まりとしての教会には不信感を抱きやすいからかもしれません。しかし、神を礼拝する場としての教会は、神と共に生きようとする人には神への愛の表現の場として、必要不可欠という、このあたり、どうしたもんだか、と思います。
たいしたことは書いていませんし、大半はお笑いネタなので、お気軽にご訪問くださいますように。
コメント、ありがとうございました。
-
- ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
- 2014.03.19 Wednesday 22:12
- 管理者の承認待ちコメントです。
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- 2014.05.02 Friday 19:09
- maririn様
コメントありがとうございました。
今回も気付くの遅れまして申し訳ございません。個人情報や機微に触れる情報がありますので、コメント自体は、非公開と致しておきますね。
>クリスチャン3世(実は)の私の闇に対して、教会の人達は「無視」でしたから!
心の闇、これは誰しもあるものなのです。私の中にも確実にある。ない人はいない。これこそ、神の不在である私たちの中にあるブラックホール、日本語聖書で『罪』と訳しているものなのです。神の不在、とでも申し上げましょうか。
>自分が恵まれる話しでないものは、入れたくないんですよね。
その傾向はあるかと存じます。米国西海岸でも、その様な傾向は感じました。というよりは、書割のようなキリスト教、とでも申し上げましょうか。底の浅い、人間を見つめていないキリスト教のような気がいたします。
>「過去の罪・これからの罪、赦されてるの〜」
>しかし、この真実は霊の世界のことですよね?
神はいかなるものでも神のもとに戻る限りにおいて、という条件付きではありますが、御自身のうちに抱くために「聖い」と宣言される神だとは思います。
>聖書には、人は撒いたものを刈り取らねばならない。と、書いてあります。
>これは、世の世界でのことですよね?
左様心得ます。その責務は問われる、ということでもあります。神の不在すらイエスを神として受け入れる限りにおいて、神は赦されてはいますが、他人を愛するようにも同時に命じられる方でもあります。(レビ記19章・マタイ 19:19、善きサマリア人の譬え)
>因果応報的法則
これ、原因があって、その結果があるという仏教的法則のことですが、聖書は必ずしも、これを重視していないように思います。
これは、ヨハネ9章1-3節が示すとおりではないかと。
9:1 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
9:2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
9:3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。
(教会での未成年者の喫煙が)
>発覚して【Aさんの親】は猛烈に怒るわけですが、他の喫煙未成年友人の親御さん「赦されていますから、赦されていますから」と、自分の子供をかばったそうです。
>ちなみに、Aさんは「怒られてイイね」と、友人から羨ましがられるのです。
>このようなこと、よくあることですか?
珍しいケースではないかと。ただ、これらの問題を抱える青少年の行為を厳しく叱責したうえで、受け入れ、その挙句の果てに青少年から問題となったタバコを取り上げ、自ら喫煙した司祭がおられる学校を運営しておられる教団があるのは存じ上げておりますが。それはそれで、厳しく叱責したうえで、受け入れるその教団の姿勢はキリスト者として適切かなぁ、とも思います。私のようなものがその教団の学校運営の方針について、とやかく申し上げる筋ではございませんが。
喫煙は、文化的な問題でもありますが、未成年者の喫煙は日本国の法律上容認されていない行為である以上、Aさんの親の方の対応が正当化と思います。しかし、日本国における法体系で容認されてないことを「赦されている」とするということは、教会の不適切な聖書理解が日本国法に優先させることになり、ミーちゃんはーちゃんとしては容認致しかねます。
そも、イエスご自身は、『汝の隣人を愛せ』ということを言っている以上、その隣人を愛するという精神とする法体系が存在する限り、社会の法体系を尊重するということをミーちゃんはーちゃんとしては致したい次第。
>あー、神様
(中略)
>私はあなたを拒絶し、毒麦の種を撒きちらし生きてきました。
>今、刈り取っています。
>刈り取りを、手伝って助けてください。
>あー、しんどい。生きている間に、刈り取れるかしら、、、。
ミーちゃんはーちゃんとしてはお手伝いいたしかねますが、ナザレのイエスは、それを手伝うとおっしゃっているように思います。そして、その荷を担ぐとおっしゃっておられるように思います。この言葉にかけるしかない。それが信仰かと思います。
マタイ福音書
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。
ここでもイエスは、荷を軽くする、なぜなら、その荷をあな -
- ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
- 2014.05.05 Monday 14:58
- 切れてしまいましたので、承前
ここでもイエスは、荷を軽くする、なぜなら、その荷を共に担うから、とおっしゃっておられる。荷を無くするとはおっしゃっておられない。イエスが負荷をゼロにされる、って言う形のこの部分の誤読をされる方って、少なくないと存じます。
>ご気分悪くされたら、申し訳ありません!
そんなことはないですよ。本文に関係する内容でございますから。maririn様のために心から万軍の主、王の王、主の主であられる神の平和がmaririn様と、そのご関係の皆様の上にございますようにと祈念する次第でございます。
-
- ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
- 2014.05.05 Monday 14:58
- 管理者の承認待ちコメントです。
-
- -
- 2014.05.06 Tuesday 10:41
- maririn様
コメントありがとうございました。
コメント手法への好感度もお知らせいただき
ありがとうございました。
>「撒いたものを刈り取る」
>これについて、死後のことであると漠然と思っていたのです。
そうですね。終末後の新天新地の世界はあまり詳細な説明が聖書テキストにないので、限られた聖書のテキストを伸ばす形で、説教者の理解がかなり入った形で説教されることが多いように思います。
その結果、死後の世界観がかなり歪んでいるように思います。しかし、新しい天と新しい地で刈り取りするのであるとすれば、そこにある神の圧倒的な栄光と矛盾することになってしまいます。
その結果、煉獄概念が生まれたのかもしれません。毒麦は最後に刈り取れ、とお話しされておられる。新天新地は圧倒的な神の栄光が満ちているところ、ではどこで刈り取るのか?このあたりに煉獄概念が生み出された背景があるのかもしれません。歴史神学、特に教父神学をはじめとするカトリック歴史神学の基礎がないために適切なお答えを申し上げられないのが残念です。
「天の御国=天国」とする一般に広がった解釈がございますが、多分、これはあまり適切な解釈ではないのではないかと、最近思うようになりました。天の御国とは、天(神がおられるところ)の御国(支配や関与)ではないか、と思っております。
ですから、人々の人生には不幸や悲しみという毒麦が必ず存在する。理由はわからないが発生する。しかし、それすらも神は良しとしたもう、という意味かもしれないなぁ、と最近は思いを巡らしております。
>生きている間に、地獄を経験しました。それさえも、本物の永遠の地獄の炎に焼かれることは忍びない。
>人生における地獄の経験から、神様を求め受け入れる事ができるようにという、神様の哀れみであると、感謝できそうです。
相当おつらかったのですね。ご同情申し上げるとともに神に抱かれることでの、神がこの地上での人生でも与えたもう神の安息と平和のうちに慰めと回復がありますよう、祈念いたしております。
この地上における地獄の経験の時にも、ナザレのイエスはmaririn様とともにいたもうて、その重荷を共に担われた。maririn様の痛みと懊悩の中にナザレのイエスのゲッセマネの園と十字架の痛みと懊悩が含まれていた。そして、maririn様御自身も、その痛みと懊悩のうちにイエスに出会われた。そのように存じます。ご回復を心より祈ります。
>(ご家族のことに関して)私が敏感に反応することではなく、憐れみをもって祈ることが肝要ですね?
はい、左様心得ます。なにせ、万軍の主は、カインに対してすら、
「だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。(創世記4章15節)
と殺人者カインをかばわれる方ですし、レビ記 19:18で
「復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは【主】である。」
とおっしゃり、ルカ 12:58にはイエスご自身も
「あなたを告訴する者といっしょに役人の前に行くときは、途中でも、熱心に彼と和解するよう努めなさい。」
とおっしゃったことが記載されています。その意味で自分の基準で他者を批判するのではなく、他者を受け入れたもう神に従うものとして、神の支配を求めつつ、主の祈りを以て他者のために祈るしかないのではないかと。
>余談ですが、昨夜 プリティプリンセスというアン・ハサウェイ
>主役の映画を観ました。いわゆる、シンデレラストーリー。
>王族の晩餐会でのシーン。他者のフォルトを指摘せず、暖かくユ
>ーモアを交えフォローしていました。上流階級のマナー?
あー、この映画長女が大変好きなんですよ。何度一緒に見たことでしょう。Enchantedとかも。相対する人の人格とその方の余裕というか余力の問題のような気もします。アメリカ映画だからかもしれませんがかなり好意的に書かれているような。
実際に大英帝国人のエリートの一部はアメリカ人をこれでもか、というほど馬鹿にする例を知っているだけに、この辺り、何ともです。
>私の王はイエス様。イエス様を王の王とした王族の一員としての自分をイメージしてしまいました!
あ、これ、maririn様大正解。そうなんですよ。我々は放蕩息子で、神の異なる権利がないのに、着飾らせ、足に靴を履かせ、指にごっつい宝石の付いた中東風のたっぷりとした肉厚の金の指輪をはめてくださる。そう、まさに、王の一族に受け入れても -
- ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
- 2014.05.06 Tuesday 20:54
- また、切れてしまいましたので、承前
あ、これ、maririn様大正解。そうなんですよ。我々は放蕩息子で、神の異なる権利がないのに、着飾らせ、足に靴を履かせ、指にごっつい宝石の付いた中東風のたっぷりとした肉厚の金の指輪をはめてくださる。そう、まさに、王の一族に受け入れてもらえる。それそのものなんです。神はすごい人なんです。
>ナウエンの本、読んでみます。その後、福音の再発見の購読も楽しみにしているわたくしです。
是非に。ナウエンを。お勧めいたします。どれもいいですが、今、王としての受け入れを意識して、神のとご関係を理解されているのであれば、ナウエンの放蕩息子の帰郷、強くお勧めします。
>これからも、ブログを楽しみにしています。お祈り、ありがとうございます。
お励ましありがとうございます。maririn様、そしてご家族皆様の上に神の平和がありますよう、祈ります。
-
- ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
- 2014.05.06 Tuesday 20:55
- 管理者の承認待ちコメントです。
-
- -
- 2014.05.07 Wednesday 17:25
- maririn様
コメント、またまたどうも。
>Caledonia様の最初のコメントは、私にとって「光」でした。
それはようございました。
>20代というお若さでありながら、本当にしっかりご自分を表現されていっらしゃいます。
いや、それはmaririn様も同様かと。Caledoniaさんはお気づきではないのですが、Caledoniaさんの苦しみが考えるという訓練をする契機になられたのではないか、と拝察いたします。
>Caledonia様が癒され、安全・安心以上の神様と出会われる事を、祈念してやみません。
もう出会われているようなので、少しミーちゃんはーちゃんとしては安心しております。あとは、心の傷(最後まで言えないけど)と向き合う作業とそれを通しての回復を祈りつつ待ちたいと思います。
それは、maririn様とて同様かと。
そのために、多くの苦しみを持つ方々のためにお役に立っているのなれば、これに優る喜びなし、でございます。
神の平安が皆さまとともに豊かにともにありますように。 -
- ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
- 2014.05.08 Thursday 06:02
- 管理者の承認待ちコメントです。
-
- -
- 2014.05.12 Monday 19:44
- maririn様 コメントありがとうございます。
>Caledonia様、よかったぁぁぁ!
御意。
>あとの作業や回復にむけての道、同志が同じ日本に同じ時代にいらっしゃるという事は、大きな慰めであり希望であります。
実に。回復は、焦らず、あわてず、一歩づつ、神に向かって一歩歩み出せたら、たとえ交代しようとも、神の手の中にあるという確信のうちに歩むことができようか、と存じます。おそらく、maririn様の回復を通しても、そこにともにおられる神を見つけられる方もそのうちおいでになるのではないかと。今すぐでなくとも。
>ありがとうございました。
神にある平和に包まれますように。 -
- ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
- 2014.05.12 Monday 21:15
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