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2012.01.07 Saturday

「わかりやすさ」がもたらすもの

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     この前、お隣の知事さんがその都道府県にある政令指定都市の市長選挙に立候補するにあたって、お辞めになる関係で、知事さんがしたことを振り返って思っていたのであるけれども、そのニュースを見ながら、家内が「この知事さんが言うことは、わかりやすい」ということを言っていた。その事を聞きながら、「わかりやすさがもたらす誤謬」ということを考えた。

     小泉元首相も、この種の「竹を割った」あるいは「切って捨てる」ようなわかりやすい言動がみられた人物であった。ポピュリズム、とか小泉劇場とか批判を浴びたが、わかりやすさという点では、非常にわかりやすく、問題の所在を極めて単純化してきって見せた、という側面はあったと思う。

     ところで、わかりにくいものをなんとか理解したい、というのは人間の素朴な心情かもしれない。そのために、単純化したモデルが作られ、使われる。特に、娘の受験勉強の倫理社会のテキストで言われている哲学などのモデルを見るたびに、そういえばそうだけれども、あまりに省略がひどいかなぁ、とときどき思うときはある。

     ただ、小泉元首相の言動にしても、前の知事さんにしても、倫理社会のテキストにしても、単純化したモデルは、当然、わかりやすさのための省略を含む。わかりやすければ、わかりやすいほど、省略を含んでしまうし、省略を含まざるを得ないのは、当然といえば当然のように思う。省略したモデルは、ある断面だけを見せているに過ぎないのだと思う。

     この省略による誤解が、「わかりやすさがもたらす誤謬」の最大の原因であるように思う。わかりやすく省略したもので、「わかった」という気分になった人たちは、それで満足してしまい、それがあたかも、「実際の姿」であるかのように思い込んでしまうのである。省略を含んでいるため、「実際の姿」といえなくなっているにもかかわらず。

     クレオパさんから次のようなコメントをいただいた。微妙な内容を含んでいるので、今は公開を止めておりますけれども。この記事でクレオパさんへの応答としたい、と思っております。


    > 「四つの法則」の単純な福音提示の課題も、前から指摘されてきたこと
    > です。でも、ようは考え方しだいで、それを出発点として、そこから福
    > 音理解を深めてい き、膨大な聖書の世界、神による救いの広がりを学ん
    > でいく、というのもあると思います。考案した人、使用している人もそ
    > のように考えていると思われ、その 後の学びの機会を豊富に設けてい
    > ると思います。教会に加われば、毎週の説教を聞き続けますしね。

     そうなんですよね。別に私個人としては、「四つの法則」が出発点になってもいいと思っていますし、極端な話、ディスペンセーション主義から出発したさばきに関する恐怖心がイエスを知る機会になっていてもいいとは思うのです。しかし、困るのは、そこで止まる人が結構おられる、という現実です。そのあたり、教会がどう対応し、配慮してくか、その人の成長に合わせながら、その人の理解に合わせた適切な書籍なども薦めながら、対応することが求められると思います。そのためには、牧師といった牧会者だけでなく信徒が様々なチャネルを使いながら、ほかの信者を気にかける、すなわちキリスト(ブドウの木)と信者(ブドウの木の枝)という関係以外に、ブドウの枝同士の関係をつけて行くことが、現在の日本のキリスト教会には求められているのかもしれません。最近の牧会ジャーナルや最近のMinistryで展開されている議論を見れば見るほど、ブドウの木の一部としての枝同士の関係性の重要性を感じます。

    > もっと豊かな福音理解を提示して、信じる決断をすすめる福音提示を考
    > えた人がいます。しかし、その世界展望、福音の広がりについて、聖書
    > 世界にうとい日本人の初心者は、とてもじゃないですが複雑、膨大すぎ、
    > 飲み込みにくいのが現実ではないでしょうか。

    これは、クレオパ様がご指摘の通りです。キリスト教には、過去2000年にわたって蓄積した知的資産・霊的資産があり、それを全部いきなり、整理しないまま洪水のように押し寄せたのでは、消化不良を起こすとは思います。ただ、ナウエンや晴佐久さんさん、あるいはD.M.ロイドジョンズ、A.マクグラスのように、膨大な知的資産・霊的資産に裏打ちされた上での、わかりやすい骨太の世界観といいますか聖書理解が提示できればいいかなぁ、と思います。ミーちゃんはーちゃんには、それが、そもそも、膨大な知的資産・霊的資産がほとんど欠落しているので、困ってますが。

    > 単純化しすぎは問題が生じますでしょうか、赤ちゃんには、一度にスプ
    > ーン一杯の噛み砕いた食物しか消化できないように、その後、体や心の
    > 傷が癒されて行くなかで、固い食物をとれるよう周りが世話することが
    > 必要だと思います。
    > すなわち、「四つの法則」というツールの問題というより、それに類似
    > した福音提示で留まっていた、その後の教会側の私たちのフォローアッ
    > プの不十分さがあると思います。教会全体の問題だと思います。

    これこそ、重要だと思うのです。牧師先生や誰かの仕事にしてしまうのではなく、同じブドウの木に連なる枝として、そして、ほかの信仰者に果たしてもらったメンターとしての役割を、また別の信者さんに対して果たすメンターの役割を信徒一人ひとりの役割として、受け止めて行くとともに、自己研さんしたい人には自己研さんの機会が用意されるというスタイルがあればいいなぁ、と思っています。そのためには、信者一人ひとりが周りのほかの枝の状態にも、もう少し気を使うことも大事なのかなぁ、と思っています。

     ところで、簡単化にまつわる問題を考えていたところに、塩野七生の十字軍物語(3)を読んでいたら、十字軍関係の情報の伝わり方で、情報が受け取られやすい部分だけが残る形で、省略されて伝わっていく、ということが書かれていた。1000年前とほぼ変わらない、ということを改めて思った。だからこそ、できるだけ情報のオリジナルの情報源に当たることが重要なのかなぁ、と思った。なお、このパラグラフは余談。

     人々はわからせてくれることを望むのかもしれない。というよりは、自分が聞きたいことを理解できる形で、自己が信奉する信念として矛盾しない形で、それも受け取れやすい形で言ってくれることを望んでいる、あるいは、受け取りたい情報だけを選択的に受け取っている、というほうが正確かもしれない。自分の聞きたいことがその人が理解できるように述べられたとき、聞き手は「理解できる」あるいは「共感できる」のであり、そのような形式で述べられたことを「実際の姿である」と思い込んでしまうのかもしれない。たとえそれが大いなる誤解であっても。実際イエスがイスラエルにいたとき、イエスが主張した神の王国は、神の力によるイスラエルのローマからの政治的独立と一部の人(特に弟子たちの一部)には、理解されたようである。

     ところで、単純化されたモデルが、人々に「わかった」として理解されたとき、そこに大きな省略や暗黙の前提、あるいは細い柱の上に載っている危うい議論であっても、語られたモデルが、「実際の姿」として受け取られるのかもしれない。語り手が語った内容が、「実際の姿である」と理解されたとき、理解されたことを出発点に、さらに、危うい議論を積み重ねていって、そのことの危うさに気が付かないのかもしれない。すべてのことを省略せずにわかりやすく示すことは、限られた時間では不可能であるが、問題は、省略された部分があると知った上で、というかその省略された部分を認識したうえで、提示することと、省略された部分があることを全く認識せずに、省略されたものだけを現実として受け取り、それをまたそのままほかの方々に躊躇なく提示することが根本的に違うとという点に問題があるのだと思う。

     省略を含む現実のある理解に関するモデルが社会の一定のグループに定着していくとき、省略を含む現実のある理解に関するモデルの体系が省略する部分が存在するということの認識がない形で、定着したときにカルチャになるのだろうと思う。そして、カルチャや常識とよばれるものとなってしまえば、その前提の妥当性を人々はまーったく疑わなくなっていくのだろうと思う。

     これをいかに防止するのか、これはなかなか難しい問題である。

     なんてことを考えていたら、年の若い友人でここにともときどき登場してくれるUgoUgoさんから面白い本 森 達也著 A3 のご紹介を受けたので、読んでみた。面白かった。現代社会とメディア、社会の変容をめぐる問題を、オウム真理教事件をめぐる裁判を素材に考えた本である。わかりやすさ、の部分について書いてある部分を少し拾ってみた。

     こうした万人に対する「わかりやすさ」(見方によっては視聴者をバカにしているかのような過剰な説明)への志向は、テレビが普遍的に保持する媒体特性のひとつだ。(中略)一過性で常に現在進行形であるテレビにとって、麻原彰晃の次女であるカーリーや三女のアーちゃリーのことなど、視聴者の大半は忘れているか知らないことが前提なのだ。だから説明が必要になる。
     ところがこの説明の際に「わかりやすさ」に留意しないと、視聴率は劇的に落ちる(あるいはテレビ関係者は落ちると思いこんでいる)。なぜなら視聴者の大半は、一過性の情報を提供する装置であるテレビに、複雑な事象や多面性の提示など求めていない。(中略)
     こうしてテレビは、単純化・簡略化を継続的に自己目的化するメディアとなった。これもまたポピュリズムだ。
     つまりテレビの臆面もないほどの「わかりやすさ」への希求は、テレビと視聴者の相互作用の帰結でもある。別にテレビだけではない。売れない野菜を店頭に置き続けるや親は業績が低迷する。その意味では当たり前の市場原理だ。ただしテレビの場合、売れる商品の特性はおいしさや栄養価などではなく、わかりやすくて刺激的であるということだ。
     この帰結としてテレビは、複雑な事象をつたえることがとても不得手なメディアとなった。もともとその属性はあったけれど、特にオウム以降、この傾向は急速に促進された。
     なぜならば、国民一人一人の危機意識が、オウムによって激しく刺激されたからだ。今危機が目の前にあると思う込んでいる人にとって重要なことは、多くの視点や選択し、途中の経過や理由などではなく、最終的な結論だ。(中略)必要なことは自分にとって有害か有益かという二者択一の迅速な判断であり、境界線上のあいまいさやは数は捨象され、煩悶や葛藤などは何の価値も持たなくなる。オウムによって喚起されたこの危機意識は、9・11によってさらに刺激を受けた。だからこそこの時期、短くてわかりやすい言葉を駆使する小泉純一郎が内閣総理大臣として、圧倒的な支持を受けた。
     こうしてテレビは危機をあおる。恐怖や不安を喧伝する。
     森 達也(2010)A3 集英社インターナショナル pp.279-280.
    ほかにも
    オウムによって危機意識を刺激された社会は、単純な「わかりやすさ」をメディアに求め始め、その緊急避難的な欲望がメディアの商業主義と密通した。後は民意とメディアとの相互作用によって、単純な善悪二元論が加速されるばかりだ。
      森 達也(2010) A3 集英社インターナショナル p 305.
    ということが書かれていた。すべての現代人がテレビの影響下にあるとは思わないけれども、かなりの現代社会における日本人の思考形態が、善悪2元論というか、もっと言うなら本来、もっと複雑で、簡単に捉え難い対象についても、グレーゾーンのない白か黒かの世界、あるいは、正義が正義でないか、という2項選択に問題を矮小化してしまう思考法の中に暗黙に問題を押し込めているように思う。いい悪いは別として、最近人気があるとされる元NHK記者のテレビ番組や新書などでの解説にも、微妙にそれが影響していると思う。なので、ほとんど読んだり見たりしないけれども。

     この短絡化志向というのか、善悪2元論というのか、2項選択的な思考法への傾倒に加えて、以前の記事に対するひかる様のコメントにもあったコミュニケーションにおける共通理解の存在の危うさの問題が日本社会におけるコミュニケーション行為に存在する、という事実は大きいかなぁ、と思います。

    > 共通基盤といいますか、言語規定といいますか定義も曖昧にして、
    > クリスチャンに会話が成り立つか

     この問いは、非常に重要な問いだと思うんですね。しかし、キリスト者同士の教会におけるきちんとした対話というか対論の成立、これは、かなり怪しいのではないか、と思います。本来、神の家族である教会において、神に関する共通理解や共通言語の理解(例えば、救いとはどのようなものであるのか、という理解、救いって何か、と言ったら、救いは救いだ、という禅問答もどきの回答が返ってきて、対論になっていない)がかなりあいまいなケースも少なくないように思います。その意味で、会話が成り立たない、聖書理解の共通基盤が成立しない、ことも多いのではないか、と思います。それで、仕方なく、どうでもいいお天気や、体調のことといったあたりさわりのないことには、なんとなく会話が成立しているものの、聖書のコンテンツの深いところに関する対話というのか、対論が噛み合っていないという現状は、相当あるように思います。きちんとした対話とか、対論とは、結構骨が折れるので。ミーちゃんはーちゃんは、このあたり、結構男性信徒にはかなり突っ込んで聞くので、煙たがられておりますけれども。その意味で、最近、対論がかみ合い始めた、ひかる様からのコメントは、大変うれしく存じております。いつも、ありがとうございます。

     さて、聖書における福音を現代における「ものがたり」として定義しなおし、語っていく語り手(どうも、N.T.ライト先生はこういうことを考えているようですが)としては、社会に二元論的な理解でしか物事をとらえにくい人々がかなりの部分存在する、ということを前提にしないといけないのかなぁ、と思う。その意味で、複雑な事象を聞き手のレベルに合わせながらどのように提示していくのか、ということの大切さを感じずにはおられない状態にあったりします。

     こう考えるとき、語り手が語ること、その背景にあるものを限られた時間内ですべて提示できないという前提に立ったうえで、わかりやすさがもたらす誤謬の問題、それを意識せずに結果的にわかりやすさがもたらす誤謬に縛られることの問題を考えてしまう。わかりやすさがもたらす誤謬は、どのようなことであれ語る人間にとって、大きな課題のように思えてならない、と思ったりしてるんですね。とはいえ、わかりにくく語ったんでは、時間の無駄ですしね。このあたりのバランスに苦慮しますって、明日話すんだけど。間に合うのかしらん。

     ひかるさん、クレオパさん、UgoUgoさん、小嶋先生、ヤンキー牧師、松ちゃんさん、Nozzonさん、Haseさん、本当にミーちゃんはーちゃんに考える素材をくださってありがとうございます。皆さん方とこうやって、ブログ上で対話というか対論できることは、本当に励ましになります。ありがとうございます。
    評価:
    塩野 七生
    新潮社
    ¥ 3,570
    (2011-12)
    コメント:十字軍という軍事行動を介したイスラム世界とヨーロッパとの交流死といった味付けになっている。異なる価値観・信仰の共存、という現代的課題や社会とその中での人間の行動パターンを考える手がかりを与えてくれるように思った。

    評価:
    森 達也
    集英社インターナショナル
    ¥ 1,995
    (2010-11-26)
    コメント:現代社会のメディア論やコミュニケーションをめぐる破たんをどう考えるのか、メディア側からの発言。特に麻原裁判をどう現代社会が見てきたか、ということから、現代社会における短絡化の傾向について考察した好著。

    コメント
    「わかりやすさの誤謬」ということ、よくわかります。
    長い記事で、興味深い点がたくさんあるのですが、とりあえず一点だけコメントさせてください。


    >キリスト教には、過去2000年にわたって蓄積した知的資産・霊的資産があり、

    スコット・マクナイトは(そしてNTライトも?)、そもそもこの「過去2000年にわたって蓄積した知的資産・霊的資産」が、使徒たちが伝えていた福音からずれた方向に向かって発達してきてしまった、と言っているのではないでしょうか? 少なくとも、西洋に伝わってきて発達していったものは、そうだと。

    「四つの法則」のような簡潔にまとめられたトラクトを使った伝道がいけないというのではなく、この2000年の間に築き上げられてきた西洋の神学、西洋の福音理解は、マクナイトの言葉でいうならSalvation culture、つまり、「私と私の救い」を中心に据えたものになっているため、そういうメンタリティーのままなら、そのあとどんなに「弟子訓練」をしようとも、その視点からは抜け出しようがないわけですよね。

    これは、上沼昌雄先生や小嶋崇先生もご指摘しておられたことだったので、私のようなものにもぼんやりわかりかけてきたのですが、聖書の提示する福音は、「私と私の救い」を中心に据えたものではなく、神の義の実現の歴史としての福音であるということ。つまり、救いとは、私が罪に定められないこと、私が天国に行けるようになること、ではなく、神の義の実現としての救いなのであるということ。中心は神であるということ。だからThe King Jesus Gospelなんですよね?

    教会で好んで歌われるワーシップソングなどでも、福音や十字架の贖いを歌っているようでいて、結局は「私」が中心になってしまっているものが少なからずあることに、私も気づいてきました。たとえばマイケルWスミスのAbove All. さんざん神の素晴らしさを歌ったあとで、いちばん最後に、「And You thought of me, Above all」で終わる。私も大好きなクリス・トムリンのIndescribableも、神様の壮大さをずっと歌って、それなのに最後は「You see the depths of my heart and You love me the same, You are amazing God」で終わる…

    神が私たちのようなことも覚え、愛してくださっているのは紛れもない事実で、それを否定すべきではありませんが、私たちはそれを中心にしてしか、福音を、神の義を、見ることのできない者になってしまっているということ。それがマクナイトが問題にしていることだったのではないでしょうか?
    社会心理学での解釈では、自己奉仕バイアスや集団奉仕バイアス、または自己高揚バイアスとも関連します。つまり曖昧な情報を都合の良いように解釈しようとする傾向として現れる訳です。

    引用・・・
    man's interest gives a bias to his judgment far oftener than it corrupts his heart... He overestimates and keeps constantly before his mind the strength of the arguments in favour of, and underestimates, or never considers at all, the force of the arguments against.
    ・・・引用終

    ダニング・クルーガーはその調査によって;無能な人ほど自分の能力を過大視するという心理学。認識の偏り。知能の低い人間ほど自分をかなり知能を高く見積もる、あるいはその逆の認識をする。と報告しています。

    人は所詮村言葉しか認識できません。なまじっか、共通の構造と発音をする言語を利用していると意識しませんが、実は属している基盤世界が異なると、エイリアン(異邦人)と認識しないことが多いのですが、実はそこに大きな盲点があります。

    この国に来るとそのことが明確に意識できます。言語構造が粗共通ながら、発音を異にする約七つの大きなグループがありますが、彼らの間では会話は殆ど成立しません。

    日本でも、南方諸島と東北とでは同じようなことが起きるはずです。

    キリスト者においても同様です。同じ聖書というテキストを持ちながら、皆違う言語を話しているのと変わりがないのが今の現状です。

    会話を成立させるためには、聞く側がバイアスを外さない限り方法はないのです。いかなる説明や努力をしようとも、全ての正否は受け取り側に委ねられています。この受け取ろうとする姿勢は、教育や知識の質には殆ど関係がないようです。ただ意欲又は興味を持つか否かに依存します。

    この國に来て、実体験から感じたのはその一つです。

    政治手法として、易しい、簡略といいますが、実態は、聞く側に都合の良い、耳に易しい、聴きたいことだけ話すのは、会話では有りません。ただのプロパガンダにすぎません。

    宣教にこの手法を利用することは、成否はともかく、私の思いからは外れます。簡略で効率がよいことは確かですが、この手法は人を目的とせず、手段として用いています。私の印象では、聖書の精神からは外れていると考えています。

    あまり纏まっていませんが・・・
    • ひかる
    • 2012.01.08 Sunday 10:15
    はちこさん

     興味深いコメントありがとうございました。

     確かに、McKnightやN.T.Wrightの主張は、この2000年間、というよりは、とりわけこの500年間、プロテスタントの中で、蓄積されてきた聖書理解にひずみがある、という批判であるとはおもいます。

    > salvation culture、つまり、「私と私の救い」を中心に据えた
    > ものになっているため、そういうメンタリティーのままなら、
    > そのあとどんなに「弟子訓練」をしようとも、その視点からは
    > 抜け出しようがないわけですよね。

    というご指摘と

    > 聖書の提示する福音は、「私と私の救い」を中心に据えたもの
    > ではなく、神の義の実現の歴史としての福音であるということ。
    > つまり、救いとは、私が罪に定められないこと、私が天国に行
    > けるようになること、ではなく、神の義の実現としての救いな
    > のであるということ。中心は神であるということ。だから
    > The King Jesus Gospelなんですよね?

    これは、ご指摘の通りだと思います。私も、つい最近まで、そのように思っていましたから。

     ただ、この2000年の中に、半ば忘れ去られてきたものの最近になって息を吹き返してきたナウエン・ジャン=ヴァニエ・トゥルニエ・ウィラード・工藤先生・上沼先生・晴佐久神父などが関係していると私が思っている霊性の神学も、やはりこの2000年の間に生まれてきた神学の一部を構成していると思うのです。

     また、私自身が疑問と違和感を持っている終末論を出発点にイエスキリストに出会った人もいるでしょうし、「四つの原則」で福音に出会った人もおられるので、それが悪いものではないのは確かなのですが、そのあと、成長していない、成長するように持って環境を提供できていないのは、話し手の側も少なくない、という自己批判に関する視点があるからなのです。

     私自身の経験でもそうですし、以前、このサイトのコメントから出発し、最終的にご相談に来られて面談した女性信徒の方とお話ししたときに気がついたのですが、結構、話し手の中にも、終末論や四つの原則の理解のバリエーションでしか語っておられない方が多い、という一部で見られる現実でした。この原因は、いくつかあると思うのですが。ここでは、他者批判になるといけないので、あまり細かく触れませんが。

     マイケルWスミスのAbove Allもクリス・トムリンのIndescribableも、最初アメリカで聞いた時、涙が出ました。とはいいつつも、あまりに私的世界の中に押し込めていますよね。よく聞いてみれば、以前、私は、公式の場で、詩篇がどうも好きになれない。感情ドバドバの世界観に耐えがたいものを感じる、と話したら、周囲の方から、白い目で見られるようになりました、それは、おそらくSalvation Cultureの視点から詩篇を読んでいるということにあったのかなぁ、と今は思っています。

    > 私たちはそれ(神と私の関係)を中心にしてしか、福音を、
    > 神の義を、見ることのできない者になってしまっていると
    > いうこと。それがマクナイトが問題にしていることだった
    > のではないでしょうか?

     そうなんです。幅が非常に狭い範囲に福音というか、自分の聖書理解を押し込め、というよりかは、その中に閉じ込めているようにおもいます。アヴィニョン捕囚のように福音というか聖書理解を禁足してしまったこの数百年のプロテスタントの神学的思惟の偏狭さをWrightは批判しているように思いますし、McKnightやBellも批判しているように思います。その意味で、自分自身を振り返っています。この前、はちこさんのブログでご紹介いただいたWrightの講演でも少しそのことがふれられていたように思いました。WrightとRongが並ぶジョークには、大笑いしましたが。Wrightさんって、面白い人ですね。ご紹介、感謝します。

     ただ、批判対象になった神学的思惟があったがゆえにWrightやMcKnight、Rob Bellが成立しえた、ということを考えると、複雑な気持ちになります。
     
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2012.01.09 Monday 07:29
    あと、もう一つ書き忘れました。

    実は、先日の小嶋先生の記事で、おひとり様クリスチャン 

    http://sugamo-seisen.blogspot.com/2012/01/blog-post.html

    の問題とも密接に続いているように思うのです。その問題を今、また考えているので、また、コメントの応答とかねて、少し考えを深めてみたいと考えております。しばらく、ご猶予を頂けると嬉しく存じます。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2012.01.09 Monday 07:40
    ひかるさま コメントありがとうございました。

    > 社会心理学での解釈では、自己奉仕バイアスや集団奉仕バイアス、
    > または自己高揚バイアスとも関連します。つまり曖昧な情報を都合
    > の良いように解釈しようとする傾向として現れる訳です。


    引用・・・
    man's interest gives a bias to his judgment far oftener than it corrupts his heart... He overestimates and keeps constantly before his mind the strength of the arguments in favour of, and underestimates, or never considers at all, the force of the arguments against.
    ・・・引用終

    なるほど、社会心理学の世界では、一種の心理的なバイアスとして理解されているのですね。ちょうど経済学におけるゲーム理論が、利害だけで社会でみられる現象を説明しきれない部分の理解の方法として非常に有効では、と思います。

    > ダニング・クルーガーはその調査によって;無能な人ほど自分の
    > 能力を過大視するという心理学。認識の偏り。知能の低い人間ほ
    > ど自分をかなり知能を高く見積もる、あるいはその逆の認識をす
    > る。と報告しています。

    これ、面白いですね。知らない人ほど、自分が知っていると思い込むという罠ですね。この話を聞きながら、システム構築の世界では、ある程度名の知られているWeiburgという人が、書いたものを思い出しました。ダチョウは危機が来ると砂の中に頭を突っ込んでみないようにする、という。

    > 人は所詮村言葉しか認識できません。なまじっか、共通の構造と
    > 発音をする言語を利用していると意識しませんが、実は属してい
    > る基盤世界が異なると、エイリアン(異邦人)と認識しないこと
    > が多いのですが、実はそこに大きな盲点があります。

    そうですね。この問題というのは非常に大きいと思います。同じ言葉を話していても、実は指し示めしている、あるいは想定している実態がかなり異なるというう。。唯名論とそのメタ問題ともつながる認識論の問題ですね。これ、なかなか理解しにくいですね。ミーちゃんはーちゃんは、この問題を考えると、時々、発狂しそうになります。

    > 日本でも、南方諸島と東北とでは同じようなことが起きるはずです。

    つい20年前でも、旧島津藩領の人と、旧毛利藩領の人が地元で使われる言語のみで話ししているとほとんど会話が成立しませんでしたし、旧水戸藩領の出身者と会津人(福島中通り方言)でも、つらいようです。関西出身のミーちゃんはーちゃんは、茨城南部方言の選挙の際に配布された違法ビラに記載されていた「ちくらっぽ御殿」という意味がわからず、地元の方に聞いたら、「嘘つき御殿」という意味だと聞いて、びっくりしたことがあります。

    > キリスト者においても同様です。同じ聖書というテキストを持ちな
    > がら、皆違う言語を話しているのと変わりがないのが今の現状です。

    これは、そうかもしれませんねぇ。同じ教会の中でも、「救い」というキリスト教の根幹にかかわる用語ですら、コアの部分での共通理解がなされていません。なので、しつこく、7回くらいのシリーズで、救いというのをどのように理解できるのか、ということをしています。どうも、救いを具体的な困難な状況からのがれた、と理解される方もおられますし、困窮からの脱出という意味で取っておられる方もおり、いわゆる繁栄の神学的な理解で、救いを語られる方もおられたので、このままいくとまずいなぁ、と思ったので、くどいとは、思っていますが、基本教理の解説をしております。昨日は、その4回目でしたが。

    > 会話を成立させるためには、聞く側がバイアスを外さない限り方法
    > はないのです。いかなる説明や努力をしようとも、全ての正否は受
    > け取り側に委ねられています。この受け取ろうとする姿勢は、教育
    > や知識の質には殆ど関係がないようです。ただ意欲又は興味を持つ
    > か否かに依存します。

     これも、社会心理学の理解でしょうか?個人的には、このバイアスを除くことはほとんど無理なのではないか、と最近思い始めています。実は、ミーちゃんはーちゃんが所属する教会では、月報のようなものを作成していただいているのですが、それにその刊行日までの説教ようやくが乗るのですが、その要約を見たときに、ほとんど毎回のように唖然としているミーちゃんはーちゃんがおります
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2012.01.09 Monday 18:10
    切れちゃいました。つづきます。

    > 政治手法として、易しい、簡略といいますが、実態は、聞く側に都合の
    > 良い、耳に易しい、聴きたいことだけ話すのは、会話では有りません。
    > ただのプロパガンダにすぎません。

    ご指摘の通りですね。対話でもなく、会話すらでもない。単なるプロパガンダ、他社を誘導するためだけの言説ですね。どうも、小泉親子、橋本大阪市長あたりの言説の一部には、どうもこの種の匂いがするので、慎重な検証が必要かなぁ、と思っております。

    > 宣教にこの手法を利用することは、成否はともかく、私の思いからは
    > 外れます。簡略で効率がよいことは確かですが、この手法は人を目的
    > とせず、手段として用いています。私の印象では、聖書の精神からは
    > 外れていると考えています。

    大きな声で叫べばよい(そして、思考を止め、批判的な思考を止めさせる)、手を振り回してのオーバーアクションを必要以上に多用した説教方法や、印象的なイメージを与えることば(言語形態)による説教方法などは、非常に危険性が強い、と思います。人を手段とすることは、神の主権、神の創造の目的を大いに毀損するものと思います。カルトがこの方法を多用するのは、それが実質的に有効だ、ということを彼らが体験的に取得し、理解していることによるのでは、と思います。

    さて、コメント欄だから、ということで少し実例をお話ししたいと思います。ある関東の同じキリスト者集団の方からお聞きしたお話です。我々のキリスト者集団には、大阪方言(播州方言とは少し違います)で話す我々の集団内では名前の通った巡回説教者が複数名おります(ミーちゃんはーちゃんは、その一部の方のお話になられる内容にどうかなぁ、と思うことも多いのですが)。どうも、その方の影響を受けたらしいのですが、関東生まれ、関東育ちのキリスト者の男性が、母教会でもある北関東地方の教会で講壇からお話しする際に、大阪方言をお使いになって大声で叫ぶかのようにお話になられたことがあったそうです。その北関東地方の教会の男性信徒の方から、びっくりしたと同時に考え込んでいる、というのをお聞きしたりすると、模倣(それ自体はさほど悪くないと思うのですが)を超えた影響ということを感じてしまいました。この事例のように、本来見るべきものを超えて影響してしまうものとは何だろうか、と現在考え込まされております。

    ひかるさま、非常に有益なコメントありがとうございました。どうも、教会カルト化の問題、コミュニケーションにおけるバイアスの問題を考える際に、どうも、社会心理学、とりわけダニング・クルーガーの所説の理解は、一つの有効な補助線を与えるものだと思います。ご教示、コメント、いつもありがとうございます。つれずれなるままに、まとまった言説にしなくては、と思われずに、ミーちゃんはーちゃんが考えを深めるための補助線を頂けると、うれしく存じます。ミーちゃんはーちゃんは、フォーカスが時に定まりにくいところがございますので、コメントいただきながら、深めさせていただいています。コメント、ありがとうございました。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2012.01.09 Monday 18:12
    会津は会津です。福島県は会津、中通;郡山近辺(大きくは福島、白河、二本松、三春など)、浜通(海岸地方)の三つに分けられます。多くの日本人が考えている東北弁は福島以北の言葉を指します。地形的な制約から、言葉だけでなく文化、生活習慣などに異なった点が多く見受けられます。関西の方から覧れば似たようなものかも知れませんが、全く異なる地域です。
    水戸弁は、常陸の国の方言ですが土着常陸の言葉に三河からもたらされた言葉が混じり、所謂茨城弁となっています。(因みに、関東で田舎者の言葉と一番揶揄されるのがこの茨城弁で、漫画や小説、吹き替えなどでは此処の言葉をベースに構成されることが多いと感じています。この辺りはテレビで話される関西弁が、大阪の言葉をベースにしていますが、実際に使われている言葉と共通点がないことに通じます)

    閑話休題
    私が他の宗教を学ぶときはこのバイアスを防ぐために(完全に出来ているとは言い難いですが)まずその宗派の前提になっていることを無条件で(此処が重要です)受け入れることを習慣にしています。
    真宗なら念仏を唱えるところから始めます。日蓮宗ならお題目を唱えるところから。禅宗なら座禅を組んでみる。古来の宗派なら、観想と修行と勉学をする。
    すると今まで見えなかった物が見えてきます。この方法が良いか否かは、実行する人に所謂芯があるかに拠りますが、批判的な物の見方で見えなかった物が見えてくるのは事実です。
    別のいい方をすれば、視座を変える効果があると思います。
    しかしこの方法も万全ではありません。初学というか、基礎的な思考方法というか、分類方法というのか、ベースになる思考方法はあまり変えられないようです。
    私が本格的に学んだ宗教はキャソリックが最初でした。その結果というか、当たり前というか、最終的に整理される見方はキャソリック的な物の見方に整理されるようです。
    ニカイア信条やカルケドン信条も本気に学んだのはキャソリックの教会でです。マア反宗教改革の洗礼を受けた後ですし、典礼ミサの実施も現地化が進んできた時期ですから違和感があまりなかったといえばなかった性もありますが。
    ルターの大小教理問答書、ジュネーブ教会信仰問答、ハイデルベルク信仰問答、ウェストミンスター大小教理問答等は随分後学で、いまだに終わったとは言えません。そんななかで正教要理(東方教会のカテキズムです)迄手をだした自分に嫌気が差したことも。(今では書庫で埃を被っています)
    でも結局キャソリックの要理を基準に整理している自分に呆れるやら情けないやら。
    宗学的にも、神学的にも、哲学的にも此ほど整備された体系は他にはなかなかありませんから、当たり前と言えば当たり前なのかも知れませんが、自分でも此で良いのかなと思うことも度々です。
    決して今持っている信仰を捨てろとか、考え方をかえろなどの話しではありません。この一歩踏み込む方法は、共感は出来なくても、バイアスを外す効果と、今まで見えなかった物が見えてくる効果は間違い有りません。その見えてきた物をどのように整理するかは別の問題として残りますが。
    実際には余程の決意と熱意がないと難しいですが、一つの方法として検討に値すると思っています。結果として整理不能な色々なことを抱え込むことも確かですが。

    巣鴨−清泉ブログこの國では繋がらないんです。
    • ひかる
    • 2012.01.09 Monday 21:46
    ひかるさま。またまた楽しいコメント、ありがとうございました。確かに、会津は会津でした。ご指摘ありがとうございました。訂正します、ってコメントは訂正できない。うぅぅ・・・。関東方言で特徴があるのは、栃木方言ではないか(立松和平・つぶやきシロー・U字工事)と茨城人は言っておりましたが、彼らによると厳密な違いがあるようです。

    > 私が他の宗教を学ぶときはこのバイアスを防ぐ
    > ために(完全に出来ているとは言い難いですが)
    > まずその宗派の前提になっていることを無条件
    > で(此処が重要です)受け入れることを習慣に
    > しています

    文化人類学や都市社会学でいうエスノグラフィーの手法と似ているかもしれません。ただ、これ、客体が主体化し、主体が客体化する、エスノグラフィーは対象としての独立性を確保できるのか、というのが、かなりぎりぎりの線で求められるみたいです。

    > でも結局キャソリックの要理を基準に整理して
    > いる自分に呆れるやら情けないやら。

    ひかるさま。そりゃ、どっかにカノンをおかなきゃ、定点が定まらなくって、気がくるってしまいます。昔読んだかわいらしいSFに「地球人のお荷物」というSFがありますが、そこに出てくるクマのぬいぐるみみたいなホーカーズという異星人が海賊船の船長役をしているときに、その船長が勝手に海図の基準の位置をでたらめにするので、どこを船が航行しているのか分からなくなる、ということと似ているかもしれません。この辺りのこともあるので、McGrathは不用意な教派間の移動を進めていない野かなぁ、と思います。どうせ、カトリックもプロテスタントも、神の目から見ればドングリの背比べ、だと思いますし。

    > 一歩踏み込む方法は、共感は出来なくても、
    > バイアスを外す効果と、今まで見えなかった
    > 物が見えてくる効果は間違い有りません。
    > その見えてきた物をどのように整理するかは
    > 別の問題として残りますが。

    そうなんです。仕事柄、ミーちゃんはーちゃんもコンサルタントもどきのようなこともするのですが、コンサルタントは、エスノグラフィーをときどき実地でしなければならないので、その有効性はよくわかるのですが、あまりに関係が深くなりすぎると客体と主体の同一化が発生して、かえって問題を一層混乱させるところもあるので、この辺り、境界線の引き方がややこしいところです。この辺り、タウンゼントの境界線の問題なんかとからみそうです。

    このコメント、本当にありがたいです。実は、親子別教会というのか、他教会留学制度というのは、骨太の信仰の育成のため、このエスノグラフィーの手法を実地にさせることでもあった、ということにコメントを頂いて、気がつきました。まぁ、なんておバカなミーちゃんはーちゃんなんざんしょ。だから、ミーちゃんはーちゃんなんですけど。

    そうそう、IPアドレスで気がつけばよかったんですが、政府関与の厳しいお国にお住まいのため、某G社がしているサービスのものは、ことごとく触れないんですね。とはいっても、小嶋先生にブログサービス会社変わってくれ、とも言い難いですしね。化の国を出られた際にでも、ごらんください、としか申し上げかねるのが、残念です。

    いずれにせよ、ミーちゃんはーちゃんが考えを整理するために大変有益なコメントをいただき、ありがとうございました。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2012.01.10 Tuesday 20:08
    さて、少し唐突ですが私の今の現状を・・・・

    実は、日本にいたときに、真宗と日蓮宗にはキリスト教の匂いを感じていました。
    宗教観というか、宗論の構成形態や信仰の姿勢などにアル意味の親近感があったのですが・・・
    漠然と教典の成立過程から景教の影響を受けていると想定していたのですが・・・
    この國へ来て思ったのは、私の大きな誤解だったと考えるようになりました。
    日本へ伝わった時代からだいぶ時間がたっているので、現在の浄土教典や法華教典に対する考え方は当然変っているでしょう。
    又政治体制の大きな変革から、宗教に対する姿勢に大きな力が加わったことも考慮しないといけないとは思います。
    しかしそのような点も考慮して思うのは、私が漠然と捉えていたキリスト教の匂いは、キリスト教の本質ではなく、日本という國に存在する自覚しない宗教観ではないかと考え始めています。

    誤解を招くかも知れませんが、端的に言えば、日本教キリスト派、日本教真宗派、日本教日蓮宗派・・・・
    と表現した場合の日本教に属する部分、日本に生まれ無自覚のうちに自分の中に存在する思考の基盤となっている部分と考えると親近感があって当然ではないのかなと・・・
    キリスト教のベースと考えているこの部分を自身で自覚して、明確に分離することは困難かも知れませんが、今後の重要な課題かと思います。

    そして、なかなか検討する資料と機会がなく漠然とこの廿年ほど引きづっている疑問点。
    ユダヤ教ははたして一神教だったのか。・・・此は一寸誤解を招く部分ですが・・・
    今のユダヤ教は一神教の形態を取っていますが、私が考えているのはその成立は多神の中から一神を選ぶ過程を旧約は描いているのではないかと・・・
    みだりに口にしてはならないものとエホバは同一の概念として捉えて良いのか。
    今の日本で神という言葉が持っているような概念のような神が並立している社会で、今神と呼んでいる対象は神ではないだろう、そんなのはまやかしだと多くの人が思い、契約という形態を取りながら思い描いている対象を選択した。
    しかし概念が言葉を規定し、言葉が概念を規定する以上、結局新しい言葉を創造することなく、もとの神という言葉で呼ぶことになってしまった。
    そこに少し混乱があるのではと・・・マア、思考実験だといわれては其れまでですが・・・

    ナザレ派の成立過程は、当時の枝葉末葉に拘り、形式主義に落ちいってしまった状況を考えれば当然のことでそれほど奇異なことではないと・・・
    それが、パウロ神学の方向へ何故流れたかは大きな疑問が残りますが・・・
    その辺りは信仰の機敏に触れる部分で、ただ信ずるか否かのみに拘わると考えていますので、あまり議論の対象にするのは・・・

    取り敢えず新しい展開が有るまではこの項はおわり。

    アッ、精神医の話ですが、患者には共感しないのが原則らしいです。その辺り患者が誤解してトラブルになることも多いとか。
    • ひかる
    • 2012.01.11 Wednesday 00:32
    切れちゃいました。つづきます。

    > 政治手法として、易しい、簡略といいますが、実態は、聞く側に都合の
    > 良い、耳に易しい、聴きたいことだけ話すのは、会話では有りません。
    > ただのプロパガンダにすぎません。

    ご指摘の通りですね。対話でもなく、会話すらでもない。単なるプロパガンダ、他社を誘導するためだけの言説ですね。どうも、小泉親子、橋本大阪市長あたりの言説の一部には、どうもこの種の匂いがするので、慎重な検証が必要かなぁ、と思っております。

    > 宣教にこの手法を利用することは、成否はともかく、私の思いからは
    > 外れます。簡略で効率がよいことは確かですが、この手法は人を目的
    > とせず、手段として用いています。私の印象では、聖書の精神からは
    > 外れていると考えています。

    大きな声で叫べばよい(そして、思考を止め、批判的な思考を止めさせる)、手を振り回してのオーバーアクションを必要以上に多用した説教方法や、印象的なイメージを与えることば(言語形態)による説教方法などは、非常に危険性が強い、と思います。人を手段とすることは、神の主権、神の創造の目的を大いに毀損するものと思います。カルトがこの方法を多用するのは、それが実質的に有効だ、ということを彼らが体験的に取得し、理解していることによるのでは、と思います。

    さて、コメント欄だから、ということで少し実例をお話ししたいと思います。ある関東の同じキリスト者集団の方からお聞きしたお話です。我々のキリスト者集団には、大阪方言(播州方言とは少し違います)で話す我々の集団内では名前の通った巡回説教者が複数名おります(ミーちゃんはーちゃんは、その一部の方のお話になられる内容にどうかなぁ、と思うことも多いのですが)。どうも、その方の影響を受けたらしいのですが、関東生まれ、関東育ちのキリスト者の男性が、母教会でもある北関東地方の教会で講壇からお話しする際に、大阪方言をお使いになって大声で叫ぶかのようにお話になられたことがあったそうです。その北関東地方の教会の男性信徒の方から、びっくりしたと同時に考え込んでいる、というのをお聞きしたりすると、模倣(それ自体はさほど悪くないと思うのですが)を超えた影響ということを感じてしまいました。この事例のように、本来見るべきものを超えて影響してしまうものとは何だろうか、と現在考え込まされております。

    ひかるさま、非常に有益なコメントありがとうございました。どうも、教会カルト化の問題、コミュニケーションにおけるバイアスの問題を考える際に、どうも、社会心理学、とりわけダニング・クルーガーの所説の理解は、一つの有効な補助線を与えるものだと思います。ご教示、コメント、いつもありがとうございます。つれずれなるままに、まとまった言説にしなくては、と思われずに、ミーちゃんはーちゃんが考えを深めるための補助線を頂けると、うれしく存じます。ミーちゃんはーちゃんは、フォーカスが時に定まりにくいところがございますので、コメントいただきながら、深めさせていただいています。コメント、ありがとうございました。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2012.01.11 Wednesday 06:44
    ひかるさま コメント、ありがとうございました。

    なんでかわかんないんですが、コメント位置がずれてますね。ASPに聞いてみます。

    > 誤解を招くかも知れませんが、端的に言えば、日本教
    > キリスト派、日本教真宗派、日本教日蓮宗派・・・・
    > と表現した場合の日本教に属する部分、日本に生まれ無自覚
    > のうちに自分の中に存在する思考の基盤となっている部分と
    > 考えると親近感があって当然ではないのかなと・・・

    これ、大変面白いご指摘であると思います。最初に受け取った1世は、現地信仰の読み替えとして基本その宗論を受け入れる可能性がある。さらに、信徒拡大のためには、わかりやすくするために現地語にするために既存の現地信仰で翻案していくとなるとね。鈴木範久さんの『聖書の日本語』を見ていると、そのあたりの問題が浮かびます。
    カトリックのマリア崇敬や聖人崇敬なども現地化の問題と関係しているように思います。

    > キリスト教のベースと考えているこの部分を自身で自覚して、
    > 明確に分離することは困難かも知れませんが、今後の重要な
    > 課題かと思います。

    そうですね。これが異邦人感覚があると、わかりやすい気がします。日本という文化的枠組みを離れて初めて、客体化できる、という部分がありましたから。HKさんは、国内で他の方々との交流のなかで、このことの理解を進められようとしておられるようですが。ミーちゃんはーちゃんは、海外に行って、キリスト教の味わいが国内と違うことに気付き、それ以来、この問題を考えています。他の信者の話に違和感を感じた時などに例のごとくぼーっとですけど。

    > その成立は多神の中から一神を選ぶ過程を旧約は描いているのではないかと・・・

    これ、アブラム時代なんかを考えたり、イテロやラケルが秘匿して持ち出した像の問題なんかが手掛かりになるかもしれません。この辺り、旧約学というかオリエント学ではある程度学問的に追及されているようです。まぁ、素直な人の信仰に亀裂が生じるので、この辺りにしておいたほうがいいかもしれませんが。

    パウロ神学、といわれている者の再検証をしているのが、N.T. WrightのPaulのようです。かなり骨が折れる(内容が豊富なのとWrightさんが相当頭のいい人のようなので)著作なので、なかなか進みませんので、おそらくそうだ、としか申し上げられませんが。

    精神科の医師や援助者、カウンセラーとクライアントの関係というのは、境界線を明確にするようですね。出ないと、Patch Adamsのシーンにあるような危ないケースもありますから。ミーちゃんはーちゃんは、コンサルタントとしての研修を体験と書籍を勝手に読みながらしてたので、この問題、現実に直面するなかで、ようやく理解した、という遠回りの人生を送っております。ま、それはそれで楽しいんですけどね。

    いつもコメント、ありがとうございます。今回も示唆に富むコメント、ありがとうございました。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2012.01.11 Wednesday 07:24
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