2011.06.20 Monday
罪の問題と非キリスト者ホームの信者とキリスト者ホームの子供として育った信者とのギャップ
ここのところ、聖書で言う罪の問題をまじめに考えていて、結局行き着いた結論が、聖書で言う「罪」とは「その人の人生の中にすべてのものの創造者であり、聖書を通して私たちに語りかけようとする人格的存在である神の存在がないこと、その存在が見られないこと」ではないか?という結論にとりあえず今の段階で達したので、そのことを、個人の具体的事例から述べるのではなく、ヨハネの7章全体を読んだ上でイエスと盲人、その周りにいた弟子やほかの人々とパリサイ人との対話のなかから、肉眼において見えること、肉眼において見えないこと、神の目から見て見えること、神を見ていることについて、聖書の言う「罪」との関連でお話した。
その後、教会内で他の方とのお話し合いをしていたので、私と一緒に帰るのを待っていた家内とある信者さんとが話をしていたらしい。そのとき、その信者さんは、私が以前「クリスチャンホーム2世」は「どうしても、生活すべての中に神の存在は、無意識的に意識しているため、聖書が言っているような『罪』の認識の理解に苦しむことがあること、さらに、クリスチャンホーム2世にとって、神の存在は当たり前のことであり、疑うことすらしたことがない可能性があること、その結果、いつ信じたという日時特定があまりに茫漠としてできないこと(信じる決意の原因がどうであれ、信じようか、と思った年頃などは特定できるが、いつから信じていますか?という質問は、回答に本当は困ること)」といったことを話していたなどを覚えていたらしく、その話をしていた、という。「○○年△月○日に私は信じました」ということは私にはいえない(ただし、信じる決心をした日というよりか、バプテスマを受けようかと思った日は、明確)。そんなことを思ったときでも、人前でそういうことを言える人はえらいなぁ、いいなぁ、と思っていたのである。とはいっても、今、「そんなことを言える人はいいなぁ」と私が思った人たちは、私の関連するキリスト者集団の中にいなかったりするのであるが。
誰かに、「バプテスマを受けたら」といわれて、そうしてみようか、と軽く思ったのが、私の信仰生活の出発点だったりするいい加減な信者であるから、そうなのかもしれないのであるのであるが。個人的には、そういうある面で自由さ、というのかおおらかさを持った信者さんのほうが、好感が持てたりするんですね。私自身、ギラギラと脂ぎった信仰者ではないので。
ところで、いつも読ませていただいている、小さないのちを守る会のブログに、キリスト者家庭における別教会問題が連載されている。親子関係で、同じ教会に行きながらも、信仰に対する意識をめぐるギャップがあると、「厳しいだろうなぁ」と思う。実際に「厳しい」と個人的に何回も思った。親や教会の年長の信者の方からは、「お前は、いつ信じたのか?信じたら、そのことがわかるはずだから、いつかを言いなさい」などというが、そんなものは、わからないのである。子供のころから、神の話を聞かされて育ち、それだけしか見ることが良いとされたクリスチャンホームの子供にとっては、「それがいいというから、ご飯を食べるようにそのことを素直に受け入れてきただけ」なのに、何でこんなややこしいことを言われるのだろうか、と思うことがあるようである。自分自身を振り返ってみても。
非キリスト者家庭に育った人は、そもそも、自分で選択的にかつ意識的に、そして意図的に神といきることを選んだ、ということがあるので、聖書の中での『罪』がわかったことや、自分が、聖書の言う『罪人(神とともに歩んでいない人)』であることがわかったこと、神に救いがあるという概念がわかったときは、衝撃的な印象を持つのであろうが、そもそも「神がともにいる」といわれ続け、それを正直に、ただ当たり前に受け止めていたキリスト者家庭の2世の少なからぬ部分は、「そんなの当たり前だし、それ以外選択肢を考えもしなかった」というのが実情ではないだろうか。当たり前すぎて、そのことのすごさがわからないのである。
このことを考えることために、外国に行ったときのことを考えてみればよい。海外に行って(ツアーでもなく、添乗員もなく)初めて、日本語が通じるありがたさを、われわれは感じるのではないだろうか。あるいは、海外に出たとき、日本の清涼飲料水の自動販売機や宅配便の確実さのことを考えてみればよい。いつでも、どこでも、コインさえ入れれば、確実に押した商品が出てくる、非常にすばらしい自動販売機はおそらく日本にしかない。アメリカで、自販機に何回25セント貨(クォータ)を持っていかれたことか。この日本という細長い国土で、ほぼ24時間以内に物品をほぼ問題なく届けてくれる。海外の物流業者の手にかかると、物がなくなる、出てこない、そんなものは受け付けていないといった半年後に突如届く、なんてことがざらな海外の物流サービスを当たり前として暮らしていると、日本では、郵便局ですら、荷物のトラッキングをさせてくれる。日本は、基本的に親切すぎるぐらい親切な国(おせっかいな国)なのである。ある時、アメリカの郵便局にいって電話したいので両替を頼んだら、「銀行にいけ」といわれて、しょうがない、切手を買ったが、その時、郵便局が金融サービスをしてないなんて、とショックを受けた。自分が当然と思っていたことが当然でないことに、自国を出てみて、初めて気づき、愕然とするのである。それ以来、海外赴任者のために、いくつかの国の電話をかけるための硬貨をプレゼントできるよう、持ち帰っている。最近は、コーリングカードやクレジットカードがあれば通話できるので、あまりいらなくなっているが。
ところで、キリスト者家庭に育つ、あるいはキリスト教会内で幼少年期、青年期を過ごすということは、ある面、非常に優れた状態(ただし、それは快適な温室状態である可能性がある)に置かれている状態であり、そのことにその家庭で育ったものは、それがどれだけすごいことなのかに気づかないのである。大学や企業などでキリスト教会や学校以外の社会の違う側面を見て、あまりにその違いに触れ、ショックを受けることもあるかもしれない。それが、ある面で言うと、その個人の信仰の立脚点、自分自身の信仰の見直しをする点になるのではないだろうか。
ところで、どのキリスト者グループ(教派)であれ、特定の方法論や、考え方、行動パターンが見られる。それがなければ、特定のキリスト者グループである意味はない。聖公会には、聖公会の特徴があり、組合教会系の教会には、組合教会系の教会の特徴やその信者さんの特徴もある。改革長老派には、改革長老派の特徴があり、バプティストには、バプティストの特徴がある。カトリック、正教会であっても、グループごとに微妙な違いがあるように感じる。もちろん、そのグループの中でも、それぞれの教会の内部のキリスト者集団において歴史的プロセスの中で形成されてきた固有の習慣や行動パターンというものがあるように思う。その集団しか知らなければ(それはそれで幸せな生き方ではあるが)、それらの行動パターンについて、世の中のキリスト教会がすべてがそのようなものであると誤解する信者家庭の子供が増えてしまうのではないか。
多様なキリスト者集団があり、それぞれ、独特なパターンがあるという認識を持つため、そして、自らの信仰の姿を見直すという意味で、信仰者の短期及び長期留学制度としての、親子での別教会という選択は、一つの考え方ではないか、と思う。もし、子供がそのことを望むのであれば、親としては、教会内での立場があったとしても、結果としての信仰の幅、人間としての幅をつける機会として、信仰者の短期留学制度としての別教会というのはあってよいと思う。いずれ、子供は独立する時期がくるのである。そのための親の練習としても、そのような機会はあってよいのではないか、と思う。自派だけが『正しい』キリスト教だ、という思い込みがどこかキリスト教会に集まる人々の中にないだろうか。あるいは、自派が正しいことだ、と思い込んでいることに対する反省をさせるためにも、他の教会という環境にあえて触れさせてみることも、キリスト者教育だと思うのですけれども。
特定教会での囲い込みによる英才教育というのは、お受験に似て、どこかひずんでいるように思う。ほかのことを知らない信者育成プログラムであり、その教会の中でしか通用しない大リーグボールを投げることのできる人材の育成プログラム、あるいは特定集団の中だけで通用する大リーグボール養成ギプスを子供に課している可能性があるのではないだろうか。とすれば、まるで、星一徹君である。本人(星飛馬君・即ちキリスト者の第2世代)が判断力がある中で、それでもさらに望んで、大リーグ養成ギプスを着けているのならそれは何もいえないかもしれないが、大リーグボールを投げれるように、重い『こんだら』(本当は、「思い込んだら」らしいがこの時の映像が、ローラとか古タイヤを使ったトレーニングシーンなので、中学生くらいまで、ローラとか古タイヤを『こんだら』と業界用語で呼ぶのだとミーちゃんはーちゃんは思っていた)を引きずりながら走れるような英才教育をしてしまう。これが、どこか歪んだものをキリスト者2世に与えるのではないだろうか。それこそが、松ちゃんの教室の中で指摘されたどこかおかしくなったキリスト者2世を生み出すのではないか、と思ったりした。息が詰まって、つかれきってしまっている信者やキリスト者2世がいるのではないだろうか。あるいは、その教会や教派の裏表を余すところなく知っていることを道具的に(戦略的に)利用して、他の信者を圧迫したり、不愉快な思いにさせる人々も出てくることは起こりうるだろう、と思う。普遍的にこのような事例が存在するわけではないだろうが、この種の問題を考えることは重要ではないだろうか。こんなことは、従来の品のよい教会雑誌では無理だったかもしれないが、「教会を元気にする」を標榜しておられるMinistryの編集部としては、松ちゃんさんのこの視点、大事にしてほしい。とりあえず当初予定の3年のうちの半分は過ぎたので、最後の強烈な一発、というのがあってもいいかもしれない。
すべての教会の人には、必ずしもすすめられないが、最近見たドキュメンタリー映画の中で、ペンテコステ系のアメリカの教会での早期教育の問題を取り上げ、アメリカ宗教右派の精神性を垣間見せる『Jesus Camp』という映画があった(ツタヤでレンタルできました)。これを見ながら、考え込んでしまった。ただ、この中で福音派と製作者によってラベルが張られている信仰者グループ(実際にはペンテコステ系の人たち)が、主張しておられることの大半は、そうかもなぁ、でも、と思いつつも、基本的な理解は私の聖書理解と、そう離れているわけではないなぁ、という思いを持った。とはいえ、この映画の中で、それらの人々が発言する内容に対して、「そのような主張する上での聖書の根拠は何?」と聞きたくなるような主張(アメリカは神の国だから、罪のきよめが必要だ、とか、その他もろもろ)も同時に満載のドキュメンタリー映画であった。もともとは、A&E(Art and Entertainment)というアメリカのケーブルテレビ局の関連会社が購入したドキュメンタリー映画らしい。このチャンネルは、芸術や歴史などのドキュメンタリー物などを流してくれるので在米時代は良く見ていたチャンネルで流されたものらしい。A&Eは日本でいうと、教育テレビをもうちょっと商業的にした感じのチャンネルである。
この映画、若干マイケル・ムーア風の視線があるが、ドキュメンタリーとしては、キリスト教の左派系のラジオホストを登場させ、キリスト教系左派(というよりは、民主党支持者)に近い人たちの主張も取り上げているが、映像の大部分は、キリスト教右派系(というよりは、共和党支持者)の人々の表現をそのまま述べさせるという形をとっている。両者の意見を並存させて、中央公論であることを保障しようとさせる工夫かもしれないが。
まぁ、これを見て、どう思うかであるが、洗脳とはいわないまでも、このような環境の中で選択の自由もなく、それが当たり前と思い生活している人たちが少なくとも現在の社会の中で存在することことが分かる。「彼らには、選択ということそのそもない」と左派系キリスト者向けのラジオ番組のDJがつぶやいていたが、それはその通りであろう。とすれば、特定の世界観の中にどっぷりつかって、それに疑問を抱くことなく過ごし、その中で教えられたことを、(哲学的反省の視点から)批判的に考えるのではなく、頭ごなしに受け入れ、それを後付けした知識やある価値観から見た聖書の表現(それすら、特定のグループ固有の理解を反映したものである可能性が高いが)で正当化する人々も出てくるだろう。私だって、そうなっていたかもしれない。自分のキリスト者としての生育環境を考えると、かなり、その可能性は高い。だからこそ、直視するのがつらいいくつかシーンもあったが、結局は2回見た。昔は、「私もあんなことをしていたし、あそこにいた」というのが、私の正直な感想だった。
この映画を見ながら思ったのは、クリスチャン第一世代は、自己の選択として信仰を選択していったかもしれないが、クリスチャンの第2世代は、選択の余地なく、親からの贈り物として、それを受けとる。それはそれでよいのかもしれないが、それに対する疑問を持ったとき、つまり、個人の信仰の問題として選択を迫られるとき、すなわち、個人が信仰の選択の問題と対峙する機会として過ごすとき、様々なしがらみのない教会でじっくりと考えることは大事ではないだろうか。そして、それはある面、聖書に先行事例をもとめることもできるのではないか、と思う。
そもそも、イエスは重大な問題と取り組むとき、時に荒野に独り退いている。リトリートをしておられる。また、ヨハネ4章44節でも、イエスは、「イエスはみずからはっきり、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」と言われたのである。」とあるように、故郷ではあまりその存在を公にしておられない。このような観点からも、信仰継承問題と親子別教会の問題を考えることは重要かもしれない。そもそも、信仰継承問題とは、イエスがキリストあるいはメシアであるということに対する信仰の継承問題であり、自派の信仰理解の継承という狭い基準についての問題ではないはずである。キリスト者2世が、イエスはキリストであるということを認め得れば、カトリック教会に行っていようが、ギリシア正教会であろうが、プロテスタントのどのグループに行っていようが、信仰は継承されたと、ミーちゃんはーちゃんは思うのですけど、あまりにエキュメニカルすぎるかなぁ。
そういえば、いつも楽しく拝見させていただいている大和郷の教会の小嶋先生は、3世代目だそうであるが、http://sugamo-seisen.blogspot.com/2010/08/blog-post_22.html
この他の教会に行く、という選択について、どうお考えなのか、お考えをお伺いしたい気もします、とおねだりしてみようか、と思うミーちゃんはーちゃんなのでした。
その後、教会内で他の方とのお話し合いをしていたので、私と一緒に帰るのを待っていた家内とある信者さんとが話をしていたらしい。そのとき、その信者さんは、私が以前「クリスチャンホーム2世」は「どうしても、生活すべての中に神の存在は、無意識的に意識しているため、聖書が言っているような『罪』の認識の理解に苦しむことがあること、さらに、クリスチャンホーム2世にとって、神の存在は当たり前のことであり、疑うことすらしたことがない可能性があること、その結果、いつ信じたという日時特定があまりに茫漠としてできないこと(信じる決意の原因がどうであれ、信じようか、と思った年頃などは特定できるが、いつから信じていますか?という質問は、回答に本当は困ること)」といったことを話していたなどを覚えていたらしく、その話をしていた、という。「○○年△月○日に私は信じました」ということは私にはいえない(ただし、信じる決心をした日というよりか、バプテスマを受けようかと思った日は、明確)。そんなことを思ったときでも、人前でそういうことを言える人はえらいなぁ、いいなぁ、と思っていたのである。とはいっても、今、「そんなことを言える人はいいなぁ」と私が思った人たちは、私の関連するキリスト者集団の中にいなかったりするのであるが。
誰かに、「バプテスマを受けたら」といわれて、そうしてみようか、と軽く思ったのが、私の信仰生活の出発点だったりするいい加減な信者であるから、そうなのかもしれないのであるのであるが。個人的には、そういうある面で自由さ、というのかおおらかさを持った信者さんのほうが、好感が持てたりするんですね。私自身、ギラギラと脂ぎった信仰者ではないので。
ところで、いつも読ませていただいている、小さないのちを守る会のブログに、キリスト者家庭における別教会問題が連載されている。親子関係で、同じ教会に行きながらも、信仰に対する意識をめぐるギャップがあると、「厳しいだろうなぁ」と思う。実際に「厳しい」と個人的に何回も思った。親や教会の年長の信者の方からは、「お前は、いつ信じたのか?信じたら、そのことがわかるはずだから、いつかを言いなさい」などというが、そんなものは、わからないのである。子供のころから、神の話を聞かされて育ち、それだけしか見ることが良いとされたクリスチャンホームの子供にとっては、「それがいいというから、ご飯を食べるようにそのことを素直に受け入れてきただけ」なのに、何でこんなややこしいことを言われるのだろうか、と思うことがあるようである。自分自身を振り返ってみても。
非キリスト者家庭に育った人は、そもそも、自分で選択的にかつ意識的に、そして意図的に神といきることを選んだ、ということがあるので、聖書の中での『罪』がわかったことや、自分が、聖書の言う『罪人(神とともに歩んでいない人)』であることがわかったこと、神に救いがあるという概念がわかったときは、衝撃的な印象を持つのであろうが、そもそも「神がともにいる」といわれ続け、それを正直に、ただ当たり前に受け止めていたキリスト者家庭の2世の少なからぬ部分は、「そんなの当たり前だし、それ以外選択肢を考えもしなかった」というのが実情ではないだろうか。当たり前すぎて、そのことのすごさがわからないのである。
このことを考えることために、外国に行ったときのことを考えてみればよい。海外に行って(ツアーでもなく、添乗員もなく)初めて、日本語が通じるありがたさを、われわれは感じるのではないだろうか。あるいは、海外に出たとき、日本の清涼飲料水の自動販売機や宅配便の確実さのことを考えてみればよい。いつでも、どこでも、コインさえ入れれば、確実に押した商品が出てくる、非常にすばらしい自動販売機はおそらく日本にしかない。アメリカで、自販機に何回25セント貨(クォータ)を持っていかれたことか。この日本という細長い国土で、ほぼ24時間以内に物品をほぼ問題なく届けてくれる。海外の物流業者の手にかかると、物がなくなる、出てこない、そんなものは受け付けていないといった半年後に突如届く、なんてことがざらな海外の物流サービスを当たり前として暮らしていると、日本では、郵便局ですら、荷物のトラッキングをさせてくれる。日本は、基本的に親切すぎるぐらい親切な国(おせっかいな国)なのである。ある時、アメリカの郵便局にいって電話したいので両替を頼んだら、「銀行にいけ」といわれて、しょうがない、切手を買ったが、その時、郵便局が金融サービスをしてないなんて、とショックを受けた。自分が当然と思っていたことが当然でないことに、自国を出てみて、初めて気づき、愕然とするのである。それ以来、海外赴任者のために、いくつかの国の電話をかけるための硬貨をプレゼントできるよう、持ち帰っている。最近は、コーリングカードやクレジットカードがあれば通話できるので、あまりいらなくなっているが。
ところで、キリスト者家庭に育つ、あるいはキリスト教会内で幼少年期、青年期を過ごすということは、ある面、非常に優れた状態(ただし、それは快適な温室状態である可能性がある)に置かれている状態であり、そのことにその家庭で育ったものは、それがどれだけすごいことなのかに気づかないのである。大学や企業などでキリスト教会や学校以外の社会の違う側面を見て、あまりにその違いに触れ、ショックを受けることもあるかもしれない。それが、ある面で言うと、その個人の信仰の立脚点、自分自身の信仰の見直しをする点になるのではないだろうか。
ところで、どのキリスト者グループ(教派)であれ、特定の方法論や、考え方、行動パターンが見られる。それがなければ、特定のキリスト者グループである意味はない。聖公会には、聖公会の特徴があり、組合教会系の教会には、組合教会系の教会の特徴やその信者さんの特徴もある。改革長老派には、改革長老派の特徴があり、バプティストには、バプティストの特徴がある。カトリック、正教会であっても、グループごとに微妙な違いがあるように感じる。もちろん、そのグループの中でも、それぞれの教会の内部のキリスト者集団において歴史的プロセスの中で形成されてきた固有の習慣や行動パターンというものがあるように思う。その集団しか知らなければ(それはそれで幸せな生き方ではあるが)、それらの行動パターンについて、世の中のキリスト教会がすべてがそのようなものであると誤解する信者家庭の子供が増えてしまうのではないか。
多様なキリスト者集団があり、それぞれ、独特なパターンがあるという認識を持つため、そして、自らの信仰の姿を見直すという意味で、信仰者の短期及び長期留学制度としての、親子での別教会という選択は、一つの考え方ではないか、と思う。もし、子供がそのことを望むのであれば、親としては、教会内での立場があったとしても、結果としての信仰の幅、人間としての幅をつける機会として、信仰者の短期留学制度としての別教会というのはあってよいと思う。いずれ、子供は独立する時期がくるのである。そのための親の練習としても、そのような機会はあってよいのではないか、と思う。自派だけが『正しい』キリスト教だ、という思い込みがどこかキリスト教会に集まる人々の中にないだろうか。あるいは、自派が正しいことだ、と思い込んでいることに対する反省をさせるためにも、他の教会という環境にあえて触れさせてみることも、キリスト者教育だと思うのですけれども。
特定教会での囲い込みによる英才教育というのは、お受験に似て、どこかひずんでいるように思う。ほかのことを知らない信者育成プログラムであり、その教会の中でしか通用しない大リーグボールを投げることのできる人材の育成プログラム、あるいは特定集団の中だけで通用する大リーグボール養成ギプスを子供に課している可能性があるのではないだろうか。とすれば、まるで、星一徹君である。本人(星飛馬君・即ちキリスト者の第2世代)が判断力がある中で、それでもさらに望んで、大リーグ養成ギプスを着けているのならそれは何もいえないかもしれないが、大リーグボールを投げれるように、重い『こんだら』(本当は、「思い込んだら」らしいがこの時の映像が、ローラとか古タイヤを使ったトレーニングシーンなので、中学生くらいまで、ローラとか古タイヤを『こんだら』と業界用語で呼ぶのだとミーちゃんはーちゃんは思っていた)を引きずりながら走れるような英才教育をしてしまう。これが、どこか歪んだものをキリスト者2世に与えるのではないだろうか。それこそが、松ちゃんの教室の中で指摘されたどこかおかしくなったキリスト者2世を生み出すのではないか、と思ったりした。息が詰まって、つかれきってしまっている信者やキリスト者2世がいるのではないだろうか。あるいは、その教会や教派の裏表を余すところなく知っていることを道具的に(戦略的に)利用して、他の信者を圧迫したり、不愉快な思いにさせる人々も出てくることは起こりうるだろう、と思う。普遍的にこのような事例が存在するわけではないだろうが、この種の問題を考えることは重要ではないだろうか。こんなことは、従来の品のよい教会雑誌では無理だったかもしれないが、「教会を元気にする」を標榜しておられるMinistryの編集部としては、松ちゃんさんのこの視点、大事にしてほしい。とりあえず当初予定の3年のうちの半分は過ぎたので、最後の強烈な一発、というのがあってもいいかもしれない。
すべての教会の人には、必ずしもすすめられないが、最近見たドキュメンタリー映画の中で、ペンテコステ系のアメリカの教会での早期教育の問題を取り上げ、アメリカ宗教右派の精神性を垣間見せる『Jesus Camp』という映画があった(ツタヤでレンタルできました)。これを見ながら、考え込んでしまった。ただ、この中で福音派と製作者によってラベルが張られている信仰者グループ(実際にはペンテコステ系の人たち)が、主張しておられることの大半は、そうかもなぁ、でも、と思いつつも、基本的な理解は私の聖書理解と、そう離れているわけではないなぁ、という思いを持った。とはいえ、この映画の中で、それらの人々が発言する内容に対して、「そのような主張する上での聖書の根拠は何?」と聞きたくなるような主張(アメリカは神の国だから、罪のきよめが必要だ、とか、その他もろもろ)も同時に満載のドキュメンタリー映画であった。もともとは、A&E(Art and Entertainment)というアメリカのケーブルテレビ局の関連会社が購入したドキュメンタリー映画らしい。このチャンネルは、芸術や歴史などのドキュメンタリー物などを流してくれるので在米時代は良く見ていたチャンネルで流されたものらしい。A&Eは日本でいうと、教育テレビをもうちょっと商業的にした感じのチャンネルである。
この映画、若干マイケル・ムーア風の視線があるが、ドキュメンタリーとしては、キリスト教の左派系のラジオホストを登場させ、キリスト教系左派(というよりは、民主党支持者)に近い人たちの主張も取り上げているが、映像の大部分は、キリスト教右派系(というよりは、共和党支持者)の人々の表現をそのまま述べさせるという形をとっている。両者の意見を並存させて、中央公論であることを保障しようとさせる工夫かもしれないが。
まぁ、これを見て、どう思うかであるが、洗脳とはいわないまでも、このような環境の中で選択の自由もなく、それが当たり前と思い生活している人たちが少なくとも現在の社会の中で存在することことが分かる。「彼らには、選択ということそのそもない」と左派系キリスト者向けのラジオ番組のDJがつぶやいていたが、それはその通りであろう。とすれば、特定の世界観の中にどっぷりつかって、それに疑問を抱くことなく過ごし、その中で教えられたことを、(哲学的反省の視点から)批判的に考えるのではなく、頭ごなしに受け入れ、それを後付けした知識やある価値観から見た聖書の表現(それすら、特定のグループ固有の理解を反映したものである可能性が高いが)で正当化する人々も出てくるだろう。私だって、そうなっていたかもしれない。自分のキリスト者としての生育環境を考えると、かなり、その可能性は高い。だからこそ、直視するのがつらいいくつかシーンもあったが、結局は2回見た。昔は、「私もあんなことをしていたし、あそこにいた」というのが、私の正直な感想だった。
この映画を見ながら思ったのは、クリスチャン第一世代は、自己の選択として信仰を選択していったかもしれないが、クリスチャンの第2世代は、選択の余地なく、親からの贈り物として、それを受けとる。それはそれでよいのかもしれないが、それに対する疑問を持ったとき、つまり、個人の信仰の問題として選択を迫られるとき、すなわち、個人が信仰の選択の問題と対峙する機会として過ごすとき、様々なしがらみのない教会でじっくりと考えることは大事ではないだろうか。そして、それはある面、聖書に先行事例をもとめることもできるのではないか、と思う。
そもそも、イエスは重大な問題と取り組むとき、時に荒野に独り退いている。リトリートをしておられる。また、ヨハネ4章44節でも、イエスは、「イエスはみずからはっきり、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」と言われたのである。」とあるように、故郷ではあまりその存在を公にしておられない。このような観点からも、信仰継承問題と親子別教会の問題を考えることは重要かもしれない。そもそも、信仰継承問題とは、イエスがキリストあるいはメシアであるということに対する信仰の継承問題であり、自派の信仰理解の継承という狭い基準についての問題ではないはずである。キリスト者2世が、イエスはキリストであるということを認め得れば、カトリック教会に行っていようが、ギリシア正教会であろうが、プロテスタントのどのグループに行っていようが、信仰は継承されたと、ミーちゃんはーちゃんは思うのですけど、あまりにエキュメニカルすぎるかなぁ。
そういえば、いつも楽しく拝見させていただいている大和郷の教会の小嶋先生は、3世代目だそうであるが、http://sugamo-seisen.blogspot.com/2010/08/blog-post_22.html
この他の教会に行く、という選択について、どうお考えなのか、お考えをお伺いしたい気もします、とおねだりしてみようか、と思うミーちゃんはーちゃんなのでした。
- コメント
- 管理者の承認待ちコメントです。
-
- -
- 2011.06.21 Tuesday 00:18
- >重い『こんだら』(本当は、「思い込んだら」・・・
エェ・・・ネタだと思っていました。
本当にそんな方がいるとは・・・ -
- ひかる
- 2011.06.21 Tuesday 02:04
- ひかるさま
コメント、ありがとうございました。
「巨人の星」は、幼稚園時代にライブでやっていたのですが、育った家庭が全く野球に関心のない家で、ちらっと見ただけで、そのイメージだけが残ったんでしょう。いまだに、野球のどこがおもしろいのか、と思っているくらいですから。
もう一つのコメントは、削除しておきます。ご自身のお立場についてのご説明、ありがとうございました。
-
- ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
- 2011.06.22 Wednesday 06:20
- 初めまして。水谷先生のブログから来ました。
拝見して、成程なぁと思わされました。
短期留学の案は、羨ましいとは思いつつも、人に躓いては教会を変わっていく「教会ジプシー」増殖の懸念から、なかなか踏み切れない所ではありますね。
ギリギリの妥協点としては、礼拝は自分が洗礼を受け、遣わされた教会で。
礼拝以外の集会などならOK。(明らかな異端はNG)。
超教派のキャンプ場主催キャンプ、伝道聖研はOK。
我が家では、今のところここが限界です。
pkであれば立場の微妙さは尚更です。
でも超教派キャンプや、hi-baだけでもかなりカルチャーショックはあるようですね。
温室培養ではなく、たくましい2世クリスチャンを育てていけたら、と願っております。 -
- YY
- 2011.06.29 Wednesday 06:07
- YYさま
コメントありがとうございました。確かに、子供たちを教会ジプシーにはさせたくないものの、信仰の確立と自立、自己の相対化の視点、そして幅広いキリストの体を見出す視点は、親として残してやりたい遺産ではあります。
そして、Paster's Childrenとしてのみ見るのではなく、一人の人格をもって神と向き合っていく人間としても見てやれれば、その幅を私自身持っていければ、と思っております。
そうですね、母教会純粋まっすぐ君もそれはそれでいいとは思うのですが、もっと幅広い信仰者として野武士のように、生きるための基礎を何とか与えてやれないかなぁ、と理想論を考えております。
大変貴重なコメント、ありがとうございました。 -
- ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
- 2011.06.29 Wednesday 06:10
- 横から失礼します。(コメントへのレスへの、さらにコメントですが…)
>もっと幅広い信仰者として野武士のように、生きるための基礎を何とか与えてやれないか
というお気持ちもよくわかります。ただ、「与える」というより、「引き出す」ほうが、今後を考えるとより大切なように感じております。(これは、ただのこちらの一意見です。)
というのも、母教会・母集団(同じような群れ)にのみいる場合、アパシー、AC様、もしくは不感症というべき状態になっていると感じられるクリスチャンホームのお子さんたちも少なからずいらっしゃいます。
端的には、とても真面目で、きちんと聖書(の表面?)を読んでいて、それなりに礼儀も正しくて、一見素直なのですが、他者(これは、他の価値観や背景を持つ人々の意)の痛みが理解できない、「自分を正しい」としていて自尊心が高い、という特徴があります。
「自分を罪人」と言いつつ、実際には、そうは思っておらず(むろん、本人たちにそう言ったら、否定されますが)、ただ「そう教えられているから、そう考えている」としか、見えない言動をしているものの、そもそも自分たちがどう感じているかさえも素直に感じたり、認めてきていないために、そういう現象も起こりうるのでは、と考えているところです。これは、ブレザレンと呼ばれている群れだけではなく、いわゆる福音派でも他の所でも同様に存在すると考えられます。
*********
「例)「喜ばなければならない」
・・・いやいやいや、もし「知ったら」、どんなに素晴らしいものなのか、みことばを知る楽しさを「知ったら」、喜ぶでしょう、と思う。
だが、彼らはすでに「知っている」(と思っている)のだ。確かに、知識量がある人もいる。
だからこそ、「すでに自分は知っている」という高慢さと飽和にさらされ、聖書や神様に対する関心も薄れている状況で、ただただ、「喜びなさい」と書いてあるから「喜ばなければならない」と感情を強制していたら、・・・不感症にならざるをえない。
これは、ACに通じる。
ACの子どもらは、いやな物を目の前にされても「これを喜ばないと、またお母さん(orお父さん)から、怒鳴られ続けるから、喜ばなければならない」となる。うそでも、相手を喜ばすために、喜んだふりをする。自分の感情を殺して、相手に合わせて取り繕う。そうしなければ、生きていけないからだ。
これは、聖書が、ではなく、周りの大人たちが、子どもが子どもであっていいのだ、素直に感じたことを表現しても、だれもどなったり、殴ったり、いじめたり冷たくしたりしないのだ、という安心感を持たせずに、育ててきてしまったからなのかもしれない。大人のレベルを、小さな幼子に押し付けてはいなかっただろうか、と、ふと感じることがある。」
「ある意味、親もクリスチャン、親戚もクリスチャンばかり、自分も受け入れたら信じてバプテスマを受けましょう・・・という環境は、不幸にもなりうる。それ以外、選択肢が用意されていない。自分たち以外の人々との交流をすることが、ない。エネルギーや賜物がある人々ほど、その状況に甘んじることは自分を無感覚にするか、少々離れるしか・・・方法がない。確かに、そこここに、ゆがみが生じているように感じる。
せめて、彼らが学生の頃に、まったく交流のない集会やら何やらにどぼんと入れさせて、しかもそれに数年耐えらせていたら、面白いことになったろうなぁ・・・と考える。実際、それが、刺激となる。国内の他集会がいやなら、外国にでも。だが、そういう度胸のある兄弟姉妹はそう多くはない。
いやいや、学校時代に、ムスリムやら無神論者やら仏教徒やらいろんな人々と、接する機会があったら、また違ったのだろう。」とも、ある時(あ、ちょうど川向さんのこの記事と同じ頃ですね)、考えておりましたので…。
長文失礼しました。 -
- m
- 2011.11.03 Thursday 09:33
- mさま コメントありがとうございました。ご指摘のように、本人の気持ち、という意味では引き出すですが、親側の気持ちとしては、本人が自分たちの信仰スタイルと違うところに、行きたい、行ってみたい、といったときに、どうぞ、ということを言えるような環境というか気持ちの整理なんですね。特に、日本の場合は、育てられた教会への恩義とか忠誠心とか、言われることが少なくないようですから。まぁ、所属する教会への忠実さ、ということも意味があるとは思うのですが、その教会でバプテスマを受けたから、といって、その教会に縛るような言動をされる方も時にないわけでもないので。このあたりの判断が難しかったりするのですね。責任者とか、親の立場になると。
いただいたコメントは、コメント欄で終わらせるのはもったいないように思いますので、別途記事での応答、という形にさせていただきたいと思います。もうしばらく、お待ちください。 -
- ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
- 2011.11.03 Thursday 16:58
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