<< とりあえず思うことと考えたこと | main | 「働くこと」の意味についてはふたたび、たらたらと考えた >>
2010.10.28 Thursday

伝統について、地に手をつけて考えた。

0
     伝統ということについて、手に土をつけて考えた。

     昨日は、こちらのブログはお休みの日はずだったのだが、書いてみたくなったので、書いてしまった。また、その続きの話です。この辺、考えが収束せずに対象を変えつつ、いろいろ考えているのはまだまだ頭の中で、ぐるぐる回っているのだろうと思う。

     ところで、この10月は、ある農事法人さんのところで実証実験をしていて、ひたすら、稲刈りをしている田んぼを歩き回る人たちにくっついて行って、いろんな実験させてもらった。お邪魔してしまった皆さん、どうもありがとうございました。

     実験自体は、非常に成功だったのであるが、農家の人々と農作業の合間、合間にお話しする機会があり、改めて感じたことがある。それは、田んぼの土づくりという伝統の重みである。もう一つは、この人たちは、実に辛抱強く、冒険的精神に富む人たちなんだ、ということである。そして、農産物を物量としてしか見れなくなってしまった自分の問題意識と現代の農業と食品をめぐる問題のおかしさにである。

     今回実験の中で、様々な田んぼを見せてもらった。ときには、長靴で田んぼの中に入っていった。田んぼになって、20年ほどの田んぼ。田んぼになって、60年ほどの田んぼ。田んぼになって、100年ほどの田んぼ。田んぼになって500年ほどの田んぼ。全部土の色や土の粘り、土の水はけの状態、土の固さが明らかに違うのである。それによって、とれるコメの品質が非常に違う、という話も聞いた。それはそうだろう。これだけ、土が違えば、できるコメの品質が同じわけがない。同じ品種でも、同じような圃場でも、全く違うのはある意味納得、というところがある。

     昨日、ブログを書きながら、夜のニュースで、TTPについての話題を聞くともなく聞いていたが、そこでの議論のおかしさについて考えてしまった。TTP賛成・反対も、物量ベースというか金銭感覚でしか捉えられていないのは、本当にそれでいいのかなぁ、本当に。という疑問をもってしまった。

     確かにコメはコメであるとはいうものの、品種も違えば、栽培方法や栽培ノウハウも違う、そして、毎年の気温が違い、それに応じて生育過程も違い、そして、品質が違った米になる。それを私はコメという大分類の物量でしか意識できていなかった。もちろん、食味が違うのは納得できる。以前、ミルキークイーンという品種を食べさせてもらったときには、その衝撃的な食味にびっくりした経験はあったから。とはいえ、土がここまで違うのか、というのを見たとき、そして、年に一度しかない収穫、それもお天気に非常に左右される収穫に耐えながら、だれが見るともなく、だれが知ることもなく、それでも土と関わり、土と対話している人々の姿にある面、心打たれてしまったのですね。それをいい加減に鹿、理解できなかった自分を反省したりしました。

     500年間田んぼで稲作をしているということは、500年間の世代を超えた、土や植物との対話をしているということなんだと思った。お天気(日照や降雨)は毎年違う。そして、少しづつ、その対話の方法を変えているんだ、そして、伝統や長年培われてきた知識(ナレッジ)に新しい技術を取り込みながら(バインダやコンバイン)、その対話の方法を変えてきているのを体験的に学んだ。

     伝統というのは、固定化されたものではないのかもしれない。もっと創造的なものなのだろうと思う。ただ、伝統の固定化が問題なのだろうと思う。そのためには、イエスがしたようなより大きな俯瞰的な視点から、物事をとらえなおし、近視眼的な視点も生かしつつも、全体構想を考えていくような思索(批判的思考ないしは湯川先生の表現を借りると『哲学的反省』)が重要なのかなぁ、と思う。これが、我々だ、と決めつけるのではなく、我々が聖書にあってどのように世の中とかかわっていくよう、聖書から神の意図を読み取れると考えられるのか、何が聖書の本源的要求事項か、という視点で現代社会とのかかわりの中で、聖書の再解釈を進めていくことが重要なのかなぁ、と思う。

     その意味で、先日の小島先生の記事

    ネガティブ・イメージ


    の中の記述

    • 反省と悔い改めの叱責・矯正・指導が教界指導者たちから出てくることを期待したいですが、たといそうでなくても「教会の建設的作業」は進められなければなりません。
    • 何しろ「何一つ傷のないキリストの花嫁」としての希望が将来のために担保されているからです。
    • キリストとその教会のために、
    • あきらめるな、
      ひるむな、
      信仰・希望・愛を持って労苦せよ。
    • と、そんな風に肝に銘じたいと思っています。

    からは、そんなことを読み取れるのではないかなぁ、と考えた。聖書的な批判思考に基づき社会の現実やそこから導き出される要請に応じつつ、現状に疑問を持ち、あきらめず、ひるまず、信仰と・希望と愛を持って、教会とは何かを考えつつ、現実とブチ当たり、いやごともいわれつつも、「伝統の創出・作り替え・組み換え」の問題に取り組んで(労苦して)きたことが、そもそもキリスト教、プロテスタントの伝統だったような気がするんですね。その結果、教派や教団が新たに生み出されていったのは、必要悪として不幸だったと言わざるを得ないのかもしれない。それでも、伝統の上に立って、伝統と対話していくということを繰り返してきたのかなぁ、と思った。その意味で、小島先生のこの記事、そして、このブログに頂戴したコメント、考えさせられることが多かったです。どうも、ありがとうございます。

     最後に、もうひとりの心の師というべき(直接の面識はないので)A・E・マクグラスの著作「ポスト・モダン世界のキリスト教 21世紀における福音の役割」(稲垣久和監訳・教文館 pp.81-83)の中から伝統の部分を少し長くなりますが引用してみたいとおもいます。元は、英語の講演内容なので、多少言語依存の部分があります。

    「伝統」という語は、「譲り渡す」「残す」「伝える」といった意味を持つラテン語traditioという言葉からきています。ある意味では、それは完全に聖書的な考え方です。パウロも、彼が他の人から受けたキリスト教信仰の確信を彼らに伝えているのだ、ということを、読者に思い起こさせているのですから(Iコリント15・1−4)。この言葉は、他の人に教えをつたえるという行為と−それは教会内でなされなければならないとパウロが主張したことですがー、このようにして伝えられた教え自体を意味しています。このように伝統は教え自体と考えることもそれを伝える過程と考えることもできます。特に牧会書簡は「あなたにゆだねられたよいものを守る」ことの大切さを強調します。(IIテモテ1・14)。しかし新約聖書は、「伝統」という概念を否定的な意味においても用いています。それは「聖書に基礎をおいていない人間の考えや実践」といったことを意味します。そういったわけで私たちは、主が、神のことばと相反する、ユダヤ教の人間的な伝統を公然と批判されているのを見出します(例えば、マタイ15・1−6、マルコ7・13参照)
     一見したところでは、福音主義の人たちは、少なくとも新約聖書が肯定的に用いている意味では、伝統と言う概念に異議を唱えるとは思えません。しかし、福音主義の中ではこの問題に関しての懸念があり、これらを識別し、考慮することが重要です。二つのことが特に重要です。

    1 神のことばに対比して、伝統は人間が作ったものとみなされることができます。新約聖書は、確かにこのタイプの伝統について記しており、そのような伝統とそれがもたらす結果の両方を強く批判しています。この考えをさらに発展させて、トレント公会議は人間の伝統と聖書に同じだけの重きを置いているようだと注意を促す福音主義者もいますが、そうであるならこれは聖書を優先するという宗教改革の強調とは相容れません。これは重大な問題であり極めて真剣に扱う必要があります。このため、あとからわたしたちは、宗教改革で論じられたこの聖書と伝統に関する論争を注意深く考察します。

    2 伝統には伝統主義者と言う意味も含まれています。それは以前の世代のプレッシャーであり、私たちが以前の世代の人たちとまったく同じように考え行動し続けることを要求します。そのようにして福音主義を16,18,19世紀の世界観に閉じ込めてしまうのです。「伝統」にどのような形であれ、権威を与えることは、福音主義が死者と夢中歩行することを強要することであり、それは現代のサンフランシスコで18世紀の服装をするのと同じほど滑稽なことです。キリスト教が人々からどのように見られているかに非常に敏感な時代に―「求道者に配慮した」礼拝が増えているのを見てください―、伝統への関心は全く場違いであるように思えます。伝統は同時代性に真っ向から対立するのです。

     J・I・パッカーにとって「伝統」とは、聖書が過去どのように読まれてきたかを考慮しながら聖書を読む意欲です。それは長期にわたって存続するキリスト教信仰の共同体的側面に気づくということであり、多くの福音主義者たちの浅薄な個人主義に疑問を投げかけます。聖書の解釈には、一個人が識別可能なものを超えたものがあります。伝統とは、信仰における私たちの先人がどのように聖書を理解してきたかに積極的に十分な重きを置こうとすることです。それは、聖書解釈を含み、キリスト教信仰の共同的性質を強く思い起こさせることになります。

     今回、お知り合いになった農家の方は、500年かけて、約20世代にわたり、土と対話をしておられたのだけれども、それ以上のスパンでの霊的・知的冒険としての伝統としてのキリスト者の共同的性質の対話ということの大切さを考えている。そんなことを考えていると、マクグラスの以前に読んだ以下の本を思い出したので、その内容の一部をご紹介。ちなみにJ・I・パッカーもわが心の師と言いたい人物の一人です。

    ポスト・モダン世界のキリスト教 21世紀における福音の役割お勧めの一冊。
    「Knowing God(日本語版:神について)」もお勧めです。
    コメント
    コメントする








     
    Calendar
    1234567
    891011121314
    15161718192021
    22232425262728
    2930     
    << September 2019 >>
    ブクログ
    G
    Selected Entries
    Categories
    Archives
    Recent Comment
    Links
    Profile
    Search this site.
    Others
    Mobile
    qrcode
    Powered by
    30days Album
    無料ブログ作成サービス JUGEM