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2010.10.26 Tuesday

変容と具体的世界

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     土曜から日曜まで、京都市内で開かれていた学会に参加していたが(座長をやったり発表したりしたので、ちょっこし疲れたが)、そこで、ある高名なアメリカの大学の先生(生まれと高等教育までは大英帝国)がウェブ技術が進んでいく中での情報技術の専門家がCritical Thinkingの視点を持つことの大切さをご講演の中で、少し話しておられた。

     素人が情報発信できる中で、あるいは、素人の方々がどんどんコンピュータ利用し表現ができるようになっていく中で、表現手法とその背後に潜む問題と問題の背景をきちんと理解し、その理解に立ったうえで、適切に関与し、より正確な利用や限界を踏まえたうえでの利用を広めていくことの大切さ、社会全体としてより豊かな社会に関する理解を得ていくことの大切さ、そして、社会への関与をその専門性を生かす形で専門家が実施していくよう、これからの専門家を批判的な思考ができるよう教育していくことの大切さを訴えておられた。

     「なるほどねぇ」と思って聞いていた。専門家の役割が、普通の技術になってしまったものの背景やそこに潜む問題についての基本的な理解と専門知識に立ち、適切な段階で適切な関与を図っていくことというのは、重要な指摘かもしれない。計算機上(ブログを含め)で表現されることは、ある視点(世界観といってもいいのかな)からの理解を表現したものにすぎず、それに、こんな限界があると別の視点(世界観)からの異議や問題意識を唱える専門家や発言者がいることが重要だ、というご指摘であった。そういう発言者の相互作用が新たな世界観を生み出したり、世界観の伝播、ということにつながるのかなぁ、と聞きながら思っていた。

     似たようなことを、もっと単純なレベルで、先々週お世話になった農事法人さんで、体験した。その農事法人さんには、外部の農事法人さんからの助っ人コンバインオペレータさんが来ておられた。この助っ人コンバインオペレータさんはものすごい技術の持ち主で、複雑に屈曲している畔わきなんかの刈り取りを3トン近くある巨大なコンバイン(6条刈り)をひょいひょい動かしながら、刈り取っていく。通常の農家の2条刈りのコンバインでは、1日がかりの仕事を、30分ほどで、隅まで含めてきれいに刈り取って処理してしまうような技能の方であった。この技能が、この助っ人コンバインオペレータさんが来られてから1週間ほどたった段階で、お世話になった(というよりは、本当にお邪魔した)農事法人さんのオペレータさんに移っていったことである。専門家の役割、というのは、案外こういうものかもしれないなぁ、と思った次第である。また、お世話になった農事法人さんでのノウハウ(オペレータとの打ち合わせなど)を、どうもこの助っ人オペレータさんは持って帰られたようである。

     こういうのを見ていると、世界観の伝播、というほど大げさなことではないにせよ、外部の世界と触れ、外部の世界観というのか、ノウハウというのか、考え方や文化、行動パターンがこういう交流によってじわりと変わっていくのだろうと思う。

     確かに、行動を伴う変容は、現実社会と実態とのかかわりが重要であるというHKさんのご指摘は正しいと思います。とはいえ、行動を伴う変容のためには、行動を生み出す思考や反省(考えること)や自分たちの仕方が絶対ではないのではないか、という素朴な疑問や批判的意識が重要なのではないかと思ったりもします。そして、そういう批判意識(ほかがおかしいと単純に主張するだけではなく、他者の主張を聞きながら、自己に対しても批判的視点を向ける批判的思考や素朴な疑問を持ちながら、現実世界と取り組み、あるいは違和感の主張を現実の形に参与型の議論をしながら、じっくりと納得のいく形で落とし込んでいくことが、重要なのかなぁ、と思ったりしています。

     この議論を思いめぐらせながら、考えたことに、わが心の師ともいうべき(全く面識がないので)FFブルースという新約学者の方が書かれていた文章が非常に印象的であったので、ここでも紹介しておきたいと思います。この文章は、メイドインジャパンのキリスト教という本の中で引用されていたものです。

    共同体が従来の環境から新たな未知の環境に移植される際によく見受けられるのは、伝統の固定化、あるいはまさに化石化ともいうべき重大な局面である。伝統を移植当時の型通りに残そうとこだわることによって、共同体はアイデンティティと安心感を保とうとしているのかもしれない。もっとも有名な例は、おそらくアーミッシュだろう。なぜ有名かといえば、その伝統が彼らの生活様式全般を形成しているかどうかである。しかしそこまで包括的でないものも考慮に入れるなら、これはごくありふれた現象である。
    (中略)
    古くから定着しているなじみ深い教会の中に留まるほうが安全で心地よい、と感じるものは多い。明るくなると、いつくしんできた伝統の不具合―暗いままなら隠しておけた不具合―が照らし出されてしまうかもしれないのだ。

    マーク・R・マリンズ著 高崎 恵訳 トランス・ビュー, pp. 10-11.
     
    オリジナルは、上の訳書の情報によれば、Bruce, F.F., Tradition Old and New,(Exetor: Paternoster Press 1970),pp. 17-18.

     化石化とそれを防ぐための他を尊重し、参照しながら考えるという批判的思考が、意外と重要なのかもしれないと、最近思っています。

     昨日放送された雨宮先生の結婚についての話を聞きながら、イエス自体、当時のファイサイ(パリサイ)派の口伝化された離婚の対処法(離縁状を書いて渡せば離婚できる)は、旧約聖書の根本的な神の主張から外れてしまっている、その神の根本的な主張に戻るべきだ、という主張をした、とお話ししておられたが、イエスの考え方、それこそ、批判的思考だなぁ、と思った。考えること、あるいは自己批判を含めて、神のそもそもの考えとは何か、と反省すること、それは、イエスの主張かな。表面上の変容ではなく、考え方の基礎的なところでの変容を図り、それが現実に反映していくことが、変革していく上では大事なのかなぁ、と思ってます。

     HK様、少し、粗雑な議論ですが、お答えになっているとよいのですが。

    コメント
    ■HKです。「コメント大王−2号」になりそうだと予感しつつ述べます。記事を読ませていただきながら、お互い「世にあるキリスト者」であることの幸いを思いました。「学会」や「農事法人」という現場で「ミーちゃんはあちゃんさん」の持っておられる命題が検証されたり、あるいはそこで耳目にされたことから、新しい仮説が帰納されていくさま(どうも私が言うと、ことが大袈裟になっていけません)が想像され、楽しい思いになりました。とりわけ農事法人の最後のくだりにある「助っ人さんも持って帰った」は興味深い観察でした。これぞ職人(プロフェッショナル)ですね。■つまりは一方通行ではない双方向性(対話性)だと思うのです。開かれているか、そうでないかとも言えましょう。いつぞや佐藤優さんの講演を聞いた時のことですが、冒頭で氏が「この講演会の双方向性を担保するため、私の話が終わった後、皆さんの全ての質問に答えます」と宣言し、実際、講演後にメモ書きで出された数十件の質問に、次から次へと間髪入れずに回答していきました(中には、はったりの答があったかも知れませんが)。このとき私は、この人物の「知性の中身」以上に「この場はどんな場であるべきなのか」を問うている、真理に対するその謙虚な態度に驚かされました。■前回、私が「ブログに触発されて変革されるということは、身体性を欠いているが故に、難しいのではないか」との仮説を申し上げた根拠は、前述した「真の対話」が成り立つ前提である(と私が信じる)「相互の信頼」は(未知の人を相手にする)ネット上では築けないのではないか、との考えがありました。「信頼」を醸成するのは、発せられる言葉(テキスト)より先に、それを発せしめる実存(パウロが言うところの内なる人)、この非言語(ノンバーバル)な身体性(人格、またある場合には政治性とも言えましょう)は、フェイスtoフェイスでしか伝えられないのではないのか、との考えです。イエスが3年間、ガリラヤで12人と寝食を共にし、不出来な彼らを宣教に従えた。このときイエスの「人格(神性)」というメディアを通してでなければ、その「思想=みこころ(神の国)」というコンテンツは伝えられなかった。伝えられた思想が真に「受肉」(つくづく、この言葉が好きです、業界用語だと「実装」でしょうか)したのが「ペンテコステ」だったと思えます。■ここまではこれでよかったのですが、ふと不思議に思ったことは、私も今では「ミーちゃんはあちゃん」さんのコメントの相手の一人として数えてもらっているのかなと考えたとき、もし対話が成立しているとすれば、それはある種の「信頼」が生じたのであろう、これは何故なのかなということです。多分、文体や文章の行間に現れている思考の道筋、あるいはものごとに対する「構え」、それらは「言外の言」という非言語(ノンバーバルな身体性)なのかなとも思えますが、それらがある程度、理解できたせいなのかなと考えました。であるとすれば、私も「ブログ悲観論」の矛先を少し引っ込めて「類は友を呼ぶ」に希望を託し、「自己変革、教会変革のための対話」を求めながら、巡礼を続けることにいたします。「木はその実によって知られる」とありますが、真の対話であったかどうかは「お互いが相手によって変容したかどうか」で検証されると思います。「ミーちゃんはあちゃん」ご指摘の通りです。■考えてみれば「直接のメール」で送るほうがよさそうなこんな長いコメントを、ccのように衆人環視のwebに掲載してもらおうとするのも、ベタに言えば「自意識」であり、しかし高邁に言えば「これを誰かが受け止めて、普遍に至る議論の材料にしてくれたら」との良心の発露(本人が言うとおかしいですね)と言えないこともないでしょう。■(追記)先日来のテーマになっている「ブログをするクリスチャンが、なぜ福音派に偏っているのか」という問いへの、とても重要な示唆が「大和郷にある教会」10/25の記事に書かれてあるように思いました。福音派を標榜する教会の一部は、少なくとも1980年頃から、程度の差こそあれ、ある種のメソドロジー(方法論)に傾斜していったと思えます。四則、クルセード、成長理論、弟子訓練、小牧者、Etc。そこでは本質(神学)が問われることなく、目先の成果が追い求められました。自らの足元を深堀りすることなく、美味しそうな「餌」に食いついたり、そうでないところは「自閉」を保ったのかも知れません。「こうすれば上手くいく」あるいは「このままで問題ない」とはまさに、聖書的な「critical」に対立する「パリサイ(化石)思考」だと思えます。こういった過去の歩みに対する問い直し、自分の立ち位置に自信がないという問題意識が、私も含めブログとなって表出しているのではないでしょうか。また、長くなってすみません。
    • HK
    • 2010.10.27 Wednesday 14:59
    Traditionと言う語は様々な文脈で使われますので、社会学の方面から発言すると、「伝統の革新」もさることながら、実は現代の断片化した個人は自己がどのような伝統によって形成されているか、非常に曖昧な認識しか持っていないことを、私の社会学の師(勝手にそうしているだけですが)であるロバート・ベラー教授(加大バークリー校)は問題にしていました。それで彼の授業を取った者に「自己の伝統」みたいな作文をさせていました。
    恐らく他者との対話を通して自己の伝統を改めて見直し、確認すると言うプロセスも批判的思考と共にあるのではないかしら。
    ただイエスの場合、真の意味でのラディカル、根源に遡る思考の実践者であるけれども、福音書でのイエスは「知恵の人」として「譬え」や「謎的発言」で、対話の相手の「常識」を揺るがす、文学的にもより高度な(一本調子の論理的議論の話者ではなく)対話者ではないだろうか。
    対話は色んな局面を持つ面白い「出来事」と、そんな感想を持ちました。
    • 小嶋崇
    • 2010.10.27 Wednesday 21:24
    HKさま

    コメントありがとうございました。非常に面白いコメント、ありがとうございました。またまた、インスパイアされてしまいました。

    観察は仮説を生み出し、仮説を観察を通して、検証し、さらに仮説を生み出す、ということを、実証実験するなかではよく経験します。職人さんは、職人さんだけに分かる世界があるようです。まぁ、外から来られた助っ人さんは見事でした。その農事法人の皆さん方もすごかったんですが。

    佐藤さんは、面白いことを言われる方なので、密かにウォッチしていますが、こういう対話の姿勢、批判的な意見(発言の相手を相互に認め尊重しつつの建設的批判)を踏まえての対話というのは大事だと思います。ただ、時に学会なんかでも、この種のことができなず、頭ごなしにナンセンスという方もおられるので困ったもんだと思いますが。そういう方とは、距離を置くようにしています。そして、最近は対話がある学会に行くようにしております。HK様のご意見をお伺いして、一度、彼の質疑応答を聞いてみたいと思いました。とはいえ、教会では、話し手が一方的にしゃべって終わり、ということも多いですねぇ。

    最近、私自身は、出席者参加プログラムと言いながら、ラウンドテーブル形式の信者であるか否かにかかわらず発言してもらっていい福音説教をしたりするので、快く思っておられない責任者の方もおられるようですけど、ときどきしています。これも私の抱えている実証実験の一つですが。

    その意味で、このブログ、コメント欄をオープンにしているのは、実は、議論への参加、そして、議論の展開がウェブというメディアで可能かどうか、ということの実証実験の側面もありますし、そこでどんなふうに自分が変容していくのか、という実証実験の側面もあります。その意味で、議論の展開の記録を残していけるというメディアとしてブログの面白さ、ということを考えています。このことに気付いたのは、ヤンキー牧師のブログだったのです。あそこで遊んでいるうちに、そういうことが意外と求められているのかなぁ、ということに気付きました。

    「福音派を標榜する教会の一部は、(中略)本質(神学)が問われることなく、目先の成果が追い求められました。自らの足元を深堀りすることなく、美味しそうな「餌」に食いついたり、そうでないところは「自閉」を保ったのかも知れません。「こうすれば上手くいく」あるいは「このままで問題ない」とはまさに、聖書的な「critical」に対立する「パリサイ(化石)思考」だと思えます。」

    というご指摘は、実は私も考えていたところでございます。大変貴重なご指摘ありがとうございます。最近、改めて、隅谷さんの本を読み返しているのですが、この種の歴史的反省がなかったことはいまに影響しているかもしれません。伝道に集中するあまり、そんな余裕がなかった、ということもあるとは思いますが。

    今回も、面白いコメントありがとうございました。これに懲りずに、ときどき、ミーちゃんはーちゃんをつついて(刺激)みてくださるよう、お願いいたします。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2010.10.27 Wednesday 22:32
    小嶋崇先生

    大変貴重なコメント、ありがとうございました。

    『社会学の方面から発言すると、「伝統の革新」もさることながら、実は現代の断片化した個人は自己がどのような伝統によって形成されているか、非常に曖昧な認識しか持っていないことを、私の社会学の師(勝手にそうしているだけですが)であるロバート・ベラー教授(加大バークリー校)は問題にしていました。』

    ベラーという方は知りませんでしたが、ご指摘には体感的に納得できます。特に、アメリカで普通の人々と暮らしてみた経験からいえば、2世代前(おじいさんおばあさん)くらいの記憶までが彼らにとっての伝統なのかなぁ、と思ったことを思い出しました。特に、西海岸で出会った何人かのアイリッシュ系アメリカ人はそんな感じがします。完全にアメリカ化しているにもかかわらず、自分たちはアイリッシュだという意識だけが強く、セント・パトリック・デーをやたらに重視してみたり、丁度この時期のものではありますが、変質化しているとはいえ、妙にハローウィン(これは異教的なにおいがしますが)にこだわってみたり、そういう意味で言うと、出会った複数のアイリッシュ・アメリカ人にとっての伝統意識は自分とは違うなぁ、と思ったことがあります。それと、自分はアメリカ人であるからキリスト者だ、と主張する人々に出会ったことも。まさしく、伝統が断片化され、その最も重要な部分が忘れられ、その細切れとなった部分だけが残っている感じだと思います。

    その意味で、伝統の変容については、最近仕事上読んでいるロバート・パットナム(この人も社会学者だったと思いますが)の、社会的帰属組織と個人の遊離や社会の支援体制(教会への参加などを含む)の弱体化なんかの議論とも関係しているように思います。そういえば、日本に輸入されている社会学のテキストには、社会と宗教の役割がごっそり抜けているものがあるという話を聞いたことがあります。なお、パットナムの本は、全部曲りなりに翻訳してありました。

    『恐らく他者との対話を通して自己の伝統を改めて見直し、確認すると言うプロセスも批判的思考と共にあるのではないかしら。』ということは、まさしく私がぐだぐた書いたことの極めて明快な要約でございます。ありがとうございました。

    ご指摘の通り、イエスの対話は、おそらく、オリエント的というよりかは、パレスティナ的伝統に立った対話かなぁ、と思います。神とヨブとの対話を思い起こさせますよねぇ。問題の近景にとらわれすぎている人に、突然問題の全体的構図から俯瞰的に見てみて、あなたの言っているのは、ここだよねぇ、だとしたら、この問題の本質は、これかなぁ、とそれこそ、譬えや旧約聖書からの引用を以て答えているようにも思います。

    対話をどのように進めるのか、そこに現れる人格的な交流、その対話の場によって作り上げられていく人格と人物像ということを考えると、非常に面白いと思います。神との対話が祈りであるとすると、祈りを通して変容し、神と共に創っていく人格という創造を少し考え始めました。

    本当に、面白いコメント、ありがとうございました。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2010.10.27 Wednesday 22:55
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