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2009.05.17 Sunday

詩篇19篇1-3節

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    最近、この記事をご覧の皆様、

    この続きをお探しのようですが、

    この記事の続きはここです。


    申し訳ありません。

    10節以降の続きは、ご自分でお考えください。

    申し訳ありませんが。

    この続きの説教原稿は手元にありますが、

    公開するつもりはございませんので、

    あしからずご了承賜りたく




     神の対話・神と人との対話


    詩篇19篇冒頭3節を味わう


     本日のサブテーマは、科学と詩篇ということで考えたいです。

    詩篇19篇1-3節を取り上げ、考えます。まず、被造物は神の栄

    光を示すために作られました。最初に作ら得たのは光です。次

    に作られたのが、空と水です。創世記の光ができる前は、そも

    そもは霊の世界だった可能性があります。議論はいろいろある

    でしょうが。

     

     

     天とはシャァメェ―ッという語ですが、創世記1:1に現れる

    語でもあり、目に見える空を表すようです。これが、語り告げ

    (サァファー)ということはどういうことかというと、ヘブル語の

    この言葉は、数える という言葉から派生した語であり、天の

    偉大さを数え上げるように示しているということを示します。

    つまり、私たちは、自分たちが目に見える空(天)被造物を

    通して、神の栄光を見ることができるということです。被造物

    の存在そのものが神の栄光を表すものです。創世記1章で

    10節(第3日)以降、地について語られている内容として、

    被造物に対して神が言われたこと「良かった」(トーブ)と言

    われました。この言葉は、モーセが生まれたときに、モーセ

    に対してつかわれている言葉でもあります。神の祝福を示す

    言葉です。

     では、新約聖書を参照してみましょう。ローマ1章20節・ 

    8章19-22節では、被造物と神の栄光の関係が示されて

    います。トーブ(善)であるからこそ、神の栄光が示される

    のではないでしょうか。


     大空(ラキッィ―ァ)という語は、もともと、空間的な広さを

    示す語で、創世記1章6節の大空で地の水と水を分けてい

    る空間のことです。今でいえば、大気圏及び成層圏あたり

    でしょうか。この空間も、神の創造を人間に知らせるものだ

    と言っているのです。この空間は、天よりは人間世界に近

    い存在のようです。


     告げ知らせる(ナァガァッド)という言葉は、ヘブル語で、

    明らかにする、または、示す、あるいは、表示するという

    言葉を示します。私たちにこの空間があることで、神の

    存在を告げ知らせている、というのがこの場所の主張で

    す。この大気圏も神の創造の結果であり、私たちが生か

    されていることは、神の栄光の結果だということを理解

    できようかと思います。さて、ここまでは、物質の世界・

    対象・空間の世界を取り扱いますが、次節からは、一

    転大きく変わります。


     『昼は昼へはなしを伝え

     夜は夜へ知識を示す』

     この2節の夜と昼は時間を示すものであり、空間とは

    関係しますが、空間そのものではありません。ところで、

    昼とは何でしょうか。

     光の存在時間帯であり、光は、神の明示的な存在を

    示すのではないでしょうか。ここで、イエスの光との関

    連を考えてみると、ヨハネ1章4節 このいのちは人の

    光であったといわれていますし、マタイ17章2節 変貌

    山でのイエスは光り輝いたことが知られています。あな

    た方は世の光とも言われています。光から光の子らへ、

    ロゴス(ことば、はなし)として地上に現れたイエスが示

    されたことを見ることができるかもしれません。

     ところで、光とはどんな役割を果たすでしょうか。人間

    の認識を補助するものでもあります。夜、ちいさな電球

    を頼りにパイロットは航行します。私たちは闇の中で、

    文字を読むことはできません。行動も不自由になります。

    光は私たちの生活の基礎ともなります。

     聖霊と光との一種の対応関係も考えてみましょう。聖

    霊は私たちにとって、光としてもとらえることができます。

    私たちを照らし、包み込み、私たちの心の内に入り、私

    たちを導くものです。私たちの心のうちには、闇は必ず

    人間である限り存在します。であるからこそ、聖霊によ

    って、心の中の部分を明かりを入れることが重要なの

    です。また、そもそも、創造が実現する以前が闇であっ

    たことは注目すべきかもしれません。そこに光がさす

    ことに意味があるのではないでしょうか。創世記は、

    意外と重要なことを示しているように思います。夕が

    あり、朝があった。何気ない一言ですが、重要な意味

    を示していると思います。

     さて、時間は、物質ではないが、物質世界と関連し

    ているというお話をしましたが、さらに、ここからは、物

    質とも違う世界に入っていきます。情報の世界という

    のか、精神の世界です。

     話を伝え(ナゥバァ オゥメェル)という部分ですが、

    はなし(オゥメェル)とは、ことば・会話という意味の語

    です。このことは、ヨハネ1章に出てくる話 (ロゴス) 

    概念とイエスとの関連とも深い関係があると思います。


     伝え(ナゥバァ)というごですが、これは、流す、泡が

    あふれ出るようにこぼれるという語です。話が泡がぶ

    くぶくあふれ出るように伝わる様に話が伝わるわけで

    す。自発的に。こうやって味わってみると、キリストの栄

    光やキリストそのものが信者からあふれ出すようにな

    ることを読み取ることができるかもしれません。実に味

    わい深い聖句だと思います。

     次に、知識を示すという言葉を考えたいと思います。

    知識(ダァアハット)という語は、知る(ヤダッ) から派

    生した語ですが、これは、理性・人格によって理解され、

    間主観(間人格)的行為の結果発生するものです。つ

    まり、間主観(複数の理性を持つ主体の間で認識され

    るもの)であることは大変、重要です。私たちはあまり

    意識しないかもしれませんが、神も理性(人格)を持つ

    存在(人間にはすべてそれを自らの理性でそれに達す

    ることができない)でもあります。

     示す(ハゥバァハ)は、息をする・明らかにするという

    語ですが、間主観的な人格的行為の中に息が介在す

    る、ということは重要かもしれません。つまり、概念は、

    息をすることによって示され、人間は神の生きが介在

    することによって、人間となっているように思います。

    次に、

     『話もなく、言葉もない

      その声も聞かれない』


    の部分について、考えてまいりたいと思います。

     はなし(エィメール)とは、もともと発言、はなし、単語

    という意味でありまして、ことば(ダァバァ)とは、はなし、

    言葉、話していることをしめします。どちらかといえば、

    前者の方が、言葉の多くの集まりを理性により組み立

    てたもので、後者がそれを組み立てる部品のようなも

    ののように思います。なお、このダァバァという語は、

    創造時、光よあれ、と言われた。の言われた、を示す

    アァマァという語を語源に持つ言葉のようです。その

    意味では、宣言もない、という感じかもしれません。

     さらに、声(クォール)という語が、出てまいりますが、

    これは、音、声、楽器の音色に用いられる語です。

    また、聞く(シャマァ―ッア)という語は、聞く、という

    意味だけではなく理解するという意味を含みます。

    このように味わってみますと、声や音もなく対話が

    されていることを示しており、霊の世界の奥深さを垣

    間見せているように思います。

     
     『話もなく、言葉もない
     
      その声も聞かれない』


    という表現からは、対話があるとしても、被造物の

    静寂の中で語りあっておられる神の姿を感じ取る

    ことができると同時に、静まりの中において神と対

    話する意味を見出すことができるのではないでしょ

    うか。また、被造物の存在そのものが神を提示(証)

    することとなっており、特に音や言葉で語るわけで

    なくとも神の存在を明かししていると思います。パ

    ウロがローマ8章を書いた時には、この部分を念

    頭にしたのではないかと想像すると楽しいですね。

     また、神との対話については、ことばでは語りえ

    ない神の奥深さということを感じます。人間自体が

    聞くことのない三位一体の神の間の対話と神と人

    間との対話の在り方を感じます。人によっては、人

    と神との対話を感じる場合もあると思います。否定

    はしきれないと思います。

     詩篇19篇冒頭3節のポイントをおさらいしてみま

    しょう。

     被造物に示される神の栄光です。被造物のサイ

    ズの大きさ、デザインのすばらしさ、その関係の状

    況、非常に興味深いのではないでしょうか。

     そして、語り合う神、神と人との交流が示されて

    いるのではないでしょうか。光と闇は本来交じり合

    いませんが、その闇であるはずの我々と時間を超

    えている神の交流があることは、理解しがたいこと

    ですが、現実に日常生活で体験しているはずです。

    祈るとき、聖書を読むとき。神と人との交流がある

    ことの重要性や意義を感じます。

     そして、無音の世界での交流ということは重要か

    もしれません。3節は、そのことを私たちに語りかけ

    るのではないでしょうか。音がない中でこそ感じるこ

    とができる神の交流、神との交流があるのではない

    でしょうか。

     時には、無音の世界にいることの重要性を感じる

    ことができるように思います。私たちは、日常テレビ

    の音、バイクの爆音、隣の電話の音、いろんな音に

    囲まれています。神の自然の美しさを味わう時でさ

    え、無音の世界が耐え難く、ウォークマンを持ち歩く

    人すらいるわけです。私は、IPOD無用論とか、

    Walkman無用論者ではありませんけども、私たち

    はあまりに多くの雑音で神の無音の会話を聞きそび

    れているのかもしれません。

     それから、この詩篇19篇の最初の3節の構造は非

    常に面白いです。まず、物質の世界があり、次に時間

    と概念の世界があり、次に概念の世界というのか、概

    念の世界を超えたところにある超越的な存在、霊の世

    界とでも言った方がよいかもしれませんが、そういった

    ものがあるように思います。

     さて、この詩篇19篇は、科学と聖書との関係を考え

    るための手がかりにもなります。というのは、神のこの

    言葉なき言葉で語られた言葉を聞こうとしているのが、

    自然神学とも呼ばれた科学です。

     科学とは何か?ということを考えてみますと、もともと

    は、自然神学と呼ばれておりました。科学とは、詩篇

    19篇に書かれている無言、無音の神のわざを自然を

    研究することで、神のわざの理解を深めようとした神

    学体系でした。つまり、語られてはいるものの聞くこと

    のできない言葉を聞く努力だったわけです。物理や数

    学などはまさしくそういう性質を持ちます。

     では、神学とは何でしょうか?もともとは、神につい

    ての理解の体系・神の学問であり、神学は、神を理解

    するために考えられた思考の成果の集合体なわけで

    す。何も小難しい議論を世界ではなく、聖書とことば

    (論理)を通して神を理解しようとした知的成果物の集

    合体だから、もともとは信者の成長に有効なものを目

    指したわけですし、もともと有効なものであったとは思

    います。

     その意味で言うと、広い意味で神学とは、聖書の理

    解であるといえますし、私たちが日常しております聖

    書を読むことは、神学研究に他ならないわけです。そ

    の意味で言うと、私たちが聖書を読んで考える、ある

    いは感じる作業をし、それを言葉に表現しようとして

    いるのであれば、私たちは神学をしているのであり、

    私たちは初歩かもしれませんが、神学者であるとい

    ってよいと思います。ただ、現在一般に言われてい

    る神学とは、狭い意味での神学でありまして、過去

    の神学体系に基づいた聖書理解の成果の集合体

    であり、過去の研究や書かれたものに関する理解

    の比較をしながらの聖書理解をどのように考える

    のかの知識とそれを活用するための体系となって

    おり、聖書以外のものも読まないといけない、ある

    いはそちらが主であるところに問題があるわけです。

    仕事としての神学というのも、大事なものだとは思

    いますが、聖書を読まない狭い意味での神学を扱

    う神学者という存在も起こりえます。一部だとは思

    いますが、すべてがそうではありません。

     アリスター・マクグラスという歴史神学者がおりま

    すが、マクグラスの書物の中に、自然神学(科学)

    は、神学の従者(侍女)であった、という表現が出

    てきます。マクグラスによれば、神学に仕える存在、

    神学の理解を助ける存在としての科学は始まった

    ものの、現在では、神学を批判する存在になりまし

    た。あるいは、信仰や広い意味での神学を批判的

    にとらえる手段としての科学となってしまったので

    す。これには背景があります。16世紀の段階で人

    間中心主義(ヒューマニズム)の影響があります。

    また神学自体の問題もあります。

     神学は大きくひずんでしまった二つの神学の例

    を取り上げます。一つは、スコラ神学と呼ばれる中

    世の修道院、大学で研究された非常に神秘主義

    的な神学で、今の私たちにも影響を与えています。

    もう一つは自由主義神学と呼ばれるものです。ス

    コラ神学の特殊性ですが、ほとんど禅問答、いじ

    わるクイズ、なぞなぞみたいな議論をした議論です。

     もう一つは、18世紀以降の人間中心の理神論的

    神学・自由主義神学の展開です。神を神として正面

    切って捉えない神学の展開があり、人間の理性だけ

    で神に到達できないか、ということを考えた人間が中

    心にある神学体系です。これは、科学技術が万能と

    思われ、科学がわが世の春を謳歌した時代に、聖書

    を読むという神学は、古臭く見えました。今でも、日本

    では、神を認めない神学が数の上では多いのですが、

    これは、18世紀から20世紀の科学の時代特有の現

    象だと思います。昔はそうではなかったのです。これ

    をややこしくしたのが、バルト神学を中心とした新自

    由主義神学のうごきです。人間の中心性を確保しつ

    つ、神と人間の関係を併せて考えようとする非常に

    難解な神学体系です。理屈っぽいドイツ人が多いと

    いうのも分かりにくく理由の一つだと思います。

     聖書と科学の対話について考えてみたいと思いま

    す。神学と科学は、本来併存的なもので、時々一般

    の人がとらえておら得るような、科学か聖書かという

    二項対立は科学にとっても、神学にとってもともに不

    幸な状況だと思います。信仰と科学の併存は可能だ

    と私は考えています。本来、科学と神学は二項対立

    的なものではなく、本来対話が可能なものだと思いま

    す。それがそうならないのは、お互いの中にある自分

    の現在の見方だけが正しいという信仰というのか思い

    込みの問題だろうと思います。そこは、少しゆったりと

    構えた方がよいのかもしれません。

     本来、神の科学としての神学があり、神が創造され

    た対象に関する神学としての科学があるわけです。

    そのことを忘れないようにしないといけないかなぁ、

    と思います。

     詩篇19篇は、いろいろな読み方ができる豊かな詩

    篇です。この味わいを次回以降、じっくりと、味わって

    まいりたいと思います。

     最後に、聖書と科学を考える上での基本的な参考

    文献をあげておきます。

    アリスター・E・マクグラスの著作では、

     『神の科学』、

     『キリスト教思想史入門』、

     『キリスト教神学入門』、

     『神学のよろこび』

    が参考になりますし、

     『The Science of God』という3冊セット

    の本は、非常に興味深いです。日本語訳は

    ないですが。

     教会の歴史に関しては、E・E・ケアンズの

    キリスト教全史が参考になりますが、中世の

    教会の歴史の部分があまり詳しくないので、

    ちょっと残念です。

     神との交わりや、霊の交わりに関しては、

    上沼昌雄さんの

    『闇を住処とする私、やみを隠れ家とする神』

    がいいでしょうし、

    ヘンリー・ナウエンの

    『静まりから生まれるもの』

    は、神の前に静まることの意味と価値を教え

    てくれます。

    もしよろしければ、どうぞお読みいただければ、と思います。

    コメント
    とても興味深い記事なのですが、どうにも字が小さいですね。まぁこちらで大きく表示すればいいのですけれど。
     新型流感への対応などお忙しいでしょうが、いずれまた、宅ファイルをお送りいただけたらさいわいです。
    • Foce
    • 2009.05.22 Friday 02:42
    確かに、あれだけ細かい字で、あれだけの文章だと、読むのに疲れますよねぇ。

    直してみました。
    • かわむかい
    • 2009.05.22 Friday 12:02
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