<< しあわせの隠れ場所、を見ながら | main | 宣教対象>愛する対象 という構図 >>
2010.09.22 Wednesday

高校生の乳児死体放棄事件について思うこと

0

      水谷先生のブログ、「命と性の日記」の記事で、9月21日付の

    高3女子の乳児遺体遺棄事件を受けての切なるお願い」の記事

    を見ながら、考え込んでしまった。正義について、という視点から。

    マイク・サンデルの講義がまだ頭の中でぐるぐる回っている感じ

    がする。

     私自身、中3の時、「金八先生」で女子中学生の妊娠騒動がテー

    マとして取り上げられてきたのを同時代で見てきていて、世の中

    にはこんなこともあるのか、と田舎の中学生としては、驚きをも

    ってみていたら、その1年後、中学時代の元同級生が妊娠し、地

    元の公立高校からいなくなった、という話を聞いていた。家も遠

    く、高校も違い、かかわりもなかったので、あまり意識していな

    いまま、時間が過ぎた。そして、高校卒業後、大学時代を関東と

    いう関西からはなれた場所で過ごしたこともあり、元同級生の

    存在自体を忘れていたが、地元に戻り、住民票を移しに行ったら、

    窓口にその元同級生が座っていた。最初、びっくりし、ちょっと

    気まずい思いがしたが、とりあえず、役所に出さなければならん

    書類をそそくさと出し、その後のゆっくりと話を聞けないまま、

    次の用事をこなしに銀行に行ったことだけが記憶に残っている。

    まぁ、元気に生きておられるその元同級生を見て、ちょっと、

    ほっとした気持ちになったことだけは覚えている。

     今回の事件で、出産した子供を遺棄した行為は、大きな問題で

    ある。詳しいことはわからないので何ともいい難いが、死産でな

    ければ、殺人といってよい。しかし、その責任を、出産した女子

    生徒だけに負わせるのは、非常に問題である。また、その親や、

    学校に向けることも。ただ、出産という「生を授かる」という人

    生の最大時の一つについて、きちんと教育してこなかったことに

    関して教育者としての道義的責任は、学校は問われるであろうし、

    保護責任者として、親については、道義的責任は問われるだろう

    とは思う。ただ、大きな責任ではなく、道義的責任である。

    道義的責任は、同じくらいの年頃の子どもを持つ全ての親が突き

    付けられた問題といえる。とはいえ、この道義的責任と言うのが

    社会の空気や雰囲気と関係しているので、案外曲者なのであるが。

     同じ年ごろの娘を持つ親として、婚姻外出産について、きちん

    と教育しているか、と問われるとこれまた、心もとない。道義的

    責任といわれたら、厳しいものがあると答えざるを得ない自分が

    いる。親として子供を愛しているか、というと、かなり、とは

    答えられるものの、子供がどうおもっているのか、その気持ちま

    では完全に察しがたい。ほぼ、独立した人格を持ちはじめる高校

    生という時期でもあるので。

     今回の問題を、社会的公正やそれを実現する法律の問題として

    考えると、どう見えるかを少し考えてみた。

     高校に行く場合、親も子供も、高校に行く場合、誓約書を書くし、

    書いたような気がする。学業に励んで高校生としてふさわしい行動

    をする、という誓約書である。意味がないと言えば意味がなく、あ

    まりに包括的すぎて、誓約書として、民法上の契約事項の合意書と

    して、ほとんど無効ではないか、と思えるほどであるとしても、契

    約書の一種といえなくはない。ただし、あまりに包括的で、どうに

    でも解釈できるから、はたして法的拘束力があるか、といわれると

    かなり怪しいのではないか、と思っている。(倫理的責任はこの

    誓約書を根拠に追及されうるとは思うが。)

     ところで、通常、婚姻外における妊娠とか、出産とか言う行為は、

    学校用語では不純異性交遊という、ちょっとまがまがしい用語が用

    いられるが、高校生における結婚は学校で認められるかというと、

    これまたかなり厳しいものがあると思う。でも、本来は認められ

    うるのではないか、と法律を外部から見る者としては思う。昔、

    「奥さまは18歳」というテレビドラマがあった。再放送で見た記憶

    があるけれども、普通の学校で学生として存在する上では、既婚者

    というのは、かなり認められにくいと思う。とはいえ、民法上は、

    男性が18歳以上、女性が16歳以上であれば、合法であり、役所は、

    条件を満たす婚姻届を出されたら、受理しなければならない。婚姻

    は、日本国憲法で認められた国民の行為でもあるから。

     それを校則という、法制上非常に曖昧模糊とした特殊ルールで縛

    れるか、ということで裁判した場合、かなりややこしい。とくに憲

    法裁判にまで持ち込んだ場合、基本的人権との制約として考えると、

    かなり論争が長期化するように思う。憲法裁判であらそうとなると、

    かなりの問題になりそうだと思う。(日本の裁判所は門前払いしそ

    うだが(裁判の意味があまりないので))

     アメリカの場合、行為は人権や憲法上の自由と直結する要素があ

    るので、連邦裁判所に持ち込むことはできると思うが、費用がねぇ。

    ただ、アメリカだと、有名になりたい弁護士が、無料(プロボノ)

    でやりそうだけれども。

     日本の場合、結婚は法論理上、学校が口出しできないとしても、

    学校が生徒として結婚した女子高校生を受け入れられうるか、とい

    うことには、現実的な面で、意外と難しい問題があるのではないか、

    と思う。一般に社会を支配している民法や憲法の概念としてではな

    く、学校独特の論理が働きそうである。ほとんど考えにくいことで

    あるが、子育て中の30歳の既婚の女性が入試を受けたら、どうなる

    のだろうか。これは、学校として、成績が十分あれば、受け入れる

    であろうし、受け入れを拒否する理由を見出すのは困難であろう。

    となると、年齢と婚姻状態による区別は、法律的な根拠を見出すの

    は、意外と難しいのかもしれない。

     とはいえ、非常に性的に活動的でまた敏感な時期の思春期の生徒

    を大量に受け入れ、ケアしなければならない学校の責任者として、

    運営者として、婚姻状態にある10代の女子高校生の存在が認められ

    うるか、ということを考えると、現実的に難しいのでは、と思う。

    とはいえ、定時制、ないし通信制では、受け入れがなされている

    とは思うが、年齢層が15−18歳からなる高校では、難しいのでは、

    と思う。法律だけからは、婚姻状態にある女子高校生は認めら

    れてもよいように思うのは、法律の門外漢だからだろうと思う。

    基本的人権の問題として、女子高校生の婚姻の排除や、校則を根

    拠にした婚姻状態にある学生の排除を考えた場合、校則を盾にす

    ることは、かなり厳しいと思う。だからといって、高校生での

    婚姻を推進しようというわけではないが。

     より正確には、婚姻ゆえに生徒となることを排除すること、あ

    るいは生徒である権利を排除することは、公正(Justice)か、と

    いう問であり、もし、婚姻による生徒であることの権利の排除が

    実現されるとすれば、その排除が公正であるとする論理とは何か、

    という問題である。

     たとえば、女性が16歳以上であれば、両性の合意に基づく婚姻

    は可能である。また、普通の高校では、入学者選考に当たって、

    婚姻の状態を選考基準にしていることを明記していない場合、あ

    るいは、入学時の校則規定に生徒である間の婚姻を認めないとす

    る文言や条文がないとすれば、女子高校生が婚姻することを妨げ

    るものはない、ということになるのでは、と思う。個人の考え

    としては、婚姻状態にあるティーネイジャーの高校生の存在は

    受け入れがたいが。そもそも、高校の入学者の年齢制限を設け

    ていない以上、婚姻状態による差別は困難なはずである。先にも

    少し例示したが、既婚で40歳の女子高校生や60歳の女子高校生は、

    今の常識ではありえなくても、存在が認められてよいはずである。

    であるとすれば、女子高校生の婚姻は法が示しているところでは、

    非とできないのではないだろうか。正当な婚姻を、女子高校生が

    行ったことを根拠に退学処分存在させうるか、ということに関し

    て、徹底的に裁判で係争された場合、学校側にこの条文がない限

    り、任意の運用での退学処分は、違法性が強いと言わざるを得な

    い。

     学校側には、自主退学という一応の落とし所があると思われる

    ものの、これに対して生徒側が身分保全措置などにより徹底抗戦

    することも可能ではあろう。しかし、徹底抗戦したところで、評

    価の裁量権が教師側にあることや、学校内でのうわさなどでいろ

    いろ、いやな思いをすることになるからと、自主退学になること

    も多いのでは、と思う。とはいえ、現在であれば、成績開示要求

    (個人情報保護法を根拠に)ができるので、卒業後であれば、不

    当措置が行われた場合、その回復を巡って裁判を起こすこともで

    きる。そこまでするメリットはほとんどないが、学校側にはダメ

    ージとなるとはおもうけれども。

     こんな論理をつらつら公正という問題として電車の中で考え直し

    てみながら、考えてみると、今回の世田谷事件の場合、誰も望まな

    い最悪の結果になっているのが、悩ましい。世田谷の事件は、18歳

    の女子高校生が出産した、という事件の出発点を考えれば、社会一

    般の現在の価値観や支配的な社会通念から外れているというものの、

    明らかな犯罪行為や脱法行為であるとは言えない。法律だけから

    で議論してよいのか、といえば、そうとも言えない。法律だけから

    言えば、妊娠中絶が合法的だからでもある。

     婚姻外の妊娠は倫理的に問題ではあるが、犯罪を構成するとは言

    えない。しかし、もともと犯罪と言えないところから始まり、今回

    の事件では、死体遺棄に至り、刑事事件となってしまった。死産だ

    ったとすれば、殺人は問われないものの、死産でなければ、殺人事

    件となりかねない。

     社会通念に反する行動と見られてしまう、という恐怖感や学校から

    疎外されるという恐怖が人を犯罪に駆り立てたとすれば、こちらの方

    がよほど恐ろしい。そこが、今回の事件が割り切れないところである。

    今回の刑事事件となったことを理由にして、退学となれば、今回逮捕

    された女子高校生の行為は何だったのか、ということになる。
     
     さらに、刑法犯となることは、社会から疎外される原因となる。本来、

    救済可能であるはずの倫理的基準からの逸脱(女子高校生としての出産)

    からはじまり、刑事事件となり、社会的秩序からの大きな逸脱(死体遺棄)

    となったということを考えると、この事件は本当につらいし、やりきれな

    い思いがする。

     同様の事件が私が住んでいるところから遠くない神戸市北区でも

    この夏起きたが(この場合、殺人と死体遺棄)だが、相手の男性が

    「俺の問題じゃない」といったことが、殺人のきっかけになってい

    る可能性が報道を見る限り、あるようである。この事件も、相手の

    男性の対応にやりきれない思いが付きまとっている。

     婚姻という法的行為が、必ず責任を生み出すとは言えないが、す

    くなくとも社会における契約行為としての責任が問われる仕組みに

    婚姻がなっていることを考えると、法的責任を伴わない婚姻外の性

    交渉は、法的な側面で非常に問題が多い。もちろん、倫理的な面で

    の問題はもっと多い。さらに言うと聖書における根拠を満たしてい

    ないという点では、私個人としては、絶対に認めにくい。

     ところで、もともとの事件に戻って考えれば、高校生にとって、

    学校とは社会そのもののように見えてしまうようであり(本当は違

    うのだけれども、無知ゆえそう思い込む。かく言うミーちゃんはー

    ちゃんも今も馬鹿であるが、今より少し馬鹿だったので、高校生の

    時は真剣に社会=学校と思っていた)、そこでの基準が根拠なく社

    会の基準と思い込み、さらに、社会における行動に伴う責任が十分

    認知されていないことの問題が見え隠れするように思う。世田谷の

    事件の場合、家庭裁判所に送致され、保護施設での更生、という展

    開がこれまでの少年法の運用に則った処分としては妥当な線だと思

    うが、そうであっても、我が子を殺す、または遺棄しなければなら

    ない状況に追い込まれた女子高校生の心情を思うと、やりきれない。

    孤独で、一人悩み、どうしてよいかわからず、混乱し、相談相手も

    いなかった、思いつかなかったために、自分の手のうちにある小さな

    いのちが障害としか見えなかったとすれば、その孤独の深さと恐怖は

    あまりにむごい。だからといって、孤独であり、それが深いから

    とはいえ、この女子高校生の行為は正当化できるものではないが。

     しかし、生まれてきた命を殺すことは、倫理的な問題だけではな

    く、生まれてきた(あるいは生まれてくる)子供の権利を不当に奪

    うという意味で、倫理的にも、社会正義の面からも、問題だと思う。
     
     今回の一番やりきれないと思ってしまう原因は、組織のルールや

    通常の社会通念や学校という社会の規範のみから問題視されうる高校

    生の妊娠という問題が死体遺棄という重大な事件につながったところ

    である。学校という枠組みを外れてもう一度問題をとらえなおす余裕

    のなさと、容疑者となってしまった女子高校生を支える支援組織があ

    ったにもかかわらずそれが利用されなかった点である。知識の不足で

    かたずけるには、結末があまりに悲しすぎる。

     とはいえ、当事者であるからこそ、余裕がなかったのだろうし、

    当事者であるからこそ、支援組織へのアプローチする余裕すらな

    かったのかもしれない。

     どういったところで、あまりにやるせない事件だと思う。考え

    れば考えるほど、公正を社会においてどう実現するのかの問題と、

    間違った思い込みが、本来実現すべき公正からどんどんずれてい

    ってしまい、人間を本来の目的から違うところへ追い込んでしま

    う可能性があるという問題を考えさせた事件であるように思う。

    コメント
    コメントする








     
    Calendar
         12
    3456789
    10111213141516
    17181920212223
    24252627282930
    31      
    << December 2017 >>
    ブクログ
    G
    Selected Entries
    Categories
    Archives
    Recent Comment
    Links
    Profile
    Search this site.
    Others
    Mobile
    qrcode
    Powered by
    30days Album
    無料ブログ作成サービス JUGEM