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2018.12.29 Saturday

キリスト教教育とキリスト教の宣教に関する本をたらたらと読んでみた(5)

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    言語運用能力とキリスト教の定着

    本日はお約束どおり、西谷さん書籍の中から、「宗教的言語の深層文法ーチョムスキーの変形生成文法理論から」と題された部分の記述の内容をもとに考えたことを少し書いてみたいと思います。なお、ミーちゃんハーちゃんは、技術系の人間なので、チョムスキーについては、安めの辞書の記述程度のこと以上、ほとんど何も知りませんが、キリスト教理解やキリスト教の受容を考える上で、以下の記述は大事だと思ったので、ちょっこし、たらたらと考えたことを書いてみたいと思います。

     

    チョムスキーによれば、人間にはかの言語の深層構造があたかも「人体の身体器官と同じようなもの」(II250)、つまり「心的器官」(II254)として組み込まれている。従って、彼は自分が出会う言語の文法を彼にすでに備えられている普遍文法に突き合わせて矛盾しない限り理解するのである。(中略)こうして、人間は自らにアプリオリに備わった「普遍文法」に立脚するなら、その変形にもかかわらず理解可能な言語を無限大に想像することも可能になる。なお、個々の具体的なコミュニケーションの中で、話し手がその文法に適った仕方で独自な言葉を作り出していくことが「言語運用」(linguistic performance)である。(西谷幸介著『 教育的伝道 日本のキリスト教学校の使命』 p.84)

     

    すごく平たく言ってしまえば、チョムスキーが言っていること、とここで主張されていることは、人間には様々な言語を超えて、感じる部分である「心的器官」があるのであって、多少言語が違っても、人間が共通に持つ何らかの普遍文法と「心的器官」があるが故に、共通の経験があるといえるのであって、その共通の経験があるが故に、表現が異なっていても、異なる人々の間での、ある種の「相互理解」とその可能性が生まれ売るということなのでしょう。

     

    そして、「個々の具体的なコミュニケーションの中で、話し手がその文法に適った仕方で独自な言葉を作り出していくことが「言語運用」(linguistic performance)である」ということは、案外大事なことかもしれないなぁ、と思うのです。

     

    実はあまり安定的でない日常言語

    そう思って考えてみると、実は、言語というのはそれほど安定的なものではなく、かなり変動が激しいもののように思います。業界によって、人々が生活している空間によって、社会によって、言語表現(言語運用)は異なっていきますし、さらにその時代を支えている技術要件によって定まる時代によって、言語表現は異なっていくことになるわけです。

     

    だからこそ、同じ日本語とはいえ、万葉集どころか、もうちょっと最近の平安後期の日本語の文書であっても、古典文学を読むためには古語辞典がいるし、昔の古典は、もはや通用しない、という現実的な問題がありますし、そもそも、大日本帝国憲法では、カタカナ送りがなを使っていましたから、昭和の頃でも、役所の公文書とかは、カタカナ送りがなが標準だったようです。

     

    大日本帝国憲法 https://www.jacar.go.jp/modernjapan/p03.html

     

    対象3年阿蘇さんが噴火したときの指令書 https://www.jacar.go.jp/newsletter/newsletter_017j/newsletter_017j.html

     

    あるいは、今どきの若者言葉としてあげられた以下の日本昔話の吹き替えにしても、今では、以下の動画のような表現をする若者はほとんどいないのではないか、と思うのです。それほど、話し言葉の変化や、表現方法の変化は激しい、と言わざるを得ません。そういえば、最近、いよいよ日本ではポケベルサーヴィスがなくなりましたが、ポケベルサーヴィスがあればこそ、それに適した言語運用能力が生まれ、社会のなかで共有されてきたわけです。最近では、絵文字文化になってきましたが。絵文字は、Emojiとして、外国にも広まり、日本での場合と同じように、絵文字コミュニケーションにおけるジェネレーションギャップが広く発生していることがあるようです。

     

    昔の若者言葉による日本昔話

     

    ポケベルでのコミュニケーション方法

     

    米国での絵文字のジェネレーションギャップ

     

    変わる言語運用と、神学用語のゆらぎ

    結局、日常的に用いる言語とそれを取り巻く環境が動いている以上、聖書の翻訳や、その翻訳聖書から導き出される理解とその表現方法も変化せざるを得ず、それをどうするのか問題というのが、必ず生まれ続けるように思うのです。先日三重県のある牧師さんのFacebookの賛美歌や式文などを議論するサイトで、この2年間の間に、割と普及している日本語聖書の改定された翻訳聖書が2種類出版された関係で、主の祈りの「私達の罪をお許しください」と表現されている部分が 「罪」か「負い目」か、負債のうち、どうやくすべきなのか、という議論が起きていました。確かに、英訳でも、sinとしている訳もあれば、tresspassと翻訳しているものもあり、ある場合は、debtと翻訳しているものがあるのですが(なぜ、英語で許されるべきものの言い方が3種類もあるかについては Forgive Us Our What? Three Ways We Say the Lord’s Prayerという、英語のブログ記事が詳しい)、こういうのを見ていても、聖書の言葉にはゆらぎがなくても、人間の側の現実の言語とそこで使われる語の用法の側に揺らぎがあるので、話し手がその文法に適った仕方で独自な言葉を作り出していく「言語運用」ということが求められているが故に、揺らいでしまうのかなぁ、と思いました。つまり、言語の奥側にある「普遍文法」で描かれるべき神の言葉自体は揺らがなくても、言語の手前側の人間の環境がガラガラと揺らいでいるので、人間界の世界ではその「普遍文法」の世界での対象に関する表現方法が揺らがざるを得ない、ということなのだと思います。

     

    無誤性・無謬性と言語運用

    聖書信仰と聖書の無誤性、あるいは無謬性を巡る議論が福音は界隈では、かなり重要なことなのですが、そのことについて、藤本満さんが『聖書信仰 その歴史と可能性』(この本については、以下のリンクにあるように、2015年12月に本ブログでも触れました)

     

    藤本満著 『聖書信仰』を読んだ(1) (2015/12/19)
    藤本満著 『聖書信仰』を読んだ(2) 終わり (2015/12/23)
    藤本満著 『聖書信仰』を読んだ のコメントにお応えして (2015/12/26)

     

    という本を出版されたのを受け、また違う立場から、『聖書信仰とその諸問題』という本が出版され、今度はブログ上で、その議論への再応答が、『聖書信仰とその諸問題』への応答1(藤本満師)という形で酷性とか無謬性に関する対話が始まったようです。

     

    その藤本満さんがおかきになった記事のなかで、宇田さんという方が、カーティスという人の議論を引用する形で、おまとめになられたことが次のように書かれていました。意味論の話の記号論の話が鍵になる、ということが、ポイントであったように思います。

    「最近注目されている意味論(semantics)の影響のあることを見落としてはなりません。彼の理解によれば、言語とは任意に様式化された記号組織であるため変化しやすいものであること、また言語の意味論が提示する複雑な意味論を考える時、はたして原典の意味と同一の意味を他の言語において伝えかつ表現することが可能であろうかと彼はいいます。」

    まさに、この無誤論とか無謬論とか聖書信仰の問題は、チョムスキーが言っていると西谷さんが主張している信仰に関する「普遍文法」の世界に関する言語表現の問題、すなわち、言葉の奥というか言葉の先にあるものをどのようにこの場の手前の側にある世界での「言語運用」をどうするのか、という問題とその可能性の問題の議論に他ならないように、ミーちゃんはーちゃんには思えてなりません。

     

    なんのための神学?なんのための教会の説教?

    そんな事を考えていると、ツィッターで拾っているツィートの中に、こんな言葉がありました。

     

    C.S.Lewis  @CS_Lewis_jpから

     

    「教会は人々をキリストの内に引き入れ、彼らを小さいキリストとすること以外のどんな目的のためにも存在しない。もしこのことをやっていないなら、すべての聖堂、牧師、伝道、説教、聖書そのものさえも、単なる時間の浪費に過ぎない」

    このツィートは要するに、普遍文法としての世界で観測され、実体化しているはずの「小さなキリスト」あるいは「本来神に創造された世界での人間の姿」にするための言語運用の営みが、神学とか伝道とか、聖餐とか説教とか聖書とか、賛美歌を歌う、教会に定期的に集るという営みなのであって、なんか、そこで語られている何かの理解やそのような行為の方法論について、それぞれのグループで別々に名前をつけて、ああでもない、こうでもないと言っておられるのではないか、と思いたくなります。まぁ、この種の議論をC.S.ルイスが言うように「単なる時間の浪費に過ぎない」という気はありませんが、言葉の手前側にあるこの世界での言語運用の世界の細かな差にばかり振り回されるのもどうかなぁ、と思うことは時々あります。まぁ、その細かな言語運用の世界での議論とその世界については、見ている分には面白いのではありますが。個人的には、どんな方法論であれ、アプローチであれ、それが祈祷文であれ、自由祈祷であれ、説教であれ、チャントであれ、賛美歌であれ、それぞれ似合う形に従いながら、本来の目的である「小さなキリスト」あるいは、「神と人とが歩む姿」での人生を送ることになればいいのではないかなぁ、とだけ思うのです。

     

    宗派(教派)間対話、宗派(教派)内対話とその可能性

    ということで、普遍文法、深層構造、あるいは言葉の奥にあるものの普遍性とその表現であるという神学という現象に関する理解のための準備ができてしまうことが大事であり、その表現仕方の違いとそれが何を指しているかの議論が大事であるのか、について西谷さんは次のように書いておられました。

     

     以上がチョムスキーの言語学理論の要点であるが、リンドベックはチョムスキーの言語の「深層構造」という考えにヒントを得て、宗教的言語の「深層文法」を想定する。そして、この「深層文法」という概念を持ってキリスト教内の宗派間あるいは教派間を乖離させ分裂させている諸教理の撞着状態を再度克服する可能性についても、それらを貫いて「辞書的核心部分」(lexical core)(81)つまり「文法」が存在している。同様に、キリスト教の聖典としての聖書にも辞書的核心部分すなわち聖書的文法が存在している。それはまた「信仰に内在する規則」(the interior rule of faith)(79)である。そして、キリスト教徒にとって重要なのはこの聖書的文法に習熟することなのである。(同 p.84)

     

    要するに、ここでの西谷さんの言葉、あるいは、チョムスキーの議論を受けたリンドベックの用語法で言う辞書的核心部分が信仰、あるいは「小さなキリストになる過程」について存在していること、あるいは、聖書的文法(おそらく、キリスト者として神との関係にあることやその関係を深めるという生き方)は、基本的には同じであっても、その表現と表現方法が教派ごとに微妙に異なるが故に、それが、「辞書的核心部分」あるいは「聖書的文法」における違いやブレであるかのように言われるという部分がないわけではないように思います。それが、結果として「諸教理の撞着状態」を教派の間で生み出し、本当は、ほぼ同じことを言っているのだけれども、辞書的定義が、教派間で異なるために、辞書的非核心部分で混乱が生じているように思えてならないのが、一番なんだかなぁ、とツィッター界隈の議論を見ていると思います。

     

    要は、「小さなキリストににたもの」となるための聖書的文法に習熟することのはずなのですが、ある教派的な信仰表現の「言語運用」方法に習熟しすぎているがあまり、他のグループの信仰表現の「言語運用」方法に違和感を持ってしまい、他の人々が習熟している聖書的文法のスタイルが受け入れられない、あるいは他のグループの中で培われてきた「信仰に内在する規則」が間違っているものに見えるのかもしれません。

     

    日本のキリスト教の定着と教派間の差異

    前回のブログ記事では、少し書きましたが、日本の宗教は、固定された成文聖典を持たないため、「信仰に内在する規則なし」あるいは信仰に関する「辞書的核心部分」「聖書的文法」をこれまで持たない形で、なんとなく宗教的であったのが、日本の宗教環境であったのではないか、と思います。であるからこそ、本地垂迹説のようなものが生まれたり、現代的シンクレティズムや、日本型シンクレティズムや、多神教的な世界での神理解が支配していたからこそ、極初期の宣教師たちは、それを敏感にあるいはある程度感じ取り、あるいは思い込みで、日本のキリスト教受容する際に、自分たちの持っていた教はにおけるかなり独自性のある信仰のスタイルを、キリスト教全体にまつわる「信仰に内在するべき規則」とするように、あるいは、自分たちとその人たちを派遣した国で培われてきたその教派の人々が持っていた信仰者としての「辞書的核心部分」や「聖書的文法」を良かれと思って、日本の諸先輩方に伝えようとしたため、プロテスタント界隈では、この辺の文法とその文法が形成された社会的背景が今になって問題になっているのかもしれません。

     

    キリスト教を取り巻く環境の違い

    による聖書的文法の受容

    具体的な例を上げて考えてみたいと思います。今参加している教会でのボランティア活動に関与しておられるカトリックの真面目な信者さんがいらっしゃるんですが、その方とお茶をしながら先日その方から聞いたお話では、聖餐の際の未洗礼者への祝福を典礼奉仕者としてどう対応するか問題ということが、司祭不足の教会が増えるなかでかなり問題になっているらしいのです。

     

    けれども、イタリア・フランス・スペインあたりのカトリックの伝統が深い地域では、基本幼児洗礼を全員が生まれたら間もなく、問答無用みたいな形で洗礼を授けられていることもあり、そもそも、未洗礼者が社会の中にいないか、ほぼ皆無に近いので、教会での聖餐を受ける場面に、未洗礼者がいるという設定にそもそもならない、なりにくいという文化的コンテキストがあり、そもそも、未洗礼者が教会の聖餐に参加することが想定されていないらしい、という話をお伺いいたしました。

     

    このように、キリスト教を日本に送り出し国側での状況と日本の宗教的状況がそもそも違うために、日本に来たキリスト教の状況を考えて見れば、その日本にキリスト教をもたらした人々が持っている「辞書的核心部分」や「聖書的文法」の基礎となっている環境が基本的に違っているため、どこまでが本来的なキリスト教として「辞書的核心部分」や「聖書的文法」であり、あるいは「信仰に内在する規則」なのかの判定がうまくできない、ということに関して、どうにもこうにもならない部分があるように思えてなりません。


    次回へと続く

     

     

     

     

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