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2018.12.26 Wednesday

キリスト教教育とキリスト教の宣教に関する本をたらたらと読んでみた(4)

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    メタ構造の関係、世界理解と世界との関係・・・

    さて、今日も西谷さんの本から読んで考えたことを書いてみたいと思います。本日は、「宗教聖典の本文内部性 ー ギアーツの文化人類的解釈理論から」という部分の記述から、思ったことを述べてみたいと思います。今回問題になるのは、聖典本文と世界と、個人の関係についての部分です。

     

    まず、以下でご紹介するリンドベックの議論を踏まえた西谷さんがお書きになった部分をもとに、少し考えてみたいと思います。

     

    リンドベックによれば、生きた歴史的宗教は例外なく聖典的文書を持ち、この聖典本文の内部でリアリティ全体を記述する(116)。宗教解釈は「聖典を聖典外のカテゴリーに翻訳する」ことではない。「世界を飲み込んでしまうのは聖典であって、世界が聖典を飲み込むのではない」(118)。従って、神学の課題とは、

     

    「たんに宗教をその内部生から解釈することに留まらず、万事を内部のこととして、すなわちその当該宗教によって解釈されることとして記述することでもあるのである」(114−115)

     

    これがリンドベックが宗教の「本文(ほんもん)内部性」〔わが国の聖書学の伝統にならい、「ほんもん」と発音したい〕ということで言おうとすることである。(中略)宗教とは、つまり、現実全体を「包括する解釈図式」であり、「宇宙の中で他の何よりも重要な事物の確認と記述を行い、それとの関連にある人間の態度や信念を含む生の全体的体系化をなす」(32−22)ものなのである。(西谷幸介著『教育的伝道 日本のキリスト教学校の使命』p.80)

     

    ここでまず、面白いなあ、と思ったのは、「宗教解釈は「聖典を聖典外のカテゴリーに翻訳する」ことではない。「世界を飲み込んでしまうのは聖典であって、世界が聖典を飲み込むのではない」」という部分でした。上の引用部分では、宗教解釈、となっていますが、聖書解釈でもいいかもしれません。もし、そうだとすると、聖書解釈とは、「聖書を聖書外のカテゴリーの言語体系に翻訳する」ことではなくなってしまいます。どうも、この辺に、聖書解釈に関する重要なポイントがありそうだ、と思うのです。

     

    つまり、どちらがメタになるのかという問題です。つまり、聖典理解が世界にとってのメタ構造(聖典理解をもとに世界を見ること)になるのか、与えられたのか、あるいは獲得してきたのかは別として、自己が持ってきた世界理解が聖典のメタ構造(自己の持つ世界理解をもとに聖典を理解していくこと)になるのか、というあたりの問題になるのではないか、と思います。

     

    ある面、これまで私が生きてきた日本のある意味極端な福音派的な世界観を持ったキリスト教は、聖書を日本語と日本文化のカテゴリー語に翻訳するということがキリスト教弁証論として重視されてきた部分があったのかもしれないなぁ、と思いました。必死になって、聖書理解が聖書にとってのメタ構造となるはず、と思っていろいろ考えては来たのですが、いつの間にか、自己の持つ世界理解が聖書のメタ構造になってしまっていた、という部分があります。もちろん、それは、私が福音派的なコンテキストでのキリスト者としての生を生きる中で、これまで無意識的にやってきたことであったということは、素朴に認めたいと思います。

     

    イエスが命がけで主張したことと世界理解

    しかし、もう一度聖書に戻って考えてみますと、イエスが言ったことは、この地に神の支配がやってきた、人々にとって、光である存在がやってきた、その結果、これまでの悪の支配の形態と違ったものに変わる、ということを伝えようとしたように思うのです。これらのことを考えると、イエスが命がけで、伝えようとしたことは、「神の支配がイエスのこの地への到来と、十字架上の死とその後の復活によってこの世界を飲み込んだ」とも言うことであって、自分が世界を参照している枠の中に、イエスとそのことばを収めてしまうことではないということなのだ、と思うのです。

     

     

    「God in the box cartoon」の画像検索結果

    髪を有る理解の箱の中に入れようとすることを揶揄したマンガ

    https://www.etsy.com/listing/538432339/god-box-cartoon から

     

    成文聖典を持たなかった日本における聖典と宗教的行為

    そう考えてみますと、日本の伝統的な信仰者の世界理解(それが、仏教という枠組みに入れられたものであれ、神道という容器に入ったものであれ、キリスト教という枠組みに入れられたものであれ)この世界理解の延長線というか、この世界理解の枠組みの中で、信仰の世界を理解しようとしている部分があるかもしれないなぁ、と思います。つまり、世界に現れた現象(例えば、病気とか、事件や事故とか、自分自身の経済的状況とか、自己を取り巻く環境のうち、観察されれる事実と本人が認識している状態)を基礎に、キリスト教の場合は、聖書の記述を当てはめて行くという心の習慣というか傾向、仏教の場合は、仏典の理解を当てはめていこうとする傾向、神道の場合は、自分自身の神社に行ってお祓いしてもらうとか、新年や年末に参拝するとかの行動をしているのではないかなぁ、と思うのです。

     

    日本におけるキリスト教においても、聖書全体が支配的なものとして世界を理解するのではなく、現実が支配的で、それに合わせて聖書を理解しようとする傾向(リンドベックの理解風に言うと、逆転していることになる)、ということが、私を含め、キリスト者の中のどこかにあるのかもしれません。

     

    日本における成文聖典と明治の教育勅語

    日本の神道には、いくつかの断片的な記述文書があるらしいなのですが、ここで、リンドベックが言うような聖典的文書が日本の神道世界には、どうも明確には存在してこなかったし、それを構成しないまま来たのかもしれません。それが、ある面、日本人の長らくの習慣だったのかもしれません。

     

    仏教には、確かに漢訳仏典が日本にはいくつも伝来していて、多くの仏教諸派で共通に利用されている漢訳経典(例えば般若心経とか)はありますが、仏教研究者の人に聞いてみると、仏典というものは、非常に数が多く、世界中に一体いくつ仏教の経典とされるべき成文経典があるのか、よくわからない、ということらしいのです。

    比較的共通に読まれている般若心経の読み方にしてもも、宗派ごとにいろいろあるらしくって、別教派の人が同じ経典(例えば般若心経)を読んでも、鉦の音の入れ方や木魚の叩くポイントが違うらしく、色々な日本の仏教者のグループが集まって何かしようとするといろいろ結構大変なことがあるそうです。

     

    そもそも神道にしても聖典的文書が明確に存在しない用に思います。また、仏教のように、聖典的文章があるとしても、かなり多種多様で、それもゆるい形でしか聖典的文書がない社会の中で形成されてきた日本社会であったように思います。そうであるがために、明治の頃に焦って、なんかそういう日本社会を規定する聖典的文書に変わる、なにかが欲しいという形で生み出されていったものが、教育勅語だったのかもしれない、と思うのです。であるからこそ、それが、明治以降の近代化を目指す日本国(大日本帝国)にとって、学校教育で時に触れ、折りに触れ、ある種の祈祷文のように暗誦させることで、日本人にとっての「宇宙の中で他の何よりも重要な事物の確認と記述を行い、それとの関連にある人間の態度や信念を含む生の全体的体系化をなす」ような共通のなにかとして機能させようとしたし、1945年ころまで、そのように機能した文章が明治の教育勅語であると理解すると、なぜ、あの文章が、そこまで重要視されてきたのか(一部においては、今なお重要視されようとしているのか)、ということがおぼろげながらわかるのかもしれない、と思ってしまいました。

     

     

    教育勅語を幼稚園児に言わせることで有名になった幼稚園の動画

     

    同じ愛だけど、微妙に違う…シンクレティズムは実はかなり危うい

    もともとバリバリの福音派の教会で、言葉による伝道活動に勤しんでおりました頃の話ですが、そちらの教会には、来会者として、いろいろな方が来られ、多くの方とご対応させていただいたことがあります。その教会にお越しになったの皆さんの全てではもちろんありませんが、その一部の方に、結構、日本型シンクレティズムといった具合の理解で、私のお話について、ご意見をくださる方がある程度含まれていたことも事実です。ある程度の数の方が、「どの宗教でも、大事にしていることは同じなので、登る入り口は違っていても、目指すところは同じなのだから、到達するところは同じはずだ」という理解の枠から、ご自身のご理解としてご提示いただいた方が何人か、おられました。

     

    「いやぁ、大分違うんだけどなぁ」、「え、そんな理解していたんです?」とこのタイプの日本型シンクレティズムで翻訳し直された印象をお聞きしますと、内心、めちゃくちゃ狼狽しておりましたし、あるいは隔靴掻痒の感覚になるのは、なぜだろう、どうすればよいのだろうか、と思いながら、過ごしておりましたこともまた事実です。そして、こんな経験をした日には、本当に徒労感に襲われておりました。

    どうしたら、言いたいことが伝わるのだろうか、と。流石に、キリスト者の皆さんとの間のお話は、私が話したことと、受け取られたこととの間の違いがかなり小さいのですが、そうであっても、伝わってないなぁ、と思うことは、福音派的な教会のなかで、言葉による伝道活動に勤しんでおります頃には、日常茶飯事でございました。

     

    つまり、同じ教会で過ごしておられるキリスト者である方々とのお話において、同じ日本語の言葉を使いながら、全く理解が違う結果となっていることもときに発生しますし、さらに、キリスト者ではない方々とのお話においては、果たしてどこまで正確に伝わったのだろうか、と悩ましい日々を過ごしたわけです。どうもこの当りに、発話者である私自身が、メタ的な世界理解の構造についての理解が十分でなかったこと、どうしても、自分自身の中にある、世界理解の体型(世界観)で聖典的文書を理解しようとするような傾向があり、その結果として混乱が生じていたのかもしれない、とも思います。

     

    のそのあたりのことについて、いまご紹介している西谷さんの本では、次のように書いてありました。

     

    異なる個々の宗教派生の重要事項に関し根本的に異なった多様な深層経験を保有している。同じ愛に関する経験でありながら、「仏教的慈悲、キリスト教的愛、フランス革命的兄弟愛は、単一かつ根源的な人間の意識、感情、態度、情緒の多様な表現というのではない。そうではなく、それらは人間の自己や隣人や宇宙に関する根本的に区別された経験の仕方なのである」(40)。こうした考えに立てば、先に紹介したような現代のシンクレティズムの根底も危うくなるであろう。(同 p.81)

     

    ここで、「異なる個々の宗教派生の重要事項に関し根本的に異なった多様な深層経験を保有している」とありましたが、同じ用語を持ちながら、話している人々が、「重要事項に関し根本的に異なった多様な深層経験を保有している」がゆえに、同じ語を使いながらも、話し手と受け手の間で、かなり違うことが伝達されてしまうのかもしれないなぁ、となるほどなぁ、と改めて思いました。

     

    上記の引用部分では、「仏教的慈悲、キリスト教的愛、フランス革命的兄弟愛」を例に取りながら、典型的に異なる理解の姿について、ご説明されていて、それらが微妙に違うことがご説明されていますが、個人的な経験から言えば、キリスト者の間での「キリスト教的愛」の概念や、「死後の世界理解」や「神と人との関係」「翻訳聖書と個人の関係」あるいは「そもそもキリスト教の基本理解とは何か」といった本来、基本的な事柄についてさえも、実はかなり多様で、それぞれの個人の方によって、微妙に理解が違っていて、お互いわかったように思っているけれども、頭の中で展開されている理解の体系から見るとものすごく違っている、ということはあるのかもしれません。

     

    キリスト者の中での共通理解もないかも

    このあたりの頭の中で展開されている理解の体型が違うからこそ、TwitterやFacebookなどでの議論が時にキリスト者の間で紛糾したり(このため、一部のキリスト者の人々は、ネット民の間で戦闘民族と呼ばれている)、人々のコミュニケーション関係が、ややこしいものになったりして、すぐに、自分が、ではなく相手が「異端だ、異教的だ」といったタイプの無益な論争が起きるのだろうと思います。それは、そもそも、人間が言語や環境で、地域、空間で分断されている以上避けがたいのかもしれませんが、あまりにも、人間が、一人ひとり、自己の理解に拘泥している、あるいは拘泥せざるを得ないという現実によるのかもしれません。

     

    こう考えてみますと、キリスト教という大きな枠組みで捉えてみますと、キリスト教の世界の内部ですら、一致を保つことが難しい(多くの西欧の宗教戦争や紛争は、実体的には、宗教の名を借りた政治闘争や経済闘争であるように思うのですが、その口実として、正邪に関わると考えられやすい自分が考えている宗教的理解が口実に使われ、そのある宗教的理解への拘泥が紛争の緒になっているということに過ぎない、と思いますが)し、実際に、人々の経験が多様であり、その経験の理解のされ方が実に多様であるのだとすれば、そもそも、西谷さんが言うような現代的シンクレティズムや日本型のシンクレティズムって、本当に意味があるのか、ということになるのだろうと思います。

     

    キリスト教教育は解決の方法かもしれないけれども…

    まぁ、学校におけるキリスト教教育についてお考えの西谷さんのお立場からしてみれば、無益な宗教間闘争、あるいは、キリスト教者間の闘争といった、悲劇を避けるためには、キリスト教的教育、キリスト教に関する教育の場が存在することが有効であるはずだ、ということになるのかもしれません。とはいえ、現状でのキリスト教関連の教育機関での限られた時間、さらには、日本のキリスト教がかなり分断的であり、それぞれが、相互に無視しているとまでは言えませんが、尊敬を持ちながらも対話が十分キリスト教内でできていない状況や、本来、重要な役割を果たすはずの日本の牧師先生方のかなりの部分が、様々な他のキリスト教会の状況とそれが持つ理解について、かなり正確にご存じないこのような状況を考えますと、まだまだ時間がかかるのかなぁ、と思ってしまいます。まぁ、このような他のキリスト教の世界への無理解である傾向は、日本の多くのプロテスタント教会が良くも悪くも影響を受けてきたアメリカのキリスト教会でも似たようなものだと思いますけれども。

     

    日本でのプロテスタントの宣教が始まって、160年弱(沖縄を含め)、プロテスタント宣教の本格化が始まって70年ちょいですから、まだまだ、時間がかかるのでしょうね。

     

    次回は、このあたりの人間が認識をどう考えているのか、についての部分である「宗教的言語の深層文法ーチョムスキーの変形生成文法理論から」での議論の展開について、考えていきたい、と思います。

     

     

     

     

     

     

    評価:
    価格: ¥ 3,888
    ショップ: 楽天ブックス
    コメント:多くの人には肝けないかもだけど、個人的にはむちゃくちゃ面白かった本。

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