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2018.12.24 Monday

キリスト教教育とキリスト教の宣教に関する本をたらたらと読んでみた(3)

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    今日もまた、キリスト教教育の視点から、キリスト教の宣教について考えた本をご紹介してみたいのですが、本日は、この本のコアの部分の続きを、「宗教的成熟への入り口としての言語取得ーバーガー及びルックマンの社会的現実構成理論から」と題された部分から、考えてみたいと思います。

     

    社会と人間

    この部分で、著者の西谷さんは、社会と人間との相互的関係について次のように書いておられます。

     

    バーガーはこの理解を「社会は人間の所産以外の何物でもないのだが、しかも社会は絶えず〔それを〕造るもの〔すなわち人間〕に働き返す」という命題でいいあらわし、こうして、「社会は一種の弁証法的現象である」という。

    (中略)

    さらに、人間の外在化活動による所産の総体が「文化」である。文化は「道具」のような物質的要素を含むと同時に、非物質的な「言語」を発明し「価値」を信奉する。文化に対する「社会」すなわち人間集団の関係は、社会は文化の一部でありしかも文化の存続の必要条件である、という点にある。(中略)

    そして、社会は客体化された現実の地位にまで到達し、人間がそこで文化的諸要素を「内面化」する場となっていく。この内面化はまた個人が社会に同化する「社会化」(socialization)である。新しい世代はこうして文化や社会の構成員となり代表者となっていく。(西谷幸介著『教育的伝道 日本のキリスト教学校の使命』 pp.74-75)

     

    社会や組織といったものはそもそも、人間なしには存在しない、という当たり前の事実を、もう少し考えたほうがいいかもしれません。私達はあまりにも社会や組織の存在を当然のものと考え、人々の集まりとして存在する社会や組織と人間の関係をもう少し真面目に考えたほうがいいのかもしれません。特に、日本では、会社とか役所とか、教会とかいった組織とか社会と公(公であって、公共ではない)があまりにも大きな顔をしすぎる、大きな顔をさせすぎるきらいがあり、個人に対して組織や社会が問答無用の力を保つ構造があるように思えてなりません。

     

    技術と社会と教会

    技術と社会における共通概念の存在が、人の振る舞いを変えることは昔からあるわけで、ことわざで「郷に入っては郷に従え」とか「ローマにいるときには、ローマ人のように」と言った表現にも見られる生活の知恵にも反映されているように思います。さらに、人間は社会とそこを動かすための技術や制度を作り、そして、その技術や制度によって、いろいろな物事のあり方が変わっていくのが、社会なのかもしれません。それは、教会でも同じではないか、と思うのです。

     

    記号としての文字とイコン

    例えば、文字を扱う能力が社会全体でそれほど普及していない社会では、イエスと時分との関係を思い起こすきっかけとしてのイコンを作成する文化が必要とされ、そのような時代に形成されたという背景を持つ教会群では、文字処理能力を持たない、持ち得なかった人々が聖書を思い出すための方法として、イコンや彫像が教会には多く置かれましたが、文字を扱う能力が増えた社会では、より直接的な聖書の言葉を扱う文化へと変容し、さらに、製紙技術と印刷技術というものが形成され、書籍を普通の人が持つ、という文化が生まれたように思うのです。であるからこそ、教会に全員が自分の聖書を持っていくという文化が生まれ、何かあると、教会内で、聖書を開くという文化が生まれたように思います。そして、自分たちが信仰している対象を記憶し、そのことに思いを巡らす手段が、視覚的な絵画表現されたものから、同じ視覚的でも、文字表現されたものに変わることになったのではないか、と思うのです。

     

    ある面、抽象度が上がったということもできますが、イコンの話を正教会の司祭の方からお伺いしていますと、正教会でのイコンはあえて具象化せず、現代の視点から見れば、あえて、作画法(遠近法を含め)がおかしいと思えるような抽象度の高いものにしているという側面があるそうです。あえて、リアルに作画しないことで、イコンを通して個人が神に向かうための障害物を減らそうとしているのかもしれないなぁ、ということを思い出しました。

     

    近代社会であるからこそ生まれえた

    無教会運動やドライブインチャーチ

    もう少し日本のコンテキストに合わせて考えるならば、識字率が上昇し、金属活字による印刷が可能になり、さらに郵便制度が存在するようになったからこそ、定期刊行物を読むという文化が生まれ、その文化が生まれたからこそ、内村先輩が始めた『聖書之研究』という雑誌を通して生まれた、紙の上の教会とも呼ばれる無教会運動という存在が、形成され得たわけです。識字率の上昇や、郵便制度、金属活字の一般印刷物が作成されない社会では、おそらく無教会運動というものは大きな潮流になり得なかったかもしれないなぁ、とも思うわけです。

     

     

     

    「聖書之研究」の画像検索結果

    内村先輩の『聖書之研究』

     

    また、自動車が普及し、多くの人々の高速かつ広域にまたがる移動が可能になっているからこそ、アメリカではメガチャーチが存在しうるわけですし、人々に音声情報を伝える装置が可能になったからこそ、そして、多くの人々が実体をあまり重視しない、概念中心の教会理解を持っていて、更に、個人主義的な生き方が模索され、その上にアメリカでの教会が、どちらかというと概念対応型の教会だからこそ、ドライブインチャーチが可能になったわけであり、また、個別の車に出力の低い放送局や、以下の動画にあるような有線放送設備が開発されたからこそ、このような教会のあり方が可能になったのだと思います。

     

     

    1950年台のドライブイン教会(車に入れている音声伝達機器がでかい・・・)

     

     

    公(おほやけ)と社会と組織

    ところで、日本でも、政府(特に連邦政府)が大きい顔をすることを嫌う背景があるアメリカと言った文化的背景でも、社会と個人が相互に抜き差しならない関係にあることは確かなので、上の引用で西谷さんが引用しているバーガーさんが言うように、社会と人間の関係は、相互的なもので、社会は人間を形作るし、人間があって初めて社会ができるので、その事はもう少し考えられたほうがいいかもしれません。

     

    なぜ、組織や社会ができるか、というと、それがある方が便利だからです。特にホッブスやルソー、あるいはロックのような社会契約論に戻らなくても、社会が存在するためには、人々の間での調整が必ず必要となるで、本来面倒なことなはずですが、それでも、人々が組織を作るのは、そのほうが効率的であるから、そのほうが調整のコストを含めたとしても、そのコストを差し引いても、より豊かになれる可能性があるからに他ならない、と思います。ある面、組織というのは、暴力装置と言っても良いのではないか、と思います。物理的な暴力を持つ組織(例えば、軍隊、警察、消防は、物理的な暴力組織)も世の中にはありますが、そのような組織でなくても、一人ではできないほどの大きな力を持つことができるという意味では、ある面の暴力が組織には伴う、ということにな廊下、と思います。そのことは、旧約聖書の創世記に記述されているバベルの塔の記述の中に見ることができます。

     

     

    社会や組織は、権力構造としてのある種の暴力的構造を内在させるからこそ、上に引用した部分である「文化は「道具」のような物質的要素を含むと同時に、非物質的な「言語」を発明し「価値」を信奉する。文化に対する「社会」すなわち人間集団の関係は、社会は文化の一部でありしかも文化の存続の必要条件である」とあるように、社会や組織は、社会内ないし組織内文化を形成しそれを維持することができるように思うのです。それと同時に、社会がある面、強力な暴力装置であるからこそ、パワーハラスメントや、モラルハラスメントがそもそも起きやすいのであり、それをいかにして防いでいくのか、ということが大事なのではないか、と思います。組織や社会は、そもそも、弱い人間が生存可能にするためのある種の暴力を伴った存在である、という出発点を忘れてはならないのではないか、と思うのです。特に、日本的な世界の中において。

     

     

    言語と文化と記号

    さて、組織や社会があり、そこでの人々は何によって、結びついているかといえば、それは言語であり、取りも直さず、それは記号の集合体であり、その記号の集合体をもとに人は認識を共有したり、認識を言語化、あるいは記号化しているという、ということはもう少し考えられても良いと普段から思っているのですが、そんなことを思っていたら、西谷さんは、次のように書いておられました。

     

     

    文化や社会で重要な役割を果たすのが「言語」である。人間の「外在化」行為の決定的に重要な一つの現われは、意味づけるという行為……つまり人間による記号の創造という行為である(I61)。「言葉は……人間社会の中で最も重要な記号の体系となっている」(I63) 。人間は直接的で主観的な行為や経験を言葉を持って名付け表現し意味づけるのだが、この言葉は「記号」として彼の主観的な行為や経験を言葉によって伝達されたことは相手に通じ、両者は共鳴する。すなわち、こうした「対面状況」において、ルックマンの用語を用いれば、一種の「デタッチメント」(客観化する態度)(III 67 以下)が起こる。つまり、他者の主観的な経験への理解は自己の直接経験からは生まれてこないのであり、自己を離れしかも自己と他者が共通しうる視点すなわち「相互主観的」(intersubjectivite)観点からの解釈が必要である。この相互主観性を媒介するのが「言語」に他ならない。言語を媒介とするデタッチメントにより人間ここの一連の経験はその具体性を捨象して相互主観的解釈図式に歴史的に沈殿していく。(pp.75-76)

     

    ここでの議論で人は記号を用いて、その共感したり、共鳴したり、あるいは議論における相互主観性(もう少し言えば、間主観性)ある議論であろうとすることを試みていることになるし、そのために行われているのが、ハーバーマスのいうコミュニケーション的行為であり、それが行われる場がハーバーマスがいう公共圏(Public Sphere)ということになるのだろうと思います。とはいえ、ハーバーマスは、『われ』と『なれ』といったタイプの関与者あるいは参与者が二人の状態問題を考えているわけではなく、むしろ、多数の人々が、相互に対話する、発話する行為を考えているようにも思います。そして、ある対象についての、多くの人々の間の意見の違いを超えて理解を共有し、それぞれがどのように見えるかという、相互主観性の議論の枠組みを与えている、と言ってもよいように思います。

     

     

    ユルゲン・ハーバーマス

     

     

    ハーバーマスの主著 『コミュニケイション的行為の理論』

     

     

    ここで、もう一度、教会のコンテキストに戻して考えてみれば、先にも述べたように教会は、言語や象徴という記号による信仰対象の外在化をしているとも言えるように思うのです。伝統教派では、実物であるパンや盃、あるいはイコン、賛美歌、式文、チャント、教会暦や、教会が行っている出来事(イベント)、教会内のデザイン、十字架、教会そのもの、そこに込められた様々なレベルのデザインで、信仰の象徴を表象しているようにも思います。その意味で、信仰の対象が外部化、客体化され、外在化されるかたちで表現されているといえそうに思います。確かに、外部から確認可能な形として表現されている、という意味において、信仰の内容と対象が外部化、客体化、外在化されているとは言うものも、信仰者一人ひとりにとっては、これらの外在化されたもの、客体化、外在化されて表現されているとはいえ、その象徴が表象する個人と個人の群からなる教会内の人々の内面の信仰そのものと信仰対象は、信仰者全体にとっては、本来、共通のものであるわけで、その共通の存在があるからこそ、言語や衣装といった象徴、記号ノリ会が微妙に異なるとはいえ、共通の理解の土台とその違いの確認の手段が提供されているというように思うのです。ただ、それをすべての人が理解できるかどうかは、これまた別の問題ですが。

     

    言語によるコミュニケーションとしての『聖書之研究』と

    『世界一ゆるい聖書入門』

    プロテスタント教会では、その歴史的発展の経緯から、言語を用いた外在化方法を中心的にしてきたため、教会運営においても、説教がその中心になっている場合が多いように思います(個別教会や教派によってかなり温度差はあるでしょうけれども)。それをある意味突き詰めて究極の形として紙の上の教会として日本において形成してしまったのが、先に述べた内村先輩が始めた、無教会という立場なのではないか、と思うのです。

     

    その意味で、ある面、今でいうバーチャル教会、インターネット上の教会の前身としてやれるところまでやってみた、というのが、内村先輩の『聖書之研究』でもあると言えますし、その中身を見ようと思ったら、雑誌という形の外在化、外形化、客体化をして、雑誌を買うことで、キリストを信じる人達の内的世界とその理解をちょっと垣間見えるように努力していた、という意味で、言語によるコミュニケイション的行為による『外在化』という意味では、『上馬キリスト教会』のツィッターなどをしておられる皆さんの先駆者的位置づけなのだと思います。

     

    まぁ、上馬キリスト教会は、『ゆるさ』という切り口で、社会においての外在化と客体化を図り、内村先生たちは、当時の近代の新進の気風をお持ちの方々の合言葉でもあったより真理理追求、聖書から読み取れる中身の重要性を高尚なかたちで、当時の高尚なことを求めるインテリゲンちゃんの皆様方にご提供したという違いはあるでしょうが。まぁ、『上馬キリスト教会の世界一ゆるい聖書入門』の記述の正確さを云々する方々も中にはおらるようでございますが、そこはそれ、相手が違うというか、そもそもの土俵が違うので、あの本にもありますように、真面目にやられたい方は、ちゃんとした本が、キリスト教関係出版社から、どっさりと出ているので、それらをご参照になって、キリスト者が様々外在化させようとした多くの皆様の知的営為をご覧になればよいだけではないか、と思うんですけどねぇ。

     

    内村先生と同列にすな、って?それは、そうですが、かなり引いた形で考えてみると、内村先生も上馬キリスト教会のツィートの中の人の方も、やろうとしていることは、おんなじじゃんねぇ、って思っちゃいます。ちょっと無謀なもののいい方ではありますが。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

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