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2018.12.22 Saturday

キリスト教教育とキリスト教の宣教に関する本をたらたらと読んでみた(2)

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    前回も書きましたが、子の本は、ヨベルの安田社長さんから、御恵贈いただいた本で、珍しい本だったし、非常に印象的であったので、今回からも引き続き、何回かにわたって、ご紹介しようか、と思います。

     

    信仰と宗教とかたち

    今日はいよいよ、本丸の前の大手門に相当する部分、リンドベックによる宗教の文化言語的理解についての西谷さんの表現をご紹介していきたいと思います。

     

    以下においては、この(リンドベック)「宗教の文化的言語的理解」の諸要点のうち、特にキリスト教学校教育論にインパクトを与えると筆者が考える次の三点について述べていく。

     

     崕ゞ掬となる過程は文化習得や言語学習の過程に類似している。すなわち、他の人々[先達]が作り成した物事の見方の内面化や彼らが極めた所作への習熟の過程に類似している」(22)という命題

    ⊇ゞ気了訶静文書の「本文内部性」(113)と「体系内部性」という概念

    宗教的言語の「深層文法」(82)への洞察  (p.73)

     

    ここで、3つのポイントが上がっているけれども、大事かもしれないと思ったのは、「 崕ゞ掬となる過程は文化習得や言語学習の過程に類似している。すなわち、他の人々[先達]が作り成した物事の味方の内面化や彼らが極めた所作への習熟の過程に類似している」(22)という命題」と「宗教的言語の「深層文法」(82)への洞察」という部分でした。というのは、ある麺、宗教というか、信仰が、過程、プロセスであるということと、所作の習熟を通しての信仰の深化という部分がよく現れていたからでした。それぞれの部分について、個別に、紹介していく予定ですが、今日は特に、最初のものについて、述べてみたいと思います。

     

    ちょうど、先月の記事

     

     

    と非常に似通った側面を持っていたからでした。長らくそこで過ごしたガチガチの福音派の世界では、信仰と宗教は違う、ということが強調されていましたが、信仰を外形的にわかりやすい形にしたものが宗教と呼ばれるものだと思うのです。その意味で、形だけ、外見だけ、宗教的に見せて、中身が無い場合もありますが、そうだからと言って、外形的に確認される形を疎かにするのも、どうかなぁ、と思うのです。まぁ、ガチガチの福音派だった時代に、自分自身が信仰だ、と主張し続けていた内容は、その外側の世界から見れば、宗教というラベルが貼られていたようにも思うのですけれども。

     

    特に、信仰あるいは宗教的な存在となることが、もし、プロセスだとしたら、それこそ、そのテンプレートとしての「他の人々[先達]が作り成した物事の味方の内面化や彼らが極めた所作」として表される形や所作が、それこそ、重要だ、と思うようになったのです。極端な概念によったキリスト教関係者の人々を除けば、テンプレートはあるわけです。ウェストミンスター信仰告白(改革波形で重視される)にしても、アウグスブルグ信仰告白(ルター派、ルーテル派で重視される)にしても、あるいは、小教理問答、大教理問答にしても、ある面、テンプレートではあるわけです。それこそ、使徒信条や、ニカイア信条にしても、ニカイア・コンスタンティノポリス信条(正教会さん、カトリック教会さん、聖公会など)にしても、自分たちが何を信じているのか、のテンプレートなわけです。

     

    「美」とかたち、そして賛美歌

    もちろんこれらを、形だけ言って済ますこともできますが、しかし、口に出して繰り返しいくうちに、自分たちが何を信じているのかを明白に形として、なおかつコンパクトに示せるという意味で、こういうテンプレートということは、過去2000年のキリスト教の歴史の中で、少しづつ、時代の変化に合わせる形で多少は変化しながら、それでも大事にされてきたのだ、と思います。

     

    実際、このようなテンプレートが千年以上、維持されてきたのは、あるいは、一旦そのようなものを程度の多寡はあるにせよ、否定したかに見える教派においても、再編されながらも大事にされてきたということは、それなりの意味があったということではないか、と思うのです。形には、内面に何かを入れることができるから、という側面があると思います。

     

    信条でなくても、子供向けの賛美歌だって、あるいは大人向けの賛美歌やグレゴリアン・チャントやオーソドックス・チャントであっても、それを繰り返し歌うことで、その賛美歌に込められた内面的な世界を覚え、その内面的な世界へ入り込む接合部、入口になっているように思うのです。もともと、賛美歌が、形式化された祈りの言葉や詩篇に節を付けたものであったからです。

     

    そこで、過去から、現在に向かって、保存されてきた詩篇23篇がどう歌い継がれてきたのか、を見てみたいと思います。

     

    詩篇23篇のアラビア語での正教会のチャント(アレルイヤとハレルヤに相当する部分が歌われている)

     

     

    詩篇23篇の英語でのビザンチン・チャント(ハレルイヤと聞こえる)

     

     

    詩篇23篇のギリシア語でのチャント

     

     

    詩篇23篇のルーマニアのチャント

     

     

    英語での詩篇23篇の割と最近風のチャント(なじみのある賛美歌風)

     

     

    モダンなワーシップソングでの詩篇23篇

     

     

    賛美歌は、音楽という、人間の言語的感性と対立的でない方法論であるが故に、人の感性に馴染むからこそ、美や均整といった人間に神が与え給うた感性に訴えるものがあるが故に、人々に愛され、そして、文化を超えて、地域を超えて、言語を超えて、それらが用いられ続けられているのだ、と思います。

     

    先輩(聖人)とのつながりと

    その生を記憶すること

    そして、ここで、もう一つ大事だなぁ、と思ったのは、西谷さんから「他の人々[先達]が作り成した物事の見方の内面化」という、あれ、と思う表現が出たからです。まさに、この記述は、正教会での聖人信仰や、記念日と全く同じ構造を持っているからです。

     

     

    伝統教派では、教会の過去、それも相当昔に生きた人々のことを覚えます。上の図は、国会図書館のデジタルアーカイブにある、昭和11年の日本聖公会要覧の先輩記念日表と呼ばれる部分のスクリーンショットですが、まさに、聖人としていくつかの特定の日に、その人がなしたことを覚える習慣があります。このカトリック教会や正教会では、その人々を聖人と呼び習わしおられますが、これが案外重要なのかもしれない、と思うのです。しかし、こうやって、聖公会での先輩一覧表を見ていると、殉死者がなんと多いことか。それだけ、命をかけてまで、信仰(宗教的な個人の核心にあるもの)を伝えようとした人々がいた、ということなのだと思います。

     

     

    1月8日の先輩 アンティオキアのルキアノス(字義通り解釈を述べたらしい)

     

    ガチガチの福音派にいました頃は、このような世界観があまり良くわからず、伝統教派は聖人信仰があるから、異端的とか平気で思ったりしていましたが、よく考えてみると、ガチガチの福音派の教会の中でも、聖人信仰ではないけれども、その教会の設立に深く関わった人たち(例えば、信者さんだったり、宣教師だったり、牧師さんだったり、伝道師さんだったり)のことは覚えるわけです。あるいは、その教派ではかなり有名な註解書を書いたり、様々な書籍を書いたり、説教をした人々の著作が読まれ続けられたりしたりしているわけです。少し、引いて考えてみれば、これだって、形を変えた聖人伝にしか、思えなくなったミーちゃんハーちゃんからしてみれば、全くおんなじことじゃんかねぇ、と思ってしまいます。

     

    そういえば、先日の水曜日の聖餐式では、その日が、アメリカのEpiscopal Churchでは、C.S.ルイスの記念日(←クリックすると祈りの言葉などが表示されます)だというので、現代的な人の一人ですが、それでも、自分たちにとって先輩のお一人であるC.S.ルイスのことをおぼえながら、つぎのような祈りのことばを祈ったのでした。

     

     

     

    O God of searing truth and surpassing beauty, we give you thanks for Clive Staples Lewis, whose sanctified imagination lights fires of faith in young and old alike. Surprise us also with your joy and draw us into that new and abundant life which is ours in Christ Jesus, who lives and reigns with you and the Holy Spirit, one God, now and for ever. Amen.

     

    そして、第1ペテロの 1:3-9とヨハネの福音書 16:7-15を読んだのでした。

     

     

     

     

    次回へと続く
     

     

     

     

     

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