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2018.12.19 Wednesday

キリスト教教育とキリスト教の宣教に関する本をたらたらと読んでみた(1)

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    この本は、ヨベルの社長の安田さんから、ご恵贈いただいた本でした。個人的にはとても面白かったのと、アメリカキリスト教史を考える上で、他の本にはない、とても重要な補助線があったのだけれども、一般の方向けの本ではないようにおもいますが、面白かったので、割とさくっと、簡単に面白いと思った点をご紹介したいと思います。とは言いながら、数回に及びますが・・・。

     

    この本の著者は、日本基督教団との関係が深い方で、現在青山学院大学での専門職大学院国際マネジメント研究科で教鞭をとられると共に、そこの宗教主任をお勤めの方です。その意味で、ミーちゃんはーちゃんがキリスト者として育った福音派的な世界観とは違う方でありますが、非常に勉強になった本でもありました。このブログの読者の方には、何にそれおいしいの、というほとんど日常の信仰生活とはほぼ無関係な記述がめちゃくちゃ多い本であることは間違いはない、とは思いますけど。とは言いながら、面白いところがいくつかあったので、その部分だけ拾っていきたいと思います。

     

    「物語の神学」のテキストとしての聖書の重要性

    へぇ、と思ったのは、この本の冒頭で、物語の神学が取り上げられていたことです。なかなか、面白い視点だなぁ、と思ったのでした。

     

    「物語の神学」は、本書ではそれを「宗教の文化的言語的理解」と表現し、特にそのキリスト教学校教育への「適合性(Relevance)」を論じている。筆者は、「物語の神学」の我が国への紹介は、その意義深さに比して説明の仕方は情緒的に過ぎ、その論理構造の提示は甘いと感じていた。神学なのであるから勘所の理屈がしっかりと示されるべきであり、その点で最も明快であるリンドベックの所論が理解されるべきなのである。しかもそれは信仰者であればだれにも理解できる。リンドベック以外を種本に用いるから曖昧になる。そして、この神学が注目させるのはなんといってもキリスト教経典としての「聖書」であり、それを意味深く読めるようまた読みたくなるように誘ってくれるから価値ある神学なのである(筆者は左近淑先生の「聖書の文学構造的読み方」もこれと本質的に通じるものと理解している)。(西谷幸介著『教育的伝道 日本のキリスト教学校の使命』p.6)

     

    リンドベックさんの所論は後に概説している部分を引用しながら考えるとして、物語の神学を、「宗教の文化的言語的理解」ととらえてみるという視点は重要ではないかと思いました。というのは、これまでの近代的な聖書理解はどちらかというと、過剰に合理主義的というか、過剰に論理主義的過ぎている部分があるように思えてなりません。

     

    理知的なアプローチの限界もあるような・・・

    いわゆる福音派的聖書理解では、古代のある言語の用語方法で書かれた文書体系における個別の単語と語の用い方に現在の言語と語の使用方法に相当大きな開きがあってもそれを無視して同一視して機械的に理解しよう(例えば、太陽族という言葉が今では若者には意味不明であるのに、太陽は不変であるから、太陽の仲間である恒星の集団であるとするかのような説明で理解しよう)とし、ある一部のリベラル派と呼ばれる人々は、合理的にあるいは、近代的な理性で説明がつかない部分は敢えて見ないとか、妄想だの、当時の人々が無知であるがゆえにそう思っただけである、ということで、これらの近代人には受け入れがたい聖書の記述を敢えて正面から向き合うことなしに、聖書の全体としての妥当性をなんとか担保しようとするものの、どうも落ち着きの悪いものになっている部分がないわけではなさそうです。

     

    とはいえ、ミーちゃんはーちゃんがパスカルに傾倒しているからかどうか、最初の哲学の先生がパスカルの研究者の湯川先生だったからかどうかはわかりませんが、神について思いを巡らすことが神学であるとするならば、理論だけでどうのこうのとするということということは、少し考えた方がいいかもしれません。

     

    ただ、これまでの「物語の神学」が情緒的すぎ、理論であるならば、その勘所の理屈をきちんと提示すべき、という西谷さんの批判に対しては、何らかの応答はあった方がよいとは思いますが。

     

    多分、これに応答するための認識論によるフレームワークを示しているのが、N.T.ライトの『新約聖書と神の民』の上巻の前半部分だとは思います。

     

    学問論と大学について…日本の大学は大学なのか?

    もともと欧米の大学は、神学を行うための組織が、時代が近代に向かうなかで、神学から派生した様々な学問体系が次々に分離し、それぞれ学部となっていった背景があります。しかし、日本は、明治の頃に大学制度を輸入するとき、その段階でのヨーロッパ大陸、特にドイツの大学制度を神学部抜きで輸入したために、かなり偏ったものになっていることは、知る人はしっているけれども、殆ど知られていないのも、また事実です。そのあたりのことについて、西谷さんは次のように書きます。

     

    「学問論」を持ち出すのは、キリスト教学校において、キリスト教の信仰と神学の存在理由を、学問のあり方を問うなかで、弁証するためのものである。学問論とは「学問の学問」のこと(学問なるものを学問すること)だが、明治維新以来の学問も教育も実利に仕えるものだオリジナルは傍点 以下同様)とする考えによってひずめられてきた我が国の学問と教育の状況を根底から問い直すよすがである。特にこの問題は日本の大学のーその歴史さえ欠如しているからこそのー最弱点である。(同書 pp.7−8)

     

    ここで重要なのは、明治維新以来の学問も教育も実利志向、というのは非常な視点ではないか、と思います。現在の経◼️連とかいったようなところから小学校から大学までの教育機関への要望として聞こえてくる内容を見てみていると、明らかに人格的な、全人格的な成熟と、思考力や判断力、幅広い教養に基づく成熟した思索の深みを目指す教育というよりは、使い捨てにされる、すぐに役立つ産業兵士としての小手先の能力(例えば、英語とか、計算機のプログラミング能力とか)ばかりではないか、と思ってしまいます。教育の短期的な実利志向の行きついた結果だとは思いますが。

     

    小手先の英会話能力よりは、回りくどい表現でもいいから、自信をもって自分の語るべき内容と自分が独自の視点から真面目に考えた内容を表現は、かなり英語での言語的な表現が、まずくても、独自の内容を語れることの方が、よほど重要ではないかと、と思っています。

     

    日本の大学の概念の変遷

    日本の大学は、戦前はフランスへの憧れと、対抗意識から、追いつけ、追い越せで、必死に努力していたドイツという当時の先進国に追いつく直前の国の大学の制度を大学の出発点としている部分があります。とはいえ、ドイツの大学においても、その中核として歴史的には存在していた(はずの、でしかないとは思いますが。多分19世紀のドイツの大学でも、神学部はお荷物扱いだった可能性はありますが)神学部抜きで大学という制度を作ってしまいました。そして、戦後は、アメリカ合衆国を中心とする進駐軍による占領政策が実施され、それによって学制も6-3-3-4制度というアメリカ合衆国型教育制度になり、恐竜のようにゆっくりとしていた大学ですら、やれ大綱化だの、一般教育や、教養課程の解体だの、大講座制への移行だの、大きく変化していきました。

     

    アメリカ合衆国の名門大学の神学部の軽量化というか、アイビーリーグを中心とする大学ですら、建学の精神を忘れ去ったかのような変容は、ハウワワースが『大学のあり方』で強烈に非難するところではありますが、ミッションスクールとして出発した大学で、神学部すら解体してしまった日本のキリスト教系旧ミッション系私立大学はもはやcollege ではあったもuniversity というに値しないと言われても仕方がないのかもしれません。

     

    キリスト教と人間論

    教育機関にしても、教会にしても、人間を扱う組織というか、団体という社会的存在ではあるはずですので、この人間論というのは極めて大事なはずのですが、プロテスタント教会では、割とそれが薄い、という印象(あくまで個人の感想ですw)があります。以下で、西谷さんがアンスロポロジー(Anthropology)を持ち出しておられますが、古代社会においては、キリスト教(そのご先祖さまのユダヤ教)はそれに真っ先に取り組んできたはずの存在であったはずだとは思うのですが、どうも、それが、今では影がすっかり薄いのが気になります。

     

    現代は人間論、アンスロポロジーが盛んな時代で、参照すべき多くの人間学がありますが、このブーバーの「人格的出会い」の思想において浮き彫りにされた人間とは何か、人間はいかにあるべきかという議論は、現代の様々な思想領域に深甚な影響を与えてまいりました。(同書 pp.48-49)

     

    ここで、マーティン・ブーマーというユダヤ系の比較的最近の思想家が取り上げられているのですが、教育的な背景や思想史的な背景を考えるためとはいえ、この神があってはじめて人間が人間になる、という思想というか人間観は、確かに旧約的な背景で説明しやすいという側面もあるものの、もともとユダヤ的な伝統と深く繋がっている正教会やカトリック教会などの伝統教派では教会の伝統のなかに塗り込められ、信徒の文化や生活スタイルに近いところまでになっているように思います。

     

    マルチン・ブーバー(マーティン・ブーバー)

     

     

    この辺、デカルトの影響をかなり強く受けている近代プロテスタントの限界を感じます。

     

    近代思想が典型的に現れている近代経済学が一般に想定するほど、本来、人間は合理で割りきれる訳でもなく、近年、実験経済学が明らかにしてしまったように、人間は必ずしも合理的な意思決定ばかりしてもいないし、そんなに理詰めで判断してもいないように思います。

     

    人間理解が割と平板かも…

    その辺りのことを踏まえるならば、人間理解が伝統教派に比べ割りと平板なのは、福音派も、いわゆるリベラル派、あるいは米国キリスト教系のメインライン教会でも、かなり共通しているかなぁ、と思います。

     

     

    具体例をあげていうならば、教会の側で、「教会に来るひとは何らかの困り事を抱えている」という思い込みがきつすぎるように思います。確かに、かなりの確率で、お困り事を抱えている方が来られることも多いというのは分からなくもないのですが、ミーちゃんはーちゃんみたいに、道場破りではないですが、神学的な違いが細部のどこに現れるのか、信徒さんのご様子を覗いて見たかったり、教会を単に味わってみたいだけでご訪問しようとしていたものにすると、新しい教会に行くたび「この人何を求めて来たんだろう?」とか言う目で見られたり、根掘り葉掘りいろいろ聞かれるのはどうもねぇ、と思ってしまいます。

     

    もうちょっと、どっしり構えてお迎えになるカトリックや、来るなら来てみていいですよ風の正教会などのようにどっしり構えておられ、プロテスタント教会でよく牧師さんがすがり付くように追っかけてくるようなことが伝統教派では割と少ないということがあります。伝統教派では、司祭さんがわりとあっさり対応してくださる、と言うのは、どうもこのあたりの人間理解による影響もありそうかなぁ、と思います。

     

    次回へと続く。

     

     

     

     

     

     

    評価:
    西谷 幸介
    ヨベル
    ¥ 3,888
    (2018-03-01)
    コメント:個人的には面白かったけど、ほとんど一般のキリスト者には関係のない本かもしれないです。

    評価:
    スタンリー・ハワーワス
    ヨベル
    ¥ 8,097
    (2014-04)
    コメント:めちゃくちゃいいけど、普通の人には、関係のない本かもしれません。

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