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2018.12.03 Monday

教会の公同性(小文字のカトリック教会であること)について(正教会の視点から)(3)完

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    前回は公同性とは何か、日本の教会と公同性とのつながり、カトロウとカトリケー(一致性と同一性と全体性)の議論の混乱、教会とは、キリストがおられるところであること、ビショップ(主教)の存在と主教性があることの良さ、そして、主教制度を失った、主教制度を廃止してしまった結果、分離、分裂の方向性へと進んでしまったプロテスタント教会があるのではないか、ということをお話しました。

     

    さて、今日も、講演会でご紹介いただいたフロロフスキー神父の文章をご紹介しながら、ミーちゃんはーちゃんの突っ込みというか、思ったことを中心にご紹介したいと思います。

     

     

    ハリストスにあっての一致、聖神にあっての一体性
    前回公同性についての部分をフロロフスキー神父のお書きになられたリーフレットからご紹介したのですが、そこでのお話を紹介しながら、少し先走ってなぜ、一致が生まれるのか、ということをご紹介しましたが、フロロフスキー神父のお書きになられたものから改めてご紹介したいと思います。

     

    教会の本質は公同的である。まさに教会の体を織り上げている部分がすべて公同的だから。教会は公同的である。それが一つのハリストスの体だから。それはハリストスにあっての一致、聖神にあっての一体性である。そしてこの一致は至高の全体性と充溢である。公同的な結合の基準は、「心を一つに、思いを一つにする信じたものの集まり」(使徒4:32)であることだ。さもなければ教会のいのちは狭められ、制限されてしまう。・・・『おれのもの』『おまえのもの』への冷え冷えとした相互隔離は消えていく。

     教会の成長はその内的な全体性、その内的な公道性、全体性の完成の内にある。それは『彼らが完全に一つとなるため』(イオアン(ヨハネによる福音書) 17:23)である。

     

    やはり、キリストを礼拝するものであること、そして、神を礼拝する人々に聖霊(聖神)が内住しておられるはずなので、一体となるという論理構造になっているということのようです。

     

    先日、見るともなくNHKの『チコちゃんに叱られる』という朝関西地方で放送されている番組で、何故、母親は、妊娠・出産するとイライラするのか、ということを話題にされていました。その中で、「人間はもともと群れで生きる生物である」ということが触れられていましたが、その話を聞きながら、そもそも、人間は、公同的な生を過ごす被造物として、創造されているのかもしれない、と思いました。まぁ、どうも同じ内容を以前にNHK特集でやっていたらしいですが。

     

    チコちゃんに叱られるのワンシーン

    https://www.nikkansports.com/entertainment/column/umeda/news/201807190000915.html より

     

    そもそも、人は神の息吹(霊、いのち、ルーアッハ、プニューマ)を受けて人間になっていると創世記には書かれているので、神との共同体、神と共に生きる公同的な存在として造られているのかもしれない、とこの番組を見ながらフロロフスキー神父のお書きになったものを思いだしつつ妄想してしまいました。

     

    さらに、そんなことを思いながら、近代社会へと移行してきた過程とその結果を思い起こしてしまいました。今、世俗の仕事で、農業者の方がたの活動を支援する情報システム開発関連の仕事もしているのですが、農家の方々の姿を見ていると、もめごとや、ガタガタを抱えながらも、共同体として活動していなければならないという側面があるのを目の当たりに体験しています。個人勝手に何もできないのが、農村地域の生活スタイルであり、農業だという側面があるのです。

     

    都会に住んでいるとこのあたりの感覚が薄くなってしまうのですが、畦道の雑草の除去や防除、水利施設の管理といったこと、いつ、田んぼにどういう順番で水を入れていくのか、といったこと等を含め、自分勝手に何一つできない部分がものすごく大きいことを感じます。それを前近代的であるということは可能かもしれませんが、ある面、それは本来の人間の姿であるのかもしれない、と思います。ただ、キリスト教的に考えて見ますと、自分たちで、一つになろうとするのではなく、神に呼び集められているという意味で、一つであることが公同性なのではないか、と思います。

     

    近代社会と公同性

    近代社会に移行する中で、個人を確立させ得る技術や科学的知見が発見されても、ある程度、個人で生きることが可能になった時代でもありますし、個人が大事にされる時代になってきてはいますが、何をするにしても、本来、人は一人で生きられないように創造されているという視点を持って生きることは大事なのかもしれません。

     

     

    例えば、なぜ、計算機の能力が上昇し、人間を不必要な苦行である計算(例えば、給与計算をそろばんで昔はやっていた)から解放した挙句にできた、計算機技術の利活用の一つの方法として開発されたSNSが人間にここまで受けたのか、ということを考えると、そこには、共同体性というよりは、人間そのものが行動を目指して生きる存在であることにあるのかもしれません。その意味で、フロロフスキー神父が書くように、「『おれのもの』『おまえのもの』への冷え冷えとした相互隔離は消えていく」ものとして、SNSもあるのかもしれません。もちろん、広報手段という側面で使っているミーちゃんはーちゃんもいたりはするのですが。w

     

    ロシア正教会関連といえば、ウクライナ正教会が、ウクライナという国家の独立とともに、ロシア正教会から独立する方向で動いている話が話題となっており、これまでの、正教会としての緩やかな繋がりが、政治的な問題の影響から独立しようとしたのか、しているのかは知りませんが、これは、非常に残念なことではないか、と思います。このことも、ちらっと、先だって、松島司祭は触れておられました。とはいえ、こういう事例があっても、いつの日にか、公同性を取り戻すことを確信しているし、信仰者の間では、再統合に向けての話し合いと、和解がいつの日にか成立することを、外部者でありながら、祈りたいと思います。神は、きっとご自身の群れを一つに集められる方ですから。人種、政治、文化という枠組みを超えて、それらを術治めるのが全能の主であられるので。

     

     

    ウクライナ正教会の独立問題についての報道

     

     

    人の公同的変容

    さらに、フロロフスキー神父のリーフレットから、信徒と教会の関係、そして、教会の中で、人が次第にどのように変容するのか、についての正教会の考え方をご紹介してみたい、と思います。基本、教会の中で、他者を支え、他者により支えられ、他者と共に過ごす中で、変容するということになるようです。

     

    キリスト教の「愛の戒め」の新しさは、私達が隣人を私達自身として愛することにある。これは、隣人を自分と同じように会うすること以上のこと、隣人を自分自身と同一視することだ。自己を、自己の中にではなく、もう一人のものに、最愛のものに見出すことだ。(中略)
    『愛の特質は愛するもの、愛されるものをもはや別々の二人ではなく一つとすることです』 (金口イオアン 『コリンフ前書(コリント人への手紙 第一)講話』 33・3)。さらにキリスト教的な愛は自らの兄弟姉妹一人一人に『ハリストス』ご自身を見る。そのような愛は自己放棄と自己統御を求める。そのような愛はただ魂の公同的な広がりと変容の中のみで可能である。・・・一人ひとりが孤立し相互理解ができない「群衆」は兄弟姉妹の交わりを創り出せない。人々の結合は兄弟姉妹一人ひとりの、互いの兄弟的な愛を通じてのみ可能になる。この考え方は有名な、建設されつつある塔としての教会のビジョンに生き生きと表現されている。この塔はたくさんの石(信徒)によって建設されている。これらの信徒は、「生きた石」である(ペトル前(ぺテロの手紙第1) 2:5)である。建設の過程で、それらは互いに組合わせられてゆく。なめらかでお互いに隙間なく嵌め込目ることができるので、きわめて正確に一体化していく。(中略)塔はまるで一つの石でできているかのごとくである。これは教会の一致と完全性の象徴である。しかし、忘れないでほしい。なめらかで四角い石だけがこの建設に用いられたのだ。その他にも輝く石はあったが、丸い石だった。丸い石は建設に役に立たない。互いに組み合わせることができないので、建設にはふさわしくない。仕方なく壁のそばにおいておかれる(ヘルマスの牧者 第3の幻、2・6・8)古代の象徴主義においては、丸いことは、孤立、うぬぼれ、自己満足のしるしであった。

     

    私たちが「教会の公同性」に入って行けるためには、「自分自身を拒絶」しなければならない。教会に入れるようになる前に、公同的精神の中で、自己愛を克服しなければならない。そして、教会の交わりの完全さの中で、人格の公同的な変容が達成される。

     

    ここで、フロロフスキー神父は、ヘルマスの牧者における塔のメタファーで教会論が語られていますが、パウロは、エペソ人への手紙で、次のように書いている弧とを思い起こしていました。結局同じ事を言っているようだなぁ、とこの部分が読み上げられるのを聞きながら、思っていました。ここで、使徒たちや預言者たちは土台であり、イエスがすべての基準であることを、隅のかしら石であると書いています。そして、この土台の上に組み合わされているのが、私たちの世界的な教会、つまり、公同的な教会ということを、パウロは言いたかったのかもしれないと思います。

     

    【口語訳聖書】エペソ人への手紙
    2:20 またあなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。
     2:21 このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、
     2:22 そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのである。

     

    この塔や神殿のメタファーは、日本の城郭の後期の石組のような、非常にぴっちりとした石垣の組方や、南米クスコ遺跡のような石組をイメージしているように思います。

     

     

    熊本城の石垣 http://heiwa-ga-ichiban.jp/oshiro/kumamoto/index.html

     

    クスコ遺跡 https://matome.naver.jp/odai/2133603933183061001

     

    ここで、重要なのは、石垣内の個別の石材は、自分が他者であるもの、自分にとって他の石を支えると同時に、他の意思によって支えられているというところなのだと思います。そして、自分にとって上下左右の石が、その石材が存在することで抜け落ちるのを防いでいるという意味で、共に支えあう存在であるということは重要なのだと思います。

     

    互いに支え合うという公同性

    いつも行っているアングリカンの本日読んだ式文の一部の中に、こんな祈祷文がありました。

     

    By your love

    revealed to us in your Son

    brought near by your Spirit,

    take from us what we need to carry no longer

    so that we may be free again 

    to choose to serve you

    and be served by each other.

     

    この一番最後の be served by each other ということが公同性にとって大事なのだろうと思います。互いに支え合い、互いに支え合われる関係である、一方的に他者を支えるのではなく、他者を支える人も、他者によって、具体的な活動を通して、祈りを通して、記憶されることを通して、また、記憶することを通して、公同性を確保しているのであって、教会の代表的人物である牧師やその他の誰かだけを、信者が支えようとする関係ではないことが、公同性の一番の基本なのだと思います。

     

    当日、松島司祭によると、「自分自身を拒絶」して、というと、ファシズムだとかが全体主義だとか、滅私奉公とか、自己放棄を感じる人がいるかも知れないけれども、それは、本来の公同性とは違うとフロロフスキーはいっているのであって、人格の消滅ではない、とおっしゃっておられました。その意味で、教会の公同性は、切り離された個人主義でもないし、ファシズムでもないし、集団主義でもない、ということを強くおっしゃっておられたのが非常に印象的でした。

     

    特に、日本の場合、様々な社会の断面で絶えず表れてくる同調圧力が極めて高い社会ですので、人格の消滅とか、滅私奉公とか、自己放棄として公同性をとらえた場合、結局、神が異なって作った一人ひとりの才能や能力、存在そのものをだめにしてしまう(毀損してしまう)ことになりかねないとは思いました。「自分自身を拒絶して」とフロロフスキー神父がおっしゃるのは、我がまま勝手を働くというよりは、他人を教会内で出し抜いてまでも、他人を犠牲にしてまでも、自分にとっての利益を追求するというような生き方を拒絶することなのだろう、と思います。

     

    自分勝手な自己研さんの問題

    ここで、古代、磨かれた丸い石は、「孤立、うぬぼれ、自己満足のしるしであった」という表現を聞きながら、自分磨きの問題を考え込んでしまいました。昔の日本の歌に、金剛石も磨かずば、という日本の歌がある(以下の動画参照)のですが、磨いて丸い石にしたら、本当の徳が生まれるのが日本だとしたら、それって問題なんじゃない、というのが、正教会の人間の見方であるという側面があることを考えると、この違いはなんなんだろう、と思いました。

     

    その昔、家人が、以下の動画で紹介した、金剛石も磨かずば、という歌を歌って、自分磨きをしたい、と言い出したことがあったので、磨くとして、仮に素材が金剛石だったら磨く価値があるのかもしれないけど、もし素材が瓦礫だったら、磨いても瓦礫は瓦礫に過ぎないんじゃないかなぁ、といったら、身も蓋もない、と言われてしまいましたが。

     

    とはいえ、ちゃんと、金剛石には金剛石(ダイヤモンド)の使い道があり、瓦礫には瓦礫の使い道があって、例えば、もともと瓦礫は、風を防いだり、堤を造ったり、海を埋め立てするのには、必要なものであり、いくら金剛石が立派でも、海を埋め立てしたり、堤防を作るのには、価格が高すぎたり、固すぎて、使い物にならんのではないか、要は、それぞれの用途があるのではないか、ということを話しましたが。それを言うと、ある程度は納得してもらったようですが。

     

     

    金剛石 水は器 という昔の歌

     

    自己否定による聖三者の聖なる一体性との類似

    さらに、フロロフスキー神父のパンフレットから紹介してみたいと思いますが、三位一体(聖三者の一体性)ということについて、次のように書ています。 

     

    反対に、自己否定は私達自身の人格の視野を広げてくれる。そこには聖三者の聖なる一者性との類似がある。その公同性の中に教会は神的な完全さの似姿を想像する。(中略)東方ではアレクサンドリアの聖キュリロスが、西方では聖ヒラリウス、今日のロシアの神学では府主教アントニィが適切に語っている。「教会の存在と比べうるものはこの地上ではない。』自己否定を通して、自己実現が達成される。

     

    つまり、自己主張するのではなく、それぞれの役割を果たしていくこと、そして、自己の本当の理想像を自分勝手に設定し、それに向かって突き進むことをすることで、自己実現をするのではなく、敢えて自己否定をすること、他者に支えられていくことで、そして、他者に自分自身を与えていくという関係性の中で、その人に神が与え給うた真の姿が実現していくというのが、正教会の理解であることが述べられていると思います。


    当日の講演会で、取り上げられた例として、無署名性をいうイコンは、公同的な達成の一つの在り方を示しているということを、松島司祭はトルチャコフ美術館の至聖三者のイコンを取り上げながら、お話になりました。聖三者のイコンで有名なあるイコンは、ルブリョフのイコンと呼ばれていますが、あのイコンには、アンドレイ・ルブリョフが描いたとはどこにも書いていなくて、ただ、そう伝わっているだけに過ぎない、というお話をされました。たまたま、油絵のペイントで上書きされているものを外したら、ルブリョフの聖三者のイコンと呼ばれる絵が出てきた、という話をされていました。

     

     

    ルブリョフの聖三者のイコン

     

    自己実現の逆説という罠

    ところで、当日松島司祭からあった話の中に、我々は、俺が、俺が、自分が自分が、という自己中心の世界の中に生きている割に、結構自分探しをしている人が多いというお話がありました。松島司祭が若い方とお話していると、若い方が、自分が何したいのかわからないので、悩んでいるという話を聞かされるというお話がありました。そして、どうしたら、自己実現できるのか、ということで質問に来られるし、そういう方は、自己実現しようとして、焦燥感に追いまくられている感じがしていることが多いようです。

     

    その時に松島司祭は、ルブリョフのイコンの話をするそうです。ルブリョフは、単に真面目に職人として丁寧に自分に与えられた仕事をし、それが評価されていることをお話されるそうです。そして、自分がしたいことを見つけてすることが必ずしもいいことではないというお話をしているとのことでした。

     

    現代人は、自分磨きをして、丸い石として生きることが良いことだと思っているし、そう思いたいという側面があり、また、社会全体がそう生きろ、と言っているかのようである、ということも松島司祭はお話しておられました。そして、のびのびと自分らしく生きろと初等教育の過程から言いつ載っているのではないでしょうか。その結果として、自分探しをし、幻を追いかける中で、自分を腐らせてしまう、そういう方が多いとも松島司祭はお話になっておられました。そういう社会の要請というか圧力、若者の内的な要請に多くの人が押しつぶされているのではないでしょうか、そして、何も、自分のしたいことが見つけられないまま、工場、オフィス、学校で押しつぶされながら生きている。面白くない、として生きている人が多いということも、当日、尾崎豊の『15の春』の歌を例に出しながら、松島司祭はお話しておられました。

     

    尾崎豊 『15の夜』

     

    このような松島司祭のお話を伺いながら、ある面で、この部分で、フロロフスキー神父が言っておられるのは、自分自身が神から与えられたミッションであるしなければならないことを素朴に取り組む生き方をする時に、自己実現が完成するということなのではないか、と思っておりました。

     

     

    そして、本来のその人のよい点があらわれる為には、ある面での自己制御とか自己否定が必要であり、それが、正教の伝統の一つが修道的伝統の中にあって、自分を抑える中で開花する自己実現という考え方があるし、その部分にフロロフスキーは公同性を見ている、ということを松島司祭は言っておられました。

     

    同じようなことを、世俗の仕事で、大学生だとか、大学院生と就職活動の相談業務をする中で感じます。就職活動がうまくいかない人たちの多くは、有名な企業や自分たちが知っている、人々がよく知っている企業への入社を目指して、無意味に見える今日は化粧品メーカ、明日はスーパーマーケット運営会社と脈絡もない就職活動をされている方に多いことも確かなのです。あるいは、自分自身にふさわしい企業があるのではないか、と探し回り、条件の少しでもいいところを求めて、就職先をあさる学生さんも少なくないのです。

     

    確かに、大企業の方が安定しているとか、潰れにくい、あるいは、友達や家族が知っている会社に入社すると評価を受けやすいという側面があることは確かですが、しかし、山一證券は自主廃業し、都市銀行の一角を占めていた北海道拓殖銀行は消滅し、日本の都市銀行は、わずか3つに集約されてしまいましたし、ダイエーはイオンさんに買収されてしまいました。そんなことを考えると、大きいからといって、安定している、というわけにもいきません。自治体だって、かつては3000以上あった自治体が、平成の合併を経て2000自治体以下になってしまいました。

     

    こういう他人のふんどしで相撲を取る生き方(英語風の言い方をすると、他人の靴を履く生き方)というのは、経済的な豊かさは享受できる可能性は多少はあるとしても、実はナンセンスであり、特定の職業をなにがなんでも実現するような生き方が必ずしも幸せでなく、自分たちが今いる場で神から与えらたミッションを素朴に果たしつつ生きていくことで自己が実現するということが重要なのかもしれない、と人生の半分を終わった段階で思うようになりました。というのは、年齢の変化によって、能力の変化、自己の認識の変化、世界の変化とそれに伴い、自己の生き方の変化が否応なく迫られることを感じるようになったからかもしれません。

     

    その昔、FORTRANとかCOBOLといった言語が計算機言語では主流であり、主力であり、まぁ、一部の業務では、このタイプのプログラミング言語はいまだに主力である部分はあるのですが、今では、レガシーとか、化石とか、ダイナソーと呼ばれるようになってしまっています。その意味で、確かに祇園精舎の鐘の声、盛者必衰の理 の通りです。それを考えると、ある段階の目的に固執することや、やり方にこだわることは、意味をなさないことは、昔も今も変わらないことです。成功体験は、失敗の原因になりやすいのは、今も昔も同じことのようです。

     

    同じことは、自分達の理想的だと思う教会理解を追い求め、結局収拾のつかないほど細分化し、相互対話も困難な程に細分化状態となってしまったキリスト教プロテスタントの姿を思ってしまいます。

     

     

    教会に生きるものに求められる生き方として

    では、キリスト者、あるいは信徒はどう生きるべきか、ということが問題になりますが、フロロフスキー神父は次のように書きます。

     

    「教会の内にあるすべてのものが公同性のレベルに達する」といってはならない。そうではなく「誰でもそれに到達することができ、到達しなければならず、その到達へと招かれている」というべきである。教会ではそこに達した人々を教会博士や教父(師父)と呼ぶ。なぜなら、彼らから彼らそれぞれの言明だけでなく、教会の証言を聞くからだ。彼らは、その公同的な完全さから、恩寵のあふれたいのちの完全さから語る。

     

    この「教会の内にあるすべてのものが公同性のレベルに達する」といってはならない。そうではなく「誰でもそれに到達することができ、到達しなければならず、その到達へと招かれている」というべきである。という部分は、本当に大事ではないか、と思います。教会にいれば、すべての信者が公同的になる、ということではない、ということをお話されているように思います。

     

    このあたりに関して、このブログでも、決断主義の問題との関係で、

     

    でも一部触れましたが、神を信じるという決断は出発点に過ぎず、その後のプロセスの大切さを、教会の一部に時間をかけてなっていくこと、そして、その中で、他者に支えられ、他者を支えることが公同的であることの一側面であることなのかも知れないなぁ、と、このフロロフスキー司祭の書かれたパンフレットをもとにした講演会からも考えました。

     

    近代社会の成立を経た後、日本に伝わってきたキリスト教会では、どうしても、個人に重点がありすぎ、その結果として、公共性というか公同性が薄くなり、神と人々との関係ではなく、神と私の関係になってしまう、という側面があるように思います。もともと、人間が群れで生きる様な身体的構造になっているということを考えていくとき、もう一度、キリスト教会として、公同性を取り戻すかどうかは別として、教会と公同性とのかかわりを、信徒ひとりひとりが考えることの重要性を改めて思うことになった講演会でした。

     

    以上で、このシリーズは終わります。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

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