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2018.12.01 Saturday

教会の公同性(小文字のカトリック教会であること)について(正教会の視点から)(2)

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    前回は、正教会で幅広く尊敬されているゲオルギィ・フロロフスキー神父のパンフレットから、教会の公同性についてのパンフレットに基づくご講演の最初の部分を紹介しました。

     

    そして、教会をキリストが造ったこと、そして、教会とは、神と人が一致していることを地上で示す実体であること、ペンテコステで起きた聖霊(正教会では聖神)があふれているのが、今日も続いているのが教会であること、そもそも、教会そのものが神秘であり、そのそも三位一体がコミュニティであるように、神と人がともにあり、ともに受け入れ合う関係が、公同性の原型であることを述べている部分から、ご紹介しました。

     

    基本、ご講演会は、フロロフスキー神父のパンフレットからの抜き書きのような形でご紹介、ということでした。講演会後にそのパンフレットの松島神父による翻訳を頂きましたので、今回からは、パンフレットからの引用部分をご紹介しながら、読んで思ったことを中心に書いてみる方法に変えたいと思います。

     

    公同性をどう考えるか

    フロロフスキー神父のパンフレットの中で、レランのヴィンケンティウスの基準として知られている『公同的』なるものの定義とは、次のようなものとして書かれていました。

     

    いたるところで、
    常に、                    

    すべての人に
    信じられてきたもの

    これは、ある面構成の一つの考え方として、広く知られているが、これは実に不正確な表現で、こんなものは適用がしようがないものであるという意味で、問題があるのではないか、とこのパンフレットのすこし後の部分では書かれていました。

     

    湖の定義を元に、実際の世界を考えて見ますと、確かに、アジアというキリスト教を信じていない人が圧倒的に多い例外的な地域があり、すべての人に信じられているとは言えないわけです。とはいえ、キリスト教全体としては、確かに、世界中のあらゆるところで、時間を超えて、キリストが神としてこの地上に来たということを信じる人々にとっては、キリストは、それらの人々にとってフォーカスの中心点ではあり続けたわけです。その意味で、様々な教派に分かれながらも、キリストが神という点においてだけは、キリスト教の世界では、様々な教派、あるいは、流れに分かれながらも、ある種公同的のようなものを共有する人々ではあったわけです。
     

    公同性が、現実としてどのように見えるのか
    フロロフスキー神父は、公同性について次のようにパンフレットでは書いておられます。

    教会の公同性は、量的な、また地理的な概念ではない。それは世界中に信徒がいることとは全く無関係である。教会の普遍性はその公同性の要因ないし基盤ではなく、結果もしくは顕れである。教会は全世界的な広がりないし普遍性は外面的な印であり、その公同性に絶対的に必須のものではない。教会は、たとえキリスト教徒の共同体が、不信と異教の大海原での孤立したわずかな小島のようであった時代でも公同的であった。そして協会は、人々がそこから「離れ落ちる」(第2テサロニケ 2:3)神秘があわらとなる「最後の時」にいたって、再び「小さな群れ」へと縮小してしまっても、依然として公同的であり続けるだろう。

     

    その外面的な、そして空間的に拡散して存在しているからと言って、公同的なのではなく、むしろ、公同性は内的なものから生まれているものであって、その意味で、普遍性universalityを持っているからと言って、公同性catholicityを正確に表現しているわけではない、というような趣旨のお話が、松島神父からありました。

     

    元々、プロテスタントの福音派的な性質の強い教会(キリスト集会派)に長らく集っていたのですが、そこでは、自分たちは使徒時代の教会に忠実に戻ろうとした教会、キリスト者の集団であり、そうであるがゆえに、使徒時代から続いている教会であるとご主張の方々もおられました。

     

    個人的には、そうでないだろうと思っていましたので、様々な英国の研究者の文献を読んだ結果、結局、国教会の分離派(国教会のある時代の在り方に反対して、そこから離れていったグループ)であることを確認したのですが、そのグループの中の方々の一部には、教会外部の人々に自分たちこそ、使徒時代から続いている教会だと、外部のかたにご説明になっておられるを傍でお聞ききしながら、それって、かなりやばいですが、大丈夫ですかねぇ、と当時から内心思っておりました。

     

    いまでは、正教会さんに時々お邪魔して礼拝を見学し、講演会でお話をお聞きする中で、どちらが使徒時代からの教会のスタイルを維持しているか、と言えば、もちろん正教会さんのほうが、使徒時代の教会を維持していると言うのが当然だと思うようになりました。

     

    しかし、無知ゆえの発言とはいえ、自分たちこそ、使徒時代から唯一、その伝統を維持し、直結しているという意識の背景には、この公同性、神の霊が与えられているがゆえに結果として生じている公同性の理解が不十分であるがゆえに、非常に誤解を招く表現をしてしまわれたのだろうなぁ、と今では思います。

     

    日本の教会と公同性との係わり

    あと、フロロフスキー神父の「不信と異教の大海原での孤立したわずかな小島のようであった時代でも公同的であった」という表現を見ながら、まさに、これは現在の日本の教会の状況だ、と思ってしまいました。

     

    現在の近代化時代を経た日本では、確かに、遅れて日本に来た外来宗教であり、高々日本での歴史は最大でも500年、プロテスタントの多数の教会にとっては100年未満というキリスト教への不信は波を逆巻くかの如しでありますし、日本という異郷社会の大海原の中で、キリスト者とそれが形成する教会は、孤立したわずかに、波間に見え隠れする群島のような存在でもあります。

     

    しかし、その中にあっても、公同的な存在であることが、神によって許されているという希望がある、というのが、日本のキリスト教会とそこに集う信徒の希望なのかもしれない、とこのフロロフスキー神父のお書きになられたものを聞きながら思いました。

     

    自分たちは弱く、はかない、時に波間に沈むかのような存在でありながらも、公同的な教会の一部であるという側面を持つことは忘れてはならないことなのかもしれません。自分たちの教会や自分たちの持つ教理の正統性や、唯一性、真理性を言う前に。

     

    イエス(イイスス)の名において集まることと公同性

    フロロフスキー神父のパンフレットでも出てくるのですが、結局、イエスの名において集まるところである以上、そして、そこに聖霊があふれる場所である以上、そこは、正教会であれ、カトリック教会であれ、聖公会であれ、プロテスタントの諸教会であれ、不完全ながらも、何らかの公同性があるわけですし、少なくとも、父なる神、子なる神、聖霊なる神の名によって(名において)祈る共同体であれば、あるいは、イエス・キリストの名において祈る以上は、不完全ながら公同性を持っているということなのだろうと思います。ただ、正統性や妥当性、真正性、真理性に近代社会が異様なこだわりを持った結果、公同性と真理性、真実性が混乱した結果、公同性と正統性、そして、唯一性と一体性の理解が混乱を起こした結果の言い過ぎが起きてしまっているのかもしれない、と思います。

     

    大変失礼な言い方であるのは承知しているのですが、この地上の教派の違いなどは、まぁ、ドングリの背比べでしかないように思います。そこで、どちらが正統だ、とか、どちらが正しいとか、言う意味はあまりないのではないか、と思うのです。

     

    どんな教会でも、結局は、所詮、鼻で息する人間がなしている神への礼拝の表現の在り方の一つに過ぎないので、どっちが偉いとか、どっちがまともだとか、もはや笑止千万であるとしか思えないように思います。

     

     

     


    カトロウとカトリケー

    公同性とは何かについて、フロロフスキー神父がお書きになったパンフレットからまず引用してみたいと思います。

     

    「カトロウ」(全体として)から派生する『カトリケー』はまず第一に教会のいのちの内的な全体性(かけることのなさ)Wholenessと統合性Integrityを意味する。ましていかなる意味においても人間的な経験の中にある『交わり』ではない
    「カトロウ」はカタパントス(「みんな」として)と同じではない。

     

    このWholenessとUniformityと、Unityは、非常に混乱しやすい概念であるように思います。実際、もともといたキリスト教会(キリスト集会派)の最初のころの指導者の一人のジョン・ネルソン・ダービー(1830-1880年頃に活躍、ディスペンセイション神学に関する理解をある程度体系化させ、普及させた)という人は、この公同性におけるUniformity とUnityに関して、かなり偏った概念を持っており、混乱していたように思います。

     

    その結果として、真の教会というものは、どこを切っても同じような金太郎あめの教会であるべきだ、と主張したようです。その結果として信徒が、同じような行動をとっていることが正しいと思い込み、そうするべきだとも主張したようです。

     

    その意味で、「カタパントス(全員が同じであること)」と「カトロウ(全体として)」共通部分を持つことを混乱させていたようです。そして、全員が同じであることが、真理性や真実性があることの象徴であると思い込んでいたのではないか、とも思います。

     

    John Nelson Darby(1800−1882)

     

    聖餐式の式文から見た公同性

    現在、参加させてもらっている聖公会で、最初のころ強く感動を覚えた聖餐式の式文で、

     

    Though we are many, we are one body,

    because we all share in one bread.

     

    という式文があるのですが、これこそ、教会の公同性(カタロウ)の表現だなぁ、と思うのです。一人ひとりは別々だけれども、そして、多くあるけれども、でも、全体として一つであるという意味で、公同であるのだ。それは、イエスにあって一つであるからなのだ、そのイエスが一つである象徴としてのパンを自らの内に受けとるものとして一つだ、という意識において、共同体をなしているし、公同的な存在なのだ、ということがよく表れている式文だと思いました。

     

    そして、1年余り後、その式文を讃美歌にした美しい、以下で紹介する讃美歌に出会うことになったのでした。

     

     

    Though We Are Manyの讃美歌

     

    その意味で、公同性は、多数であり、多様な存在があることを必要とするし、それと同時にそうであっても全体として一つであるということを必要とするのだなぁ、とお話を伺いながら、上記の式文とそれを歌にした上の讃美歌を思い起こしておりました。

     

    ハリストス(キリスト)がおられるところとしての教会

    さて、引き続きフロロフスキー神父のお書きになれらたものをもう少し引用したいと思います。以下の部分をお聞きしながら、教会というのは、どこまでも人間の集まりであると同時に、それが一つに集まっていることに意味があるのだろうなぁ、と思いを巡らしていました。

     

    『主教がいるところに教会全体をあらしめよう。それはちょうどイイスス・ハリストス(イエス・キリスト)がおられるところに公同的な(カトリック)教会もまたあるのと同じだ。』(アンティオケの聖イグナティオス「スミルナへの手紙」)これらの言葉は「私の名によって二人また三人が集まるところには、私もその中にいる」(マトフェイ(マタイ)18:19−20)という約束と同じ考えを表現している。(中略)「教会」という語は「すべての者が、一つの一致の中に集まっていることを意味する。だからこそ、教会はエクレシア(集まり)と呼ばれる。

     

    この部分についての引用を拝聴しながら、残念ながら、プロテスタント教会は、カトリック教会への反動から、主教、ビショップと呼ばれる存在を失い、一致する方向ではなく、それぞれの目に正しいと思われる方向性を追求を追求するあまり、バラバラに分裂、細分化する方向に進んでいて、相互の話し合いもしにくい状態へと向かっていると思います。結果としてですが、プロテスタント全体としてみた場合、プロテスタント教会は、それぞれがより正しくあろうとして、不幸な結果として、集めるものではなく、散らすものになってしまっている、という印象すらあるように思います。
     

    アンティオケのイグナティウスが殉教する場面とされる絵画

     

    福音書を思い起こして見ますと、イエスが、この小さいものを私のところに来させなさい、とそもそも言われたにもかかわらず、既存教会への反発、反動のゆえに既存教会から分離し、さらに分離したところから、分離に次ぐ分離を繰り返し、今日では、相互に教派を越えて話し合いをするのも困難な状態になっているかもしれません。

     

    【口語訳聖書】マタイによる福音書
     19:14 するとイエスは言われた、「幼な子らをそのままにしておきなさい。わたしのところに来るのをとめてはならない。天国はこのような者の国である」。

     

    そして、共に、心合わせて同じ神であるイエスを、神を礼拝したい、という思いを持つ人々に対して、エキュメニカルな動きは人間的な働きであり、妥協の産物だ、という極論をおっしゃる方にも、時に出会います。しかし、イエスは、分断された人々を神の人々として一つにするために地上に来られたのかもしれないと思うとき、それは残念な傾向に思えてなりません。

     

    なお、フロロフスキー神父のパンフレットで引用されているアンティオケの聖イグナティオスの記載の部分は、次のような英文の翻訳だったようです。

     

    Wherever the bishop appears, there let the people be; as wherever Jesus Christ is, there is the Catholic Church. It is not lawful to baptize or give communion without the consent of the bishop. On the other hand, whatever has his approval is pleasing to God. Thus, whatever is done will be safe and valid.

    — Letter to the Smyrnaeans 8, J.R. Willis translation.

     

    ビショップ不在の大半のプロテスタント

    確かにスミルナへの手紙の英文翻訳の後半部分を見ると、ビショップ(主教)の主導性というのか、主教の権威性が強く出ている感じがあります。そこに、プロテスタント的な精神は反感を覚えるのかもしれません。つまり、人間に過ぎないビショップにそこまでの権限を持たせて良いのか、ということもあり、メソディストを除いては、ビショップという存在がプロテスタント教会群の中から、消え去ってしまっているように思います。

     

    もちろん、主教が必ずしもまともであるとも限らない例が歴史上ありましたし、そのようなふさわしくない主教が選ばれることにより、多くの不具合が教会に起きたことは想像に難くありません。しかし、その結果というか、副作用として、教会が分裂に分裂を重ね、教会内の統合ができなくなったり、教会間のもめ事を教会の内部で収拾できなくなっているし、教会間の話し合いをする場合、プロテスタント教会全体と話をしたい場合、だれを窓口としてお話をすればよいのかがわからなくなっている部分は多分にあるように思います。

     

    例えば、教会同士で共同で何かをしようとするとき、プロテスタント派を代表する人物が誰であると理解するのが適切なのか、というのはかなり悩ましい問題です。カトリック教会の場合だと、今の教皇フランシス様というカトリック教会を代表する方がおられますが、プロテスタントは、我も我もと雨後の筍のごとく代表者と主張される方々や、そうだと自分では思って居られるのではないか、と思われる人が多数おられ、本当にその人と話をしたのでプロテスタント教会全体と話したことになるのか、ということが確認できない現状があるのではないか、というように思います。

     

    まぁ、正教会でも、地域主教がたくさんおられるので、全地公会議で主教の中の代表的な主教が選べなくなった現状がある以上、プロテスタント教会群と同じような課題をお持ちだとは思います。しかし、話し相手になる主教の数的規模はプロテスタントよりははるかに少なくて済んでいます。とはいえ、実際正教会にはさまざまなグループがあり、そして主教が多数併存して居られ、その時々の政治的状況などに応じて、一致できないなどの部分も時に見られます。

     

    プロテスタント教会の中で失われかけた全体性と共同体性

    こういうことを考えておりますと、教会暦の軽視や、聖餐式の軽視に並んで、主教制の喪失というのは、プロテスタントが伝統教派から分離していく中で捨ててしまったことのうち、大きな損失ではなかったか、と思うのです。

     

    主教制がないがゆえに、一教会一主教どころか、一教会一教皇、各教会にお一人教皇がいるといいたくなりそうな状態になってしまい、全体としての話し合い、ともに神を礼拝しあうことすら困難になった限界というのは、プロテスタントにはあるなぁ、とお話をお聞きしながら、思ってしまいました。

     

    まぁ、一教会一教皇も問題ですが、極端な場合、プロテスタント教会関係者では、家庭集会などを開催される信者さんもおられますから、下手をすると、一世帯一教皇みたいな残念な状態もあるかもしれません。さらに、細分化され、プロテスタントの場合、下手をすると、一人一教皇というような残念な事例もないわけではないかもしれません。こうなると、もはや、公同性はおろか、教会が具備すべき共同体性も失われてしまいます。

     

    ところで、先に引用した聖書箇所で、子供を呼び寄せようとしたイエスは、この地上において、神の国、天国、天の国が来たことを言い続けた人物でありました。さきの子供たちのように呼び寄せられた人々からなる、その天国、神の国、天の国は、そもそも、共同体性があることろであり、多くの人が神によって呼び寄せられ、集まっている共同体のことでもあるように思います。

     

    神がイエスを介して伝えようとしたのは、呼び寄せられた人々が造る共同体がいずれできる、ということであり、仏教的な浄土、あるいは悟りの境地が個人個人の世界であり、個人が究極的に関連がなくなる社会を理想とするのとは、完全に別物、別方向であるなぁ、と思いました。

     

    次回へと続く。

     

     

     

     

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