教会の公同性(小文字のカトリック教会であること)について(正教会の視点から)(1)
今日は、大阪正教会さんで開催された教会の公同性についての日曜講座に行ってきたので、その内容をご紹介しようか、と。内容の誤りは、ミーちゃんハーちゃんの能力不足によるので、そのあたりは、ご容赦・ご理解賜りたくお願いいたします。
フロロフスキー神父様のリーフレットから
本日の公演は、ゲオルギィ・フロロススキーC.Florovsky というかたの 『教会の公同性 The Catholicity of the Church』より前半部分のご紹介で、カトリック(公同的)とは何を意味するのかについてのお話であした。
ゲオルギィ・フロロフスキー神父
正教会で広く尊敬されているゲオルギィ・フロロフスキー神父と公同性
まず、正教会は、ニカイア・コンスタンチノープル公会議の信条に従っており、その信条の中に、我ら聖なる公の教会を信ず、当文言があるが、そこでいっている、公(おおやけ)の教会が、公同の教会であり、カトリック教会がその名にカトリックを冠していますが、カトリックということばは、公同的 普遍的、正統的という概念を含むものであり、かならずしも、カトリック教会の占有物ではあるとはいえないものだといえましょう、という理解を松島司祭はお話でした。
松島司祭によると、カトリックには正統的・普遍的という概念があるとはいうものの、単に正教会だから、正教会のみが持っているというような生易しいものではないことを感じた、ということでした。なお、このパンフレットを描いたフロロフスキー神父は、ロシア革命時に、ロシアを脱出し、パリの神学校、後にアメリカの聖ウラジミール神学校の学長経験者でもあり、正教原理主義者と呼んでよいほどのガチガチのタカ派の正教会関係者からも、エキュメニズムに関係している他派とも融和的な正教会関係者からも尊敬されている人物でもあるそうです。
また、カリストス・ウェア司教が何度となく教会の公同性というこのパンフレットに立ち戻ったことがある本であり、小著でありながら、様々な書籍をはるかに凌ぐ本であるといえるかもしれない本である、と松島司祭が思っておられるのか、このパンフレットだそうです。そのパンフレットの一部エッセンスのみのご紹介の機会でもありました。
この日のご講演では、フロロフスキー神父のブックレットのカトリック性の本質を述べている部分について述べることにしているということで、そのパンフレットの後半部分は伝統との関わりについて述べられているのですが、これに関しては、別の機会に述べたいと考えておられるようでした。なお、詳細を知りたい方は、全文日本語に訳出しているので、そちらを参考にしてほしいということでした。元の英文は、相当複雑なもので、そうとうご苦労されたであろうことは、当日拝領した翻訳文からもうかがわれました。
神と人との一致としての教会
教会とは何か、について、フロロフスキー神父が述べておられる『教会の公同性』東夷パンフレットの冒頭に、次のようにあるということご説明が松島司祭からありました。
ハリストスは世界を征服した。この勝利は彼がご自身の教会を創造したことにある。人間の歴史の空虚と貧しさの、世さわと苦難のただなかに、ハリストスは「新しい存在 New being」の基礎を据えた。教会は地上でのハリストスの作品(わざ)である。この世界へのハリストスの臨在のイメージであり、彼の住まいである。
この部分を拝聴しながら、キリストの勝利の象徴、死に対する勝利の象徴こそ、教会である、とか言われてしまうと、もう、本当に参ってしまいます。フロロフスキー神父がここでおっしゃっている意味での教会は、まずもって、オーソドックスチャーチや正教会と呼ばれる正教会の系譜に連なる教会のことでしょうが、しかし、恐らくフロロフスキー神父は、それだけにとどまらず、西方教会(ローマカトリックとそこからの分離していったプロテスタント派の諸教会)を含め教会と呼ばれているのだと思います。つまり、この教会こそ、イエスの勝利の象徴であり、世俗の力を持つ、死や、そして死とそれに伴う恐怖に付け込む悪しきものに対する勝利そのものが教会なのだ、とおっしゃっているように思いました。そして、教会こそ、この世界へのハリストス(キリスト)が今も生きておられ、今も存在することのイメージであり、どんなにもめごとがあり、不具合があっても、キリストの住まいである教会なのだ、ということを主張しておられます。
テゼの集いでもらった祈りから
ところで、前回のNHKのこころの時代の晩組を見たときの感想についての記事で、この正教会での講演の2日前の夕方、神戸のカトリック教会で開催されたテゼの集いに参加してきたのですが、その際に、お土産としていただいた、紅茶とともに配られた小さな紙に次のように印刷されていました。
主よ、地上を旅するすべての教会を導いてください。カトリック教会、プロテスタントのすべての諸教会、正教会など、あなたのからだであるこれらの教会を今日も支えてください。これらの教会に連なるすべての信徒の群れと、それに仕える牧師、神父、宣教師、神学生、修道士、修道女たちを励まし、支え合う喜びで、私たちの教会を満たしてください。私たちの教会が、あなたをお迎えするベツレヘムの馬小屋となり、もっとも弱いもの、痛んでいるもの、悲しんでいるものをその中心に迎えることができますように。
まさに、出エジプトの民が荒野を昼間は雲の柱、夜は火の柱に導かれてとどまり、そして旅したように、アロンよりもはるかに優れた大祭司であるハリストス(キリスト)を中心として生きているキリストのテント住まいをする旅する教会でもあるのだなぁ、とお話を聞きながら、思いました。そして、その教会は、旅から旅への遊牧民のそのものですから、イエスを迎えるのは、ベツレヘムの宿屋の家畜小屋に会ったよりはるかにこきたない飼い葉おけの中でしかないわけです。教会はその意味で、ベツレヘムの宿屋の家畜小屋の飼い葉おけ以下の存在でありますが、その汚い教会に、来なくてもいいのに、わざわざ来て、内住し、教会の中心に、弱きもの、痛んでいるもの、悲しんでいるもの、社会から打ち捨てられたガテン系の羊飼いのようなものの中に共に在ろうとしているのが、ハリストス(キリスト)である、ということを、もう一度お話を聞きながら、思い出してしまいました。
三浦マイルド氏が紹介する道路警備員(ガテン系の皆さんの雰囲気がよく出ている 当時の羊飼いはこんな感じだと思われ)
今は、羊飼いについては、イエス様が私は良い羊飼い、と言っておられるので、キリスト教業界で羊飼いのイメージは、むちゃくちゃいいものになっているが、当時のイスラエルの文脈での羊飼いは、上記の動画で紹介するような、社会を支える最底辺の仕事の一つである道路警備員のような仕事であったし、実際道路警備員の方は、現代のヒツジやヤギのような存在であるバイクや車、人間を身を挺して低廉な時給で警備しているという意味で、イエス時代の羊飼いのイメージとしては、現代における道路警備員的存在、と理解するのが一番近いのかもしれないと、改めて思ってしまいました。
ペンテコステの日に何が起きたか
先週ペンテコステの週は終わって、今週はカトリック教会、聖公会では、王なるキリストの主日の週になっているけれども、教会歴の中で最も長い週は、ペンテコステの週が26週あります。これを考えると、ペンテコステというのは、実に教会と密接に結びついていることをおもいました。プロテスタントでは、ペンテコステは、イースター後のある一週間覚えますが、本来、ほぼ毎週の礼拝がペンテコステなのだとも、以下の文章をお聞きしながら、改めて思いめぐらしました。
聖神が降り、十二使徒と彼らとともにいた人々によって、教会が目に見えるものとなった。…それは途方もない理解を絶した神秘である。聖神は教会をご自身の住まいとし、途切れることなくそこに生き続ける。教会で私たちは「神の子とする神(しん)」(ロマ8:15)を受ける。
http://www.diocesi.torino.it/site/veglia-di-pentecoste-preghiera-in-cattedrale-per-i-cristiani-perseguitati/
教会以外に救いなしとキリストの体
Extra Ecclesiam nulla salus『教会の他に救いはない』 なぜなら救いは教会だから。救いはハリストスの名を信じる一人一人への「道」の啓示だから。教会にあってのみこの啓示は見出される。教会という「ハリストスの体」、その神人両性的有機体にあって籍身のうちにその啓示は充溢(あふれ)ている。「神は人の子となった、それは人もまた神の子になるためである。」と聖エレナイオスは述べている(異端論駁 3-10-2)
松島司祭によると、同じようなことはアタナシオスも言っているし、それが正教の救いの理解の本質的な表現であるといえるというお話でしたが、教会のほかに救いはない、はキプリアヌス先輩のことばであると思うのですが、それは当時の圧迫下および非常に社会的な苛烈な環境でもあったローマ社会での一つの実像ではないか、というように思います。もちろん、現実的な側面での救いでもあったように思いますが、それだけでなく、そこがここで、フロロフスキー神父がお書きのようにハリストスの体であり、そこが神と人が一つになるというキリスト教の救いを示す場である、ということにあるのだろうと思います。
とはいえ、現実の教会は、正教会でも、カトリック教会でも、プロテスタント教会でも、聖公会でも問題だらけです。完璧な教会はないように思います。しかし、そうであっても、そこは、ハリストスの体であり、そこは、神と人が和合していることを示す場でもあるということは、もう少し考えた方がいいかもしれません。そして、それは、ここでエレナイオスが言うように、人もまた、神の子になるということであり、もう少しいえば、人が神の養子となって、神の国を死の支配を打ち破り、死を征服した勝利者キリストにつながり、共にこの世界をいたわり、ケアするものになるということなのだろうなぁ、と思いました。
カトリシティと教会の神秘
まさに、フロロフスキー神父が次のようにお書きである通りなのだろうなぁ、と思いました。
「しかるにあわれみに富む神は、私たちを愛してくださったその大きな愛を持って在かに死んでいた私たちを、ハリストスと共に生かしーーあなたが救われたのは、恵みによるのであるーーハリストス・イイススにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせてくださったのである。」(エフェス2:4−6)。ハリストスの体としての教会の神秘はそこにある。教会は「充満、あふれ(プレローマ」すなわち、成就、完成である。…教会のソボールノスチ、公同性(カトリシティ)と言われるのは、この一致である。この公同性こそ、教会は完全さそのものであるし、神と人の結合の継続と完成をしめしているのである。
教会は、聖神(聖霊)のあふれである、というのは、極めて大事ではないか、と思います。現実の教会は、不完全で不十分なものであるという側面はあるのですが、同じキリストを神として礼拝しているという一致は、ある面本来の姿に戻っているという意味で完全さ(本来の姿)を持った有機体といえるわけで、神と人が和合し、神と人とが平和な状態、本来の人間の姿に戻っていることを示している(大嫌いな表現をあえて使うとすると、証ししている)、具体性を持って、示しているのが教会だとはいえると思うのです。
ただ、プロテスタントの場合は、それぞれの教派の持つ固有の正しさ、完全さを目指して教会形成をしている部分もあるので、なかなか一致とか、具体的な行動論のところで、他者との差別化や自己主張を図ろうとする傾向が信仰者個人レベルでも見られる場合もあるので、なかなか、本来の神との平和があるというところに着目しにくい問題があるようにもおもいます。そのため、教会が本来持っているはずの公同性、カトリシティがうまく表現できていない場合もないわけではないとは思います。
とはいえ、公同性を追及しようとする動きは、プロテスタント教会の中でも全く見られないわけではないですが、しかし、その公同性の回復のためにものすごいエネルギーが必要となることも、また確かではあります。同じキリスト教用語でも、それぞれの教会群ごとに味わいが違うので、お互いにわかって会話しているつもりでも、はたから見ていると、議論があまり噛み合ってないことも時々見られるのが、時に残念でなりません。
三位一体(至聖三者)とカトリシティ
実は、三位一体がカトリシティの象徴であることについて、フロロフスキー神父のお書きになられたパンフレット(松島司祭による翻訳)では、次のようにかかれています。
教会のいのちは一致と結合である。からだは聖神の一致と愛の一致の内に一つニア見合され成長する。もちろん、この一致は外に現れた一致ではない。内的で、親密で、そして有機的な一致である。・・・何より、教会の存在の目的が、互いに引き離されている人類を再結合することにあるがゆえに、一致なのだ。教会のソボールノスチ、公同性(カトリシティ)といわれるのは、この一致である。・・・新しい存在が始まる。新しいいのちの原理が現れた。「父よ、それは、あなたが私のうちにおられ、私があなたのうちにいるように、みんなのものが一つとなるためであります。すなわち彼らも私たちのうちにおらせ・・・わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです」(イオアン17:21−22)。
(中略)
これは至聖三者の一致のかたち(イメージ)への究極の再一致の神秘である。それは教会のいのちと、教会の成り立ちのうちに実現される。「ソボールノスチ」の神秘、公同性の神秘である。
この部分の文章を松島神父から紹介していただきながら、ナウエンが同じようなことを書いていたことを思い出しました。どの本だったかは思い出せていないのですが、三位一体の中にコミュニティがあり、それが教会であるという趣旨のことを書いていたような気がします。
Andrei Rublevによる至聖三者(Holy Trinity)のイコン
そして、我々が、神の子であり、神の子が共に集まること、それが教会であるのでしょう。ここで、神のかたちの回復、分断された人々が一体になること、分断された人々がコミュニティを形成することが、公同性の神秘であると、フロロフスキー神父は書いておられます。この神秘であるという部分は大事ではないか、と思います。
プロテスタントは、文字文化を中心にしてきたこともあり、この神秘をつい言葉で書いてしまって、わかった気になってしまう傾向があるように思いますが、神秘は神秘のまま、受け止めるという謙虚さというものにかけていたなぁ、と自身のキリスト者人生を振り返って思います。どうやっても説明できない神秘はあるように思うのです。それは、現実でもありながら、ことばの限界を超えたものの存在、つまり、神ご自身の御存在そのものが神秘でもあるわけですが、それをなんとか、論理や言語で証明しようとし続けてきたのが、近代社会であり、近代社会を経由した神学であったようにも思います。もう少し、神秘を神秘として素朴に受け止めるという姿勢を持つべきであったのかもしれない、とこれまでのキリスト者人生の遍歴を思いめぐらしておりました。
次回へと続く
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