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2018.11.25 Sunday

緊急公開 今朝の『こころの時代』 祈りの竪琴 という番組を見た

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    全体の概要

    今朝、いつものようになんとなく見ているNHK教育放送 E-テレの『こころの時代』を見ていました。NHKのウェブサイトによる説明はこんな感じで紹介されていました。

     

     

    2018年11月25日放送「祈りの竪琴」

    アメリカ人宣教師のキャロル・サックさんは、日本に暮らして35年余り。52歳の時、死に直面する人をハープや歌声を用いて看取る「音楽サナトロジスト」の資格を取得。以後、その学びを発展させ、ホスピスや病院、高齢者施設、刑務所などで広く、苦しみや困難の中にある人に音楽による祈りを届ける活動を続けてきた。一人一人の呼吸に合わせて奏でる音楽は、その人がかけがえのない存在であることを伝える祈りとなる。その力とは。

    【出演】キャロル・サック(宣教師・音楽サナトロジスト)

     

     

    アメリカ人中西部人の牧師家庭(多分、牧師であったお父様の写真の服装から見る限り、福音ルーテル派かエピスコパル教会(アングリカンの米国のグループでの呼び方)ではないか、と思われる)に生まれ育った出演者のキャロル・サックさんが、アイリッシュハープと出会い、アイリッシュハープ(本人は、ケルティックハープだと発音しておられました)を使いながら、山谷のホームレス向けのホスピスで、ホームレスの人々の人生の最後の時間にテゼやグレゴリオ聖歌、子守唄、アニュス・デイなどを柔らかなケルティックハープの音楽を演奏することで、人々が変わっていく姿、人々が神の前に、怒りを握りしめた思いや手を解き放ち、本来の人の姿を取り戻していく、この方が出会われた人々の事例を何例かご紹介されていました。

     

    上の紹介では、ホスピスや病院、高齢者施設、刑務所、と書いてあったが、基本取り上げられている事例は、山谷の『きぼうの家』と呼ばれるホームレスの方向けのホスピスでの事例が大半であったように思います。

     

     

    例えば、こんな感じの曲(出演者ではない別人の演奏)

     

    呼吸をすることと賛美歌を歌うこと

    この放送を見ながら、呼吸、祈り、賛美歌、ということについて、考えてしまった。それは、先日、テゼの集いに神戸で行っていたことが影響しているかもしれません。我々は、常に、そのリズムがどのようなものであるかは別として、呼吸し続けている存在であるわけです。その放送の中でも、呼吸について、ヘブライ語のルアッハ ギリシア語でプニューマ(プネウマ)という語が紹介され、祈りと呼吸、そして、賛美歌との関わりについて、紹介されていました。

     

    その話を聞きながら、我々人間が呼吸していることは、我々が神への祈りを捧げていること、神への礼拝をしていることに近いのかもしれない、と思ってしまいました。もちろん、賛美歌を歌っているときは、賛美をしている、と思っているかもしれないけれども、賛美歌は、基本的に祈りの言葉なのだと思いました。

     

    先日参加したテゼの祈りの会で思ったこと

    先日、神戸で行われたテゼの祈りで、そこに集まった人々とともに、テゼの賛美歌を日本語、時にラテン語で歌いながら、神との平和を求め、神にある平和への希望を求め、神にある希望と喜びをシンプルに素朴に求めるということを思い巡らしていたからかもしれません。先日の神戸でのテゼの集まりは、テゼのうた テゼの祈り とタイトルされていた。まさに、うた、賛美歌は祈りである、ということを先日のテゼのつどいでも思ったし、今回も、この『こころの時代』を見て、思ってしまいました。

     

    その意味で、我々人間は、神に息吹を吹き込まれたもの、として呼吸をすることで、神に息吹を帰している、すなわち、神への礼拝を捧げているものなのではないか、ということを素朴に思ったのでした。あと、呼吸に関して、出演者のキャロルさんが言っていたことが非常に面白かったのは、人間は、呼吸する時に、息を吸い込むときは、緊張し、息を吐き出すときはリラックスするという素朴な観察であった。

     

    カトリック神戸中央教会でのテゼの集いの開始前の状態

     

    テゼの集いの前のカトリック神戸中央教会の様子

     

     

    神の霊を返す呼吸と礼拝

    これは存外大事なことなのではないか、と思いました。本来、神に神から与えられた息吹(ルーアッハ、プニューマ、霊、ことば、いのち)を返すとき、神から受けたものを神に返すとき、人間は本来の姿を取り戻す、ということになるのではないか、と思ったからです。何かを自分のうちに取り込み、それを守ろうとし、それを固く握りしめ、固く自分のものとしようとするとき、人は、本来の姿ではないのかもしれない、と妄想しました。しかし、握りしめようとしているなにかを絶対的な他者である神に明け渡し、また、相対的な他者である、隣人に明け渡していくとき、人は、本来の人の姿になっていく、人はコミュニティの中に生き、生かされるものとなることで、本来の姿であるその姿を取りものすのだろう、と思いました。

     

    ところで、義父が亡くなったとき、その場に臨席した義兄の話しによれば、最期は、息を吸い込むのではなく、息を大きく吐き出したのだといいます。これは、実はかなり大事なことかもしれないなぁ、と思っています。人間は、最後に神から与えられた霊と神から吹き込まれた息吹を神に返すことで、神を礼拝しているるのかもしれないなぁ、とお話を聞きながら思ってしまいました。被造物としての最低の、しかし、最後の務めとして。

     

    そう考えていると、聖書のあちこちに出てくる全被造物が膝をかがめ、神を礼拝するのは、神の権威にひれ伏し、被造物全部が、呼吸をすることで、神を礼拝すると理解することもできるのかもしれない、と思いました。植物は、横隔膜という構造はないのですし、また、エラという構造もないのですが、じつは呼吸しているのです。二酸化炭素を吸い、酸素を吐き出すという、人間を含む動物とは真逆のガスの交換をしているのである。それを考えると、植物だって、広い意味では礼拝しているかもしれない、ということをフッと思いました。それは思い込みに過ぎないだろうけれども。

     

    からっぽになるということ

    この出演者のキャロルさんが言っていたことで面白いことがあります。それは、ケルティックハープを持って、病者を見舞うときにできるだけ、空っぽになるように心がける、ということでした。このことは、呼吸とも関係していると思うのです。直接、出演者のキャロルさんが行ったわけではないのですが、空っぽになるのは、神に明け渡す、神の息吹を帰し、神からの息吹を待つ状態でもあるし、聖餐の場合での聖餐のカップの中身が飲み干され、イエスが十字架で神の前にご自身を明け渡した状態、神の復活の計画が完成した姿であり、墓の中に置かれていた、保たれていた状態のイエスの体がなくなったこととも深く関係しているように、お話を聞きながら思いました。

     

    つまり、絶対者としての他者である神に明け渡すこと、神に自分自身が明け渡されている状態が、本来の姿である、ということをおっしゃりたかったのかなぁ、と思いました。この神に明け渡してくことは、正教会やカトリックといった伝統教派で大切にされている霊性のあり方ではないか、と思います。自分、自分と自我を強調し、自己の中に取り込むのではなく、他者に明け渡していく、いのちのあり方の大切さなのだろうなぁ、と思いました。

     

    知らないものと出会うこと

    この放送の中で、キャロルさんは、あえて知らない曲を演奏することが多い、といっておられた。その理由は、音楽は記憶とあまりにも強烈に結びつくので、ときに嫌な記憶、不快な記憶と結びつくこともあり、それが呼び起こされることもある場合もあるので、あえて、知らない曲、あえてあまり知られてない賛美歌(テゼなんかは、多くの日本人にとって、そうだろう)を使うのだといっておられました。

     

    それは、ある面、神と出会うことと似ているのかもしれないとおもいました。人間にとって、神は、そもそも理解不能な他者という側面があるように思います。知らないものとしての賛美歌と出会うことは、知らないものである神と出会ったり、神について知らない側面と出会うことと似ているのかもしれないなぁ、と思いました。

     

    この番組の中で、人間は、自分にはなんともできない時に、キリエ・エレイソン(神よ、憐れみ給え)と祈りを求める存在であることが、そして、如何ともし難いとについて、ともに祈ってもらうことの大切さのお話がでてきていたのですが、それは、自分にはどうにもできないことがある存在で以上、自分が知らないものと出会うことと、深く関係しているのかもしれないなぁ、と素朴に思いました。

     

    死者との聖餐 死者の復活があることを覚える聖餐

    あと、中世のグレゴリオチャントの説明のシーンで、中世の死者の看取りをするホスピスの原型となった修道院の絵画が出てきていたが、個人的に、非常に印象的であったのは、それぞれの病室というか、ターミナルケアを行う修道院の部屋の前に、それぞれ、聖餐の準備のための銀器の皿(聖餐に用いるパンを入れる皿)と銀器のカップ(聖餐に用いる聖杯)がおいてあったことがとても印象的でした。一瞬のシーンで残念でしたが。死ぬ直前に、そして、葬儀の場で、ともに聖餐をする、という伝統が、伝統教派にはあるようです。これは、案外大事なことではないか、と思ったのでした。

     

    先日、知人の葬儀が、大阪府下の福音自由教会で行われました。そこでの葬儀は美しいものであったのですが、葬儀に際して、聖餐がないのが、かなり残念に思いました。葬儀から帰って1週間あまりが経過しているのですが、その葬儀に参加した家人から、どんな葬儀をしてほしいか、と聞かれるので、とにかくどんなに短くてもいいから葬儀の際に「聖餐をしてほしい」、それが唯一の希望である旨を伝えています。やはり、聖餐は美しいし、聖餐は復活の希望の象徴でもありますので、それは是非してもらいたいなぁ、と思います。

     

    なぜ、そこにこだわるか、といえば、聖餐こそ、我々の復活のからだでの復活の希望を象徴するものであり、イエス・キリストの死と復活を象徴するものであり、そして、その聖餐に連なるものは遅かれ早かれ死するものであっても、からだでの復活するものであり、それに連なるものであるからなのです。

     

    実父の葬儀の際も、義父の葬儀のときにも、まだ、そこまで思いが至らなかったために、聖餐ができなかったのが、唯一の悔みであり、痛恨の極みではあるのですが、当時は、キリスト教の理解というよりは、聖書の言っている希望の理解が不十分であったことが何より悔やまれています。まぁ、しょうがない。過ぎたことは過ぎたことであるので。

     

    あと、キャロルさんが何曲か、テゼの曲やこもりうた渡渉する曲を披露しておられたが、そのうちの局が、割と頻繁にいま言っているアングリカン・コミュニオンでケルティックオーダーの際に歌っているケルト音楽に載せたアニュス・デイ(神の子羊)だったということは面白いなぁ、と思ったのでした。

     

    さて、今日の礼拝のオーダーはどんなもので、どんなアニュス・デイ(神の子羊の賛美歌)を歌うのでしょうねぇ。

     

    再放送予定

    さて、再放送予定は、次の土曜日

     

    ETV 午後1時から午後2時まで

     

    詳しくは、こちらのリンクから

     

    先日の神戸でのテゼの集いの賛美

    先日の神戸のテゼの集いの賛美歌と聖書の場所

     

    Tui amoris ignem

     

    Voici Dieu qui vient à mon secours

    Alleluia 17
    聖書朗読 マタイによる福音書 13章44−46
    Sanasi on lamppu
    Heureux qui s'abandonne à toi
    Intercessions Kyrie Eleson 1
    主の祈り カトリックの聖歌
    Adoramus te, o Christe
    Nada te turbo
    Surrexit Christus

     

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    • 2019.04.07 Sunday 07:27
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