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2018.11.19 Monday

プロセスとしての信仰、決断としての信仰(3)

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    これまでの連載では、信仰の内実はあまり問わず、信じたと告白させることが重要としてきたキリスト教の人々が居られること、そして、その様なある意味決断主義的なキリスト教の教派から、伝統的なキリスト教のグループに移り、そちら教会の隅っこに居遇する中で考えたことを書いてみました。また、信条を毎週教会で声に出して言い、思いを巡らすようになって考えさせられたという事実を書いてみました(以上第1回)。前回は、死ぬ前に信仰告白を言えばいいという機会主義者の人々とそれに抗するために弄した詭弁、決断主義的な教会では、この地上の人生を生きる意味が希薄になりかねないこと、などをお話してきました。

     

    今日はお約束通り、プロセス志向のキリスト教の中で、信仰者として生きる意味、について最近考えていることについて、少しお話してみたいと思います。

     

    ことばで伝道することが生きる意味に近かった

    決断主義的な教会での生き方、生きる意味は、極端な言い方をすれば、人を説得すること、そして、神について、論証・立証することで、神の存在を示すこと、そして、いわゆる相手が「神を信じる」ための説得工作をすることであった、と言っても過言ではありません。少なくとも、教会生活あるいは教会活動の主要な目的は、礼拝より、伝道・言葉による伝道、あるいは、ことばによる説得工作に重きがあったといっていいでしょう。そのためにありとあらゆる手段を使ってきたという反省はあります。特に、信徒相互牧会の教会で、信徒説教者あるいは信徒伝道師をしていましたから。とはいえ、公的な神学教育組織での教育はゼロで、自学自習によるOJTによる無手勝流でしたが。

     

    普通に生きることで神の臨在を指し示す生き方

    決断主義的な傾向の教会を追い出されるように出ることになり、プロセス志向の教会に参加するようになって、理解が大きく変わったのは、普通に生きること、キリスト者として普通の生を生きることが、宣教であり伝道である、と考えるようになったことです。そして、この地に生きるとは、神の義・神の平和・神の愛をこの地に生きることで実際にもたらすことこそ、伝道であり、宣教であり、我々人間が、この地に置かれている意味であり、創世記に示された我々の生の目的の実現であると思うようになったのです。

     

    【口語訳聖書】創世記
     1:26 神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。

     

    地にあるものを支配ではなく、ケアすること、それは、人々を含め、ともに生き、世話をし、愛し、めでること、その存在そのものを喜ぶ、ともに存在することを享受する事こそ、自分自身の生きる目的である、神が黙示録で、我々を作った目的の究極の完成なのだ、ということを思うようになりました。我々が好き勝手良い、ということではなく。

     

    昨日の、集祷 Collectが非常に印象的でしたので、この場に載せておきたい、と思います。

     

    Heavenly Lord,
    you long for the world's salvation:
    stir us from apathy,
    restrain us from excess
    and rivive in us new hope
    that all creation will one day be healed
    in Jesus Christ our Lord
    Amen.

     

    人間に与えられた地を治める使命と天の国

    ここで治めるということが書かれていますが、この治めるという言葉は、実は、「神の国、天の国、天国」と理解されている事柄の国に当たる部分のようです。わかりやすいように王国とか、国とか訳されていますが、神の権威あるいは権能が及ぶ範囲という意味のように思います。別の表現をすれば、支配、庇護、憐みに満ちたケア、和解できるようにする、という意味でもあるように思うのです。つまり、上の創世記の表現は、「海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを愛で、憐れみ、いつくしみ、庇護する、和解できるようにする」存在として生きることが、その目的や神から与えられた使命である、ということを言っているように思います。

     

    つまり、生きることで神から与えられた本来的な使命を果たすことが私たちの生の目的であると思うようになりました。ことばによる説得工作、くらえ、み言葉攻撃を常套手段としていた生き方から、神が内在してくださっている(神を内在させている、のではなく、神が内在してくださっているという認識が大事)ものとして、普通に生きることで、あえて、必死になって説得しなくても、何か特別なことをしなくても、また、不甲斐ない問題だらけ、欠点だらけな存在であるとしても、神が共におられ、われらと共におられる神に明け渡す生き方、自分が握りしめてきたものを神に向かって明け渡す生き方、それそのものがプロセスであり、そのプロセスの中を、時にこけながら、足を滑らせ、道を外れながら、そして、時に霊的な骨折も経験し、その霊的な骨折の回復を神により受けながら、素朴に生きていくことの重要性を思うようになりました。

     

    毎週言うことで考えさせられるキリスト者としての生き方

    そのことを思い出させるのが、毎週読む、式文であるかも、と思っているのです。今ほぼ毎週参加している教会では、聖餐式に入るところで、次のように言います。(太字の部分を全員で言います。)

     

    The Lord is here.

       His Spirit is with us.

    Lift up your hearts.

       We lift them to the Lord.

    Let us give thanks to the Lord our God.

       It is right to give thanks and praise.

    It is right to praise you, Father, Lord of all creation;

    in your love you made us for yourself.

    When we turned away

    you did not reject us,

    but came to meet us in your Son.

       You embraced us as your children

       and welcomed us to sit and eat with you.

     

    ほぼ毎週、神がわれらとともにおられ、自分自身の心を神にささげ、神に感謝し、賛美することが実に適切であることを覚えるわけです。そして、我らが子供(養子)として神に抱かれていること、そして、神がともに座り、ともに食事をするように聖餐式に招いてくださっていることを声に出して言う中で、自ら覚えるわけです。

     

    この中には、他者の説得もなければ、他者への信仰の強要もない。ただ、神との共同体の存在を指し示すだけ、そして、自分たち自身が、人間的な努力ではなく、神にあって和解しているものであり、受け入れられ、食卓に招かれているのを覚えるだけ、ということが、この式文を読むたび、おもいだされます。

     

    フランシスコの平和の祈り

    例えば、式文の一部として含まれていることがある(ないバージョンのものも使うことが大半ですが)A Prayer attributed to St. Francis(聖フランシスの平和の祈り)と呼ばれるいのりを祈るとき、人間が何に招かれているか、ということを考えさせられます。自ら声に出していう以上は、意味を分かろうとして、意味を分かって言う以上は、自分が何を祈っているのかをやはり考えざるを得ないわけです。

     

    Lord, make us instruments of your peace.

    Where there is hatred, let us sow love;

    where there is injury, pardon;

    where there is discord, union;

    where there is doubt, faith;

    where there is despair, hope;

    where there is darkness, light;

    where there is sadness, joy.

    Grant that we may not so much seek to be consoled as to console;

    to be understood as to understand;
    to be loved as to love.

     

    For it is in giving that we receive;

    it is in pardoning that we are pardoned;

    and it is in dying that we are born to eternal life.

    Amen.

     

    フランシスコの平和の祈り
    主よ、わたしをあなたの平和の道具としてください。
    憎しみのある所に、愛を置かせてください。
    侮辱のある所に、許しを置かせてください。
    分裂のある所に、和合を置かせてください。
    誤りのある所に、真実を置かせてください。
    疑いのある所に、信頼を置かせてください。
    絶望のある所に、希望を置かせてください。
    闇のある所に、あなたの光を置かせてください。
    悲しみのある所に、喜びを置かせてください。
    主よ、慰められるよりも慰め、理解されるより理解し、
    愛されるよりも愛することを求めさせてください。
    なぜならば、与えることで人は受け取り、
    忘れられることで人は見出し、許すことで人は許され、
    死ぬことで人は永遠の命に復活するからです。
    アーメン(Wikipediaより)

     

    これを繰り返し、繰り返し言う中で、自分が何のために生かされているのか、なぜ、自分が生きているのか、そして、日々の生活をどう生きるのか、不甲斐ない生き方なりに、不十分な生き方なりに、神から招かれている生き方をしたい、と思うようになりました。

     

     

    説得されてではなく、決心させられて、ではなく、自然にそういう生き方ができるようになりたい、と思ったミーちゃんはーちゃんがいることは確かなことでした。我々は、この地に神の義と、神の平和が満ちるように招かれていることを覚えるわけです。自分で声に出して言うわけですから、ある面、自分もそのことを確信的に告白している、という形になるわけです。

     

    教会暦で生きる生き方の中で

    プロセス志向で、季節(教会暦)に応じた式文、毎週のようにこのような祈りをする(式文を唱える)なかで生きることに、さほど明確ではないにせよ、人間には地に神の平和と愛とそのケアをもたらす泥の器となる、という目的があるということを覚えることができるわけです。

     

    つまり、我々のこの地上の生、毎年繰り返される教会暦に従って生きるなかで、1年という時間単位でイエスの一生がどの様なものであったのかを覚え、その中でキリストは、神の義と平和と愛を指し示すための器となる生であることを自らその生を通して示したこと、そして、キリスト者はそのイエスの生を完全にはまねて生きることができないとはいえ、真似たいと思っている存在である、という事を毎週覚えるようになりました。


     

     

    そして、教会暦と関連している聖書箇所が指定された聖書日課にしたがって繰り返し生きる中で、型として安定したものの中で、自らの人生のリズムを調整しながら、ごくごく普通の日々の生活を過ごす中で、ことばだけによらず、人生の中で出会う人々と共に過ごす中で、大したことはできないにせよ、どのように神の義と神の平和と神の愛を指し示せるのか、という生き方へと、変わっていきました。

     

    真っ当に丁寧に生きること

    「そもそも、決心するように他人を、他者を説得するのがちょっとおかしいキリスト教」である、とは決して言うつもりはありませんが、プロセス志向で生きるようになって以降、一番思ったのは、我々鼻で息するものにすぎない人間が唯一できるとすれば、泥のかたまりのようなものに過ぎない自分の内に内在してくださる神がおられることに信頼して当たり前に生きる、真っ当に、神から与えられたものを丁寧に受け取り、それを喜びつつ生きることなのだろうなぁ、ということでした。

     

    つまり、神が内在して下さるものとして生きることで、神の存在が、神ご自身によって明らかにされ、神ご自身がその臨在の片鱗を表されるということ、これがキリストの受肉の意味なのだろうと、身をもって理解するようになりました。

     

    変わってしまった聖餐理解と教会理解

    その結果、自分の人生とは、この地で神の存在が指し示すいれものに過ぎない、ということなのかも知れない、と思うようになったのでした。単に教会に通うことが重要なのではなく、教会で礼拝をささげることが、ともに集まることが重要であること、そして、我々が礼拝に集められることで、我々を招く神が居られること、司祭(牧師)からパンを受け取ることで、我々が神から養われているものであることを生きている実際の姿で再現することで、指し示していることの重要性を強く感じるようになったのでした。そして、何より、聖餐の理解が大きく変わり、聖書の理解と、教会というものへの理解も大きく変わってしまいました。

     

    【口語訳聖書】ヨハネによる福音書
     6:35 イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。
     6:36 しかし、あなたがたに言ったが、あなたがたはわたしを見たのに信じようとはしない。
     6:37 父がわたしに与えて下さる者は皆、わたしに来るであろう。そして、わたしに来る者を決して拒みはしない。
     6:38 わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。
     6:39 わたしをつかわされたかたのみこころは、わたしに与えて下さった者を、わたしがひとりも失わずに、終りの日によみがえらせることである。
     6:40 わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう」。

     

    もう、なにがなんでも、ことばで立証しなければ、説得しなければならない、論証しなければ、そして、あわよくば、神を信じた、と他者に言わせたい、という呪縛からは、解放され、神のみこころが好みに実現することを願う、つまり、終わりの日のよみがえりにむけて連続性をもって生きる生き方に変わったので、生き方がだいぶん楽になりました。自分中心、人間の論理中心の近代を支配した論理に呪縛された生き方から、神にベッタリ預けちゃう生き方へと変わってしまった感じがしています。

     

    ということで、このシリーズおしまいです。お付きあいいただきまして、ありがとうございました。

     

     

     

     

     

     

    コメント
    ミーちゃんはーちゃんさま いつも楽しく拝読しております。
    「プロセスとしての信仰、決断としての信仰」3回の記事を通して考えさせられました。わたしはがん患者でろう者でもあります。そして妻の母が脳梗塞で倒れ、妻はいま日本基督教団の教会におりますが、それまではペンテコステ派の教会にいた時間がなかかったこともあり、「イエスを信じた」「イエスを救い主として信じた」と公に表明しているかどうか=天国に入れる、という図式で義母に信仰を伝えようという行動をとっております。つまりは決断主義的なものですね。
    それはそれでわかるのですが脳梗塞という状況下で決断を求める、『イエスを信じたといわせたら、一丁上がり』というキリスト教はどうなのかと疑問がわいてきます。
    夫婦ですので議論はしたくありませんが、『イエスを信じたといわせたら、一丁上がり』という姿勢を改めさせるのは難しいにしても、それだけがキリスト教を伝えることではないよ、と言いたい思いをグッとこらえて主に委ねつつ、日々を悶々と過ごしております。
    長文の書き込み、大変失礼いたしました。
    主にありて
    スマイル様

    ご清覧、コメントありがとうございます。

    >「イエスを信じた」「イエスを救い主として信じた」と公に表明しているかどうか=天国に入れる、という図式で義母に信仰を伝えようという行動をとっております。つまりは決断主義的なものですね。

    そうですねぇ。教団の教会もいろいろなので、特に北米系の神学の系統の強いところだと、このような決断主義的な傾向というのは非常に強い方もお見掛けします。ただ、リベラルなところもあるので、いい加減にブレーキが利いている教会も多いことも確かですが。

    ただ、私の親族の周りもこのタイプの決断主義型の方がかなり多くございまして、まぁ、縁起でもないことを言い歩くので、どうしたもんだか、と存じております。

    まぁ、配偶者の方も、親族のことなので、必死になっておられるのでしょう。ゆるく見守ってさしあげて、一緒に神の平和がご病気のご義母様に来るよう、神の御国が来ますように、御思いが鳴りますように、と祈ってあげていただけたら、と思います。

    ご自身のご病気の中で、痛みも激しかろうと思います。どうぞ、ご無理のないように。

    コメント、ありがとうございました。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2018.11.29 Thursday 20:03
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